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止まった時間

作者: 佐藤海

止まった時間


「忘れられない人はいますか?」

大学を卒業して、初めて赴任した中学校で生徒達に「何か質問はありますか?」と言った時、1人の女生徒から思いがけない質問を受けて、それまでの緊張が嘘みたいになくなった。

やはり中学生なのだろう、その時まわりの生徒達はその女生徒に非難や嘲笑を浴びせた。にも関わらず彼女はそのまわりの声や音が全く聞こえないかのように、まるでその場に彼女と私しかいないかのように動じることなく私に対して真っ直ぐな視線を向けてきていた。自分のした質問に対して恥じることもなく、正しい事をしているのだから誰にも文句は言わせないという強い意志が感じられる視線に、私は自分が嘘や誤魔化しでこの場をすり抜ける事はできないと感じた。私もまだ子供だったのだろう。

「います」

と答えた。

その後、彼女が何故そんな質問をしたのかを知ることはできなかった。数日後、彼女は自らの命を絶ってしまったからだ。まるで私にその質問をする為にそれまで生きていたかのように・・・。

自殺の原因は結局いじめだということで表向きは終止符を打った。しかし、私はそれを信じなかった。彼女が亡くなった翌日、私宛に彼女から一通の手紙が届いたからだ。

その彼女の手紙にはたった一言

『誰かの忘れられない人になる為に』

と書いてあった。

その一言は私に大きな衝撃を与えた。

彼女が私の何を知っていたのかは今となってはもう知ることは出来ないが、彼女はもしかしたら誰かを愛し、そして愛されていたのではないだろうか。

私がそう思ったのは、かつて私にもそう思える相手がいたからだ。

彼女と出会ってから半年経った今、私は彼女がいた中学校でまだ教師を続けている。










第1章


「何かさあ、真下って変わったよな」

彼は机に突っ伏して自分の両腕に顎をのせている体勢で、高校生にもなってまだあどけなさの残る目で私を見て言った。

高校に入学した年の4月、とても天気が良くて、空気が澄んでいる、もうすぐ空の色が青から赤に変わる、そんな午後。

「あのねえ、真野君とは小学校の4年以来会ってないのよ、変わってて当たり前。変わらない方がおかしいわよ」

私は彼を見ないで、帰り支度をしながら答えた。

私達は同じ小学校に通っていた。真下華と真野悠二、入学してからずっと同じクラス、いつも座席は隣同士。さらに背の順に並んでもいつも隣同士という変な縁だった。まあ、それも5年になる春に私が父親の仕事の都合で引越しをするまでの縁だったが。

そう、それまでの縁だと思っていたのに、まさか同じ私立の高校に彼がいるなどとは思いもしなかった。

そして、おかしな事にまた同じクラス、座席が隣同士。少しくらいずれてもおかしくないと思うのだが。

「俺は、変わってない?」

彼の声のトーンが低くなったので気になって彼を見たら、彼は真剣な眼差しで私を見ていた。その視線に戸惑った私は目を反らし、逆にふざけたように

「全然変わってない。だからおかしいって言ってるのよ」

と言った。

「なるほどねえ、おかしいってのは俺のことだったわけだ」

と、彼は笑いながら言った。

「へえ、少しは頭良くなったみたいね」

私はそう言って、帰り支度が済んだのをきっかけに立ち上がった。気まずさを無理やりなかったことにしようとしているその空気が嫌だったのだ。

「真下」

「ん?」

「俺を、覚えていてくれないか?」

「え?」

「・・・いや、何でもない。じゃあ、また明日な」

不思議な事を言う奴だと思った。でもその時の寂しげな眼差しを私は忘れることは出来ない。それから先、私は彼のその寂しげな真剣な眼差しを何度も何度も見ることになる。そして、私に忘れる事のできない言葉や出来事を残す。


『俺を、覚えていてくれないか?』

私は今もなお、あの日の言葉の呪縛から逃れることができないままでいる。


それから彼はあの日の言葉が本当に何でもなかったかのように、明るい性格ですっかりクラスのみんなと仲良くなり、ある時はクラスの中心人物として行動する事さえあった。こんなに存在感のある彼を忘れる人なんているだろうか?私が覚えていなくてもいいんじゃないのか?それに何故、彼はあんな事を私に言ったのだろう?頭の中の『?』が増えていき、私はいつしか彼から目が離せなくなっていた。

