一章 都市ドーラス(1)
新世界暦四一二年五月一四日。
午前中のことだ。
私は経験したことのない恐怖を味わった。
大地が割れんばかりに揺れ、空が裂けんばかりの轟音が鳴り響いた。地震と鳴動はごくわずかな時間で終息した。まるで白昼夢であったかのように。
私はそこに不吉な匂いを感じずにはいられなかった。同様の不安を多くの者が抱いたことだろう。
同日、総督が異様な風体の若者、いや少年少女たちをドーラスへと受け入れた。見かけない顔立ちをしたその者たちが、私には不吉の象徴のように思えてならなかった。
いったい、総督は何を考えておられるのだろうか……。
新大陸暦四一二年五月二四日。
十日ほど前、ここドーラスに身なりの怪しい者たちが多く訪れた。
今日、その中にあった者が、我々にとって極めて重要な、そして我らにとって極めて深刻な情報をもたらした。
むろん、このような者たちが語る言葉など信じるに値しない――。
しかし、監視官として派遣されたスラーグ大隊長が発言したことで、情報は信憑性を増さざるを得なかった。
(略)
戒厳令が敷かれた。
総督はいったいどうするつもりであろうか。
彼らの情報が事実であるとしたら――。
我々は近い将来、戦争の準備に入ることになるだろう。できれば、あの男の言葉があの者らが訪れた時の格好と同じように、愚かなまやかしであることを私は望む。
あるドーラス高官の日記
アトラス大陸――それは開いた扇を二つ繋ぎあわせたような形をしていた。その中央部分から、海を挟んだ南方に『トバス島』はあった。
『トバス島』――小さいとは言わないが、さして大きくもない島である。北西から南東に向かって斜めに島は形成されており、北西は大きく膨らみ南東に向かうほど小さくしぼんでいく。
北西の端に、トバス島唯一の都市ドーラスがあった。
――トバス島。
そこは弱者がはびこる島。
敗者たちがたどりつく吹き溜まり。
女神から棄てられた島。
「マゾなの?」
碕沢秋長は、島について自虐的としか思えない説明をする、目の前の男に対して素直な感想を述べた。
彼の名前は、ダン。
自称冒険者であり、碕沢たちをドーラスまで案内してくれた四人の一人だった。二十代半ばで身長は碕沢とさして変わらない。太く見えるのは、筋肉の厚さのためだろう。もっとも特徴的なのは頭を剃っているところだろうか。綺麗に光を反射している。
ちなみに、他の三人はすでにいない。
理由は明快だ。
狙っていた女がなびかないと悟ったからである。女とは、碕沢の同級生である神原冴南のことだった。冴南の美貌は異世界でも通じるものらしい。
ダンのみがありもしない希望を何とかたぐりよせようとしている。
無一文の碕沢としてありがたい話である。今食べている食事の代金はすべてダンもちだ。狩りで大きな収穫を得たので、気分よくおごってくれたのだ。
ダンとは、碕沢にとってまさに人間の形をした財布だった。
「誰が財布だ! それにマゾってなんだ? どうせ悪口だろうが」
「あれ、マゾってないのか? マゾヒストのことだけど、上のやつらの間だけで流行ってるのか? やっぱり、ヘンタイは紳士に宿るものなのか」
下世話な類というのは、どの世界でも共通しているだろうと、碕沢はかってに思い込んでいた。
「彼の話は聞き流してください。バカなんです」
「ああ、カミハラちゃんがそう言うならいいけど」
冴南の言葉にダンが笑顔で応じる。これを見ると、まったく男はバカだなとしか言いようがない。
おそらくダンは、カミハラを冴南の名前だと勘違いしている。ダン自身が名字もちではないので、まったく疑いもしていない。
碕沢は指摘しなかったし、玖珂も指摘しなかった。そして冴南自身も教えなかった。
つまりこれが答えだろう。
しかし――と碕沢は思う。
数時間前に比べると、冴南の碕沢に対する扱いがかなり変わっていないだろうか。下がった気がするのは、錯覚ではないだろう。
もしかしたら、町に入って、まっさきに腕の治療をするべきだという彼女の提案を不意にしたことが尾を引いているのだろうか。
だが先だつ物がないのだから治療など受けられるはずがない。ダンも碕沢のために治療代を払ってやるほどお人よしではないだろう――あの時すでに軽く揉めていたことだし。彼から下心を除いたら、両者の架け橋はないも同然なのだ。
