一章 都市ドーラス(8)
「そう言えば、女がいねーな。自分の負ける無様な姿を見せたくなくて帰したか?」
碕沢の戦気がみなぎっていることはわかっているだろうに、バーンが通常と変わらない口調で話しかける。
碕沢は集中を崩さない。じっとバーンのすべてを見ながら、口を開いた。
「ですね。さすがにその年になって若い子に無様な姿をさらすところは見られたくないでしょうから」
「くくく、ぶわっはははははは」バーンが大口を開けて、馬鹿笑いした。「小憎らしいくらいに胆が据わってやがる。少しは、楽しめそうだな」
バーンが碕沢を見下ろす。その瞳は平静そのものだ。
碕沢の挑発にまったく怒っていない。完全に受け流されていた。
技術と肉体能力ではかなわないのだ。せめて、精神面で隙を見せてくれなければ、碕沢としてはやりようがない。
「どうした? 止まったままじゃ、始まりもせんぞ」
「別に俺はこのままずっと対峙していてもいいんですけどね」
「ふん。それじゃ、俺がつまらんわな」
バーンの姿が、碕沢の視界から消える。
碕沢は迷わず前に突っこんだ。見えてなどいない。だが、距離を取ることは相手の思うままにしかならないと判断したのだ。
同時に、綺紐も二本前方に飛ばした。
綺紐から衝撃が伝えられる。弾かれたのだ。だがその瞬間に、碕沢の身体もすでに吹っ飛ばされていた。
重い衝撃が身体の中で千千に乱れる。
地面を滑るように転がり土を巻きあげて、碕沢の身体は停止した。
両腕をついて、すぐに碕沢は身体を持ちあげる。半瞬ぐらつきそうになったが、何とか立ちあがった。
碕沢としては時間を使わずに、再度戦闘態勢を取ったつもりだったが、攻撃を仕掛けている側からすれば、それは隙だらけの姿だったことだろう。
だが、攻撃はなかった。
「予想外の行動をする。思わず、最初で終わらせるところだった」
碕沢の意識が刈りとられなかったのも、身体がまだ動くのもバーンの手加減によるものらしい。
差がありすぎて、碕沢は相手の強さが量れなかった。
だが、視線は外さない。
「武器も見たことがない。威力はたいしたことないが、相手によっちゃあ通用するかもしれないな」
綺紐から碕沢に伝えられた感触も、何か硬い物にぶつかったというだけで、それが剣なのか、もしくは、バーンの身体だったのかすら分からなかった。
「次はそっちから攻撃してみろ」
「遠慮なくあまえさせてもらいます」
碕沢は距離をつめて、綺紐を虚空へと飛ばし、三メートルほどの長さで綺紐を硬化した。相手に見せつけるように硬化した綺紐をバーンの右腕側から斜めに落とす。
狙うは頭部である。
バーンは避けることなく、右腕に持った剣で受けた。
碕沢の予想どおりだった。
碕沢は先程より速度を増した綺紐を近距離から飛ばし、バーンの右腕に巻きつけて動きを阻害した。
わずかな狂いでいい。それだけで攻撃が通るはずである。
碕沢は急停止すると、バーンの右手を封じた綺紐を全力で引っぱった。
もう一方の綺紐も同時に操り、バーンの頭部を狙っている。
バーンの動きには何の変化も見られなかった。彼は予定したとおりに、右手の剣で硬化した綺紐を弾いた。そのまま碕沢へと一歩踏みだし、剣を振るう。
右腕に巻かれた綺紐など無視している。
無視できなかったのは、碕沢だ。
まず硬化した綺紐を弾かれたことで、体勢が崩れた。
碕沢はバーンの右腕が動くたびに、身体を大きく揺さぶられた。
碕沢はすぐに綺紐を解放し、後ろへ大きく跳躍した。
だが、それも読まれていた。
碕沢の視界が黒く染まる。
鈍い音が頭の中で響いた。
碕沢はひっくり返り、背中を地面にしたたかに打ちつけた。
「何が……?」
碕沢は頭だけを起こす。鼻から液体がつっと流れるのを感じた。
「何がって、これだよ」
またもや碕沢の視界が黒くなる。それは、バーンの足の裏だった。
碕沢は右に転がった。
地面を重く踏みしめる音が後に続く。
膝をついて、すぐに碕沢は立ちあがった。
身体の節々が痛む。肩を大きく揺らして、何とか酸素を体内に取り込む。
まだ、一分も経っていないのではないか。