「なあ、真下の夢って何?」

一応進学校と言われている高校なので、1年の夏からもう進路希望を書かなくてはいけなくて悩んでいるとき、彼が隣から声をかけてきた。

「夢?夢ねえ、夢なんて大げさなもんじゃないけど、教師になりたいかな」

「教師?」

「うん、単純なんだけど、私のおじさんが教師でね、そのおじさんみたいになりたいからかな」

「へえ」

「じゃあ、真野君の夢は?」

「え?俺?俺は・・・別にないかな・・・」

「じゃあ夢なんて大げさなもんじゃなく目標みたいなものは?」

「目標?・・・そうだなあ、いきて」

彼はそこで黙ってしまった。

「いきて?」

「いや、教師ってのも悪くないかもな」

「ちょっと、はぐらかさないでよ」

「はぐらかしてなんかないさ。本当に教師もいいかもって思ったんだ」

彼はまたそこで寂しげな目をした。何故そんな目をするんだろう、そんな目をされたらそれ以上問いただすことなどできない。


私達の関係が少しずつ変わり始めたのはこの頃からだった。

私が彼から目を離せなくなるのは彼に惹かれているからだという事に気付くのにそう時間はかからなかった。

彼の屈託のない笑顔、そして誰に対しても同じように思いやりを持って接する態度。そして何に対しても全力で立ち向かう真面目さ。そして時々私に見せる寂しげな眼差し。

自分が彼に惹かれていると気付いてからの私は今までのように接する事ができなくて、素直になれない事も度々あった。その度に、彼は少し困ったような、そして寂しそうな目をしてそれ以上無理に私にかまおうとはしなかった。


夏休み、彼に会えない寂しさは私をおかしくしそうだった。家にいてもどうしようもない気持ちを学校の図書館に行くことで彼の存在を感じようとしていた。だが、その何処にも彼の姿はなく、それが余計に私を寂しくさせた。

夏休みも終わる頃、学校の図書館から帰る途中、交差点で彼の姿を目撃した。その偶然が嬉しくて、声をかけようかどうか迷っているうちに彼は交差点を渡り、歩き始めた。どうする事もできず、結局ストーカーのように後をつける形になってしまった。

夕方、誰もいなくなった公園に立ち寄った彼はベンチに座り、そして、俯き、顔を見せないようにした。そして、その背中は小刻みに震え始めた。その背中の動きは徐々に大きくなっていき、遠くからでも泣いているのだと一目でわかった。その姿を見た私はどうする事もできずにその場に立ち尽くしていた。

いつも元気で陽気な彼がどうして誰もいない夕方の公園で泣いているのかわからない混乱、そして彼が誰にも見られたくないだろう姿を見てしまっている罪悪感。それでもその場を離れる事ができずにいたのはそんな彼の傍にいたいという気持ちがあったからだ。

不意に後ろから大型犬に吼えられた。

その声で彼が私の存在に気付いてしまった。私はその場にいる事が見つかった恥ずかしさと彼に嫌われるかもしれないという恐怖とでその場から走り去ってしまった。

その後、私はその公園での彼の姿が頭からは離れなくて、それまで以上に彼を思うようになった。ただ、夏休みあけにどんな顔をして逢えばいいのか、それがわからなくて、逢うのが不安だった。


2学期の始業式が終わって、座席に座った途端彼から声をかけられた。

「趣味悪いなあ」

「え?」

「真下に人をつける趣味があったとはね」

彼は私を見もしないでそう言った。

「ち、違う!あ、あれは・・・」

私は椅子を倒す勢いで立ち上がった。まわりの生徒達は何があったのかと好奇心剥き出しで私達を見ていた。

「あれは?」

そこで彼はやっと私を見た。それこそまわりなど目に入らないという感じで私を睨み付けた。その目が怖くて私はそれ以上何も言えなかった。そして、好きな人からそんな目で見られる事の悲しさで涙が出てしまった。

「おい!何してんだ?」

担任の教師が教室に入ってきて、ただならない雰囲気にそう言った途端、私はその場から走り去った。

「おい!真下!」

そんな事をしたのは初めてだったので、その後教室に戻るタイミングに困り、仕方なく戻った後、担任の教師に理由を問いただされ、こっぴどく叱られたことを覚えている。そして教室に戻るやいなやみんなの好奇の目にさらされた居心地の悪さも勿論覚えている。

彼はその後、何事もなくみんなと談笑していて、私の存在など目にも入らないという感じだった。彼の事だからきっとうまく言ってその場を切り抜けたのだろう。

で、その後彼とは全く口をきかないまま過ごした。私はあの時彼の後をつけた事を心から後悔し、あの大型犬を酷く恨んだ。


そして3週間後、学校からの帰り道、壁にもたれている彼を見かけた。私は一瞬驚いたが、自分には関係ないことだからと無視して通り過ぎようとした。

「悪かった」

「え?」

彼はそれだけ言うと私に背を向けて歩き出した。

「あの日!」

私はそれだけを彼の背中に向けて言うのが精一杯だった。

「忘れてくれないか?」

「え?」

「あの日見た事、忘れて欲しいんだ」

彼は私に背を向けたままそう言って歩き始めた。何か言わなきゃ、言わなきゃ、何か言わなきゃいけないのに引き止めなきゃいけないのに、言葉も出ないし、足も動かない。

私はその場にうずくまって泣くことしかできなかった。

「何で泣くんだよ」

彼の声が頭の上で聞こえた。

「覚えていてくれって」

「え?」

私はそれ以上何も言えなくて、ただ泣くことしかできなかった。

「ごめん」

「何で謝るの?」

「俺が、真下を苦しめてるから」

「私を苦しめてる?」

「覚えていてくれなんて俺が言ったから」

「違う!苦しんでなんかない・・・私はただ、知りたいだけなの。どうして私に覚えていてくれなんて言ったのか、どうしてあの日、あの場所であんなふうに泣いていたのか、どうして真野君は・・・真野君はそんな寂しそうな目をするのか、ただ知りたいだけだった。でもそれを知ることが真野君を苦しめる事ならそれが苦しくて・・・」

