一章 都市ドーラス(2)
都市ドーラスは高さ五メートルの防壁で守られている。港を有したドーラスは、トバス島にあるにはもったいない規模の都市であった。
人口は二万五千を数える。
これだけの人間の数である。むろん、経済発展は欠かせない。その理由はアルトラ大陸にあった。
アルトラ大陸はある特殊な事情があり、陸路では東西が繋がっていない。唯一の交流は海路を取るしかなく、ドーラスは中継地点として栄えているのだ。
都市ドーラス周辺は広く開拓されており、田園地帯がひろがっている。気候が穏やかで、土地も豊饒なので作物の育ちは良好だ。これはトバス島にのみ見られる自然環境ではなく、アルトラ大陸も似たようなものだった。もちろん、アルトラ大陸すべてが同様の自然環境というわけではない。
都市ドーラスは、アルトラ大陸中央にあるキルランスという国家から派遣された総督が治めている。ドーラスの権限はすべて総督府に集中していた。総督は、少なくとも都市内ではドーラスの王とも呼べる力を誇っている。
本来ならば、その権力と魔物という外敵が多くいる環境を考えれば、有能な人間がその地位にあるべきである。だが、総督が設置された当初はともかく、年月が経つにつれ、ドーラス総督という地位は、一部権力者が金を得るための寄生木となってしまっていたのだった。
現在のドーラス総督はイル・ローランドという。彼の執務室は豪華絢爛であった。高価な調度品が所狭しと置かれている。もともと総督執務室は実務重視の質素といってよい内装であったのだが、彼が総督となって一新したのだ。
部屋ばかりではなく、自身の身なりも高価な衣装とアクセサリーで固めている。人によっては羨望を投じるだろうし、また別の人によっては眉をひそめる外見である。
総督執務室は、五つの燭台で照らされていた。その光は、炎ではないが、電気とも断じえない、未知の動力で光を発しているようだった。
玖珂は北條晃に連れられて、ドーラス総督イル・ローランドと面会していた。碕沢と冴南の二人はすでに部屋で休んでいるはずだ。
これは北條の判断である。彼にとっては、玖珂のみが有意な人材ということのようだった。
玖珂は思案している。
ゴブリン・ヴァイカウントについてどう話すのかということだった。
この情報を伝えるかどうかの判断は、碕沢と冴南から玖珂が一任されていた。
仮にゴブリン・キングが生まれたのなら、あるいは生まれようとしているのなら、島で唯一の都市であるドーラスはゴブリン・キングの標的にされる可能性がある。人間と魔人は敵対関係にあるようなので、襲撃を受ける可能性はかなり高いと見ていい。
ドーラスの防衛機構がどうなっているかは分からないが、一万もの軍勢に対して瞬時に対応できるものではないだろう。
撃退準備をする期間が必要なはずだ。
となると、ドーラスの最高権力者である総督に情報は必ず伝えておかねばならない。このドーラス総督が防衛司令官を兼ねているのかはわからないが、防衛命令は必ず総督がするはずである。
早い段階で戦いの準備に入れば、ゴブリンとの戦いは人間が優位に進められることになるだろう。
なので、さっさと情報を伝えればいいのだが、玖珂はそれができないでいた。
それはドーラス総督イル・ローランドの人となりを警戒したからであった。
「この男が北條の言う有能な男なのか? 確かに見た目は良いが、はたして外見に中身が伴っているかは疑問だ」
イル・ローランドはでっぷりとした身体を、豪奢な椅子にくいこませるようにして座っていた。あまりに脂肪がつきすぎたために、どうやら椅子が小さくなってしまったらしい。
椅子を変えない理由は何だろうか?
高価な物を求めはするが、それを捨てることができない。実益ではなく、社会的評価数値――つまり金額を重視しているからだろうか。
しかも、一度手にしたらその値が落ちるまでは、絶対に手放さない執着心があるのだろう。
果たしてそれは金品に対してのみに発せられる感情だろうか。人に対してはどうなのか。
物事に対しての判断は?
