二章 イスマーン砦(1)
「スラーグ! 君のことを皆が何と呼んでいるか知っているか。酔いどれスラーグだ。栄えあるドーラス防衛団第三大隊長の通称とはとても思えぬ。まこと羨ましいものよ。どうすれば、酒を飲むだけでそのような地位につけるというのか。さぞ人に語れぬ苦労を強いられたことであろうな!」
「お心遣い恐縮です――私など酒の夢にて金銀を思うだけ。総督の地位を現実の金銀で彩る閣下に比べれば、確かに私の苦労など語るのに恥ずかしいかぎりです」
――ドーラス防衛団第三大隊長着任挨拶時に交わされたドーラス総督イル・ローランドとスラーグ大隊長との会話。
都市ドーラスの防衛力についてである。
ドーラス防衛団がそれだ。
総督を団長とし、その下に第一大隊・第二大隊・第三大隊の三つの大隊がある。
第一大隊の総数が六〇〇。第二・第三大隊は各二〇〇である――この数はドーラス防衛団独自のもので、本国では数が異なった。
ドーラス防衛団の総戦力は一〇〇〇ということになる。
二万を超す都市を守るにはいささか心もとない数である。それを補うために補助兵という制度があった。これは平時の内に冒険者などの戦える者たちと契約し、一定の金額を払い、緊急時に兵士として強制雇用するというものだった。
また、トバス島中央にはイスマーン砦があり、南東からの魔人の脅威への、ここがドーラスの防衛線となっている。
酔いどれスラーグ。
何のひねりもない通称だが、スラーグのことをよく表現していた。
彼は酒を愛していた。酒のほうも彼を愛しているらしく、一度つきあい始めると一日中離してくれないことがよくあった。だからこそ、翌日遅刻するなどざらであるし、公務をほっぽり出すこともままあるのだ――というのが、スラーグの主張だった。
もちろん、世の中には通用しない言い訳である。
武勇もあり、兵の統率にも長けていると評されるスラーグが、ドーラス防衛団第三大隊・大隊長の地位にあるのは、酒による大失敗をしたからであろう、というのが彼を評価する者たちの間で一致する意見だった。
「大隊長殿。噂の外世出身者はどうですか?」
「まだ、そんなことを言っているやつがいることが、驚きだねぇ」
大隊長に与えられている狭い執務室で、スラーグは今にもあくびをしそうなたれ目を細めた。
スラーグという男は、どこか気だるさを漂わせ、まただらしない姿勢を取ることが多いので、残念ながら女性にはあまりもてない。
だが、実のところ顔立ちそのものは整っていた。二八という年齢で渋みこそないが、長めの髪を後ろで縛る姿もそう悪いものでもない。
本人が女性方面にやる気を出せば、両手が華やぐことはそう難しいことではないだろう。しかし、本人はその気がないようで、酒に一途の愛を誓っていた。
「暇なのですよ、皆。我が大隊は他の隊とは少しばかり毛色が違いますからね」
「他と異なるのはかまわないが、つまらない妄想に囚われるのはー」スラーグは無駄に語尾を伸ばした。「いけないなぁ。それは、サージスの教育がなってないからじゃないかい?」
ジルド・サージス。
酔いどれスラーグの副官である。
スラーグがまがい物の優男とすれば、こちらは正真正銘の甘い顔をいただいた優男である。
身体つきが華奢に見えるため――実際は筋肉が全身をおおっている――サージスを侮った男たちから喧嘩を吹っかけられることよくあった。だが、それらの男たちは数日間、長ければ一月以上後悔の痛みを経験することになる。
サージスは男に対してまったく容赦しないので、実力差があろうとたいして手加減することなく叩きのめすのである。
喧嘩を吹っかけるほうが悪いと言えばそれまでだが、彼らにも事情があった。自分の女をとられておめおめと引き下がるわけにはいかないだろう。
サージスにすれば、いずれの女も一夜の夢を共にしたというだけで、それ以上の関係になることはない。また、どの場合も誘ったのは彼でなく、女のほうなので、サージスはまったく悪びれることがなかった。
サージスは、上司であるスラーグとまったく逆の、正しく男の敵と言える人物であった。
「大隊の性質は、大隊長の性質である、という言葉があります」
「聞いたことないね」
「私が今作りましたから」
にこやかに言うサージスに対して、スラーグは額をこすりながらため息をついた。
「それで用件は何だい?」
「そうですね。私の耳に妙な噂が入ってきましてね」
「よくよく噂の好きな男だなあ、おまえは」
「酒に溺れるよりかはマシでしょう……それで噂の内容ですが、大隊長という立場にあろうお方が、大隊を放りだして、子供のピクニックの先導をすると聞きましてね。しかも、場所がイスマーン砦だとか、まあ、この大事な時期にありえない話ですが――」
「ああ、それは事実だなぁ。噂にも偶に事実が混じることがあるようだね」
あえて皮肉口調で言っていたに違いないサージスに対して、スラーグはいともあっさりと肯定した。
「あなたという人は! 何をあの脂ぎった家畜の言いなりになっているのです! あなたはいったい何を考えているのですか――」
「サージス、うるさいよ。私はね、もっと優雅に朝の一時を過ごしたいんだ」
「私を静かにさせたいのなら、大隊を離れる確たる理由をお教え願いませんか!」
「そうだなあ。有望な新人を確保するためというのはどうかな」
眠たげなスラーグの顔に変化はない。本気で言っているのかどうかが、他者から読みとりづらい表情である。
