序章2 人の定義とは?
環境が変われば、その人の違った一面が見られる――ということがままある。人を理解する上では、これは良いことかもしれない。
碕沢もそう思う。
たとえば、冴南という同級生の美人が、意外と隙のあるところを見せてくれると、控えめに形容してもかわいいな、などと思ったりもする。冴南のことを理解したとは思わないが、ちょっと得したなくらいは思う。
だが、それが危機的状況に遭遇した時ならばどうだろう? いや、危機と言わずとも日常とは異なる条件下で共に行動し続けねばならない場面で、予想外の性質を見せてきたなら……。
そこはやはりこれまでの人格で対応してほしいと考えるのが普通だろう。まして、それが有能な人間であったのなら……。
「玖珂、おまえなんか楽しんでない?」
「そうかな? 確かに少しは楽しんでいるかもしれない」
「少しね……」
碕沢が玖珂に対して抱いていた印象は、もっと冷静というか、距離をおいたような対応の仕方であったはずだ。
だが、今の玖珂はどうもおかしい。積極的というか、話す口調さえ少しばかり軽くなっているような気さえする。
「玖珂」
碕沢は呼びかけた。
「何だい?」
「俺はおまえの能力と判断力に期待しているぞ」
「能力に関してはかまわないけど、判断力は遠慮しておく。僕にとって正しいことが、君たちにとって正しいとはかぎらないからな」
「どういう意味だ」
「判断は、碕沢がしたほうがいい、という意味だよ」
「玖珂が駄目だとしても、俺よりも神原さんのほうがいいだろ?」
碕沢の心の底からの意見である。
「とか言ってるけど、神原さんはどう思う?」
二人の男の視線が冴南に集中する。
「能力的にどうこうよりも、私たちの距離感からすると、碕沢君がいいんじゃない」
「というわけで、多数決でリーダーは碕沢だ」
玖珂が笑う。
あまり笑うタイプじゃなかっただろう、と心の中だけで碕沢は突っ込みを入れた。
「民主主義の悪いところが出たな。少数派の優秀な意見が却下される」
「説得するための弁論術を磨くことだね。それが多数派になるための正当な手法さ」
「正当じゃない手法は?」
試しに碕沢は訊いてみた。
「利益誘導」
「それって、それこそ交渉で抑えるべきポイントだろ?」
「現代社会に毒されてるよ、碕沢。もう少し理想を追うべきだよ、若者は」
「若者って、おまえ……」
「つまらない話で盛りあがっているところを悪いけど、リーダー、とりあえず目的を決めて」
冴南が冷たい視線を二人の同級生に投じていた。顔とスタイルがいいので、なかなか迫力がある。
「美人はどんな表情をしても美しいね」などと言える甲斐性のない碕沢は、普通に答えた。
「目的も何も俺たち迷子だろ?」
「わかってることはいちいち言わなくていいから。誰にも正誤の判断がつかないから、リーダーが決めたことをとりあえず実行しましょうってことよ」
「……森を抜けて、人に会う――目的はこれだろ。達成できても話ができるかどうかが不安だが」
「まあ、そんなところでしょうね」
冴南が頷く。
最初のリーダー適正試験は合格したらしい。
別にリーダーであり続けたいとは思わないが、だからといってわざと間違えて失望の視線をあえて受けるほど、碕沢はマゾではなかった。
「玖珂もいいか?」
いつの間にかやや離れたところに玖珂が立っている。立ち姿はなかなか絵になっていた。長身でさらに均整のとれた体格だからだろう。
「リーダー」
玖珂が背中を見せたまま言った。
「何だ?」
「目的は確か、人に会うってことだったかな」
「まあな、それが一番だろ。人に会えれば、多分森からも出られるだろうし」
「喋れるかが不安って言っていたけど、たぶん、僕は喋れないと思うな」
「なぜ、わかる?」
「それは見た目が僕たちとかなり違うからね」
玖珂の口調からは、歓喜が漏れだしていた。
「……何を言っているんだ、玖珂」
嫌な予感のみに頭を支配されながら碕沢はさらに問う。