まあ考えても仕方のない問題である。態度の変化は冴南と親しくなったからだ、と碕沢はプラスに捉えることにした。
何にせよ今重要なのは食事である。
ここは大衆食堂のような店だった。木製の丸テーブルが十以上並び、すべてが埋まっていた。夕食時という時間帯も関係しているだろうが、繁盛している。酒も出しているので、喧騒が花火のようにやかましく咲き乱れていた。
牛肉のような牛肉に似たモノ。
野菜にしか見えない野菜のようなモノ。
米に近い米のようなモノ。
どれもが碕沢のよく知った食材と似ていた。
やや薄味だが、なかなかおいしい。
「ダンさんは冒険者なんですよね」
「ああ、これを見てくれたら分かるだろう」
ダンが左腕を見せつける。彼の腕には、着色のない金属加工品特有の銀色をした腕輪があった。幅は二センチメートルほどで、見かけは少し大きな時計のようだった。時計とは異なり、時間表記の機能はない。素っ気ないただのリングである。
「ああ、そうか。知らないのか。しかし、本当に何も知らないんだな。まさかソリティス王国の貴族の落とし子じゃ――」ダンの顔が冴南、玖珂と流れ、最後に碕沢に行きついた。「いや、それはないな」
「どういう意味だ。ハゲ」
「てめえ、誰がつるっぱげだ」
「知らねーよ」
ハゲというのはこちらでも良い単語ではないようだ。世界が違っても、男の悩みは同じである。
ちなみに碕沢とダンの関係がいささか喧嘩腰であるのは、町に入った時に碕沢が「治癒魔法とか病院とかどこ?」と訊いた時に、ダンが「バカか、おまえ。どこの冒険者がそんなあまっちょろいことをするかってんだ。だいたい、魔法王国時代のものが残っているわけがないだろうが。恥を知れ、このバカ!」と返したところから始まっている。
このやりとりの後に、治療する展開にもっていけるほど、碕沢のコミュニケーション能力は高くない。
「碕沢君、あなたは黙ってて。ダンさん、すみません。私はいいと思いますよ、つるっぱげ」
冴南が笑顔を作っている。
――最後のところ! 何を言っているんだ、この女! おまえが悪口を言ってどうする。
碕沢は心の中で突っ込んだ。
ダンに視線を投じると、ダンは怒って――いなかった。
「いやあ、そうかな。俺もけっこうイケてると思ってるんだよなあ」
つるぴか冒険者は頭をさすりながら、でれでれと笑っている。
セクハラは何をされたかよりも、誰にされたのかで問題が変わるという。
どうやら悪口の類も同じようだった。
「それで冒険者って何をやっているんですか?」
「ああ、それは――」
魔物を倒してその素材を売ることで生活している、という一文で説明できることを、ダンが自分の武勇伝を交えながらながながと語った。
もう一つ重要な点は魔石なる物が得られることだろうか。
「じゃあ、あのゴブリンたちもったいなかったな」
思いだしたくもない戦いが碕沢の脳裏を駆けぬける。
「何を言ってんだ? ゴブリンから魔石や素材が取れるわけがないだろ」
はん、とダンが鼻で笑う。
「つるっぱげ。少々ハゲハゲしいからって調子に乗るなよ」
「てめえ、誰が眩しすぎるだと」
「言ってねーよ。おまえは何でいちいち妙な翻訳をするんだ」
「変なところでいちゃもんつけやがって、これは俺の美意識のなせる業だ。もう我慢ならねー。表に出ろ」
「いい加減にしなさい」冴南がテーブルを叩いた。「碕沢君はこれをあげるから、食べてなさい。ダンさんも座って下さい」
「いや、神原。俺は子供じゃないんだから、食べてなさいって――」
「今のやりとりが子供以外の誰にできるのかしら? 言ってみて」
「いやあ、このスープおいしいな。もしかして、この店の料理人はこの町一番の腕前かもしれない。俺たちはラッキーだな、玖珂」
玖珂は軽く肩をすくめた。ちょっとした動作がいちいち様になる。
玖珂は料理を食すためだけにずっと口を動かしていた。情報収集は冴南に任したほうが都合が良いと考えているのだろう。
碕沢も賛成である。もう少し目の前の冒険者が静かになれば、平和に事が運ぶのだが。
「バカは黙ったんで。ダンさん、その腕輪が冒険者の証なんですね?」
「ああ、そうだ」
ダンが碕沢をちらりと見て、ふふんとでも言いたげに頷いた。
碕沢は食事に集中する。
家で食べた朝食以来の食事なのだ。冴南がくれるというのなら、もらっておく。