私は今まで溜めていた自分の気持ちを吐き出した。

「真下」

「私、真野君が」

「真下!」

「え?」

「帰ろう」

「でも私」

「何も聞きたくないんだ!・・・ごめん」

そう言った横顔があまりにも寂しそうで、私はもうそれ以上何も言えなかった。

「今まで通り、友達でいてくれないか」

家まで送ってくれた彼は最後にそう言った。私はその一言で自分が振られたという事を認識した。告白さえさせてもらえなかったが。


それからの私は彼の言うとおり今まで通り仲の良い友達として接する事にした。だけど彼への気持ちをなくしてしまう事はできなかった。私にできるのはそれが少しでも外にもれないように封印というシールを心に貼ることだけだった。

「で、真下は何をするんだ?」

「私は甘味屋よ」

「おお!何か衣装着たりすんの?」

「確か、ミニスカートって・・・」

「それって他に誰がいるの?」

「ちょっと何よ、私には興味ないってわけ?」

「あれ?興味持って欲しいわけ?まあ、頼まれたら持ってやらないわけでもないけど」

「うるさい!えーとメンバーは、里中さん、三上さん、神谷さん、四谷さんと熊谷さんと私。ねえ、里中さんとか楽しみでしょ?」

里中さんというのはクラスの中で一番人気のある綺麗な女の子だった。確か彼と仲が良かった。

「そうだな、安くしてくれるらしいから楽しみだよ」

「そういう事じゃなく」

「で、俺は何をすると思う?」

「やきそばの屋台でしょ?」

「何だよ、知ってんのかよ」

「里中さん達が騒いでたから勝手に耳に入ってきたのよ」

「ふーん、まあ安くしてやるから食べに来いよ」

「気がむいたらね」

「華!佳美が呼んでるよ」

「悠二、打ち合わせやんぞ」

結局二人とも友人に呼ばれその場を離れる事になったが、私達は時々二人でこうして話すことや、友人達とグループで遊びに行く事もあった。


学園祭はとにかく楽しくて、真野君は甘味屋に来てくれたし、私も屋台に行った。これから勉強ばかりになる私達には学園祭だけが羽目をはずせる唯一のイベントだった。

体育祭を翌日にひかえた午後、私は外で友人達とお昼を食べていた。

「ねえ、華って真野君と仲いいじゃん、恋愛の話とかするの?」

「え?」

「どうやら佳美が真野君を好きらしくて」

「ちょ、ちょっと」

三上佳美が顔を赤らめていた。佳美は可愛い女の子らしい子だった。

「体育祭の後のイベントで告白しようと思ってるらしいんだよね。で、華なら情報収集できるんじゃないかって」

「え?でも、私そういう話」

「いいじゃないの、いろいろ聞いてあげれば。それとも聞けない理由でもあるの?」

里中葵が言った。

「別にそういうわけじゃないけど・・・彼、そういうの興味ないと思うし」

佳美の顔が曇った。

「とにかく!聞くだけ聞いてみなって」

結局押し切られる形になり、私は彼に話をしなくてはならなくなった。何故、私がそんな事を・・・。私が振られてからまだ日は浅いのに・・・とにかく憂鬱だった。


体育祭当日、私は気が重かった。彼と言葉を交わせばその事を話さなければいけないし、友人達の視線が痛かった。

いくつかの競技が終わり、喉が渇いた私は水のみ場に行き、体育館裏で壁を擦るような音を聞いた。

「誰かいるの?」

恐る恐る体育館裏を覗くと、真野君が真っ青な顔をして倒れていた。さっき元気に100M走を走り、トップをとった彼とは思えない。

「真野君?ちょ、ちょっと真野君!」

不意に腕を捕まれた。

「騒ぐな!頼むから騒がないでくれ」

「でも・・・」

彼の声は掠れていて、とても彼の声とは思えなかった。しかもかなり汗をかいている。それは走った後の健康的な汗とは違う。

「保健室に」

「駄目だ!」

「でもこのままじゃ」

「じっとしてれば落ち着く、だから・・・」

彼は辛そうに息をしていて、これ以上話をできる状態ではなかった。でも素人の私では保健室に連れていくのが良いのかこのままにしておくのが良いのかの判断ができない。

「怪我」

「え?」

「真下は怪我してないか?」

「してないけど何で?」

「いや、ならいい」

私は彼の汗を拭おうと自分のタオルを彼の額にあてた。

「やめろ」

「でも」

「いいから」

「何もするなって言うの?」

「傍にいてくれればそれでいい。しばらくこのまま傍にいてくれ」

私はもうどうしていいかわからなかった。好きな人が苦しんでいるのに何もできないでただ傍にいるだけという事がこれほどまでに辛いなんて思いもしなかった。

「そんな顔するな」

「そんな顔ってどんな顔よ」

「今にも泣きそう」

「あんたがそんな風に言うからよ」

「ごめん」

どれくらいそうしていただろう。それは10分にも1時間にも思える時間だった。私達が出る競技はどうなったのだろう、誰も不思議に思わないだろうか・・・。

彼はさっきまで肩で息をしていたのが収まり、汗もひき、顔色も元に戻っていた。

「もう、大丈夫だ。先に戻ってくれ」

「本当に大丈夫なの?」

「ああ。ありがとうな」

言葉は優しげだったが、また大きな壁を私と彼との間に作られたと感じられるものだった。彼と付き合っていく為に私が作ったルール、彼に壁を作られたら決してそこから深入りするような事はしない。

