二章 碕沢とサクラ
碕沢は足をとめ、目をわずかに細めた。
「何のまねだ?」
人影が彼の進路をふさいでいる。
撤退するオーガへの追撃を碕沢は停止させられていた。
「あなたが私の好きなようにやればいいと言った」
ひどく煽情的なボディーライン――サクラが碕沢の行く手をさえぎっている。
ご馳走を前にした子供のように彼女は楽しげに笑っていた。
周囲から人影は消えている。
オーガもこの二人のことをよほどおそれたのだろう。
二人の周囲だけオーガの波は早く遠ざかっていた。
「オーガを守ることが好きなことか?」
碕沢の声は平坦だ。
「あんなやつらどうでもいい」
「おまえのやっていることはやつらを守ることだ」
「そんなことは知らない」
碕沢はサクラを無理に振りきってオーガを追うことをしなかった。
それは目の前の存在に隙を見せることになる。
サクラの戦意が自分に向けられていことを碕沢は知覚している。
隙を見せれば躊躇いなく攻撃してくる。
獰猛な気配をサクラはまとっていた。
二人の間には戦いの緊張が醸成されつつあった。
「何がしたい?」
サクラは笑みを浮かべるだけで、言葉では答えなかった。
言うまでもない――彼女の微笑が答える。
「俺の邪魔をするのか?」
「あなたはあなたのしたいようにすればいい。私は私のやりたいようにやる」
相変わらず碕沢の瞳はガラス細工のように感情がなかった。
戦いへの集中も変わらないままである。
それはサクラという存在に対しても感情が動くことがないということを意味した。
仲間――あるいは味方という言葉が彼にとって意味のないものになっているのだ。
「敵――というわけか?」
碕沢の問いに確認以上の意味は込められていない。
やはり、そこに困惑や動揺はなかった。
「私は、今――あなたを試したい」
サクラにも躊躇いはない。
むしろ、不純物のない純粋な思いだけが結晶しているかのようだった。
碕沢はサクラをじっと観察する。
もっとも簡単に始末をつける方法は何だろうか?
口頭による説得を成功させるには少なくない時間を必要とするだろう。
戦場において時間は貴重だ。
たとえ追撃はすでにできなくとも休憩するにも時間は必要である。
そのための時間を得るには、サクラに関わる時間は減らすべきだった。
説得にかける時間が惜しい。
かといって、戦って負傷するのは馬鹿げている。
戦いに時間をかけるのは馬鹿げている。
サクラの戦力はどれほどのものか。
自分との力の差は?
どちらに軍配があがる?
時間は?
疑問と解答が脳裏に並列された。
碕沢の頭脳は冷静に計算する。
「そうか――じゃあ、手っ取り早く排除するとしよう」
碕沢は今の自分がサクラに敗れることはないと確信した。
無傷で短時間の内に決着をつけることができる。
後は実行するだけだった。
碕沢の戦意を認識したのだろう。
対峙しているサクラがうれしそうににたりと笑った。
碕沢とサクラは、両者ともに俊敏な動きを特徴としている。
アクロバティックな動きを自然に体現するところも似通っていた。
この二人が激突すれば、虚実の入りまじった速さの勝負となる――そう考えるのが普通だ。
だが、実際はそうなっていない。
碕沢は静かにじっと立っていた。
サクラは目に留まらぬ動きで彼の周囲を駆け、隙をうかがっている。
碕沢の周囲では二本の綺紐が主人に従う蛇のように蠢いていた。
後の二本は掌中にあるのか確認できない。
サクラの両手にはそれぞれ剣が握られている。
幾度か仕掛けながら、有効な攻撃をできずに彼女は退いていた。
サクラの剣は、長剣よりは短く、短剣というには長いものだ。
速さと威力を具現するための獲物だった。
甲高い音が響く。
サクラの接近に対して綺紐が襲いかかり、彼女がそれを弾いたのだ。
音は連続しない。
サクラがそれ以上足を踏みこまなかったからだ。
魔人の女の口元がかすかにあがる。
サクラは理解した。
彼女は碕沢の間合いを気配だけでなく、物理的にも完全に把握したのだ。
サクラの目が光る。
動きが一気に加速した。
爆発的な速度でサクラは碕沢に迫った。
先程とは比べようもないほどの速さだった。
戦場にあって彼女の動きを認識できる者はほとんどいない。
さすがにギルトハートも言葉が出なかった。
彼はさまざまな状況を想定し、事前に可能な限りの対処法を考えてはいた。
もちろんどんなに可能性を追い、思考したところで、現実の戦いでは不測の事態は起こる。
ギルトハートはそのことを理解していた。
理解してはいた――。
だが、まさか味方同士が、それも碕沢とサクラ――人間と共にあることを選んだ女性デュークが男に理由もなく牙を剥くなど考えていなかった。
魔人の女は男に尽くすのではなかったのか?
男の言うことを従順に聞くからこそ、人間社会で共に生活することを許されているはずだ。
なのに、なぜ?
