序章1 軽く確認
夢の中で、これは夢だと認識できる人はいるかもしれない。
だが、しっかりと意識がある時に、現実に対してこれは夢かもしれない――と考える人は、まずいないだろう。
あえて近い感覚を探すのなら、それはあくまで夢のようだと思うだけで、やはり夢と現実を混同していないはずだ。
碕沢秋長もいきなり変化した周囲の状況に、一体何が起こったのだと疑問は抱いても、夢だとは考えなかった。夢と考えるには、あまりに現実感がありすぎたからだ。
深い森の中に、碕沢は立っていた。いやいやながら歩いていたはずの登山道とはあきらかに異なる。
樹木の間をすりぬけて流れてくる風は、山のそれよりもいくらか温かみを感じた。
登山途中だった碕沢の身体はいくらか汗ばんでいたはずだが、汗はすべて引いていた。原因は不明である。
時間が経過したからと考えるべきだろうが、時間が流れた感覚がまるでない。原因が体外的なものではないのだとしたら、肉体そのものに何かがあったと考えるべきだろうか。だが、碕沢は身体にも異変を感じていなかった。
こういう時は人に訊ねるべきだろう。
「何があった――というか、どういう状況なのか、二人はわかるか?」
碕沢の近くには玖珂直哉と神原冴南が立っていた。
幸いというべきか、異常な状況にあって玖珂と神原は、ほとんど動揺していないようだった。
瞳の色を見れば、呆然としているというわけではないことがわかる。両者ともに理性的な色が見えていた。
「何が起こったのかはわからない。でも、異なる場所に移動したことは事実だ。リュックもなくなっている」
淡々と玖珂が言う。
確かに全員リュックサックがなくなっていた。
「――私は記憶に曖昧なところがあるんだけど、山からこの場所に移動する途中のものなのか、一瞬よくわからない場所で行列に並んでいたような……」
確信のないような声で、冴南が呟くように言葉を走らせた。
「ああ、言われてみれば、なんかあの景色って――」
忘れていたのが不思議なほどに強烈な景色が碕沢の脳裏によみがえる。
「――地獄……三途の川の前ってところかな」
碕沢の言葉を玖珂が引き継いだ。眼鏡の下の眼差しは、楽しんでいるふうにも見える。
「地獄にいくような罪をおかした記憶はないんだが」
「碕沢君のことは知らないけど、確かに私は身に覚えはないかな」
言葉の刃で、さらりと冴南が碕沢を斬りつける。
「まあ、人生の反省をするには、僕たちの生きた時間は短いと思うけど――仮に死んだとしても、今ここで意思をもって動いているのは事実だ。そして、あの記憶で重要なのは、そこが地獄かどうかよりも、渡されたものがいったい何だったのかということじゃないか?」
玖珂の右手の周囲に光の粒子が生まれた。光の粒子は収束し、一つの形を織りなしていく。
光が消えた後、玖珂の右手には片刃の剣が握られていた。
確認するように玖珂が剣を一振りする。
「割りあい簡単だ。イメージするだけでいい。二人はどう?」
玖珂の言葉を受けて、まず冴南が行動した。
冴南の右手付近で玖珂と同じような現象が起こり、光が消えた後には、弓が握られていた。
大きさは弓道に用いられるものと同じくらいのようだが、装飾がほどこされており、どうも儀式というか観賞用の飾り物のように見えた。
「重たそうだな」
素直な感想を碕沢は述べる。
「いや、ぜんぜん重くない。実用的なのかはわからないけど」
冴南が弦を軽く弾くと、弦特有の音ではなく、月光が音源化したような独特の音が森に響いた。
最後に残された碕沢に二人の視線が集中する。
二人の視線を受けて、何となく身の置き場所に困るような面持ちになりながら、碕沢は右手に、門の前で渡されたモノをイメージした。
「何もないようだけど」
困惑したような声で冴南が言う。
「掌に収まる武器なのか?」
さすがに何があるのかまではわからなかったようだが、玖珂が推測を述べた。
「まあ、そんな感じ」
碕沢は握りしめていた右手を開いた。
彼の掌の上で、銀色に光る紐状のものが小さな円を描いていた。
間の抜けた沈黙が三人の間を駆けぬけた。
「神原さんの言葉じゃないけど、実用的かどうかを確認しようか?」
気を取り直すように口にした玖珂の提案に、碕沢と冴南は同意した。
武器が具現化するなど、三人の知りえない何かしらの力が働いたことは間違いない。だが、その疑問に三人は固執しなかった。
それよりも、知らない場所にいるという事実。さらに、武器が渡されているという事実に三人は着目した。
「武器が必要な状況っていうことかしら?」
