二章 ギルトハート大隊の戦い(10)
ギルトハート大隊――第三軍団の敗走兵も含む――は、戦いの準備を整え、つかの間の休息に入っていた。
むろん、警戒は最大限にはらっている。
オーガへの注意は間断なく行われていた。
オーガの部隊再編成は時間がかかっているようで、まだ攻撃を仕掛けるには時間を必要とするようだった。
戦闘中である。
互いの陣営が意識するのは、互いの陣営のことであるはずだ。
どんな動きも見逃すまいと敵陣の動きに集中するはずである。
だが、幕間の休憩であるかのようにぽっかりと生じた戦いのないこの時間――。
多くの者たちが敵陣営ではなく、ある二人の戦いに視線を送っていた。
人間と魔人の戦い。
それだけ見れば、相争う陣営のまっとうな戦いである。
だが、その人間と魔人は同じ陣営に属していた。
碕沢秋長とサクラ。
二人の戦いはヒートアップしていた。
虚実入りまじる高速戦闘を行いながら、サクラの顔には笑みがある。
それは人というより獣の笑みだ。
人間として暮らすことで忘れかけていたモノを彼女は思い出していた。
自分が魔人であるということを……。
種を繋げるために強い男を求めていることを……。
碕沢の綺紐が彼女の皮膚を引き裂いた。
全力先頭に突入し、サクラが双剣によって碕沢の攻撃を防ぐことができたのは、最初だけであった。
すべてを避けることがかなわないと判断した瞬間、彼女は防御すべき、あるいは避けるべき攻撃を選ぶようになった。
必然として他の攻撃はその身に受けることになる。
朱色の絵の具を上空からばらまかれたかのようにサクラの肌はまばらに染まっていた。
だが、いずれも軽傷に抑えている。
碕沢秋長に期待をしていたが、一方で信じがたいことに、サクラは劣勢にまわっていた。
碕沢は強かった。
彼女が知っていた碕沢ではない。
彼の攻撃には熱さがない。
魔人の欲望に満ちた攻撃ではない。
生命を喰らい千切る獣の強さではない。
冷え冷えと凍りついた攻撃であった。
勝利を目指すという意識すら感じさせない。
相手の戦力を冷静に削っていく。
最大限の技量を用いた狂いのない完璧な作業。
欲がないからこそ隙が生まれない。
魔人の女は劣勢だった。
だが、サクラには奇妙な恍惚感があった。
彼女には碕沢がまったく理解できない。
まったく共感ができない。
だが、強い。
わけの分からぬ強さ。
己にない強さ。
これこそ魔人の女が求めるものなのだ。
サクラは一時も足をとめることなく、身体を動かしつづける。
戦い続ける。
碕沢の攻撃の的にならないよう休まず移動しつづけていた。
相手に読まれないようランダムな動きになっているのは、無意識の産物だった。
すべてが高速で行われている。
それでも、一部の攻撃は彼女に届いていた。
碕沢の攻撃は鋭さを増している。
だが、どれも致命傷にはほど遠い。
紙一重でサクラが躱せているのは、碕沢の攻撃に問題があるのではなかった。
碕沢の攻撃を躱しながら、サクラはある予感に全身を包まれている。
自分は殻を破ろうとしている。
求めるモノの強さにあわせて、強く進化しようとしている。
――ここだ!