――魔人は強さこそが絶対の基準。
男が弱くなれば見捨てるということか。
だが、今回はそれにあてはまらないのではないか。
なぜなら、碕沢は弱くなってなどいない。
むしろ、強くなっているのではないか。
いまだ底を見せぬほどに……。
魔人の女が男に尽くすという説自体が誤りであるのか?
サクラが特異なのか?
ギルトハートは疑問が尽きなかったが、対峙している男はまったく疑問を持たなかったようだ。
碕沢は自然であるかのように攻撃を受けて立った。
もとからそういった兆候があったということか。
だとするなら、ギルトハートが二人の対立を見逃していたということになる。
今さら考えても仕方のないことがギルトハートの脳裏をおかしていた。
彼は無理やり思考を振り払って、現実に目を向ける。
生じた事実には対処するしかないのだ。
本気で戦わせるわけにはいかない。
かといって戦いをとめるのは簡単ではなかった。
兵士を向かわせたところで被害が増すだけで無意味である。
あの戦いに一般兵が干渉できるはずがない。
別のやり方をさぐるべきだろう。
戦いをとめるには実力をもってなすか、原因を取り除くしかない。
原因は何だろうか。
ギルトハートには分からない。
ならば分かる人間に任せるべきだ。
ギルトハートは二人の女性を思い浮かべる。
エルドティーナを失うわけには絶対にいかない。
自動的に命令すべき相手はもう一人ということになった。
何とも危うい対処だ。
下手をすれば有能な人間を三人失う――命を落とさなくとも、今回の戦いに参加できないほどの重傷を負うかもしれない。
だが、ギルトハートは見切りをつけた。
ギルトハートは、二人の人間に伝令を送った。
一方は、実力をもってとめることができる人物に。
もう一方は、原因を取り除くことができる人物である。
考えることは他にもあった。
碕沢とサクラの争いが戦場にどういった影響を及ぼすのかということだ。
敵指揮官であるオーガ・マーキスがどう判断するのか。
人間側の強力な戦力が相争っているのだ。
しかも戦いの内容は一方的ではない。
双方が無傷で終わるとは考えにくかった。
下手に介入して、仲違いを終息させるようなことになれば、それこそ馬鹿らしい。
だとすれば介入することなく、決着がつくのを待てばよい。
どういう結果にせよ、人間側の戦力は落ちることになるのだから。
――というふうに、オーガ・マーキスが現状を見ているのなら、わざわざ危険をおかしてまで自分が出てくるということはないのではないか。
なら、やることは決まっている。
ギルトハートと同じことをすると予測できた。
すなわち、戦力の再編成に時間をあてるのである。
「神原さんしか事態を解決できないのではないですか!」
切羽詰まった声と泣きそうな形相で少年が冴南に訴えかける。
アトレウスだった。
この少年が問題にしているのは、もちろん碕沢とサクラのことだった。
冴南たちがいる場所からは、碕沢たちは見えにくい。
距離が離れているのだ。
だが、どうやら二人が戦っているらしいことは認識できた。
「事態というのは大げさよ」
冴南は碕沢と、そしてサクラを信頼していた。
本気で命のやりとりをするなどということはありえないと彼女は思っている。
普段の二人を知っているからこそ、冴南はそう考えた。
いや、信じたのだ。
「あれを見てそんなことを言うんですか! 見てくださいよ! 見えませんよ」
冗談を言っているわけではない。
目で追えないほどの速さであり、それは本気で戦っている証拠だということを彼は主張しているのだ。
アトレウスは必死だ。
冴南はこれほど少年がうろたえるのを見たことがなかった。
「確かに――凄い速さだけど、どっちもケガはしていないでしょう」
「だから何なんです! それはまだケガをしていないだけで、気づいた時にはケガどころか致命傷になっていますよ。いいんですか、神原さんは碕沢さんの仲間なんでしょう!」
子供が駄々をこねているかのようだ。
冴南はなぜか違和感を覚えた。
彼女は何に対して自分が違和感を持ったのか分からないまま話を続ける。
「行きましょう。戦いがない今ならここを離れても問題はないでしょう」
アトレウスは冴南の腕を引っぱって連れていかんばかりである。
まるで子供である。
いや、アトレウスは見た目は少年でしかないので不思議なことはないのだが……。
――いや、違う。
これまでの訓練や実戦の中で、アトレウスが子供っぽい様子を見せた記憶が冴南にはない。
兵士になろうという者、いや兵士であるのだから、子供であってはいけない。
事実、アトレウスの思考や素振りというのはこれまでまったく子供らしいものではなかった。
なのに、今のアトレウスは子供である。
情に訴えかけている。
本音だからなのか。
それとも――冴南に対してはその手段が有効だから?
あまりに自然なその子供らしい態度が冴南の感覚に何かを訴えかけてくる――。
「隊長代理、大隊長からの命令が来ていますよ」
冴南が視線を向けると、顔見知りの兵士の隣に見慣れない兵士がいた。
大隊長からの伝令を持ってきたのだろう。
命令は簡潔だった。
――碕沢秋長とサクラの私闘を即刻停止させ、出頭させること。必要であれば、実力をもって実行することも許可する。
冴南は困惑した。