「何をって、ほら、もう見えるだろう。この世界の住人第一号だよ。あれは人と言えば、人だろう。余所者の僕らに、どういった歓迎をしてくれるんだろうね」
玖珂の右手に光の粒子が集まり、剣の形をとった。
碕沢の隣にいた冴南も同様に弓を具現化する。
同じように碕沢も綺紐を右手の中に具現化した。
三人の視線が向けられている先には、二足歩行をした生き物がいた。
緑に近いねずみ色をした肌。一二〇センチメートルほどの小柄な身長だが筋肉質な体格。顔はひどく皺が多く、鼻先が長すぎて垂れている。猿とコアラを悪い意味で合成したやや嫌悪感を抱くような容貌である。
数は四体ほどいて、いずれも武器を所持していた。木を粗く削って作ったような棍棒や使い古された剣を持っている。腰回りには、かなり汚れた布を巻いていた。
「日本じゃ見かけない顔ね」
冴南が言う。
「そうでもない」
碕沢は答えた。
「え?」
本気で驚いたのか、冴南が碕沢へ顔を向けた。素の表情をさらけだした秀麗な顔には、まだどことなく幼さが垣間見える。
「ゲームじゃ、けっこう有名なんだ、こいつら。ゴブリンって言うんだけど、知らないか?」
「……嫌だけど、聞き覚えがあるわね」
「ただ、ゴブリンを人扱いするのは聞いたことないけどな」
碕沢の声は皮肉に染まっている。
「それは僕に言っているのか?」
振り返りもせずに、玖珂が答えた。声には余裕がある。
「他に誰が?」
「ホモサピエンスではないけど、二足歩行で知性があるなら、人間扱いでいいと思うけど」
「それは――」
反論しようとした碕沢は、だが玖珂の言葉に何となく納得して口を閉ざすことになった。
そして、ゴブリンたちが三人に気がついた。
「僕が二体を請け負う。残りは二人で一体ずつ相手をしてくれ」
リーダーに判断を問うことなく、玖珂が走りだした。
森の中である。不規則に樹木が並び、地面も硬いとは言い難い。それにもかかわらず、玖珂の走る姿は、競技場を走る姿とまったく違いがないように見えた。
体勢が崩れず、速い。
長い足が動くたびに、どんどん距離を詰めていく。
ゴブリンたちは横一列に並んでいた。といっても、それは隊列と呼べるほど精密ではなく、何となく集まっているという形に過ぎない。
玖珂が狙ったのは、もっとも突出していたゴブリンだった。勢いを止めぬままに剣を突きだす。全身を伸ばして放たれた突きは、ゴブリンの首を貫いた。玖珂はすぐに剣を引くと、その場を跳びのく。
穴の開いたゴブリンの首から大量の血がばらまかれた。ゆっくりとゴブリンが倒れ、噴水のように血が上空に噴きあがる。
玖珂はすでに二体めのゴブリンへ標的を移していた。
碕沢の隣で、弦が絞られる月光のような独特の音が発せられる。
ちらりと彼が視線を投じると、冴南が鋭い目つきでゴブリンを睨んでいた。すでに弓には矢が現出しており、後は矢を放すのみとなっている。
その立ち姿は場違いなまでに凛として美しい。
次の瞬間、矢が唸りをあげた。
それはまるで真空が矢に変じたかのように直進し、ゴブリンの眉間を引き裂く。衝撃を受け止めきれなかったゴブリンは首から後ろに吹っ飛んでいった。
仰向けに倒れたゴブリンは、四肢をわずかに痙攣させるのみ。致命傷を負ったのは間違いなかった。
碕沢は走りだした。
本能が攻撃をすることを命じていた。
玖珂はすでに二体めのゴブリンを剣の糧にしたようだった。
残るは、碕沢の獲物だけである。
最後の一体となったゴブリンは、状況をよく理解していないようだった。それでも、碕沢が自分に向かってくることを認識すると、敵意を投じてきた。最も近くにいる玖珂ではなく、碕沢へ、である。
この世界のゴブリンもアホなのかな、と碕沢は頭の片隅で考えた。だが、この場合、アホであることは有利に作用している。本来、仲間が次々とやられれば、負けると考えて逃げだすはずである。
そして、逃げるという行為は、相手に背を見せることであり、大きな隙を呼びこむことに繋がるのだ。
だが、碕沢の相手となったゴブリンは、状況の判断力がないために、一対一で戦うことに専念することができた。