冴南の発した疑問は、三人の中では確度の高い推測として扱われることになった。
何者の意思かは不明だが、武器が与えられたのは、武器を使わせるためだ。戦うという状況が想定されているのだ。
三人はそれぞれ武器の性能を確かめる。
まずは、片刃の剣という最も無難な武器である玖珂から始めた。
彼はまず草を剣で斬りつけた。簡単に草が刈りきられる。さらに、樹木にまで玖珂は剣を振るった。
やや鈍い音を立てて、剣が途中で弾かれた。だが、樹木にはしっかりと抉られた剣の跡が残っている。
「玖珂、おまえ何かやってたのか?」
思わず、碕沢は訊ねた。
長身というのは剣の威力を増す理由の一つではあるが、それにしても威力がありすぎる。
「いや、今日初めて剣を握った素人だ。僕がどうこうではなく、剣が良いんだろう。もう少し剣を振れば、もっとうまく斬れそうな気がするよ」
碕沢は、玖珂のあらゆる分野に渡る変態的天才性を高く評価していたので、どこかの流派の剣術を修めていても不思議ではないと考えていたのだが、本人がそう言うのなら納得するしかなかった。
次は冴南の番だ。
彼女の弓には決定的な欠点があった。矢がないのである。
だが、そのあまりに深刻な欠点は簡単に解消された。
冴南が弓をかまえると、浮きあがるように矢が具現化したのだ。
碕沢と玖珂は目を見張ったが、当人はまったく驚く様子を見せず、流れる動作で自然と弓を放った――後で碕沢が聞いたところでは、何となく矢が用意されるとわかったらしい。
放った瞬間に、弦の高い音が響き、さらに矢自体が音を奏でて樹木に突き刺さる。矢が奏でた音は特徴的なもので、まるで日本庭園に見られる歩くと音の鳴る石と似たような高音を鳴らした。音がなるというところのみをとれば、まるで鏑矢のようだった。
真っ直ぐに飛んだ矢は五〇メートル先にある樹木に刺さって数秒すると消えた。刺さった跡を確認すると、かなり深くまで貫いており、威力の高さがうかがえた。距離次第では、人間の身体など貫通してしまうかもしれない。
冴南の弓の腕は、間違いなく専門の教育を受けた者のみが有する技術力をもっていた。
ちなみに、矢は次々に射られるわけではなく、最初に射た一本が消えてから、次の矢が現出する仕組みのようだ。
三人は、冴南の弓矢――矢が生まれて消える――を見て、自分たちが暮らしていた世界とは異なる法則が、この世界では働いていることを確信した。
三人は互いの顔を見て苦笑する。苦笑で済まされるような事態ではないのだが、苦笑意外にやれることがないのも事実だった。
最後は、碕沢の武器だ。
「といっても、俺が持っているのは紐? なんだが」
果たして武器と呼べるのか? 罠をしかけたり、と使いようによっては、武器なのかもしれないが。
「金属じゃないのか?」
「色は金属だが」碕沢は触れてみる。「感触も何となく金属だ――たぶん、鋼鉄だ」
玖珂が口を開こうとしたが、すぐに止めた。碕沢が鋼鉄だとわかった理由に思いあたったのかもしれない。勘の鋭いやつである。
碕沢が鋼鉄だと考えた理由は簡単だ。
この紐が掌に現れた時に、その銘も同時に頭に思い浮かんだからだ。
『鋼鉄の綺紐』
おそらく、二人の武器にも名があるのだろう。そこから碕沢の武器にも銘があることを思いたち、碕沢が鋼鉄と言った理由を推察したのだ。二人とも素材の名称が銘に入っているのだろうか。入っていないで予測したなら、厄介すぎる勘の良さだ。
「鋼鉄の紐か。紐というには柔軟性に大きく欠けそうだけど、それで、使い方は?」
玖珂に言われるまでもなく、碕沢もこの紐の攻撃力を早く確認したかった。
この鋼鉄の綺紐は、どうやら自由に伸縮をさせることが可能なようで――どうしても鋼鉄製だとは思えない――うまくやれば飛ばして攻撃することができるようだ。つまり、実際は掌に収まっているサイズ以上の長さを持っているということである。さらに、ある程度なら思いどおりに動かすことができるようだった――といっても、ボールを投げるのと一緒で、あくまでも最初に目標を設定することができるという程度で、途中で方向転換することはできないのだが。
碕沢は五メートルほど離れた樹木に集中し、紐が貫通するイメージをした。すると、綺紐が掌から飛び出す。
綺紐が樹木に当たり、かんという高い音がなった。
「おい」
思わず碕沢の口から声がもれた。あきからに冴南の矢とは威力が違う。
音の質から察するに木を貫通できなかったことは間違いない。また、彼の右手に伝わってきた感覚もその事実を後押ししていた。
碕沢の命に応じて、綺紐が彼の掌に戻る。
