二章 青城隊(10)
碕沢と冴南の働きによって、ゴブリン・バロンを多く失ったゴブリン部隊の戦いは、曖昧さが大きく増した。統一された意思がなくなった証拠である。
ゴブリンは目の前の敵に攻撃を仕掛けるだけで、包囲の網がひどく雑なものに変わっている。しかも、目の前に敵がいないゴブリンたちは、味方のゴブリンが無様にやられるのを大笑いしながら見るモノまでいた。
ここに来て、ゴブリン・ヴァイカウントがついに動きだす。
一瞬、青城隊の前衛メンバーがざわついた。
だが、ゴブリン・ヴァイカウントの前に立ちはだかる者がいた。
碕沢だ。
彼はすでに二体のゴブリン・ヴァイカウントを倒した経験がある。そのためか、対峙しても平然としたものだった。
碕沢とゴブリン・ヴァイカウントの戦いが幕を開けた。
膂力はどちらが上なのかは分からない。
だが、スピードは碕沢のほうが上だった。
また、ゴブリン・ヴァイカウントは力任せに攻撃するのに対して、碕沢の身のこなしは軽く、まるで遊んでいるかのようですらある。
ゴブリン・ヴァイカウントの身体にはしだいに傷が増えていった。対して、碕沢は無傷のままである。
戦いの趨勢がどちらに帰着するのかは明白だった。
青城隊の前衛メンバーは初めて碕沢の実力を目の当たりにしていた。
彼らの碕沢への評価はそれなりに強いといったもので、本気で戦えば自分のほうが強いだろうと考えている者もいた。
碕沢の訓練風景を見れば、彼らの評価もおかしなものではなかった。だが、実戦での碕沢の戦いぶりを見て、彼らは自分たちの誤りをさとった。
碕沢は自分たちとは異なるステージにすでに立っているのだ。
ついにゴブリン・ヴァイカウントの身体が地面に伏した。多量の出血を伴い、その身体はすでに動くエネルギーをすべて奪われてしまっていた。
碕沢がゴブリン・ヴァイカウントにとどめを刺して、周囲を睥睨するようにして宣言する。
「さあ、総仕上げといこうか」
本気で碕沢がそう考えているのかは分からない。だが、彼はごく自然体でそれを言ってのけた。
だからなのか彼の言葉を耳にした者たちには、それが事実として聞こえた。勝てると誰もが信じ込んだ。
この時、前衛部隊の圧倒的優勢がはっきりとした。
生き残ったゴブリン・バロンたちの動きも明らかに様子がおかしくなっている。
須田玲美は、異次元の戦いを観戦していた。
玖珂と北條ペア対ゴブリン・アールの戦いである。
ゴブリンたちもこの戦いを観戦しているようで、あまり攻撃をしてくるモノはいない。
どちらが優勢なのかは、彼女には判断できなかった。そんな実力を玲美は有していない。
ただ、分かることもある。
――あんがい北條君って頼りないのね。
肉厚の紅唇にそっと触れながら、玲美は三者の中で劣って見える北條に採点をした。
――玖珂君は役に立つ。能力も外見も申し分ない。取り込めないかしら。
玲美は熱い視線を玖珂に送っていたが、その動きは素早く、すぐに彼女の視界から消えた。
「先生、このままでいいんですか?」
綿重が引きつったような顔をして、何かを催促してくる。何かとは、他の人間を助けるべきじゃないかといったようなことだろう。
真面目な男の子なのだ。
可愛らしい性格で好ましいものだが、現状では不要だった。
「綿重君は私も守ってはくれないの?」
しっかりと視線を合わせて玲美は懇願した。
「いえ、そういうつもりじゃなくて……」
はっきりとしない物言いを綿重はする。
玲美は曖昧な表現であることをいいことに、先にお礼を言うことで、彼の選択肢を奪った。
「ありがとう。綿重君たちが守ってくれているから、何とか私も正気を保っていられる。あなたたちが私の傍を離れたら、私は駄目になる。たぶん、あのゴブリンたちにいいようにもてあそばれるんでしょうね」
「そんなことはさせません。させるわけないじゃないですか」
「ありがとう。私も綿重君が守ってくれると信じているから」
「はい」
いまどき珍しいくらいに初心である。
彼女の周囲にいる人間は純粋な子が多いが、その中でも一際目立つ純粋さだ。他の子たちは、下心を隠しきれずに見せているのに、綿重だけは、そんなそぶりも見せない。まるで玲美が女神か何かと本気で信じて込んでいるようですらあった。
「先生、このままじゃ、まずいんじゃないですか?」
別の生徒が彼女に意見を言う。
そこには綿重に対する嫉妬も感じられたが、多くは恐怖から来ているようだ。
「玖珂君が負けるということ?」
「守勢だとは思います」
「それは困ったわね」
困ったようには聞こえない声で言いながら、玲美は小さく首をかしげた。動きにあわせて栗色の髪がさらさらと流れ落ちる。
「逃げる準備もしたほうがいいかもしれません」
「そうね。逃げやすい場所を探しておきましょう」
会話が聞こえたのか、やや離れた場所にいる女性陣がこちらを睨みつけてきた。
その視線は妬心の塊にしか、玲美には思えない。
守ってくれる男もおらず、自分で戦うしかないなんて、彼女には考えられないことだった。
だからこそ、男が周囲にはべる自分に対して憎々しげな視線を送らずにはいられないのだろう。
その視線は心地よくさえあった。