「わかった。じゃあ戻るわ」

彼と別れてから私は自分が泣いていることに気がついた。

「真下?」

同じクラスの粕谷君だった。

「どうしたの?競技で名前を呼ばれてもいないし、どこか痛い?具合でも悪くなった?」

「別に・・・少し気分が悪くて」

「だったら一緒に保健室に」

「いいわ」

「でも」

そう言って粕谷君に腕を捕まれた瞬間、両足から力が抜けた。

「ちょ、真下!」

「ごめ、ごめん」

支えを振り切ろうとした。でも、さっきまでの緊張から弛緩された私の筋肉はそれから言う事を聞いてくれなかった。結局私は粕谷君に支えられて保健室に行く羽目になった。結果として、私は本当に具合が悪いということで真野君との仲を疑われることはなかったのだが・・・。で、佳美達に責められることもなかった。佳美はどうするのだろう?

夜になり、打ち上げの3年のラストライブとフォークダンスが始まった。私は教室に戻り、盛り上がるグランドを眺めていた。あの中に真野君と佳美がいるのだろか・・・。そんなくだらない事を考えるより帰ろう、そう思った時、足音が聞こえた。一瞬真野君ではないかと期待した。

「良かった、まだいたんだ」

「粕谷君・・・。そうだ、粕谷君さっきはありがとう。私」

「お礼はダンスでいいよ」

「え?」

「下で一緒にフォークダンスを踊ってくれないか?」

「でも私」

「まだ具合悪い?」

「いや、そうじゃなくて」

「だったら」

手を差し伸べた粕谷君の笑顔があまりにも優しくて、それ以上断る理由が思いつかなかった。同情といえば同情だったのかもしれないが、その時はその優しさにすがりたかった。好きな人は自分のことなど必要としていないのだから自分を必要としている人がいるならそこに居場所を見つけたかった。

 今思えば、彼は私を必要としていなかったわけじゃない。

『傍にいてくれればそれでいい。しばらくこのまま傍にいてくれ』

その言葉を何故思い出さなかったのだろう。

その後、私は粕谷君と一緒にいる事が多くなった。フォークダンスを踊っているのをみんなに見られ、何となく私達は付き合っているという噂がたってしまったからだ。

そして、真野君の体調の悪さはその後表立つ事はなかった。


「休み前にみんなでパーッと騒ぎたいよね」

里中葵がそう言って、みんなもそれに賛成した。私達は冬休みに入ると勉強が忙しくなる。クラスの半数以上が既に予備校の冬期講習を受ける。そして、私もその1人だった。

休み前にクリスマスがあるというので、結局クリスマスパーティーをすることになった。

葵の家が結構大きかったので、そこに集まることになった。

「本当は二人で過ごしたかったんだけど」

粕谷君がそう言ったが、私は真野君と過ごせる事を密かに喜んでいた。冬休みになれば自動的に逢えなくなる。私は彼の笑顔を胸に焼き付けておきたかった。

 クリスマス当日、真野君は遅れてきた。体調が悪かったのかと思ったが、顔色が悪いわけではなかったので私は幾分安心した。

これから勉強三昧の毎日、その反動なのか私達は大いに食べ、そして騒いだ。そして羽目をはずし過ぎた男の子が葵に告白して、即断られ、笑い者になっていたが、彼だけは笑ってはいなかった。そしてゆっくりと私を見た。その目があまりに寂しげで私は視線を反らすことができなかった。どれくらいそうしていたのだろう。

