二章 ギルトハート大隊の戦い(8)
怒りや自省、哀しみや悔恨などの混沌とした感情が底に渦巻いている。
だが、表層は波紋一つ生じないほどの静けさが満たしていた。
異様な精神状況の中、碕沢は戦闘態勢に移行している。
碕沢の集中力は増していた。
彼の目はまるでガラス球のようだった。
あるがままの光景を映すのみで、その他の余分なものが混じることはない。
感情が消失しているようだった。
碕沢は戦場の全体を把握して戦っていた。
以前とは異なり、視野が拡大している。
だが、以前とさして変わらないところもあった。
彼は周囲にいる者たちを「敵か味方か」で把握している。
いっけん普通のことのように思える。
「敵」はいい。
斃すべき者たちということだ。
だが、この時の碕沢の「味方」に対する認識は、攻撃を加えてはならない者たち、というひどく消極的な意識であった。
助けるとか援護をするという思いはなく、もちろん協力するなどという積極的意識は皆無であったのだ。
碕沢の認識能力はあがっている。
その硬質の瞳が一度敵を捉えれば、彼には敵の動く姿がひどくゆるやかに見えた。
碕沢の思考速度はあがっている。
敵のわずかな動きから、幾通りもの未来が見え、またその対処方法をシミュレーションできた。
碕沢の反応速度はあがっている。
彼はそのシミュレーションのいずれであっても即座に実現させることができた。
碕沢の空間把握能力はあがっている。
彼は全方向の敵の動きが読めた。
これまでとは格段に違う動き。
霊力による力の向上ではない。
――碕沢の才が殻を喰い破り、白日の下に出現しようとしていた。
碕沢は戦場で圧倒的な存在感を示している。
だが、殻を破ろうとしているのであって、あくまでも破ったというわけではなかった……。
神原冴南は兵士たちの前でいつだって凛々しくあった。
彼女の指揮下に入った兵士たちはその姿に見惚れ、士気を高めた。
冴南の指揮は的確で、彼女の弓は戦場の一部分を完全にコントロールしていた。
彼女の指揮下に入った兵士たちは、その能力を信頼し、果敢に戦った。
戦場に不似合いな美しい女の声は、戦場で朗々と響く。
それは彼女の指揮下にある者だけではなく、他の兵士にも影響を与えた。
兵士たちは戦意をみなぎらせ、戦いを挑む。
そこに多数の敵に囲まれた絶望は存在しない。
まるで敬虔な騎士が正義の戦いを実行しているような姿である。
神原冴南の視線が下がらないかぎり、下を向く者は誰もいないであろう。
唯一人間側で戦を楽しんでいる者がいる。
魔人サクラだ。
彼女の軽やかな舞踏は、戦場で煌めき、多くの血の雨で自らを飾った。
赤色で彩られた怪しくも美しい姿は、敵に恐怖を与え、そして味方にも同種の感情を与えた。
サクラは笑っていた。
彼女は視界にある男を常に捉えている。
――碕沢秋長。
彼女が現在関心を持っている唯一の人間である。
――期待と失望。
いずれがもたらされるのか、彼女はわくわくしていた。
戦場にあって魔人は、本性を剥きだしにしつつある。
エルドティーナはギルトハートの傍を離れていた。
より攻撃しやすい位置へと移動したのだ。
むろん、許可は下りている――大隊長は一瞬躊躇したが、理解してくれた。おそらく行動の制限を過剰に行うことはエルフの矜持が許さないという婉曲な表現が実を結んだのだろう。
彼女の仲間が攻撃の中心となっている場所には、援護攻撃は必要ない。
攻撃すべき地域が限定されているのなら、ギルトハートのいる場所は適切とは言えなかったのだ。
エルドティーナの攻撃は圧倒的だった。
エルフの奇蹟術が放たれれば、多くのオーガが動きを停止させた。
一撃が絶大な威力である。
兵士たちは彼女が自軍の陣営にいることを感謝した。
また、この華奢なエルフがすでに何発もの奇蹟術を放ちながらまったく疲れる様をみせないことにも感嘆していた。
エルドティーナの切れ長の瞳はいつになく厳しい輝きを灯している。
周囲の兵士たちはエルフがオーガとの戦いに真剣に取り組んでいると考え、自分たちも負けられぬという意識を強くしていた。
何があろうとも、一輪の花のように触れれば折れていまいそうなエルフだけは自分たちが守らなければ、という思いまで抱いていた。