「――訓練を見かけましたが、やっていることはおままごとのようでしたが」
「さすがに全員に見込みがあるとは言わないよ。そうだねぇ、数人はいるかな。今頃、ギルドも懸命に情報を集めていそうだけど」
「あの得体の知れない組織がこんな辺鄙なところで情報集めを?」
「おまえたちも噂していたんだろう? 外世の民かもしれない、と。情報好きなギルドが何もしていないわけがない。ついでに有望な新人に唾くらいつけるんじゃないかな」
「大隊長には、『唾』などと下品な表現はやめていただきたい」サージスが眉をひそめて注意する。「しかし、本当に力があるのなら、我が国へ勧誘するのは悪い話ではありません」
「そういうこと。どうせ、そろそろ砦づめの交代時期だしねぇ。まあ、僕が先行して見てくるよ。ゴブリンの動きが怪しい何ていう噂も総督府ではあるらしいし」
「いつも飲んだくれているあなたが、なぜそう詳しいのか本当に謎ですよ」
サージスはあきれ返ったように、両手を挙げた。
「そういうことだから、三日、実質四日間かな? 留守を頼むよ。何しろ、ドーラス防衛団の総兵力はなぜか七〇〇人しかおらず、補助兵も一人もいないんだからね。本当に不思議なことに……」
スラーグはのほほんとしている。
対照的にサージスは薄く笑った。上司が何を言わんとしているか、彼は正確に理解していたのだ。
「任せてください。あなたがいなくとも、すべてを整えておきますよ」
イスマーン砦は八七年前、新世界暦三二五年に完成した。
建設が決定したのは、ゴブリン・キングの襲来により、都市ドーラスが大損害を受けたためである。
イスマーン砦の位置は、トバス島の中心近くであった。そこは深い森の中であり、ろくに道もない。建設に三年の月日を必要とした。
以来、改修・補強工事がなされ、今に至っている。
イスマーン砦の任務は魔物に睨みをきかせること、ゴブリンの観察、そして、ゴブリン・キングの襲撃時に時間を稼ぐことにある。
イスマーン砦にはドーラス防衛団の第二大隊と第三大隊が三カ月交替で駐在していた。現在は第二大隊が駐在している。
このイスマーン砦で保護された生徒もおり、これで青城南校生の生徒の数は総勢九八人となった。
神原冴南を筆頭とした青城南校生がイスマーン砦に到着したのは、彼らがこちらの世界へ転移して七日目のことだった。
早朝に出発し、夕方に無事到着することができた。かなり速い。昼食や休憩をあわせて、十時間以上かかったことになるが、軽装で各自が荷物を持ち、身体能力も向上していて人数自体もそれほど多くなかったことが、移動を容易にした要因である。
人数はそれほど多くないとしたが、イスマーン砦へ移動した青城南校生の数は、四一人である。
戦いになることが始めから確定していた。さすがに一定の強さがなければ、犠牲が出てしまう。負けると分かっていて戦うことは無意味である。なので、選別がなされた。
ちなみに今回の作戦に参戦する条件の最低ラインとされた強さは、二体のゴブリンから攻撃を受けても時間稼ぎができるレベルであること、だった。
「なるほど、君も今回の作戦に参加したいということだね」
挨拶等のさまざまな雑事を終え――あんな者たちの行動が『作戦』だと! 馬鹿馬鹿しい、との罵倒が第二大隊の大隊長からあった。まさに雑事である――これから個室へ戻れば酒が飲めると気分をよくしていた時に、スラーグは呼びとめられた。
仕方なく空いていた会議室へ入り、話を聞くことになった次第である。
彼の目の前には、二人の女性がいる。
一人は、青城隊――青城南校生の呼称――を今回率いる冴南だった。
もう一人は、スラーグが初めて目にする女性である。おそらくイスマーン砦で保護された者たちの一人だろう、と彼は考えた。
有馬美芙海と冴南が紹介した。
「……はい」
うつむきかげんで消えるような声が、おとなしげな顔と雰囲気を持つ少女から漏れる。
身長はそれほど低くないのに、小さな印象を抱くのは、美芙海が身体をちぢこませるようにしているからだろう。
初見では相手から侮られることの多いスラーグである。自分に対してこのような応対をする人間が、彼には珍しかった。
「あまり戦いには向いていなさそうだけど、大丈夫なのかな? ここに来た人たちは、試験を通った者たちだけというのは知っている?」
「……はい」
「と、本人が言っているので試験をしてみてはどうでしょうか。一人でも戦える人間が多いほうが、勝利に繋がると思います」
冴南が発言する。
「連携を乱すだけかもしれないよ」
スラーグの言葉に、美芙海がびくりと肩を動かした。
「その可能性もあります。でも、すべての判断は力量を見極めてからでも遅くないでしょう」
「今回の指揮官は君で、責任を負うのも君だ。私はしょせん外から見ている者でしかないからね。神原君の意思を尊重するよ」
「ありがとうございます」
「それで試験の内容と時間、場所は? できれば、早いところ終わらせてもらえると助かるんだけど」
「お酒を飲む時間が惜しいですか?」
冴南の綺麗な眉が片方さがり、あわせて大きな瞳が片方だけ細められた。実に皮肉げな表情である。
「うん、そうだよ」
「堂々と言いますか。分かりました。今からすぐに行います。相手は、碕沢秋長を考えています。よろしいでしょうか」
「ふーん、神原さんは碕沢君の信用しているんだねぇ。いいんじゃないかな。少し楽しみだね」
スラーグは美芙海に視線を投じる。彼女はスラーグの視線から逃れるようにたじろぎ、わずかに身を引いた。