「閣下。彼の外見はそれこそ飾りです。内にこそ、彼の真価があります」
堅苦しい言葉づかいを、北條は流暢に操っていた。
どうやら北條はすでに総督と幾ばくかの友誼を結んでいるようだ。そうでなければ、ただの同級生を総督に紹介などできはしないだろうが。
「ふん、そうか。まあ、外見が良いだけでも利用価値はある。見栄えというものは重要だ。特に私のような支配者にはな」
イル・ローランドという男は年齢が分かりづらかった。三十代のようにも、四十代のようにも、あるいは五十代にも見えなくはなかった。
脂肪で膨らんでいるために皺が少なく、またぬらぬらとした肌の異様な艶の良さが年齢不詳の原因である。
外見、仕草、雰囲気、口調、嗜好、思想――いずれをとっても、ローランドというのは下の者に忠誠心を抱かせない男である。
おそらく、彼の周囲に群がるのは、ただれた甘い蜜の分け前を欲しがる者か、この男を利用し、成り上がろうと考える者のいずれかしかいないだろう。
「それで玖珂とやら、口をきいても良いのだぞ。ほれ、何か話せ」
犬に対するように、ローランドがおちょくるような口調で玖珂に話しかける。
「いえ、閣下とお目通りが叶っただけで私には充分です」
玖珂の言葉に、ローランドが脂肪を揺らしながら笑った。
ローランドとの対面はまだごく短い時間でしかない。
だが、玖珂はローランドという男がまったく信用できなかった。そして、ローランドが玖珂の言葉に聞く耳を持っていないだろうこともよく分かった。対等ではないどころか、人という扱いさえしていない。
この場で何を伝えたところで無駄だろう。ゴブリンを恐れる臆病者と侮られることになるかもしれない。
それに伝えかたを工夫しなければ、こういった手合いは、何か起こった時に責任をなすりつけられる可能性さえある。慎重にやる必要があった。
「なかなかどうして、北條といい、玖珂といい、よく分かっておるではないか。よいぞ、北條。約束どおり十日間与える故、結果を見せよ」
「承知しました」
「むろん、私の期待を裏切った時はわかっているな」
ねっとりとした粘着力のある視線が北條を、いや北條の後ろにあるものを捉えている。すでに北條がローランドに対して何かを約束していることは確実だ。
「良い報告のみを閣下の耳にお届けいたしたいと存じます」
「そうか、そうか。わかった、もうよい。下がってよいぞ」
北條が一礼し、玖珂も同じように頭をさげた。
振り返ると、彼らの背後に立っていた兵士が道を空けていた。扉の内と外に立っていた兵士に見送られ、二人は総督執務室を後にした。
二人の兵士が、総督府の敷地から出るまで、玖珂と北條の後をついてきた。護衛ではなく、監視だろう。
玖珂と北條は、青城南校生に与えられた兵舎へと移動する。この兵舎はすでに使われていないものなので、兵士たちを追いだしたわけではない。問題はなかった。ただし放置されていたので、当然掃除などは行き届いていない。
住民は青城南校生のみである。自分たちで使用可能にしなければならなかった。実際、北條たちは一日のほとんどの時間を掃除に費やしたということである。
兵舎には現在七十人近い生徒が集まっている。当面の間、眠るところだけは困らないということだった。
夜道を歩きながら、玖珂は北條に問いただした。
「何を担保にした?」
あの総督が好意で、北條たちを受け入れるわけがない。
北條は総督の利益になるものを与えたはずだ。あるいは利益を得る未来図を描いてみせたはずだ。それも小さな利益では駄目だろう。あの総督を釣るには大きな餌が必要になる。
「わかっているんだろう?」
「事実を確定しておく必要がある」
「正しい意見だ。もちろん、力だ。僕たちにはこれがある」
北條の腕の中に光の粒子が集い、銀色に輝く槍が具現化した。かなり長く刀身が大きい。まるで彼の野心を示すように非常に目立つ武器だった。
「僕たち程度の力は、総督なら持っているんじゃないか?」
玖珂は北條の言葉が腑に落ちなかった。
「それは玖珂があの男の野心を知らないから出る言葉だ。あの男は分不相応なことに、この島から抜けだして本国に返り咲くことを画策しているんだ。そのためには大きな力が、それも正規ではない力が必要なのさ」
北條はローランドを下に見ている。そして、どうやら北條は、ローランドを利用するつもりでいるらしい。
「本国?」
「そうか、知らないのか。ドーラスの総督というのは、キルランスという国から派遣されているんだ。ここが島ということは知ってるか?」
「ああ」
「海を挟んだ北方に大陸があるらしい。キルランスはそこにある」
「僕の知らないことを多く知っているみたいだな」
「時間があったからな。玖珂も何か手土産はないのか? 情報交換をしておこう」
「その前に、総督との賭けに敗れた時の支払いは何だ?」
「何もない僕たちが、やつに与えられるものなんか限られているだろう?」
「それで?」
「僕たち自身の生殺与奪の権利だ」
「奴隷か?」
「まあ、そうだな。この世界には奴隷と呼ばれる存在はいないみたいだが、似たような存在はいるだろう。僕らはそれになる」
「皆の意見は聞いたのか? 特に女性にとっては大きな問題だろう」
「男女に限らず、大きな問題だ。だいたい無一文の僕たち余所者が生活手段を得るのにリスクを抱えることになるのは当然じゃないか? 甘い蜜を吸うだけ吸って文句を言うやつらの意見なんて聞く必要はないね」
玖珂は選択の権利を奪うな、と主張したのだが、北條は自己の正当性を主張してきた。つまり、リスクに関しておそらく大部分の生徒には伝えていないのだろう。
「玖珂は僕のやり方に反対か?」
「ここに来たばかりの新参者が何か言っても現実味がない」
「玖珂なら僕の苦労をわかってくれると思った――それで、玖珂はこの世界について何か情報を持ってないか? 玖珂なら何かに気づいたんじゃないか」
「明日では駄目か? 慣れない戦闘で疲れているんだ」
「玖珂があの程度の相手に苦戦するとは思わないが」
玖珂には北條が想像した敵がどんな相手か分からなかったが、玖珂が実際に戦った相手を想像できていないことだけは分かった。
「北條がどう思っているか知らないが、僕はあんがい繊細なんだ」
「まったく信じられない――けど、わかった。明日の朝……昼かな、話そう。訓練の後にでも」
明日から、兵舎に住む青城南校生には訓練が予定されていた。指導教官のような形で、総督から教官が派遣されることになっている。
「そうしてくれると助かる」
「そういえば――碕沢と一緒に行動したのか?」
「ああ、それがどうかしたか?」
「いや、別に何でもない」
何となく困惑したような表情を北條は浮かべていた。
「そうか」
玖珂は食堂での碕沢に対する北條の対応を思い出した。
今思えば、碕沢のことを事さら視界に入れないようにしていたようだった。知人なら声くらいかけるのが普通だろう。
ある意味あの男は誰に対しても遠慮がない。北條は、ああいった飄々とした手合いが苦手なのかもしれない。
ふと、玖珂はそんなことを思った。