「魔物には素材や魔石が取れる種類と取れない種類があるということですか?」
「ああ、その区別は簡単だ。魔物は魔人と魔獣の二つに分けられる。魔人は簡単で人型。有名なのはそいつが言ったゴブリンやらオーガだな。魔獣は、魔人以外のやつらだ。たいていは獣型だが蟲みたいなやつらもいる」
「なぜ、魔人からは素材や魔石を取らないんですか? 何か理由があるんでしょうか?」
碕沢は、ゴブリンの死体から内臓を取りだす様子を想像して気持ちが悪くなった。
よく冴南はこんな質問ができるものだ。
「ああ、それも知らないか。無駄なんだ」
「無駄?」
「そう、無駄。ゴブリンの死体は三日もしない内に溶けてなくなる。内臓だろうが、骨だろうが。取ろうとしても無理なんだ。魔石はそもそもない」
「溶ける――ですか?」
「ああ、カミハラちゃんたちもゴブリンを倒したんだろ? なら、三日後には死体はなくなっているよ」
「他の魔物や獣たちに食べられたわけではないんですか?」
「疑り深いなあ、本当のことだから。明日でも見にいったらいい。すでに溶けはじめているだろうから。何なら俺もついてってやろうか」
「いえ、大丈夫です。ダンさんの言葉を信用します」
「ああ、そう?」
信用していると言われてうれしそうな顔と、一緒に行動する口実を断られて悲しそうな二つの表情をダンは作った。
器用な男である。
「だから、まったく金にならない魔人は冒険者の間じゃ人気がない。逆に魔獣は、素材と魔石が取れて金になるから、冒険者はみんなこっちを狙う」
「でも、それじゃあ、魔人が増えすぎたりしないんですか?」
「稀に大きな被害が出ることがある。でも十年に一度もない。せいぜい二、三十年に一度じゃないか」
「どうするんですか?」
「どうするって、国で討伐隊が組まれる。後は、上位ランカーの冒険者が参加する」
「上位の冒険者が参加するのは、ギルドとかそういうところからの強制ですか?」
「いや、違う。自分からだよ。あれ、冒険者組合の話はしたっけ?」
「いえ、まだです。ただ、腕輪を配布したりしているので、冒険者を管轄する組織があるんだろうと思っただけです」
「はあ、カミハラちゃんは頭いいな」
冒険者組合は依頼の仲介や素材や魔石の買い取りを行っているということだ。さらに世界中に支部があるという。
ちなみに組合は、他業種でもあるのだが、ただ『ギルド』という時は、一般的に冒険者組合を指すという。
「そんなことありません。それで、なぜ上位ランカーは金にもならない討伐に参加するんです?」
「そりゃ、一つは名誉、もう一つは金のためだよ」
思わせぶりにダンが言った。
謎かけのつもりだろうが、無意味だ。碕沢は答えがわかったし、冴南も当然予測がついているだろう。
後は、冴南がわからないふりをするという優しさをダンにかけてやるかどうかだ。
「ギルドから賞金が出るんですね」
冴南からダンへの優しさは堰きとめられているようだ。一ミリグラムも流れこみやしない。
「――あ、ああ、そうだ……」
「討伐数で……」冴南が大きな瞳を細めた。「強い個体が賞金首になるんですね。それらを倒そうと思ったら、同時にザコも倒さなければならない」
「よ、よく分かったな。その通りだ。魔人の厄介なところは、上位種へと進化するところなんだ。確か下からバロン・ヴァイカウント・アール・マーキス・デューク・キングだ。そして、デュークとキングには莫大な賞金がでる。こいつらは一週間以上死体が消えないから、戦場になった一番近くの冒険者組合、いや、命の塔だったかな? とにかくそこへ運べば討伐完了で賞金がもらえる」
この時、碕沢たちは初めて自分たちが倒した個体の種類を認識した。ほぼ間違いなくバロンとヴァイカウントだ。
「なぜ、わざわざ運ぶんです? ギルド職員に戦場に来て確認してもらえばいいじゃないですか? そっちのほうが面倒がないと思いますけど」
「え? あ、まあそうかもしれないが、あいつらにも仕事があるから、手が外せないんじゃないか?」
「デュークとかキングというのは、十年に一度も現れない大物なんでしょう? 国が討伐隊を組んだり、上位ランカーが出向いたり。ギルドにとっても大事では? その確認をする仕事が他の通常業務に劣りますか?」
「……いや、危ないしなあ。戦場に素人は行っちゃダメだろ」
