一章 都市ドーラス(9)
北條は玖珂と碕沢からある有力な情報を手に入れていた。
特殊なゴブリンの存在と、ゴブリンの集団がそう遠くない場所にいるという事実である――後に、場所については、都市ドーラスから一定の距離があることが分かった。
玖珂と北條は、これがゴブリン・キングという強力な存在が生まれた兆しである可能性を訴えていた。
北條はすぐに総督へ報告をしなかった。それが本当に有力な情報なのかを確かめる必要があったからだ。
そして、有力であったなら、使いようによっては、北條自身の立場を大きく上昇させることもあるかもしれない。
駒の働きを見極める必要がある。
焦る必要はなかった。
魔物――特にゴブリンに関する情報を彼は欲した。
もちろん、他の情報も集め、北條がゴブリンの情報を集めていることをローランド総督にばれないよう小細工もした。変に勘ぐられるのは御免である。
情報を集めていること自体を知られるのは、まったくかまわない。
無能であると思われることは我慢がならないが、無知であると誤解されるのは、むしろ望むところだ。交渉を有利に進めることにも繋がるだろうから。
まず、玖珂達から聞いたゴブリン・キングとゴブリン・デュークの実在の有無である。そして、実在するなら、その脅威の度合いはどの程度のものなのか。また、彼らを倒すことで、どの程度の評価を受けるのか。
ゴブリン・キングやゴブリン・デューク等がいることは間違いない。ゴブリンが進化することで、能力と外見を変化させていくとのことだ。
バロン・ヴァイカウント・アール……等々、ゴブリンのくせに生意気にも階級があるらしい。
次に、その強さについてだ。
ゴブリン・キングは、Cランク冒険者によって打倒することが可能なようだ。
――Cランク。さしてたいした強さではないように思えた。
Cランクの価値を北條は知らないので、冒険者についても調べる必要がある。
最後に、名声や報酬についてはどうか。
冒険者組合からは多額の報酬がもらえることになっていた。ただし、ゴブリン・キングとゴブリン・デュークの死体を「命の塔」にまで運搬することが条件のようだ。
運搬に関しては問題ない。北條の有する勢力は、七〇人に迫る。うまくいけば、三日以内に百人ほどになるだろう。運搬の労力は確保できている。
名声についてであるが、他のCランクの魔物に比べて、キングと名のつく魔人は、値打ちが圧倒的にあるようだった。
キングは多数の同族をひきつれるからだ。一万体規模の勢力を誇るらしい。
キング個体がさして強くなくとも、一万体の魔人が暴れれば、結果その被害は甚大なものになる。意思統一された集団というのは恐ろしいものなのだ。
だからこそ、国によって討伐隊が編成されたり、冒険者組合が多額の賞金首をかけ、上位ランカーを動かしたりするのだろう。
それだけの価値を認められているのだ。
名もいっきに売れるに違いない。
では、玖珂と碕沢の推測についてはどうだろうか。
都市ドーラスにある過去の記録を紐解くと、ゴブリン・キングやゴブリン・デュークが現れるのには確かに兆候がある。
本来は南東を塒としているゴブリンたちが多数西へと移動してくるのだ。はぐれのゴブリンではなく、ゴブリン・バロンやゴブリン・ヴァイカウントらに率いられて。
特にゴブリン・アール以上がトバス島北西で見られた場合、少なくともゴブリン・デュークがいることは決定的であるらしい。
「強行偵察のつもりか? ゴブリン風情が」
北條は薄く笑う。
彼は難なくこの世界の文字を読んでいるが、青城南校生でも滑らかに字を読める者と読めない者がいた。たとえ字が読めない者でも意味は何となく理解できるようである。
このように文字の習得には差が見られた。後に習得の早さは成績順に比例していることが分かったが、その頃には皆字が読めるようになっていたので「へー」という小さな納得しかなかった。
北條は虚空を見あげ、目を細める。そして、笑った。
あの二人は彼に幸運を運んでくれた。
