二章 ギルトハート大隊の戦い(5)
二日の強行軍で小高い丘にギルトハート大隊はたどりついた。
三日目の朝から丘の周囲に濠を掘る作業へと入った。
総出の作業となった。
さすがに掘るための道具など用意していなかったので、作業の進み具合は決して速いとは言えない。
それでも一般人に比べればはるかに強靭な肉体を有する兵士による濠作りは、一定の速度で進んでいった。
脱落者たちは四日目の朝になって小高い丘に到着した。
ギルトハートが第三軍団の隊長の一人にできるかぎり脱落者たちを拾ってくるよう命じたのである。
四日目の夕方、ギルトハートは精鋭部隊の残滓を陣地に迎えることになった。
ギルトハートの前で、隊長である碕沢が報告を行っている。
感情をまじえない淡々とした口調だ。
戦果は、オーガ二部隊の撃退という華々しいものだった。
一部隊に関しては、全滅させたとの報告である。
にわかには信じがたい戦果である。
だが、連戦を行っているという事実から、一戦目をかなり有利に戦い勝利したというのは間違いないようだった。
ただし、損害も大きかった。
すでに碕沢隊は一部隊の形をなしていない。
精鋭部隊は消失した。
残念ながら碕沢隊は他の部隊へ再編成されることになるだろう。
碕沢からの報告でもっとも耳を傾ける価値があったのは、オーガたちの動向である。
むろん、オーガ全体の動向が分かったわけではない。
だが、近くにオーガの部隊はおらず、少なくともあと一日は時間があると確認できたのは大きかった。
「君たちの働きで貴重な時間を稼ぐことができた。たいして時間を与えることはできないが、まず休息をとってほしい」
「うちの隊はどうなりますか?」
「残念だが、三十にも満たない兵力で一部隊とするわけにはいかない。別の部隊に新たに編成することになるだろう」
「――別の部隊?」
「碕沢君と副官の三人は、隊から離れ、異なる配置になるだろう」
「彼らは俺の兵士ですが? 隊長の俺を外すと?」
「キルランスの兵士だ」
碕沢が目を細め、ギルトハートの顔を見つめる。
長い時間ではなかった。
碕沢は一礼すると、ギルトハートの前から去った。
ギルトハートは小さく息を吐く。
碕沢は対峙する者に緊張感を与えるような男ではなかった。
少なくとも戦いが始まる前までの彼は……。
だが、今目の間にいた若者は、ギルトハートに対して確かに圧迫感を与えた。
戦いで変化が生じたということだろうか。
ギルトハートは沈思する。
彼には迷いが生じていた。
これは事前予測との差異が生じたこと、そして何より現戦況の圧倒的な情報不足からくる。
この場で時間を稼ぐために戦うことは正しいのだろうか。
仮にオーガたちが一万を優に超す兵力を保持していた場合、六〇〇という兵力でそれに対抗しようというのは愚かなことではないか。
無為に兵を死なすだけではないのか。
早々に退却し、第四軍団と合流するべきではないのか。
敵の数と、第四軍団の動きがつかめていれば、この場に腰を据えて戦ってもよい。
うまくいけば、ギルトハート大隊と第四軍団によって挟み撃ちのような形をとることができるだろう。
だが、かぎられた偵察の数では、オーガ部隊の状況をつかむことは難しい。
ただし敵の情報は得られないが、味方ならば情報を得ることが可能だ。
少しでも知ることができそうなのは、第四軍団の動向である。
おそらく明日には、第四軍団から伝令が来るのではないか。
ギルトハートはそう考えている。
撤退の判断をくだすにはぎりぎりの時間であるかもしれない。
ギルトハート大隊の生存のみを考えるのなら、オーガがギルトハート大隊に気づかずに進軍していくことがもっとも望ましい。
だが、それはありえない。
さすがに六〇〇もの人の気配を魔人が見逃すことなどありえなかった。
「民を守る軍が考えてはいけないことだな」
ギルトハートは胸中で呟く。
森をぬければ丘陵地帯がひろがる。その先にはキルランス国民の町や村がある。
丘陵地帯には第四軍団のこもる砦があった。
たとえ砦でオーガを撃退できたとしても、少数がどこかへと逃げのびる可能性がある。
はぐれたオーガたちが村にたどりつかないとはかぎらないのだ。
それは小さな村にとっては深刻な問題となるだろう。
やはり森の中での撃破が求められた。
大隊長の思惑は別にして、ギルトハート大隊は陣地にこもり、防衛戦を行うための準備に余念がない。
濠の完成は近く、簡易的な木の柵も次々に立てられていく。
実は濠は外と内にそれぞれ一つずつ掘られている。
時間の関係上、内の濠は底が浅いものとなっていた。