念のために木を確認すると、やはりほとんど穴が開いていなかった。かすかに当たった跡が確認できるくらいである。五歳にも満たない子供が丸い小石で木を殴った程度の威力だろう。
残念な結果に、何となく三人は沈黙した。
「ちょっと遠かったんじゃないか? 五メートルも射程がないのかもしれない」
「そうかもね」
玖珂と冴南がアドバイスをくれる。
淡々とした気遣いというのは、あんがいいいものかもしれない、と碕沢は思った。
玖珂に言われた通りに、今度は二メートル離れた木を的にして紐を飛ばしてみた。すると、今度は紐が木を貫いた。貫通するほどではなかったが、一五センチメートル以上は抉ったようだった。
どうやら武器としての性能はあるらしい。
この後、各自武器の詳細な確認をした。
碕沢の綺紐は、最大射程が五メートルほどだ。これは牽制に使える程度で、威力はたいしたことがない。一定の威力を発揮するのは、およそ二メートル以内ということが分かった。
冴南の弓は、遠くまで飛ばすだけであったら、角度をうまく調整しさえすれば、一五〇メートル以上あるいは二〇〇メートルを超えるかもしれない。だが、実際彼女が満足する威力を求めるのなら、五〇~六〇メートルが最大射程のようだ。
碕沢と冴南は自らの武器性能を計ることに問題なく成功したが、一人だけ失敗した者がいた。失敗というよりは、確認しようがなかったというのが正しいのかもしれない。
「この先何があるかわからない。だから二人には言っておく――」という枕詞から始まり。「――たとえ、誰かに会ったとしても、僕が自分から言うまでは、三人の秘密ということにしてもらうよ」という言葉で締められた告白が、玖珂からあった。
その内容であるが、玖珂の武器のことだ。玖珂の武器は反則としか言いようがないもので、それは彼の望む武器ならば何でも具現化することができるというものだった。といっても、もちろん、伝説上の武器や妖刀を具現化できるということではない。性能は固定で、種類が豊富――もしかしたら無限ということであった。
実際、玖珂は碕沢と同じような綺紐や冴南のように弓を現出させてみせた。どちらも二人とまったく同じ物というわけではなかったが、武器としては充分に利用できる性能だった。
ちなみに弓に関しては、冴南のほうが圧倒的にうまかった。これは単純に玖珂が技術を知らなかったためのようで、冴南に弓術の独特な手の動きを習うとすぐに玖珂の技量はあがった。
碕沢もやり方を聞いたが、実践できなかったので、まったく身についていない。具現化する武器は、当人しか扱うことができないようで、武器を渡されても本人の手から離れ、相手に渡った瞬間に消えてしまうのだ。
地面に落とした時はどうなるのか実検すると、一分ほどは現状維持でその後粒子となって消えてしまった。一分経っても、持ち主がそのままそこにいろと念じれば消えないが、集中力を必要とするので、まさに無駄な労力でしかない。
また、地面に置きっぱなしにして途中で手の中に具現化しようとすると、地面に落ちた武器が消えた後で、手の中で具現化した。
三人は互いの戦力を共有した。
そして、三人の武器の銘も共有した。
『天賦の才』玖珂直哉。
『貫き謳う弓矢』神原冴南。
『鋼鉄の綺紐』碕原秋長。
銘を教えた後で、冴南が言った。
「私のは人に言わなくていいし、金輪際口にしなくていいから」
彼女が早口でまくしたてたのは、恥ずかしかったからだろう。頬を朱に染めているので、本人としてはかなりの羞恥であったようだ。
碕沢と玖珂はまったく気にしていなかった。ただ、この無反応が余計に冴南を責めたてたようである。
学校ではお目にかかったことのない冴南の恥じらいの姿はともかくとして、重要なのは玖珂が次に発した言葉の内容だった。
「武器の名前、意味はわかるんだけど、音の並びは英語のような、でも英語じゃない響きというか、横文字の響きがある。これは本来僕らの知らない言語なのかもしれない――なぜだか読めてしまうけど」
日本語にかぎらず、地球で使用されていた言葉とは異なる言語がこの世界にあるのかもしれない。人間のような存在がいるのなら、その可能性のほうが高いだろう。
「……言葉の壁か」
碕沢はぽつりと言った。
この世界にも住人がいるはずだ。
この世界の住人と果たして会話は可能なのだろうか。
武器の銘の意味はわかるのだから、よくわからない力が働いてこの世界の言葉が碕沢たちには理解できるのかもしれない。だが、碕沢たちの話す言葉は相手に通じるだろうか?
というか、そもそも人はいるのだろうか?
森は静まりかえっていた。