序章9 決着
碕沢の集中力は新たな領域へと突入していた。怪我をした左腕のことなどすでに意識にない。
ゴブリン・ヴァイカウントのみを彼の目は追っている。もちろん、周囲のゴブリンの相手もしているので、ゴブリンも見ているし、戦っているのだから、意識のいくらかはそちらに向いてはいる。
だが、碕沢のすべては、やはりゴブリン・ヴァイカウントに投じられているのだ。追えるはずのないスピードに、その目はいつの間にか喰らいつき、観察し、虎視眈々と隙をうかがっていた。
彼自身は気づいていないが、身体の動きのスピードも増している。内にある力が滑らかに流れつつあった。
だが、倒しているゴブリン自体は相変わらず少ない。
人の迷惑を顧みないという意味において、碕沢は、まったく周囲のことを遮断してしまっていた。
実際、彼が戦う力を温存したために、冴南の状況はどんどん悪化している。
玖珂が怪我を負おうがまったく気にしていなかった。ぴくりとも反応しない。ただただ冷静に、その時のゴブリン・ヴァイカウントの攻撃の仕方や癖、反応を追っていた。
絶対の一瞬を捉えるために、至高の一撃を与えるために、碕沢は観察し、力を温存する。
――そして、その一瞬を碕沢はついに捉えた。
碕沢が地面を蹴る。土煙が舞った。
その時、すべてのゴブリンが三人の人間の一人――碕沢のことをとどめを刺されるのを待つばかりの獲物としか認識していなかった。それはゴブリン・ヴァイカウントでさえそうであった。
だからこそ、戦場にいる誰もが碕沢の爆発的な突進力に虚をつかれた。まったくついていくことができなかった。
碕沢は一体もゴブリンを倒すことなく駆けぬける。
彼の目には、ゴブリン・ヴァイカウントまでの道筋がきれいに見えていた。
向上した身体能力は、碕沢の期待に応え、ゴブリンたちをすべて躱す。
まったく時間をロスすることなく、最短距離で碕沢はゴブリン・ヴァイカウントに迫った。しかも、ゴブリン・ヴァイカウントは碕沢に背中を見せていた。だが、上半身は鎧でしっかりとガードされている。
碕沢が綺紐を放つ。その距離四メートル。綺紐は、ゴブリン・ヴァイカウントの首筋に向けてまっすぐ伸びた。
だが、綺紐はゴブリン・ヴァイカウントの首を外す。ゴブリン・ヴァイカウントが反応して避けたというわけではない。始めから、何もない空間に向けて投じられていたのだ。
綺紐が変化した。急激にカーブを描き、ゴブリン・ヴァイカウントの首に巻きつく。
碕沢は綺紐を引っぱった。身体が宙に浮き、綺紐が縮む。碕沢はいっきにゴブリン・ヴァイカウントとの距離を縮めた。
ゴブリン・ヴァイカウントが即座に反応し、まるで見えているかのように裏拳で碕沢の頭部を砕きにきた。
ゴブリン・ヴァイカウントの動き、拳の軌道、速度――すべて碕沢が予測したとおりのものだった。
彼はゴブリン・ヴァイカウントが攻撃の動作に入る以前に、すでに回避行動に移っていた。
綺紐を緩めゴブリン・ヴァイカウントの首から外すことで、速度を落とし、さらに左手から綺紐を地面に飛ばしてつっかえ棒のようにして急激に停止する。
ゴブリン・ヴァイカウントの拳が空を切った。
碕沢とゴブリン・ヴァイカウントの視線が交差する。
ゴブリン・ヴァイカウントはまったく無防備だった。自らの拳が避けられるなどまったく考えていなかったらしい。
驚きの表情を浮かべたゴブリン・ヴァイカウントの顔を綺紐が貫いた。完璧な一撃だった。
ゴブリン・ヴァイカウントの左目から鮮血がほとばしる。大口をあけて怒号を飛ばし、ゴブリン・ヴァイカウントが左目に刺さる物体を抜こうした。が、すでにそこには何もなく、またもや、ゴブリン・ヴァイカウントの右手が空を切った。
碕沢は着地と同時に、左手にある綺紐でゴブリン・ヴァイカウントの右目を狙った。だが、簡単に弾かれる。
それでよかった。