二日で建設されたにしては、見事な成果である。
むろん、鉄壁の防御というわけにはいかないだろう。
さすがに時間と資材と道具がなさすぎた。
濠と柵が完成すると、後は、各自に武器、防具、特に矢と投擲用の石が配られた。
矢の数は心もとない。
ギルトハート大隊にもともと弓兵はいない。
だが、弓の得意な兵士たちはいる。
ギルトハートは彼らを中心に、弓兵部隊を五部隊ほど編成しなおして配置していた。
一部隊につき二十人である。
およそ五分の一にあたる兵力だった。
他はあるだけ集めた石の投擲を行うことになる。
残念ながら油類はなく、火による攻撃などはできない。
まずは近接戦闘を避けて攻撃し、敵を退ける。
これがギルトハート大隊の方針であった。
だが、それも敵軍の数によって、いっきに崩される懸念があった。
それに気づいている者が数人いたが、だからといって代替策はない。
不安をあおるだけの言葉を口にするほど、彼らの判断力が欠けていなかったことは、ギルトハート大隊の有能性を示すものだっただろうか。
五日目の正午を前に、ギルトハートの待望していた第四軍団からの伝令が訪れた。
本来ならばもう少し早く到着する予定だったようだが、森に入った後に、ギルトハート大隊のいる丘を見つけるのに戸惑ったらしい。
口頭による情報では、正確な場所が伝わらなかったようだ。
即座に伝えられた伝令の言葉は、ギルトハートを喜ばせるものだった。
第四軍団はすでに出陣の準備をしており、ギルトハートからの伝令が到着すると同時に砦を発ったとのことだった。
明後日の朝には合流が可能だとのことだ。
ギルトハートが予測していた最短日数より遅いが、その差は第四軍団団長が兵に疲労を残さず全力をださせるために必要だと判断した休息時間であろう。
ギルトハートも文句は言えない。
いや、それどころかここは有能な味方の存在に感謝の念を抱くところだ。
また、第四軍団団長は、ギルトハートにその場を死守し、援軍があるまで持ちこたえよ、という命令をだした。
ギルトハートはすでに第三軍団団長の指揮下にないと判断し、特例的に第四軍団に組み込むということだろう。
――ありがたい味方の存在ではあるが、これで退路は断たれたということでもある。
最初に伝令を出した時とは、いささか状況が異なってきている。
敵の脅威が大きくなっていた。
ギルトハートにも確信はないのだが、オーガの総兵力がこちらの予想を大きく超えているかもしれないのだ。
第四軍団団長はオーガの兵力は一万として計算しているだろう。
現実的には、第三軍団との戦いで半数以下に減っているとまで考えているはずだ。
敵戦力の見誤りは、実際の戦いの場で致命的な失態につながるかもしれない。
だが、ギルトハートのこれはあくまでも推測でしかない。
報告したところで予断を持たせるだけかもしれない。
それでも行動に移す前であるのなら、広い視野をもっていたほうが良い事は間違いない。
――まったくこの僕が……。
ギルトハートは内心で嘆く。
情報ではなく、確度の低い推測を情報として伝達することになるとは!
ギルトハートは伝令を第四軍団へとすぐに送ったのだった。
碕沢が大隊長ギルトハートから退出を命じられたあとのことだ。
初陣で部隊の潰滅を招く。
まったく無様なものだな。
碕沢の精神は沈滞していた。
戦場である。
いつもの精神状態でいられないだろう。
実際、碕沢の精神は荒んでいた。
それをもたらしたのは、多くの兵士の死である。
数日前まで共に訓練に励んでいた仲間であった。
だが、彼らは碕沢の指揮の下で命を散らしていった。
正式な埋葬すらしてもらえずに……。
この時の碕沢の精神はバランスを欠いていた。
いつもの彼からは信じられないほどに、冷静さと動揺の満ち引きが激しくなっている。
あらゆる外部からの刺激が碕沢に大きな変貌をうながしていた。
それは成長と言われるものかもしれない。
碕沢は現在のその過程にあるのだろう。
未完成であり、不完全なのだ。
だからこそ、不安定が露出し、自身の内部のさまざまな部分に軋みを生みだしていた。
悪いことに碕沢は自身の状態を自覚できずにいる。
「どうしたの?」
冴南だ。
彼女の姿勢はいつだって正しい。
立ち姿だけではない。
思考の方向だってそうだ。
「別にどうも」
碕沢は努めて笑顔を作ろうとした。
だが、うまくいかずに強張っていることが筋肉のひきつりから分かった。
「少し話をしない?」
夕闇に風が走り、冴南の黒い髪が揺れる。
こちらに来た頃は短かった髪が肩のあたりまで伸びていた。