なのに、碕沢は体力は大きく減じている。
相手はぶつかったり、蹴ったり、とそれだけなのに、碕沢は圧倒されていた。
バーンはまだ、まともに武器を攻撃に使用していないのだ。
「おい、もう止めとけ。かなわないのは分かっただろう」
ダンだった。外から見ても差は歴然としているようだ。
さすがに二人の間に割って入るようなことはしなかったが、それでも彼が止めに入ったということは、これ以上は危険なことになると考えたからだろう。
「ダン、黙ってろ。諦めてねーな……隠し玉が何かあるのか?」
バーンは弱った獲物から視線を外さない。
本気ではないのに、隙を見せない。
どこに勝機を見い出せというのか。
碕沢に隠し玉はない。
たとえ、どんな隙を見つけて、そこを攻撃しても、攻撃事態が通じないのだからどうしようもなかった。
碕沢の攻撃力では届かないのだ。
なのに、なぜ、碕沢がまだ立ち続けているのかというと。
「しんどい戦いをしているようだな」
背後から声がかけられる。
この二日間でずいぶんと仲良くなった男の声だった。
「思ったよりも早くて助かった」
碕沢はバーンから視線を外さないまま答えた。
碕沢は冴南に玖珂を迎えに行くよう頼んでいたのだ。そう、最初から碕沢は自分では無理だと考えていた。
人頼みであったわけである。
だが、発案者の自分が何もしないというわけにはいかない。せめて、相手の弱点でも探ろうと考えたのだが、その点はまったく無意味に終わってしまった。
「そいつを待っていたわけか。そっちの男なら、俺に勝てるとおまえは思っているのか?」
「勝つじゃなくて、一撃を入れる、が条件でしょ――こいつならやってくれますよ。孤高の天才玖珂君です」
ふざけた紹介を終えると同時に、碕沢の身体は弾け飛んだ。
何度か空中で回転した後に碕沢は地面に転がった。
碕沢が立っていた場所には、バーンがいる。
「とどめを刺すことはないと思いますが」
淡々と玖珂が評する。
「最初の約束じゃ、あの男が戦うというだけだったからな。条件を変更するなら、まずあいつを倒しておかないと不利だろう、俺が」
「二対一で何とかできるとはとても思いませんけど」
玖珂がバーンに近づいていく。すでに抜き身の剣が腕にある。
彼の傍にいた冴南はすでにいない。碕沢の元へと駆け寄っていた。
「謙虚なわりに自信がありげだな」
「ええ、二対一より一対一のほうが『勝つ』確率は高いですからね」
「ほお。あいつもなかなか嘗めた口をきいたが、おまえはそれ以上のようだな」
「碕沢との違いは、僕は本気だってところでしょうか」
玖珂の足元の砂が舞いあがり、彼の姿が消えた。
バーンの剣が火花を散らす。
天才と熟練冒険者の戦いが始まったのだ。
「ひゃあい!」
言語化されていない叫び声をあげて、碕沢は目を覚ました。
全身に痛みが走り、碕沢は一瞬悶絶した。動けない時間を数秒過ごした後、碕沢はようやく起きあがる。
身体が動くようになって落ち着いてみれば、そこまでの痛みではなかった。筋肉痛が抜けない感覚に近いだろうか。
鼻がもぞもぞするのは、血が乾いたためだろう。
「起きたみたいね」
「ああ、神原、おはよう」
「おはようじゃないでしょ! いったい、あれは何だったのよ!」
椅子に座った冴南が、上から碕沢を叱りつけた。
碕沢は床に直接眠らされていた。周囲では、酒気と喧騒が陽気なダンスを踊っている。先程の店へ戻ってきたようだ。
テーブルにいるのは、冴南、バーン、ダンの三人である。
碕沢たちのテーブル――碕沢は座っていないが――は、店の奥まったところで、近くには酒を片手に眠っている男がいるだけだった。
おそらく、バーンのはからいで特別にテーブルを奥へ移動したものだと思われる。
冴南が酔っ払いに絡まれていないのもバーンが防波堤の役割を果たしているからだろう。
碕沢は立ちあがって、冴南の隣の椅子に座った。
「あれだよ。男と男は拳で殴り合えば分かりあえる。いやあ、格言が身に染みるな」
「どこが分かりあえたのよ! あなたが一方的に吹っ飛ばされて気絶しただけでしょ」