本命は地中を這うようにして飛ばしたもう一方の綺紐だった。綺紐はゴブリン・ヴァイカウントの足首を削りながら巻きつくと、すぐに拘束を解いた。
ゴブリン・ヴァイカウントが無意味な足踏みをする。
ゴブリン・ヴァイカウントの足元が血に塗れ、足首からうっすらと煙があがっていた。綺紐によって生まれた強力な摩擦熱によるものだ。
ゴブリン・ヴァイカウントが咆え、碕沢を睨みつける。
だが、攻撃はまだ終わっていなかった。
ゴブリン・ヴァイカウントのもう一方の足から、大量の血が噴出し、ついにゴブリン・ヴァイカウントが大きく体勢を崩した。
斬撃である。
玖珂の攻撃だった。
片膝をついたゴブリン・ヴァイカウントを、碕沢と玖珂が前後から挟み込んでいる。
二人は間隙が生まれることを好まなかった。
すぐにゴブリン・ヴァイカウントへ攻撃を開始した。
機動力と視界を奪われたゴブリン・ヴァイカウントは大剣を抜き、その膂力をもちいて振りまわした。
碕沢は綺紐を飛ばして、牽制する。決して大剣とぶつかるようなことはしない。
すでに碕沢の役目は終わっていた。彼の役目は、ゴブリン・ヴァイカウントの戦力を削ることだった。彼の攻撃では、ゴブリン・ヴァイカウントに致命傷を与えることはできない。
とどめは天才に任せる。
玖珂が動きやすいように碕沢は牽制するだけだった。
玖珂の剣が何度かゴブリン・ヴァイカウントに届き、傷を負わせていく。
あわせてゴブリン・ヴァイカウントの意識が碕沢から離れ、玖珂へと戻った。ゴブリン・ヴァイカウントも気がついたのだろう。碕沢など相手ではないことを。
傷を負ったゴブリン・ヴァイカウントに対して、それでも玖珂は圧倒できていない。ようやく互角である。
玖珂であっても、ゴブリン・ヴァイカウントを簡単には倒せなかった。
長期戦を碕沢は覚悟した。
ゴブリン・ヴァイカウントは玖珂に任せ、碕沢は冴南と二人で体力が尽きるまでゴブリンを狩りつづけるのだ。それしかない。たとえ不利な消耗戦になるとしても……。
だが、碕沢の決断はあっさりとひるがえされた。
玖珂がゴブリン・ヴァイカウントの大剣を躱し、一歩踏み込む。初めて完全に懐へともぐりこんだ。
玖珂の腕が伸びる。
ゴブリン・ヴァイカウントが後ろへ倒れるように背を伸ばした。ゴブリン・ヴァイカウントは完璧に剣の長さを読みきっていた。
ゴブリン・ヴァイカウントの左目が玖珂の手もとに吸い寄せられる。そこにあるはずのものがない。光の粒子が収束しているだけだった。
次の瞬間――槍が生まれ、ゴブリン・ヴァイカウントの首を貫通した。
勢いに押され、ゴブリン・ヴァイカウントの身体が宙に浮く。
玖珂は槍を消し、もう一度剣を具現化すると、首や鎧のない関節部分を狙って、斬りまくった。
乱刃が宙を舞い、血花が咲き狂う。
ゴブリン・ヴァイカウントがついに倒れた。
急所の一つである咽喉を穿たれ、四肢をひどく傷つけられていた。ゴブリン・ヴァイカウントと言えども、長くはもたないだろう。
ゴブリン・ヴァイカウントが両腕を杖にして半身を起こす。力をいれた腕からはさらに血が噴きでた。
玖珂は容赦しない。ゴブリン・ヴァイカウントの首を断ち切るために、剣を振りぬいた。
剣の刃は、ゴブリン・ヴァイカウントの右腕を斬り捨てる。ゴブリン・ヴァイカウントが自らの腕を犠牲にして首を守ったのだ。
玖珂はもう一度同じ攻撃をして、次はゴブリン・ヴァイカウントの左腕を斬り捨てた。
ゴブリン・ヴァイカウントがごろりと転がり、うつ伏せになった。
玖珂に背中を見せる格好だ。
玖珂は、ゴブリン・ヴァイカウントが何をやろうとしているのかまったく分からなかった。
この状態で、何をなそうというのか。
まさか降伏というわけではないだろうが……。
配下のゴブリンが助けにくるのを待っているのだろうか。
玖珂の意識の比重がゴブリン・ヴァイカウントからゴブリンへと移された。