玲美は女性陣を相手にすることなく、逃げる算段を始める。
今回は絶対安全ということでついてきたのだが、次からは危険な場所に行くのは止めよう。
北條あたりが戦いを強要してきたら、あの兵舎から出てもいい。すでに彼女の周囲にいる男たちは充分戦える力を持っていた。お金を稼ぐのは問題ないはずだ。
ただし、できればもう少しあそこにいたい。その方がはるかに楽なのは間違いないのだから。
――それにしても、と彼女は思う。
今回は、使える男の調査をしようと考えていたのだが、新たに手に入れたいと感じる男は結局いなかった。本番でこそ力を発揮するタイプもいると思っていたのだが、実戦タイプは今回のメンバーにはいなかったようである。
いざという時には、そういう男が頼りになることを知っている彼女は、実戦タイプの男を欲していたのだ。
――まあ、私たちに犠牲がなかったからいいとしましょう。
玲美はまったく戦いが分からないし、そもそも関心がない。
だからこそ、現状の理解度は非常に低かった。
状況は悪い。少なくとも明日の食事を考えられるほどの余裕はない。
仮にゴブリンたちが攻勢に出れば、それだけで全滅しかねない状況なのだ。
退路に立ちはだかっているゴブリンの数は百体を超え、ゴブリン・バロンも三体いる。そのほとんどがまだ戦っていない状態である。
逃げるなどと簡単に玲美は考えているが、それが許される状況ではなかった。その点、彼女の周囲にいる男子生徒もレベルが高いとはとても言えない。
須田玲美は戦場を現在進行形で実体験しながら、戦場をまったく理解していなかったのである。
北條は玖珂と共に戦っていたが、玲美に見極めが可能なほどに役に立っていなかった。
北條自身この場にいても仕方のないことは分かっている。だが、このままおめおめと逃げることはプライドが許さなかった。
玖珂が戦えて、自分が戦えないなどあるわけがない。あってはならない。自分と玖珂は互角なのだ。同じ立場にいる選ばれた人間なのだ。
常に同じ位置にいるべきなのだ。
だから、ゴブリン・アールとの戦いの場から離れない。何度でも攻撃を仕掛ける。もちろん、実力差があるために、攻撃は通じず、逆に多く負傷することになった。
一度ならず玖珂の邪魔になりもしたが、彼はそれでもゴブリン・アールへ攻撃を続けた。
すでに止めることができなくなっている。
戻れない位置に彼は自らを追い込んでいしまっていた。
このままでは、いずれ大きな怪我を負い、地に倒れ伏すことになってしまうだろう。
北條は剣ごと弾き飛ばされて、受け身も取れずに無様に転がった。
痛みを抑え、何とか立ちあがろうとした彼の肩に手が置かれる。
突然の接触に北條は思わず顔をあげた。
「碕沢」
「おまえは、自分の役目を放りだすんじゃないよ、北條」
差しだされた手を握り、北條は立ちあがった。
そこでようやく彼は周囲に目を向けることができたのである。
全員がゴブリン・アールと玖珂の戦いに目を向けていた。戦っている者もいないではなかったが、青城隊のメンバー、それに多くのゴブリンもゴブリン・アールと玖珂の戦いに視線を投げていた。
北條がまず考えたことは、自分の惨めな戦いが衆目にさらされていた、という屈辱についてだった。
戦況や被害状況へ意識が向かなかったのである。
若く未熟な彼は集団よりも自身へと意識が向かってしまう。どうしようもない怒りが彼の中にあった。
さらに周囲の目を意識したことで、苦戦した自分を見られたという事実が何をもたらすのかを想像した。
恐怖が彼の感情に加わった。
たいしたことはないという評価。
最高点ではなく、それなりの点数。
北條が経験したことのない低い評価――一般視点からはそれでも充分に高い――が与えられてしまうかもしれないという恐怖である。
「おまえは大将なんだから、後ろででんとかまえていろ。初めての戦闘で、みんな動揺してるんだからな。トップの役目というやつだ。ここはあいつに任せて皆をまとめろ」
北條は鈍い男ではない。
これが碕沢の気づかいであることはすぐに分かった。
実際にこの場から離れる理由を碕沢は作ってくれている。
だが、碕沢の気づかいは、北條にすれば怒りに火を注ぐ行為でしかなかった。
侮辱だった。
なぜ、自分が誰かに気づかわれなければならないのか!
しかも、その相手が碕沢?
北條の気分次第でどうにでもなる相手だ。
どうにでもしてやろうと考えていた男だ。
だが、北條が口にしたのは――。
「ああ、分かった。確かに、皆、ばらばらになっているみたいだ。僕でどうにかできるか分からないけど、やってみよう」
碕沢の意見を承諾する言葉だった。
これ以上無様な姿はさらせない。
修正をはからなければならなかった。
北條晃という男をあるべき正しい姿に戻さねばならない。
碕沢の言葉に乗ったのは彼にすれば妥協の産物に過ぎなかった。
北條はこの場から離れる。
俯くことなく堂々と皆のいる場所へと歩いた。
その際、ゴブリン・アールの攻撃はまったくなかった。ゴブリン・アールにとって、北條は取るに足らない相手でしかないということを意味していた。
外に出さないよう最大限の努力をしながら、北條は怒りと恐怖がないまぜになった屈辱を噛みしめた。