数ばかりが多く、個体の強さはたいしたことがないゴブリン。彼らの進化の頂点にいるゴブリン・キングもしくはゴブリン・デュークという敵――それは弱者の王。未だ力を持たない北條が名を挙げるのに、これほど適当な相手はいないだろう。
できれば、ゴブリン・キングと戦いたいものである。
しかし、それはまだ先のことだ。
さすがに今の北條が戦ってどうにかなる相手ではないだろう。
とりあえず十日後――すでに九日後になっているが――に約束した目に見える形の成果を何にするかは決定した。
まずは小手調べにゴブリン・ヴァイカウントをやる。向こうが来ないなら、こちらからゴブリンの領域へ遠征すればいい。
十日でゴブリン・ヴァイカウントあたりの首級をあげれば、あの総督も北條たちの未来に期待を抱くに違いない。
ゴブリン・ヴァイカウントに勝てたのは偶然だった、などと玖珂が言っていたが、怪しいものである。
自身がどの程度の戦力であるのかを北條に悟らせないようにしているだけではないか。
北條が玖珂を信頼している程度にしか、玖珂も北條を信頼していないはずだ。
だが、それでいい。
高い能力を持つ者同士が近くにいるのだ。緊張感がないなど嘘だろう。
北條は玖珂を使いこなすつもりでいる。それは対等な関係ではない。あくまでも自分の下におくのだ。
玖珂のことを考えた時に、背後にある男の影がちらついた。
碕沢秋長である。
いつもはそうではないのに、時に中心にいてあの男は皆の意見をまとめていたりする。
あの男は、なぜか、いざという時に目立つ場所にいたり、目立った結果を残すのだ。
北條には碕沢という男がよく分からなかった。
理解できない人間を傍に置くことはできない。
やつが道化師であるのならいい。だが、秩序の破壊者であるなら何らかの対処をする必要がある。
自由に動かれるのは危険かもしれない。よくなる鈴を、いや鎖をつけておくべきだろうか。
何しろ、碕沢の傍には玖珂と冴南というキングとクイーンが控えているのだ。やりようによっては、強力な敵になりかねない。
碕沢はジョーカーか?
「ジョーカーは皆に嫌われる厄介者でしかないよ」
ジョーカーが切り札にもなりえることを、北條は意図的に無視した。
不快で無意味な思考を遠ざけ、北條は今回の件にたいして具体的な方策を練る。
総督に対しては、ゴブリン・ヴァイカウントではなく、ゴブリン・バロンが出たとの報告をあげればいいだろう。ゴブリンのことを今は過小に見積もってくれていたほうがいい。
総督に直接会う必要はなかった。役人の誰かに伝えれば充分だ。
ゴブリンなどこの世界では珍しくなく、そして弱いとされる種なのだから、総督に直訴するような案件ではない。誰もがそう考えるだろう。
多少強い種が現れたからといって、ゴブリン・キングやゴブリン・デュークが背後にいるかもしれないなど、普通は考えもしないものだ。
普通の人間の思考はいつだって日常の延長線上にしかない。
後に大事になろうとも、情報をあげた北條に不手際はまったくない。たいしたことではないと判断を下した者が責任を取ることになるだろう。
日数を経れば、冒険者あたりから森の異常が伝えられ、総督のほうからゴブリン征伐の命令が下りてくるかもしれない。
それは意外と早い時期になる可能性もある。十日後ということだってある。
「ゴブリンの様子を探ってこい。約束した成果を見せろ」というわけだ。
こうなれば、北條の思惑どおりである。
彼はバロンあたりを倒すことを約束し、実際はヴァイカウントを倒して戻る。評価はあがることだろう。
問題があるとすれば、ゴブリン・キングが本隊を率いて襲撃してきた時だ。これは数の力に屈することになる。
その対策だけは練っておかねばならない。
他者のために犬死するのはごめんだった。ゴブリン・キングいるとなれば、うまく命令をかわさなければならない。
事前に森への偵察が必要だ。
北條は顎をさする。ふと彼の手が止まった。