その一瞬にゴブリン・ヴァイカウントの影が消える。
ゴブリン・ヴァイカウントは首と顎、そして、自由に動かぬ足を使って跳躍した。凄まじい跳躍力である。
最後の力を振り絞り、ゴブリン・ヴァイカウントが狙ったのは碕沢の首だった。ゴブリン・ヴァイカウントは自らの敗北が、この弱い人間によってもたらされたことを理解していた。だからこそ、生かしてはおけなかった。
弱者に敗れたということが何にも増して許し難かった。ゴブリン・ヴァイカウントの矜持を傷つけたのだ。
両腕を失ったゴブリン・ヴァイカウントは空中から人間におおいかぶさる。
か弱い人間の男は驚愕の波に溺れているようだった。
突如生じた二本の細い棒のようなものが、ゴブリン・ヴァイカウントの首へとくいこむ。
このようなもので、ゴブリン・ヴァイカウントの動きが封じられるはずがなかった。ゴブリン・ヴァイカウントの皮肉は強靭なのだ。
ゴブリン・ヴァイカウントの牙が人間の男の首に届こうとした時、ふとゴブリン・ヴァイカウントから重さの感覚が消えた。
ゴブリン・ヴァイカウントの意識が途切れようとしてる。
ゴブリン・ヴァイカウントはその時世界とのつながりを完全に失っていた。すべての感覚が失われる中、だがゴブリン・ヴァイカウントはその強烈な意思によって顎に力をいれることだけを達成する。
ゴブリン・ヴァイカウントの影が碕沢をおおっていた。
獣そのものの姿で襲いかかってくる。距離は一メートルもない。
「俺かよ」
言葉にはならない。胸中のみで呟く。
焦りながらも碕沢は綺紐を二本飛ばした。
すでに穴を穿たれ、引き裂かれ、血を流しているゴブリン・ヴァイカウントの首へと綺紐が食い込む。
一瞬、嫌な予感がしたものの綺紐は主人の命を果たし、ゴブリン・ヴァイカウントの首を切断することに成功した。すべてはそれまで傷を負わせていた玖珂の攻撃があったおかげだ。
だが、終わりではなかった。ゴブリン・ヴァイカウントの首だけが、怨念を糧にして碕沢目がけて飛んできていた。
碕沢は後ろに跳ぼうとしてこけた。
がくんと碕沢の頭が一段低くなる。
ほとんど同時に、碕沢の頭上から硬い物があわさる音が響いた。
尻もちをついた碕沢の視界が明るくなる。視界がひらけ、空が見えた。
ゴブリン・ヴァイカウントの胴体は碕沢の足元に、そして頭部は碕沢の頭を越えたところで転がっていた。
時間が停止し、沈黙が戦場をおおった。
碕沢は立ちあがり、ゴブリン・ヴァイカウントの死体を見る。ぴくりとも動かない。ゴブリン・ヴァイカウントをついに倒したのだ。
今まででもっとも濃い青い靄が碕沢の身体と綺紐に吸収されていった。
碕沢は叫ぶ。
「制圧しろ。周囲の敵を消し去れ!」
命令口調の檄文は、大物を倒した後に生じた玖珂と冴南の意識の隙を完全に埋めた。二人は反射的に周囲のゴブリンへ攻撃を再開する。
碕沢は現状を本能的に察したのか、それとも戦いの才能があるのか、いずれにせよこの時の彼の判断は抜群であった。いくら敵将を倒したとはいえ、こちらが力尽きた姿を見せれば、敵に見極められ、いっせいに攻撃を仕掛けられていたことだろう。
だが、逆にここで強さを見せつければ、ゴブリン・バロンが退却の決断を下すはずだ。
下してもらわなければ碕沢たちは潰れる。
碕沢自身も倒れそうになりながら、だが、その素振りはいっさい外に出さずにゴブリンを倒していった。
戦う姿は鬼気迫るものであったが、スピードは大きく落ちていた。それは、他の二人も同じである。
だが、ゴブリンは三人の気迫に勢いを感じたらしい。まだまだ、この人間たちは戦えると錯覚してくれたようだ。
ゴブリン・バロンの指示が飛び。ゴブリンたちはいっせいに退却していった。相変わらず、最前線で戦っていたゴブリンたちは命令通りに動かず、そのまま三人に突撃してきたが、碕沢たちはそれらを完璧に撃退してのけた。