冴南が怒るのも分からない話ではない。
何しろ彼女は、彼女自身と玖珂が戻ってきてから、バーンと手合わせをして認めさせる、と碕沢から聴いていたのだから。
「あなた、私に嘘をついたわね」
「いや、嘘じゃなくて、成り行き上仕方がないというか」という嘘を碕沢はついた。
彼は始めから冴南だけは戦わせないつもりでいた。
「おお、小僧。起きたか」
「バーンさんは、黙っていてください」
じろりとバーンを睨んだ後、冴南の瞳が再び碕沢を捉えた。怒りを宿した瞳である。
バーンは苦笑いを浮かべている。
これ以上、熟練冒険者から碕沢への援護は期待できないだろう。
「神原さん、一つ言っておくべきことがある」
「なに?」
すっと細められた瞳は零下の冷たさがあった。
碕沢は椅子ごと冴南へと向きなおる。
「すみませんでした」
しっかりと頭をさげた。
もっとも分かりやすい誠心誠意を示した姿勢である。
「謝るってことは、つまり最初から私を除け者にしようと考えていたわけね」
「除け者という言葉は、いささか語弊があるかと」
「なんで、そんなに硬い口調なわけ?」
「愚考するに、先方の態度がそれを誘引しているのではないかと」
「へえ、私のせいなんだ」
ちらりと碕沢は視線をあげた。
ちなみに頭はさげたままである。
「時に認めがたいことも認めなければならないことがあるのです」
「私のせいなわけがないでしょ! 碕沢君、あなたバカなんじゃないの!」
冴南が一度怒りを噴火させたことで、この後彼女の感情は沈静化の道を歩み始めたのである。もちろん、噴火が収まっても溶岩は流れていたので、碕沢の鎮火活動はもう少し続いたのだが。
碕沢は、落ち着いた冴南から玖珂とバーンの戦いの様子を教えてもらうことにした。
玖珂がこの場にいないことからすでに顛末は想像できていた。
「玖珂は一撃も入れられなかったのか?」
「いいえ、それならすぐに達成した」
「え、なんで、あいつここにいないんだ」
碕沢は、玖珂は敗北したことが悔しくて、バーンと同じ空気を吸う気になれないのだろうと考えていた。
ああ見えて、あの天才は負けず嫌いなのではないか、と碕沢は睨んでいる。
「なんでって、やっぱり悔しかったんだと思うけど」
冴南の話によると、玖珂はバーンと戦うのにスピードを武器にしたということである。
玖珂は冴南が目に終えないほどの速さで、バーンへ攻撃をしつづけたという。
玖珂はただ速いだけではなかった。
あの男は、目や間接、指先などを狙って攻撃していたそうだ――バーンの証言である。
碕沢の綺紐はバーンの防御――どういったものなのかは、まだ不明――を突破できなかったが、玖珂の剣はきちんと届いたらしい。
バーンは傷を増やしていった。
だが、玖珂の善戦もそこまでだった。
玖珂の動きに慣れたバーンが反撃に転じたのである。それでもすぐに膝を屈せず粘りを見せたのは、さすが玖珂というところだ。
だが実力差はやはりいかんともしがたく、結局バーンに大きなダメージを与えることなく玖珂は敗れさったということである。
冴南が玖珂の敗北を認識したのは、玖珂が膝を地面について息を乱した姿を見た時らしい。
バーンは玖珂に対しては碕沢のようにとどめを刺すことをせずに見逃した。
玖珂はしばらくして立ちあがると、一礼して何も言わずに去った。
まあ、よく考えれば玖珂といえどもバーンに勝てるはずがない。
碕沢としても、玖珂の天分をバーンに認めさせることで、世話好きらしいバーンの感情に訴えかけることができるのではないか、と考えていたのだ。
玖珂の善戦は予想以上だった。
そもそも青い靄による肉体向上の恩恵は碕沢がもっとも受けているはずである。何しろゴブリン・ヴァイカウントを倒したのだから。
玖珂はゴブリン・バロンを倒した時、それほど強くなった気がしなかった――玖珂の望みが高すぎたのではないか――と言ったが、碕沢はゴブリン・ヴァイカウントを倒した時には、かなりのパワーアップをした感触があった。
この点から考えると、本来善戦するべきなのは碕沢である。
玖珂の変態的天才性には驚くばかりだ。