ちょうどいい人材がいる。あの三人に森への偵察をやらせればいいだろう。
玖珂ならば意図を察して断わることはしないはずだ。情報収集の重要性は愚者でなければ誰でも分かる。そして、玖珂は愚者ではない。
偵察の結果、ゴブリンの数があまりに多いとなれば、それはゴブリン・キングもしくはゴブリン・デュークがすでに攻めてきていると判断できる。
ゴブリン討伐などやっている場合ではない。
その時は、総督を動かし、都市防衛団を巻きこむしかない。
冒険者の力を借りることは可能だろうか。
報酬などないし、借りを作るつもりもない。戦わなければならないと思い込ませるよりないだろう。
その時には謀略に類するやり方をせねばならない――。
北條は一度思考を停止した。
だが、まずその前に、自らを鍛えあげる必要がある。この世界では、個人の力が非常に有意だった。
強くなるのに容易な方法がすでに分かっていた。
あの青い靄を吸収すればどこまでも強くなるようなのだ。これを利用しない手はないだろう。
それには魔物を倒さねばならない。
かといって、一人で魔物と戦うのは危険である。チームで動き、リスクを減らすのだ。
すでに北條は魔物を倒すためのチームを選抜していた。朝の訓練が中止になった時に、めぼしい人間に声をかけたのだ。明日から実際に彼らと行動することになるだろう。
ゴブリンの情報を集め、自らを鍛える。この二つが最低限今やるべきことである。
声をあげることなく、北條は満足げに一人で笑った。
彼の瞳には光ある未来が映っていた。
力を得るということは、万能感をもたせる魔法のような作用があるのだろう。それは時に人間の本質さえも変容させてしまう。
大小はあるだろうが、この世界に降り立った青城南高校の人間は誰もが変化をしている。
中でも北條というのは、もっとも大きく成長と変貌を遂げようとしている男だった。
北條はすでに二日前まで高校に通っていた彼ではない。
だが、彼がたった二日前まで高校生であったこともまた事実である。学生の時、限られた現実としか触れられなかった彼の見通しには、どうしても甘さが多く残っていた。
彼が求めるように、段階的に強いゴブリンと戦えるとはかぎらない。ゴブリンが北條の考えにそって動く理由などどこにもないのだ。そもそも北條の事情などゴブリンは知る由もないだろう。
また、この地を訪れた青城南校生の誰もが強くなれるとはかぎらなかった。たとえ戦う資質を有していたとしても、それが花開くのはごく一部の者の可能性だってある。一度の実戦で、多くの生徒が死ぬことだってありうるのだ。その可能性のほうが高いかもしれない。
ゴブリンを侮り、また自分たちを特別だと無意識に考えている北條には危うさがあった。それは彼に率いられている青城南の生徒にも言えることだった。
バーンにコテンパンにされた夜、碕沢は北條の部屋を訪れようとした。
だが、その前に兵舎の廊下で偶然会うことができた。
軽く挨拶しただけで去ろうとした北條のことを、碕沢は呼びとめる。
「北條、明日も午前中は訓練にあてるんだろ?」
「そのつもりだ」すぐに北條は何かに思いあたったようだ。「――向こうから派遣してくる人間のことなら抗議しておいたから大丈夫なはずだ」
「そうか」
碕沢は頷きながらも、店で寝ていたスラーグを思い出す。彼に伝わっているのかは疑問だ。
まあ、碕沢からの伝言は大丈夫なはずなので、明日は姿を見せるだろう。
「それとはまた違うんだけど、冒険者の知り合いができて、その人間に訓練を手伝ってもらえそうなんだが、まずいか?」
「冒険者?」
北條の反応は芳しくない。
「ダメなのか?」
「僕はいいんだが、ここの総督が冒険者のことをどうも嫌いのようでね。『総督閣下』の言葉を借りると身の程を知らない人種らしい」
北條が皮肉をきかせて「総督閣下」と発音した。察してくれということだろう。
「睨まれるか?」
「どうかな? サボるような人間を派遣するくらいだから、訓練内容のチェックなんかしてないと思う」