言葉は幼稚だが、ダンが言っていることは間違っていない。
だが冴南は納得していないようだ。
「戦場って言ったな? デュークやキングが現れたら戦争になるんだな」
碕沢は確認する。
「当たり前だろう。キングが出たら、魔人の総数は下手したら一〇〇〇〇体近くになるぜ。キングがいるから増えるのか、数が増えたからキングが現れるのかは分からねーがな」
またもやダンがバカにするように言ったが、碕沢は相手にしない。
別の質問をした。
「ヴァイカウントあたりはこの辺でも普通に現れるのか?」
「でねーよ。この島はゴブリンが多いが、やつらの巣はもっと南へ行ったほうだ。ここらに現れるとしたら、はぐれの普通のゴブリンだな。まあ、勢力争いに敗れたやつらが流れてくる可能性もないわけじゃないが」
高校生三人の視線が交差した。
「ちゃんと学べよ。この程度のことは常識だ」
ダンは碕沢たちの様子にまったく気づいていない。
「ダテに冒険者をやっているわけじゃないんだな」碕沢は軽く頷いた。「俺たちがゴブリン・ヴァイカウントと戦ったと言ったら?」
「よく逃げられたなってくらいか」ダンが笑う。「でも、あれだ。おまえたちは知らないだろうが、下から三番目の進化形態だからって侮っちゃならない。初心者に無理だ。普通のゴブリンじゃないやつがいたら、絶対に逃げろ」
まったく信じていない。それほどゴブリン・ヴァイカウントとの遭遇率は低いのだろう。
「今、ゴブリン・ヴァイカウントはこの辺じゃ出ないって言ったじゃないか」
「普通は、だ。どんなことにも例外はある。俺たち冒険者はその例外を意識してなけりゃ生き残れない」
碕沢はゴブリン・ヴァイカウントについてこれ以上触れなかった。
碕沢たちがゴブリン・ヴァイカウントに遭ったことは普通ではないのだろうが、ダンの口調から察するに異常というほどでもないようだ。
だが、何かが起こっている可能性もある。それこそ、ゴブリンの上位種が生まれたなどの可能性が……。
だが、一介の冒険者にこれ以上言ってもどうにもならないだろう。
当事者である碕沢たちが完全な余所者であることも問題だ。碕沢たちの言葉は、この町の人間にとって軽いものとしてしか響かないに違いない。
「――命の塔というのは何ですか?」
「本当にカミハラちゃんは、常しき――何と言うか、知らないんだな」
「すみません、教えてもらえますか」
「よほど田舎でもないかぎり、生まれたらまず『命の塔』に連れていかれるはずなんだけどなあ。ああ、そう言えば、冒険者になるには『命の塔』に行って穢れを落としてもらわないといけないから、もしも『命の塔』に行ったことがないのなら、行っておいたほうがいい。あそこは金もとらないから、損はしない」
「ありがとうございます」
「いやいや、まだ時間はたっぷりあるんだから、何でも聞いてくれていいよ。俺も質問があるし。ほら、カミハラちゃんたちは見かけない顔だけど、いったいどこの出身だ? 大陸西方のどのあたり――」
「いえ、どうも時間切れみたいです」
「え?」
店に新たな客が入ってきていた。
それは碕沢の見たことのない格好をした、知った顔をした男だった。彼の後ろには、見たことのある顔が二人、まったく知らない顔が三人いる。
男は碕沢たちのテーブルで止まった。
「よくその姿でずっといられたな」
その男は玖珂に声をかけた。
彼の意見は認めざるを得ない。
碕沢たちはずっとジャージ姿であった。もちろん、この突飛な格好は注目の的になっている。
「着替える時間がなかったんでね」
玖珂が答える。
「ないのは、時間だけじゃないだろう」
男がテーブルの上に複雑な絵柄の入った銅貨を置いた。
「これは助けに来てくれたと思っていいのか?」
「ああ、玖珂を迎えに来たんだ」
男は青城南高校の生徒だった。
碕沢は男の名前を知っていた。
北條晃という。
高校では同じクラスになったことはないが、中学生三年生時に同級生だった男である。
「久しぶり」
碕沢から声をかけた。
「あ、ああ、久しぶりだな」
シリアスだった北條の顔が、困惑に少しばかり崩れた。まるで、碕沢が場の空気を読めない男であるかのようだった。
声をかけなかったほうがよかったのだろうか。
こうして碕沢たちは学友たちと再び見えることができたのである。