ゴブリンが持っている武器は棍棒。長さは五十センチメートルほどか。
武器の射程は、碕沢が勝っている。
眉間と咽喉、どちらを狙うべきか。あるいは、足を狙って相手の機動力を奪い、安全に戦うべきか。
不安があるとすれば、綺紐を実戦で使うのが初めてということだ。動きながら攻撃して果たして狙いを外さないだろうか。初の戦闘でおそらく興奮状態にある精神状況で、きちんと綺紐を制御できるのか。
考えている暇はない。
距離は五メートルを切った。
碕沢は眉間を狙った。
綺紐は狙い通りにゴブリンの眉間に命中した。
碕沢は舌打ちする。三メートル強、距離がありすぎた。ゴブリンは絶命するに至っていない。
綺紐を戻す。
立ちどまった碕沢にゴブリンが突進し、棍棒を振りかざした。
碕沢は横に転がるようにして避ける。冷静にゴブリンを観察できていれば、実際、そこまで大げさに避けなくとも良いとわかったはずだが、彼は初めての戦闘で必死だった。
空振りしたゴブリンは、体勢を大きく崩した。
碕沢は綺紐を飛ばし、ゴブリンの右腕を貫く。ゴブリンは棍棒を落とし、ゆっくりと碕沢を振り返った。
碕沢の瞳と、ゴブリンの黒目しかない瞳がぶつかる。
そして、ゴブリンがゆっくりと倒れた。まったく受け身をとることなく、地面にぶつかり、ゴブリンは永久に動きを停止した。
倒れ込んだまま碕沢はあっけにとられた。
どうやら、眉間への攻撃は成功していたらしい。時間差で致命傷に至ったようだ。
碕沢は自分の倒したゴブリンをじっと見つめていた。表現しがたい感情が彼の心の奥底で渦巻いている。それはとても重たい何かだった。
不意に青い色をした淡い光がゴブリンの身体から滲みでて、綺紐と碕沢の身体に吸い込まれていった。
碕沢は何度か瞬きした。よく目を凝らすが、まるで始めから何もなかったかのように、すでに青い光は消えている。
「意外と簡単に倒せたな」
碕沢が声のしたほうを見あげると、玖珂が右手を差し出していた。碕沢は、玖珂の腕を取って立ちあがった。
「俺は苦戦だよ」
碕沢の右手には、肉の嫌な感触が残っている。何かしらの一押しがあれば、吐き気を催すことだろう。
「それは油断があるからだ」
「油断?」
「ああ、一撃で倒せると踏んでたんだろ? 素人が一度の攻撃で相手の命を奪えると考えるのは、ちょっと思い上がりがすぎると思うけど」
「……参考にならない二人を事例にしたからな」
「責任回避はいただけない」
「わかってる。素直に反省しますよ」
碕沢は会話をかわしながら、自分が浮ついていることを実感していた。
戦闘を経験したこと、そして命を奪ったという事実が、精神に動揺を生んでいる。まだ表層には現れていないが、良い状態ではない。
自覚できているだけましか、と碕沢は苦笑した。
碕沢の表情の変化を訝しんだのか、玖珂がわずかに眉根を寄せる。
玖珂には碕沢のような動揺は見られない。少なくとも外からはまったく観察されなかった。
能力だけでなく、精神もなかなか逸脱しているようだ。
玖珂の精神の在り方が賞賛されるべきものなのか否かは、この世界の状況次第ということになる。おそらくゴブリンと戦わなければならない世界のようだから、誇るべき強い精神と評価されるだろう。
「どうかしたか?」
玖珂が問うてきた。心配しているというよりは、確認をしているようだった。天才からも碕沢は試験を課されているようだ。
「いや、なかなかのサバイバル生活になりそうだと思っただけだ」
「日本――というか、地球じゃ経験できないことだろうな」
「二十年くらい経てば、経験できるかもしれない」
「ゲームでか? でも、僕たちは安全を担保されていない」
「大きな違いだな、そこは」
近寄ってくる足音が聞こえて、碕沢は振り返る。
天才のほうは図太い精神を持っていたが、才女のほうはどうかというと、幾分顔を蒼ざめさせていた。
動揺があるようだ。
碕沢は親近感を覚えた。これが普通だよな、と思う。
だが、碕沢は間違っている。普通は、前段階でおそらくミスをおかすものだ。