彼女の足が一歩踏みこむ。
それは今までの速さを超えた踏みこみ。
いっきに彼女の身体が加速する――その前に、サクラの身体がわずかに宙に浮いた。
前方に跳び込むような形。
だが、不自然な身体の動きである。
胸部がもっとも前に出ていて、頭部と四肢がその後に続く。
サクラは遅れて背中に熱と痛みを感じた。
碕沢と視線が重なる。
彼の手から四つの綺紐がすべて伸びていた。
サクラは片足をつき着地した。
こけないよう次の足をもう一歩踏みだす。
腹部から綺紐が突き抜けた。
三歩目を踏みだした瞬間、口から血を吐きだした。
だが、サクラはとまらない。
四歩目の足は、攻撃のために踏みだした足だった。
彼女は碕沢に向けて直進する。
距離をつめて、双剣による攻撃を浴びせるのだ。
だが、距離は縮まらない。
碕沢が後退したからだ。
もう一歩を踏みだし、もう一度爆発的な加速をサクラは生みだそうとする。
その瞬間に正面から四本の綺紐が一直線に彼女に襲いかかってきた。
タイミングをはかられた。
そのタイミングはサクラにとって最悪だった。
強引に綺紐をさける。
だが、すべてを躱すことは不可能だった。
綺紐がサクラの左半身に直撃する。
貫通した綺紐の勢いを受けて、彼女の身体が回転した。
サクラの視界はぐちゃぐちゃとなった。
何も対処できない。
勢いのままに地面に転がり、そしてサクラの身体は停止した。
冴南の心を空白が埋める。
近づけば近づくほど二人が本気で戦っていることが分かった。
それは殺しあいと呼べるものだった。
嫌でも認めざるをえない。
そして、冴南は間に合わなかった。
矢による干渉もできなかった。
二人のスピードについていける矢を放つことは、同時に威力も強いものになってしまうからだ。
二人をとめるどころか、重傷を負わせてしまうかもしれない。
だから、冴南は走るしかなかったのだ。
そして、絶望的な距離を埋めることはかわなかった。
冴南は足をとめた。
彼女の眼前には見たくもない光景がひろがっている。
だが、最悪の事態だけは避けられようだ。
うつ伏せに倒れたまま、サクラの身体がかすかに上下していた。
気絶しているだけのようだ。
だが、ひどい傷だ。
多くの血が流れている。
放っておけば、命に危険が迫るだろう。
早く手当をするべきだ。
「何のまねですか?」
碕沢の声が静かに響く。
「おいたが過ぎるな、若者」
老人の口元には笑みがある。
碕沢の強さを目撃しながら、しかも、その冷徹な視線を間近に浴びながら、老人は泰然としている。
バラッグである。
この老人のおかげで、サクラは命を落とさずにすんだのだ。
つまり、碕沢はサクラの命を――。
「もっとも現状に適した行動を選んだまでです。心配しなくても、サクラの命をとったりはしません」
「適した行動か――すべてにおいて中途半端だな」
「………」
「後で俺のところに来い。もっとも先を教えてやる。つまらんことをせんでいいようにな」
最後に笑うと、バラッグは自らの長大な剣を肩にのせながら、陣地へと戻っていった。
冴南は老人の背中を見ていた。
老人が何を言わんとしているのか、彼女にはさっぱり分からなかった。
だが、老人が最悪を回避させたことは分かっていた。
冴南はバラッグに感謝した。
「追撃は不可能だ」
碕沢の言葉に冴南は彼を見つめる。
追撃?
今、心配すべきはそんなことではないだろう。
「心配することはない」
「………」
「彼女を始末し損ねたわけじゃない。あえて致命傷を与えなかった。状況の変化にそって対応を変えただけだ」
――ずれている。
碕沢の感覚がひどくずれていることを冴南はさとらざるをえなかった。
彼は彼女が何を、というより誰を心配しているのかすら分かっていない。
そこには他者への共感がない。
「サクラはやつらが来た時に、まだ戦力として使える。むろん、この後も俺を敵として挑んでくるのなら始末を――」
碕沢が一瞬かたまった。
冷気をまったようだった碕沢の雰囲気が崩れ、無表情の中から表情が生まれる。
碕沢が歯を食いしばった。
「まず、退こう」
その声に確かな感情の色を聞いて、冴南は頷いた。
碕沢は躊躇せずにサクラを背中に抱き、ギルトハート大隊の陣地に向かって走りだす。
冴南は、これまでに感じたことのない危うさを碕沢に覚えながら、彼に続いた。
一言も口を開くことのなかったもう一人のことなど彼女はまったく忘れていた。
その少年の顔には、感心したような、さらに楽しげな笑みが薄く浮かんでいた。
それは場違いな笑みだったが、誰も気がつくことはなかった。
アトレウスが速度をあげて、碕沢に並んだ。
「碕沢さんはオーガの指揮官に勝てるんですか?」
碕沢がちらりと隣の少年に目をやる。
「追撃していたら、もしかしたらオーガ・マーキスあたりがでばっていたかもしれないですよね」
「――俺と……サクラと神原でやればなんとかなるだろ」
碕沢の答えを聴いて、アトレウスがやや不満そうに頷いた。