ただし、引っかかるところがないわけではない。
冴南が玖珂の攻撃を目で追えなかったという事実である。
冴南と玖珂に力の差はそれほどなかったはずだ。少なくとも昨日までは。
なら、今日一日で彼女と玖珂の間に力の差が生まれたということになる。
玖珂は、碕沢と別行動になった後、どこで何をしていたのだろうか。
おそくら、外で戦っていたのだろう。
青い靄を吸収し、ベースの肉体能力を向上させた。だが、それだけでは足りない。玖珂が外に出ていた時間は六時間ほどだろう。どれほど魔物を倒したとしても、ゴブリン・ヴァイカウント一体を倒すほどに青い靄を吸収することはできなかっただろう。
だが、バーンとの戦闘結果を聞くと、碕沢の上を行っていることはあきらかだ。
となると、戦いの技術そのものを磨いたのではないか。
戦闘に必要な無駄のない動きを習得したのではないか。
短い時間で玖珂はそれをやってのけたのである。
天才にもほどがあった。いったいあの男はどこまで伸びるのだろうか。
碕沢が考えこんでいると、バーンがアルコール成分で満たした呼気を吐きながら話しかけてきた。
「おまえらいちおう冒険者なんだろう? なのになぜ、さっきスキルを使ってこなかった?」
「冒険者じゃないからですよ」
平然と碕沢は言った。事実だったので、彼の口調はきわめて平坦だ。
「なに? おまえらはいったい……じゃあ、あの男は俺の剣術を初めて見て――」バーンが真顔になる。「碕沢といったか。約束どおり訓練してやろう」
「ありがとうございます。じゃあ、遠慮なく言わしてもらいますけど、明日の朝からお願いします」
碕沢は訓練場の場所を説明し、やってほしい訓練の内容も伝えた。
碕沢の求めた訓練は、午前中は戦い方の指導、午後は外で実際に魔物と戦うことだった。さらに条件をつけた。三日間はできるだけ負傷しないよう注意してほしい、と。
午前の訓練はともかく、午後の実戦で負傷させないようにするなど無理な注文である。そもそも指導官一人では、七〇人もの人間を見ることは不可能だ。
もちろん碕沢も分かっていたが、まったく頓着せずに丸投げした。
バーンは碕沢と玖珂、それに冴南を訓練すると思っていたようだが、話が違うとは言わなかった。
約束を重視する人間らしく、文句を言うこともなく受諾してくれた。
碕沢としては、感謝することしきりだが、あまりに一方的な契約内容である。こんな提案を受け入れるバーンがやり手の商人に騙されないか不安になるほどだ。それとも、玖珂のことをそれほど気に入ったのだろうか。
「しかし七〇人か。おまえら総督とつながりがあるんだろう。指導官くらい用意してもらえなかったのか?」
「今日、誰か来る予定でしたけど、来なかったんです。正規の兵士としては、素人に戦いの指導するのはプライドが触ったのかもしれませんね」
すべての要望を通すことのできた碕沢は上機嫌に答えた。
「来ない? あの総督の命令に背いたのか? 名前は分かるか」
「知りませんよ」と碕沢は答えた。
「スラーグという人らしいです」と冴南が答えた。
バーンは冴南の言葉に反応した。
「スラーグか。なるほど、おまえら運がいいな」
「どういうことですか?」冴南が問う。
「一つは、あいつはかなりの腕前だ。兵士の中じゃ図抜けているだろうな。俺以上かもしれない」
「強いんですね。でも、今日来なかったということは、気難しい人なんでしょうか?」
「どうだろうな、直接確かめてみればいい」
「それは会えればいいですけど」
冴南がかすかに形のよい眉根をよせた。
「運がいいと言っただろう」
バーンが笑う。
碕沢と冴南には何を言っているのか分からなかった。
「そこで寝ている男、そいつがスラーグだ」
テーブルに伏して眠っている男をバーンが顎で指した。
「『酔いどれスラーグ』酒の弱さと武の強さで有名な男だ」
苦しそうに目をつぶり、口からよだれを垂らした姿からは、酒の弱さしか伝わってこなかった。
「ちくしょう、俺だって強くなってやるからな!」
酒に呑まれたダンが、傍で何かわめいている。