「したさん、どうしたの?」

「え?」

粕谷君が心配そうに私の顔を覗いた。

「別に」

そう言って私はもう一度彼を見たが、彼はもう私を見てはいなかった。何故彼はあんな目で私を見るのだろう・・・誰に対してもそうなのか?それとも・・・。

一通り騒いだ後、1人が帰ると言いだしたのをきっかけにみんな帰ることになった。

「真下さん、一緒に帰ろう」

「え?あっ、でも逆方向だし」

「いいからいいから」

粕谷君に手をひかれて私がその場を離れようとした時

「真野君?ねえ、真野君大丈夫?」

佳美の声が聞こえて驚いた私は粕谷君の手を放してしまった。

「どうしたの?」

「大丈夫・・・少し疲れただけだから」

彼はみんなに心配かけまいと笑顔を見せたが、やはり顔色が悪かった。ただ、あの体育祭の時ほどではないようだった。

「でも、少し休んだほうがいいよね」

「じゃあ、私の家で少し休んでいく?」

葵がそう言ったが

「いや、本当に大丈夫」

「私!」

「え?」

「私、家同じ方向だから一緒に帰るわ」

私は何を思ったかそんな事を口にしてしまっていた。みんなは一瞬驚いた顔をしたが、

「そうね、もう遅いし、逆方向の人が一緒に行くよりはその方が」

「じゃあ、俺も一緒に」

「いい!大丈夫だから」

私は粕谷君の言葉を遮った。彼と二人きりでいたかったのだ。

「大丈夫?」

「ああ。なんか、真下にばっか迷惑かけてるな」

「腐れ縁だからね」

「腐れ縁か・・・」

腐れ縁・・・微妙な関係。つかず離れずの関係は私にとって蛇の生殺し状態だ。

「少し、休んでいいか?」

「いいけど」

私達は近くで座れるところを探して、結局街路樹の下に座ることにした。街はすっかりクリスマスムード、イルミネーションが綺麗で、カップル達がたくさんいる。そんな中、私達はどんな風に見えるだろうか、などと馬鹿な事を考えていた。どんな風に見えようと、実際私達は腐れ縁の友達同士、それ以上でもそれ以下でもないのだから。

「何がおかしいんだよ」

私は自分が考えたことが馬鹿馬鹿しくて、つい笑ってしまったようだ。

「別に」

「俺達ってどう見えるのかな?」

私は彼が自分と同じ事を考えていた事に驚き、大笑いしてしまった。

「何だよ」

「別に、ただ、同じ事を考えていたんだなって思ったらおかしくて」

「そっか」

それからしばらく二人は黙っていた。

「具合悪い時に何なんだけど」

「ん?」

「これ、良かったら貰ってくれない?」

私は、もし二人きりになれたら渡そうと思っていた彼へのプレゼントを出した。それは前に彼が好きだと言っていたアーティストのCDで、確か限定版で手に入らなかったと話していたCDだった。

「俺に?」

「うん」

「粕谷にじゃないの?」

「開ければわかるよ」

彼はゆっくりとその包み紙を開いて、そして、中身を見て驚いた顔をして私を見た。

「これ、何処で」

「たまたま見つけたの」

「たまたまってこれ・・・」

彼はCDを見たまましばらく黙っていた。そして、私を見て

「ありがとう」

と言って笑った。

「同じことを考えていたんだな」

「え?」

彼は自分のカバンから私と同じ大きさの包み紙を出した。

「もしかして私に?」

彼は頷いた。私は驚いて、震える手でその包み紙を受け取り、開いてみた。それは明日発売の私が好きなアーティストのCDだった。

「これ」

「もう買っちゃってたらかぶるけど」

「明日発売だから明日買おうとしてたの」

「良かった」

もしかして、彼が遅れたのはこれを手に入れる為?まさか。

「もしかしてこれを買ってたから遅れたの?」

「そんなわけないじゃん」

「・・・そうよね。でもどうして私に?」

「この前迷惑かけたからな」

「そんなの気にしなくていいのに・・・。でもありがとう、すごく嬉しい、大切にする」

「ああ」

すごく嬉しかった。クリスマスに好きな人から思いもかけないプレゼントを貰う。こんな幸せがあるなんて。

「それよりまた具合悪くなるなんて大丈夫なの?病院とか」

「行ってるよ。だから気にすんな」

また壁を作られた。こうなるともうどうする事もできない。さっきまではとても近い位置にいられた気がするのに、誰よりも近くにいられた気がしたのに・・・。

「ごめん。行こう」

何でこの人はこういつも自分のペースなんだろう。そしてそのペースにいつも私は合わせるばかり。

私が立ち上がろうとした瞬間、先に立ち上がった彼がふらついた。

「ちょっと、大丈夫なの?」

軽く支えるだけのつもりが、強く抱きしめられて私は混乱した。

「ちょ、ちょっと」

「無理だ」

「え?」

「友達でなんていられない」

「え?」

彼は私から少し離れて、私の顔をあの寂しそうな目で見つめた。

「真野君?」

「お前が好きだ」

その瞬間、私の全身から力が抜けた。

「え?ちょ、ちょっと真下」

今度は彼が私を支える形になった。

「何なんだよ」

「何なんだよって、それは私の台詞よ。何でいきなりそういう事言うかな。あの時私の事振っといて」

「振ったつもりはねえよ」

「あれは振ったってことでしょ」

「違う。何も聞きたくないって言ったんだ」

「だからそれは」

「振ったわけじゃねえよ!」

「何で怒るのよ!」

「ごめん。でも本当に振ったわけじゃないんだ。あの時は自分の気持ちが抑えられると思ってた。お前を諦められると思ったんだ」

「それって・・・あの頃から私を好きだったって事?」

「・・・ああ」

「だったら私もあなたを好きだったんだから気持ちを抑える必要なんてなかったじゃない。諦める必要がどこにあったのよ」

「それは・・・今は言えないんだ」

また苦しそうな顔をする。

「それは体調が悪いことと関係してる?」

彼は黙ってしまった。また壁なのか・・・でも、少なくとも彼は私を好きだと言ってくれた。だったらそれを信じて、いつか話してくれる日を待ってみてもいいのかもしれない。

「わかった、今は何も聞かない、それでいい?」

「ごめん」

「これって両思い?」

私は自分の中の不安を打ち消すように笑顔で聞いた。そしたら彼はいつもみたいに微笑んで

「ああ」

と言った。

私達は恋人達が行き交う街路樹とイルミネーションの中で抱き合った。愛しい人の胸の中に抱かれて、私はとても幸せだった。そう、この時はこの後訪れる絶望など微塵も感じてはいなかったのだ。