エルドティーナの切れ長の瞳は、戦場に投じられている。
だが、その視線の多くは、わずかな月日を共に過ごした男に向けられていた。
エルフの切れ長の瞳が細められる。
ギルトハートに進言した副官が得意満面の笑みを浮かべていた。
いや、満面の笑みではない。
戦場である。
笑顔を見せてよいはずがなかった。
だが、無駄だった。抑えようとしているが、得意の笑みがこぼれ落ちていた。
ギルトハートもその気持ちは分からないではない。
不利な状況であり、援軍が来るまで悪化することがあれ、好転することはないはずであった。
それがどうだろうか。
たった四人――表向き――の力で戦場が変貌してしまった。
まったく集団という単位で戦場を見ようとするギルトハートの試みに相反する者たちである。
自分の考えとは違うからと言って、事実をねじまげて解釈するようなことをギルトハートはしない。
何よりせっかく楽して防衛する手段を得たのだ。
彼だとて碕沢たちの能力の高さを喜んでいた。
だが、手放しで喜んでいるわけではない。
碕沢以外の三人はいい。
彼らの実力は予想を超えていたが、想像の範疇にあった。
だが、碕沢秋長が見せはじめた能力は予想外である。
ギルトハートが実際に目にした事実と、集めたいかなる情報からも、今の碕沢はあてはまらない。
実戦によって技術が大幅に磨かれるということがないわけではなかった。
だが、碕沢の動きはとても技術の上昇で説明できるものではない。
強すぎる。
元から彼の中にあった才能が開眼したということだろうか。
だが、彼の戦い方を見ていると、それは才能というより、化け物が目覚めたように思えた。
「過ぎたる力ではないか?」
「は、何か言いましたか?」
「いや、オーガにまともな指揮官がいたなら、そろそろ力攻めを一度中止するだろう。その時に休息と補給、さらにオーガの死体の始末を行えるよう準備をしておくように」
「退きますか?」
「そうなるだろう。おそらく、これから碕沢君はオーガの上位種がぶつけられることになる。だが、今の碕沢君ならオーガ・アールと対峙したところでほとんと不安を覚えることなく勝ってしまうんじゃないか」
「オーガ・アール? 碕沢は隊長になったばかりです。ヴァイカウントを相手にするのがせいぜいでしょう」
「普通はそうだ。君はあれが普通の人間に見えるか?」
ギルトハートの視線を追って、副官も戦場に視線を投じる。
ほとんどの人間が碕沢の姿を目で追うことができないだろう。
だが、碕沢がいることは誰にでも分かる。
次々とオーガが倒れていっているからだ。
副官が呻き声をあげる。
先程まで喜んでいた碕沢の存在に対して、味方であるのに恐怖を覚えたようだった。
「オーガ・アールが出てくるか否かで、この戦場の指揮官の位が決定的になるな」
ギルトハートはほとんど確信していた。
間違いなくオーガ・マーキスがいる。
そして、オーガ・マーキスに勝てるものはギルトハート大隊にはいないということも……。
大きな変貌を遂げつつある碕沢でもおそらく及ばない。
バラッグであれば――いや、全盛期のバラッグであれば……。
ギルトハートはオーガの強さが異様であることを認識していた。
だからこそ、オーガの上位種の強さへの評価も修正した。
そうすると、勝てないという解が生まれる。
ギルトハート自身も戦いが得意な方ではない。
碕沢とギルトハート、さらにバラッグがうまく協力できれば、勝利を拾えるかもしれない。
だが、碕沢の戦いぶりを見たギルトハートはとても共闘ができるとは思えなかった。
あれは協力を必要としていない。
拒絶している。
「あまり刺激しないように戦うべきではあるんだが――」
ギルトハートは誰の耳にも届かない声で呟く。
当たり前だが、彼には展望があった。
第四軍団が来るまでの時間稼ぎが目的なのである。
総力戦を行い、早期に決着をつけたいわけではない。
だが、碕沢たちを温存して戦いぬけるほど、状況はあまくなかった。
また、最前線で戦っている碕沢たちに手加減しろなどということもできずはずがない。
ギルトハート大隊には未だ希望があった。
まだまだ戦い続けることは可能だという仄かな希望が……。




