プロローグ そこまで珍しくもない光景
春の終わりを知らせる風に遊ばれながら、碕沢秋長は山を登っていた。
もちろん、好き好んでのことではない。彼は現代日本人らしく持久力を必要とする肉体運動が嫌いだった。
では、なぜ、登山をしているのかと問われれば、それは彼が県立青城南高等学校二年生であるからとしか言いようがない。青城南高校では、五月の半ばに、二学年の生徒全員参加の登山というのが恒例行事となっていた。
学校の裏にある、といっても一キロメートル先の霊山――真偽は怪しいものだが――天倉山を登頂するのだ。
毎年のように、二年生へと進級した生徒たちの口から「登山断固拒否」の単語が漏れるのだが、創立六二年を迎える青城南高等学校で、この慣例行事が中止になったことは一度もない。
慣例主義に敗れた今年の二年生も全員が登山に参加していた。
登山はクラス単位ではなく、班単位で行動するようになっていた。碕沢のクラスは三三人いて、六人一組で一斑を構成している。計算すれば三人余る。
ちなみに碕沢の周囲には、二人の人間しかいない。
碕沢の班は、三人しかいない少数精鋭のチームだった。
ちなみに少数精鋭というのは負け惜しみではなく、本当のことだ。
一人は玖珂直哉。
眼鏡の下には鋭い切れ長の瞳があり、シャープな顔立ちをした男で、瞳はやや青みがかっており、陽射しが透けそうなほどに肌が白い。身長は一八〇を超えていて、日本人離れをした容姿をしていた。
優れているのは、外面ばかりではなく、頭脳と身体能力も抜群であった。
いわゆる天才である。
登山をする姿も悠然として余裕がある。
もう一人は、神原冴南。
細い眉は綺麗な線を描き、その下にあるわずかにつりあがった大きな瞳は勝気な性格をいかんなく周囲に放っている。まっすぐに通った鼻梁、薄くも厚くもない硬質な唇が今はかすかに開いていた。
長い艶やかな黒髪は、小さな輪郭をすっぽりと覆って、背中へ流れている。
身長は碕沢よりもやや低いが、おそくら座高は碕沢よりかなり低いことだろう。これは碕沢に問題があるのではなく、彼女の足の長さに起因していると思われる。
胸の辺りの膨らみは謎だ。突出して大きくもなく、小さくもない――かもしれない。
彼女も文武両道で、能力については文句の言いようがない。
ちなみに碕沢はたいしたことはなかった。
碕沢秋長は、身長一七一センチメートル、体重五九キログラムの平均的な体格をしている。黒髪黒目の特徴のない顔立ちで、人によっては好ましいと感じる容貌であるかもしれない。
外見はいたって平均だ。
能力のほうもたいしたことがないと言っていいだろう。
といっても、それは輝く太陽があれば周囲は霞むという意味でしかない。二人に比べれば、確かに碕沢の能力は劣る。だが、彼はほとんどの分野において七八点を叩きだす男で、得意なものはないが苦手なものもないという平均やや上を常に並行飛行する能力を持っていた。ある意味特殊な男であった。
さて、この男女の二人――玖珂と冴南――は、容姿と能力を考えると、班分けをすれば引き手あまたになりそうなものだが、あまりにも抜きん出ているがために、周囲から遠慮されてしまうのだ。
こういった理由で、二人は自然と取り残されることになる。
そして、碕沢という男は、誰に対しても特に気がねすることがないと周囲に思われているらしく、自然と調整役として、この突出チームに入るように皆からそれとなく勧められたのだ。
碕沢は班分けに特に関心がなかったので――それよりも山に登ることが憂鬱であった――反対することなく、あっさりこの三人組がチームとなったのである。碕沢と二人には能力的には差があったが、班分けに対する関心度の低さは同等であった。
感覚の共有を最初にしつつ、三人は登山へと向かった。
歩き始めて一時間強――碕沢は後悔していた。
この二人と一緒の班などになるべきではなかったのだ。
二人の歩く速度は衰えることがない。しかも、歩くペースがもともと速い。速すぎる。言い過ぎかもしれないが、平地と変わらないように碕沢には思えた。
碕沢たちは、ちょうど生徒の真ん中あたりでスタートした。先には、一五〇人近くの生徒が登山を始めていたはずだ。
なのに、今では、おそらく前を歩く生徒は二十人もいないのではないか。
ハイペースという以外に表現のしようがない。
二人は、息を乱すことなく歩いているが、碕沢の呼吸は乱れはじめていた。
碕沢は三人の最後尾を歩いているので、視界にはリュックサックを背負った冴南の後姿がある。だが、ぴったりフィットではなく、余裕のある作りをした素っ気ない学校指定ジャージ(冬用)は、碕沢にロマンあふれる想像をさせることはない。
脱落すればいいだけの話じゃないか、と碕沢があまりに安易な妙案を思いついた時、それは起こった。
突然周囲の景色がぶれた。色彩も重なり、固有の色が失われた。
人、植物、物、自然物、人工物――あらゆるものがぶれ、世界がずれる。
何が――碕沢は思考することすら許されず、彼の意識は閉ざされた。
高校生による登山が行われていた霊山天倉山。だが、今、天倉山に登る人影は一つとしてない。
確かに世界から失われたものがある。だが、世界は何も変わることなく時を刻みつづけていた。
血のような夕焼け空――という表現は、多分に観察する者の心情が含まれている。主観によって観察された結果である。
ぼんやりとした思考の中、碕沢は血の色で満たされた世界を見ていた。むろん、これも碕沢の主観でしかない。
だが、太陽がないにも関わらず空が赤いのは事実であった。
碕沢は列に並んでいる。
前にはまだ十数人いるようだった。後ろには百人以上いるかもしれない。
地面はごつごつとして歩きにくい岩場だ。
列があるのとは違う方向だが、百メートルほど先には川があるようだった。遠くにうっすらと対岸が見えるので、おそらく川で間違いない。それは大きな川で、とても泳いでは渡れないだろう。実際多くの小舟が川岸に並んでいた。
碕沢の順番が来た。
順番が来て初めて碕沢は、そこに役人のような人がいることに気がついた。顔は確認できない。仮面のように物理的な何かがあるわけでもないのに、なぜだか認識できなかった。
碕沢は何かを渡された。
掌を見ると、紐のように見えた。
疑問を抱くこともなく、碕沢はそれを握りしめ、一歩前に踏みだした。
巨大な門がある。
門柱には、細部に至るまで彫刻がなされていた。
人間、動物、架空の生物とさまざまな生き物が彫られている。
門は開かれていたが、先はよくわからない。万華鏡のように何だかちかちかと光彩が反射していた。
碕沢は振りかえる。
彼の後ろに並んでいた男がふと消えた。
すぐに次の男が役人の前に立つ。彼は剣を手にしていた。
自分の右手にある紐を思い、一瞬だけ碕沢に疑問が生じる。
だが、碕沢は自らの持った疑問をすぐに忘れ、門の中へと歩を進めた。
薄暗い部屋に、フォログラムのモニターがいくつも浮かびあがっていた。
数十人の細い人影が椅子に座り、フォログラムに対峙している。その白い指は止まることなく常に動き続けていた。
「――特殊霊的因子受容成功者111名。世界樹の種の植え付けはすべて失敗。対策を必要とします。また、転移地点は当初予定どおり、南方トバス島――」
報告と同時進行でフォログラムのモニターに文字が流れていく。
「監視対象XXXの状況は――」
緑光のみの薄暗い室内で作業は続けられていた。