命のやりとりという暴力の中に、覚悟もなくいきなり放りこまれれば、感情はあっさり飽和するだろう。また、それを切りぬけても、興奮状態が去ってしまえば、大きな動揺が生じるはずだ。それは肉体にまで変調を及ぼすほどに大きなものであるはずだった。
碕沢は玖珂を秤の一つとして観測しているために、自身の評価を誤る結果となっていた。
碕沢と冴南も充分普通ではない。
「気がついた? あれを倒したら、変な青色の靄みたいなものが出てきたけど」
動揺していると思ったが、冴南はいろいとなものが見えていたようだ。
「だね。僕らに吸収されたようだ。たぶん、倒した人間の中に吸い込まれるんだろうね。僕の感覚じゃ、力を得ているような気がする」
玖珂も当然のように気がついていたらしい。
碕沢も目撃していたが、彼は話題には参加しなかった。
「それよりもここを離れたほうがよくないか? ゴブリンが集団で行動しているなら、いなくなったやつを捜しにくるかもしれない。そうじゃなくても、血の匂いに惹かれて、別の何かが来る可能性もある」
「なかなかリーダーらしいことを言う」
玖珂が碕沢を褒めたが、その声にはほんの少しだけ残念だという感情がまじっていた。
碕沢は、玖珂の感情が何を意味するのかわからなかったが、玖珂の次の行動でその理由がわかった。
「じゃあ、移動しようか」
玖珂が先頭に立って歩きだす。
「待て、玖珂」
碕沢の呼びとめる声に応じて、玖珂が足を止めた。
「そっちは、ゴブリンが来た方向だよな」
「だな」顔だけを玖珂が碕沢に向ける。
「そっちに行くのは危険じゃないか?」
「……彼らは四体だけで行動していたのかもしれない。仮に別行動をしていただけだとしても、本隊や拠点に戻るところだったと考えることもできる」
「そこまで考えているのなら、同一直線上に移動するんじゃなくて、別の方向へ移動したほうがいいこともわかるよな」
「そうだね……」
今度は間違いなく玖珂の答える声に、無念とでもいう響きがまじっていた。
玖珂の意思がどこにあるのかが、碕沢には確信できた。
「玖珂君、あなたもしかして、もっとゴブリンと戦いたいと考えているの?」
冴南も同じ考えに至ったらしい。
「まあね。確かめたいこともあったし、僕らの戦力ならたぶんかなりの数を相手にしても戦える。変に時間をおいて怖気づくよりは、すぐに戦って慣れたほうが生き残る確率はあがると考えたんだけど、どうも不評みたいだ」
「言ったら怖気づくかもしれないから、意味がないのかもしれないが、戦いになるのなら、事前準備はするべきだろ。戦いになるなら言うべきだ。少なくとも覚悟をする時間が必要だ」
「今は、覚悟なんかしなくても戦えただろう」
「たった一回の成功例だ。玖珂の意見は希望的観測だろ。命を懸けるに値しない」
命を懸ける、と自分で口にしながら、碕沢は違和感を持った。言っていることは間違っていないのだが、命を懸けるという状況に実感がまだ薄かった。
「オッケー、わかった。リーダーの意見を尊重する」
玖珂が両手をあげて、全面降伏の意思を示す。
「碕沢君をリーダーにしておいて良かったわね」
ふっと息を吐きながら、冴南が言った。
本音であることが碕沢にはわかった。なぜなら、彼も玖珂がリーダーじゃなくて良かったと思っていたから。
玖珂の新たな一面は、凡人がついていくには、かなり危険な領域に属していた。できるだけ発揮させないようにするべきだろう。
この後、三人はその場から速やかに離れた。
彼らには自分たちがどの方角に向かっているのかがわからなかったが、彼らは東に向かって進んでいた。
判断をしたのは、碕沢だ。
玖珂は碕沢が選んだ方向に何となく危険を感じた。だが、彼がそれを口にすることはなかった。むろん、それは玖珂が敵との遭遇を望んでいたからだ。
冴南も自分たちが向かおうとしている方向に、何となくではあるが嫌な印象を覚えていた。だが、彼女は碕沢の判断を尊重した。嫌な気がするという理由で、リーダーの判断をくつがえすのは彼女の理性が許さなかったのだ。