「で、総督閣下はともかく、おまえの意見は?」
「その冒険者の腕は?」
「この町じゃトップクラスらしい」
「それが本当ならどうやって知り合いになったのかを知りたいね」
「どうって、メシ屋さんで隣の席にいたんだよ」
ざっくりと碕沢は話を削った、ちなみに正確に言うと隣の席ですらなかった。
「隣ね。それだけの関係で訓練までしてくれるのか?」
「いや、喧嘩を売ってぼこぼこにされた。同情でもしてくれたかな。面倒見のいいおっさんらしいから」
「ぼこぼこね」碕沢の姿を見て、北條は納得したようだ。「で、報酬はどうするつもりだ?」
「いや、無料」
「無料だと?」
「俺は報酬をやるとは一言も言わなかった。向こうも言わなかったしな」
「報酬はないときちんと確認したのか?」
「いや」
「それは後々厄介なことになりかねない。ここの世界の人間も細かい約款はともかく、契約はきちんとしていると思う。ただ、冒険者たちはいいかげんそうだからな、こっちからきちんとしておいてほうがいい」
「わかった。確認しておく」
「報酬を望んだらどうするつもりだ?」
「朝は訓練場で訓練して、午後は外に魔物退治に行くべきだと俺は思っている。魔獣からとれた素材やら魔石やらを売った一部をあてるのは?」
「外に出るのは僕も考えていた。ただし、僕は選抜した人間でチームを組んで、まずその少人数に慣れさせて、少しずつ外に行く人間を増やそうと考えていたんだが……その冒険者一人に付き添わせるのか?」
「その辺は、この町の兵士を利用できないか?」
「無理だ。あの総督はそこまでしてくれない。それにたぶんこちらの常識じゃ、そこまでするのは過保護なんじゃないか?」
「じゃあ、北條案に冒険者の存在をプラスしよう。で、報酬は、そのやり方でいいか」
「皆がどういうかだけど……強くなる、生きるためと思えば安いもんだろう」
「じゃ、その方向で行くぞ」
碕沢は最後に確認した。
結局、バーンは報酬を受け取ることをしなかったのだが……。
「ああ、よろしく。冒険者の名前は?」
「バル・バーン」
「バル・バーンね」
北條が記憶の引きだしを開けているかのように目を細めた。
「知っているのか?」
「名前だけなら」
「二日でよくやるな」
「そうかな」
北條が苦笑し、ふと二人の会話が止まった。
何となく碕沢は口を開いた。
「どうも日本に帰る方法を探すのは後回しになりそうだな」
「帰る?」
北條が碕沢の言葉を繰りかえした。
それこそまるで異世界の言葉を突然聞かされたかのように、不思議そうな顔である。
「ああ、帰らなくていいのか? この世界電化製品がないし、不便だぞ」
「――そうだな」北條がふっと笑った。「碕沢は余裕があるな。僕は目の前のことだけで手が一杯で、とてもそこまで頭が回らない」
「北條に比べれば暇だからな」
「まあ、僕の場合は自分から望んでやっているから、誰にも文句は言えないけど」
「おまえに文句を言うやつもいないだろ。普通、初日で町の権力者に取り入るか?」
「取り入るって言葉は語弊があるな。単に事情を話して保護してもらっただけだ」北條が小さく肩をすくめた。「じゃあ、僕は『忙しい』から行くよ。さっきの件は、碕沢のいいようにしてくれ。フォローしておくから」
わざと「忙しい」の部分を強く言って、北條が笑う。
「へーい」
碕沢も適当な返事をした。
これでバーンの件はいちおう正式なものになった。事が問題なく運ぶのは喜ばしいことである。
だが、碕沢の思考は別のことを考えていた。
北條と会話をして、彼はごく当たり前のことに気がついたのだ。
誰もが帰ることを望むとはかぎらないのだ。むしろ、全員が同じ考えであるほうがおかしい。
北條はとっさに誤魔化したようだったが、あの男が元の世界に帰ることなど特に重要視していないことが碕沢には分かった。
別に悪いことではない。
だが、たかだか二日過ごしただけで何が北條にそう思わせたのだろうか。
それほどこの世界は魅力的だろうか。