冬休み、私達は毎日電話をし、彼の体調の良い時は近くの図書館で一緒に勉強をするなどして過ごした。そのたびに、私は彼の新しい一面を発見し、更に惹かれていくのを感じた。

彼は私が思うよりもずっと優しく大人びていた。

図書館の帰り、彼に抱きしめられると私は大きな安らぎを得ることができた。ただ、時々、彼の顔色が悪いのが気になったりはしたが、私は彼が何も言わないなら問いただすことはしなかった。今の幸せを壊したくなかったのだ。


3学期が始まり、しばらくしてからの事だ。

「華」

「ん?何?」

「話があるんだけど」

学校帰りに深刻そうな顔をした佳美に声をかけられた。私が真野君と付き合っている事を責められるのだろうと覚悟した。

「真野君のことなら」

「真野君のことは真野君のことなんだけど違うのよ」

佳美は懇願するような表情で私を見つめた。私はそこにただならぬものを感じた。

「わかった。何処で話す?」

「他の人には聞かれたくないの。だから華の家に行っていい?」

「いいけど」

佳美の様子はやはり普通ではなかった。早く話が聞きたい思いから、家までの道程をとても長く感じた。道中、佳美が一言も口をきかなかったせいもあるのだろう。

家に着くなり、私はすぐに話を切り出した。

「で、真野君のことって?」

佳美は俯いたまま黙っている。私はイライラして

「佳美!」

と声を荒げてしまった。佳美は一瞬びくっとして

「わかったわよ。話すから待って」

と言って、深呼吸して話し出した。

佳美の話は確かに他の人には聞かせられないような事だった。

「佳美、その話は本当なの?」

「本当よ、嘘なんてついても何の得もないでしょ」

「でも私が真野君と付き合ってるのは佳美にとって」

「だからってこんな嘘を私がつくと思うの!」

佳美は泣いている。確かにこんな趣味の悪い嘘をつくなんて思えない。別れさせる方法ならもっと他にあるはずだ。

私も泣いてしまいたかった。でもそれが真実かどうかわかるまでは私は泣くわけにはいかなかった。

「ごめん・・・でも信じられなくて・・・」

「私だってそうよ」

「その話を知っているのは佳美とお兄さんだけ?」

「そうよ」

「佳美、絶対に誰にも話さないでよ、お兄さんにもそう言って」

「わかってるわ。ねえ、華、別れるんでしょ?」

私は何も答えられなかった。彼から何も聞いていない以上、ここでどんな結論も出せない。だけど、聞いたからと言って、結論を出せるの?

「華!辛いかもしれないけど別れるべきだよ!今ならまだ引き返せるでしょ?」

まだ引き返せる?私は引き返せるの?こんなにも好きなのに・・・。それに、好きな人が苦しんでいるかもしれないのに、見捨てるの?

私は佳美が言った事をまだ信じたくなかった。でもあの夏の日、誰もいない夕方の公園で泣いていた彼、それ以降の体調の悪かった彼、私を避けるようにしていた彼、そして何より『俺を、覚えていてくれないか?』という彼の言葉は全てを裏付けることになる。

「死んじゃうんだよ、真野君」

「やめて」

「このままじゃ華だって」

「やめてって言ってるでしょ!」

私は大声で怒鳴ってしまった。そんな言葉聞きたくない。

「佳美・・・帰ってくれない?ちょっと1人で考えたいんだ」

「華・・・わかった」

「佳美、ありがとう、教えてくれて」

「じゃあね。また来週、学校で」

「うん」

また来週、学校で・・・そう来週、学校で私は真野君と会う。どんな顔をして逢えばいいんだろう?どうやって彼に真実を確かめればいいんだろう?そして、私は佳美が言った事が真実だとわかった後、彼とどう接していけばいいのだろう?