大きな瞳が碕沢をまっすぐに捉えている。
碕沢は視線を外した。
「休憩するべきじゃないか?」
「そうね。でも、話すことが休息になることもあるでしょう?」
「そうかな? 俺はさっさと眠りたい気分だけど」
「眠そうには見えないけど?」
「――で、話は? 内緒の話をするには、ここは人が多すぎると思うけど」
兵士がひしめきあっているとは言わないが、陣地内にはいたるところに作業をしている兵士たちがいた。
他人の話を気に留める余裕はないだろうが、突っ立っている二人に不審の目を向けるか、もしくは、おまえらも働け、という視線をぶつけてくることはあるだろう。
「歩きながら話しましょ」
「歩くのは賛成だ。でも、話すことがあるか?」
碕沢は気づいていない。
自分がかたくなに会話を拒否しようとしていることに……。
他愛もない話をして流してしまえばいいものを、彼にはその程度の余裕すらなかったのだ。
碕沢を見ている冴南の瞳がかすかに揺れた。
「何を考えているの?」
「何も」
「そう。私はいろいろ考えている。考えてしまう。今考えても仕方がないと分かっていることでも考えてしまう」
「――不健康だな」
「でも、そんなものじゃない?」
冴南の声は感情が抑えられていた。
なのに、その声は優しい響きが確かにこもっている。
「――すべてを自分のせいだなんて思っていない。でも、しっぱ……」
碕沢は「失敗」という単語を口にすることができなかった。
それこそ死んでいった者たちにあわせる顔がない。
それでは彼らの死が意味のないものになってしまう。
だが、同時に失敗という言葉を使わなければ自分の責任から逃れることになるのではないか、との自責の念もわく。
碕沢は足をとめ、冴南も彼の傍で足をとめた。
「死は特別じゃない。当たり前のもの」
朱と闇の狭間でサクラが立っていた。
細身であるのに肉感的な身体をしている彼女だが、不思議と性的な魅力を今はまったく発していない。
どこか彫刻めいた硬質さがあった。
「なぜ、碕沢はそんなに動揺している?」
率直な物言いの中に、碕沢への不審がある。
彼女には碕沢の弱さが見えているのかもしれない。
彼が見せている脆さが許しがたいのかもしれない。
「動揺はしていない。ただ、俺はサクラほど死が身近にあったわけじゃないということだ」
「答えになっていない」
「人間は死に意味を見いだしたくなるものなのよ」
静寂に満ちた冴南の口調だった。
「無意味」
サクラが斬って捨てる。
「少し疲れた――それだけだ。二人からわざわざ声をかけられるような状態じゃない。俺は何も変わっちゃいない」
問われたわけでもないのに、碕沢は自分が変わっていないことを最後に主張した。
変わったことを拒絶しているのか、あるいは無意識のうちに変わりつつあることを自覚しているからこそなのか……。
「碕沢君、あなたもう少し本音を言ったほうが――」
「言ったろ。別に深刻な問題じゃないよ」
碕沢は軽口を叩くように言った。
軽口ではなく、拒絶の言葉であったことは、冴南がかすかに目を細め、じっと彼を見つめたことからもあきらかだった。
冴南がさらに言葉を求めていたことを碕沢は察したが、気づかないふりをする。
うっとうしいとは言わない。
だが、碕沢は面倒に感じていた。
「皆も寝ておいたほうがいい。たぶん、数日間はきつい状況が続くだろうから、それこそ寝る暇もなくなるかもしれない」
結局、会話はこれで終わった。
碕沢が歩きだし、二人も続いた。
寝床につくまでたいした時間はなかったが、誰も口を開くことがなかった。
碕沢は自らの内の問題に何ら解決を見いだせないまま、戦いに身を投じることになる。
あるいは、彼女たちと今しばらく会話を続けていれば、彼の精神もいくらかの余裕を取り戻せたのかもしれない。
だが、碕沢も冴南も、サクラも全員が若く、経験が足りなかった。
相手への思いがあろうと、うまく気づかうことができなかったのだ。
経験を有した人格者が傍にいれば、また違ったコミュニケーションがとられたことだろう。
だが、この場にそのような存在はなく、そもそもそのような年長者の存在は広い社会においてすら稀であった。
三人は中途半端な精神状態のまま明日を迎えることになった。
この時、エルドティーナは三人のことを離れた場所から見ていた。
観察していたという表現がふさわしいかもしれない。
彼女の切れ長の瞳には、冷たい輝きがあった。
エルフの視線は碕沢を追っている。
その表情にはいかなる感情を映っていなかった。