第2章


「した、先生?真下先生?」

「え?」

「大丈夫ですか?」

「ええ・・・。安藤先生、もうすぐ寒い冬が来ますね。私、暑いのは平気なんですが、寒いのは苦手で」

私は11月の半ばになってから少し冷たくなったと感じる外の空気を体中に吸い込みながら職員室の窓から校庭を眺めていた。

「僕も冬は苦手です」

声をかけてきたのはこの学校で私より3年先に赴任した数学教師の安藤先生だった。

「この学校には慣れましたか?」

「そうですね・・・」

「いきなりあんな事があって、もしかしたら先生は辞めてしまわれるのかと思ったのですが」

あんな事というのは白石美里が自殺した事だろう。

「中学生というのは一番多感な時期です。一番ナイーブなこの年代を教えることに僕はいつも恐れを覚えます」

「恐れ?」

「ええ。生徒達との接し方がわからないんです」

そう言った横顔が不安そうで、それが真実だと告げている気がした。でもどうしてそんな話を新任の私なんかに話すのだろう。

「夢や希望をもってここに来られたばかりの先生に話すような事じゃなかったですね、すいません」

「安藤先生は教師という職業がお嫌いなのですか?」

「いえ、そういうわけではないんです。ただ」

「若い人同士はすぐに仲良くなれて良いですなあ」

安藤先生が何かを言いかけた時、後ろからベテランの先生がひやかしの言葉を言ったので安藤先生は困ってその場を離れようとしたが、立ち止まって何かを考えた後振り返って

「あの、真下先生」

「はい」

「お時間がある時にお話ができませんか?」

と言った。

「私とですか?」

「ご迷惑でなければ、夕食でもご一緒に」

そう言った安藤先生の顔が軽薄な誘いではなく、深刻な話でもあるかのように思えたので、私は断ることができなかった。

「わかりました」

「ありがとうございます」

安藤先生は安堵したように微笑んでその場を立ち去った。その微笑が彼に似ていて、私は胸を小さな針で何度も刺されているような痛みを感じた。


第3章


「どうした?」

「え?」

「顔色が悪いような気がする」

彼が心配そうに私の顔を覗き込んだ。佳美から話を聞いてからというもの、ゆっくり眠ることが出来なかった。

「そんな事ないわ」

「今日、ちょっと用事ができて、帰り一緒に帰れないんだ。ごめんな」

「用事って病院?」

「え?」

「時々行ってるって言ってたでしょ?」

「あ、ああ。いや、病院じゃないよ」

「そう・・・」

私は今すぐにでも彼に問いただしたい気持ちで、それでもそうできないもどかしさでイライラした。

「何かあったのか?」

「別に・・・」

問いただせるわけがない、彼はその為に今まで壁を作ってきたのだから。その壁を私が越えようとしたら私達の関係にひびが入る、そんなことできるわけない。だけど、こうしている間にも彼の体はどんどん悪くなっているのかもしれない。かといって知った上で私が彼にしてあげられる事など何一つもない。どうすればいいの?

「で、聞いてる?華?」

「え?」

「だからもう4月には別々のクラスになるから、その前に何かイベントしようよって話してたの聞いてた?」

「あ、あ、うん聞いてたよ」

別々のクラスになる。そうだ、そうなんだよね、私は勝手に腐れ縁だと思っていたけど、2年になっても同じクラスになれるなんて限らない。そしたら彼を傍で見ていることができなくなる。

「で、華?」

「え?」

「いいかげんにしてよね、ねえ華、何かあったの?」

佳美と目があった。佳美は私から目をそらした。

「最近なれない勉強とかしてるから寝不足なのかも、ごめんごめん」

と私は無理に笑顔を作って言ってみた。

「ごめん、遅れて」

とその時彼が遅れて教室にやってきた。

「遅いじゃん悠二、なあ、悠二は何がしたい?かっしーはカラオケって言ってるけど」

「ああ、俺?俺は~、何でもいいや。みんなで楽しめるなら」

「悠二らしい答えだな」

みんなが笑った。このみんなの笑顔がいつか彼の前から消える日がくるのかもしれない、その時彼は一体どうするのだろう・・・。その悲しみ、寂しさを思うと私は涙を堪えられなくなった。

「華?」

「ごめ・・・ごめん」

「ちょ、ちょっと華!」

私は教室を飛び出した。途中で彼に腕を捕まれた。

「真下!」

「離して!」

「どうしたんだ!」

「どうもしない!」

「お前変だぞ」

「もう、もうどうしたらいいかわからない・・・」

私は力が抜けてその場に座り込んでしまった。

「真下・・・」

「真野君・・・走ったりして大丈夫なの?」

「え?」

「体・・・」

「大丈夫だよ」

「うそつき」

「え?」

「ごめん」

しばらく沈黙が続いた。私はこれ以上何も言えないとわかって、立ち上がると教室に戻り、何かと言い訳をしてその場をすり抜け、その日は家に帰った。

それからというもの、私と彼は殆ど話をしないまま毎日を過ごした。話をすれば聞きたくなる、でも、私が彼だったら、きっと言いたくない、誰にも知られたくないはずだから。


もうすぐ1年が終わるという寒さがぶり返したある日、学校で彼が倒れた。

彼が運ばれた病院へ行き、病室へ駆け込み、彼の落ち着いた寝顔を見て、私は腰が抜けた。

「あの・・・、もしかして真下華ちゃん?」

そこには懐かしい顔があった。

「あっ、はい」

私は慌てて立ち上がって、

「あの真野君のお母さんですよね、お久しぶりです」

と挨拶をした。

おばさん、というには若いけれど。おばさんはとても寂しげな顔をして

「そう・・・あなたなの」

と言った。

「え?」

「華ちゃん、この子の病気については知っているの?」

「あっ、いえ、あの・・・病気だということだけは知っています。ただ何の病気なのかまでは彼が話してくれるまで待とうと思っていて」

「そう・・・」

「おばさん」

「お袋」

「え?」

彼が目を覚ましておばさんに声をかけた。

「悪いけど、真下と二人にしてくれないか?」

彼とおばさんはしばらくふたりで見つめあっていた。私はその雰囲気に、彼が私に病気のことを話すつもりなんだと確信した。

「わかったわ」

おばさんはゆっくりと私を見て微笑むと

「それじゃあ、華ちゃんまた」

と言った。

「はい」

私はおばさんに頭を下げた。おばさんが出ていき、病室に彼と二人取り残され、私は動くことができなかった。

「いつまでもそうしてるの?」

彼は笑ってそう言った。

「座っていい?」

「ああ」

私が椅子に座ると、彼は起き上がろうとした。

「いいよ、そのままで」

「俺が話しづらいんだよ」

「そう・・・」

彼は窓の外を眺めて、大きなため息をついた。そして

「話さないとな」

といつもよりも低い声でボソッと言った。

「無理に話さなくてもいいよ」

私は本音ではないが、つとめて明るくそう言った。

「俺が話して楽になりたいんだ。聞かされた真下は迷惑だろうけどな」

彼はそこでようやく私の顔を見た。今まで見たことのない優しい目と柔らかい表情だった。

「迷惑なんて思わないわ。真野君が辛いだろうって・・・」

「再会しなければ良かったのかもしれない」

「え?」

「だったら俺は簡単に死を選べたのかもしれない」

「何言って」

「俺の病気は!」

しばらく沈黙が続いて、彼はまた大きなため息をついてゆっくりと

「エイズなんだ」

と言った。

全身から力が抜けていく・・・。佳美からそうではないかと聞かされていた時から『聞き間違いだ』『そんなわけはない』『ありえない』『嘘だ』何度も何度も言い聞かせてきた言葉が音をたてて崩れていく。それでも私は言わずにはいられなかった。

「嘘」

「嘘じゃない」

「嘘よ!」

「嘘じゃないんだ!」

「何でよ!何で?ねえ何で?何で真野君が・・・何でなのよ・・・」

「中学2年の時、交通事故にあった」

彼は窓の外を眺めながら話し始めた。

「かなりひどくて緊急に大きな手術をした。輸血が必要で・・・血液製剤を使ったらそこにエイズウイルスが入ってたんだ」

一呼吸おいて

「発症したのはそれから1年後。風邪だと思って病院へ行って血液検査をしたら、大きな病院へ行くように薦められて、そしてまた検査をして・・・。医者もすぐには教えてくれなかったよ。それから数日後、また病院へ呼び出されてそのことを告げられた。俺自身信じられなかったよ・・・。エイズなんて同性愛者がなるものだっていう知識しか俺にはなかったし、当然俺には身に覚えがなかったしな。医者にくってかかって、いろいろ説明してもらえたよ。日本でも多くのエイズ患者がいるって事、その半分近くが血液製剤の犠牲者だってこと、そしてそのうち数人が国を相手に訴訟を起こしているって事もな。俺もその後いろいろ調べた。もしかしたら治る方法があるんじゃないかって望みを持った時もあった」

彼はまたここで大きく息を吸い、吐いた。

「病気の進行を遅らせる方法はいろいろあった。でも完治する方法は今のところないって事だったよ」

私は何も言えなかった。彼が他人のことを話すように淡々と語る事が、私には彼の事だとは思えなかったし、思いたくなかった。でも目の前の彼は明らかに顔色が悪く、痩せている。その後も彼は辛そうに息をし始めるまで話し続けた。

「もういいよ、やめよう」

私は医者を呼ぼうとした。

「いい」

彼は胸を激しく上下させているし、息も途切れ途切れになってきた。

「真野君!」

それなのに彼の腕は私の腕を力強く握っている。どうしたらいい?このままじゃ彼が・・・私は泣いていた。

「泣く・・・な」

「だって・・・」

「おさ・・・まる、から」

彼は無理に笑顔を作ろうとした。しかし辛そうな表情は変わらない。

結局私はどうすることもできずしばらくそうしていた。10分ほどすると、彼は眠っているのではないかと思うほど静かに呼吸し始めた。

握り締められた腕は汗をかいていて、そしてゆっくり腕を放すと私の腕は彼の手の形に赤くなっていた。それほど強く握られていた。

「真下」

「え?」

「別れよう」

「え?」

「別れてくれ、もう無理だ」

「もう無理って・・・何が無理なの?」

「このままだとお前が精神的に苦しくなる」

「大丈夫」

「よく考えろ!」

「考えたわ」

「もっとよく考えろって言ってるんだ。俺はいずれ死ぬんだ」

「やめて!」

「それが事実だ!受け入れなきゃいけない現実なんだ!・・・それに俺はお前に何もしてやれない」

「何もしていらない」

「そうじゃない、俺が辛いんだ・・・」

「真野君」

「俺はお前が好きだ。なのにお前を守ることができない。それに抱きしめる事もキスをすることも怖くてできない。かっこつけたって、俺だって男だし、身も心もお前を自分のものにしたいって思うんだよ。けど、できねえだろ・・・」

私は体中が熱くなるのを感じた。こんな状況なのに許されないかもしれない。でも好きな人からこんな風に言われて恥ずかしくなったり、興奮したりしない子なんてない。

「だから」

「考えるわ。だから待ってて」

私はそんな自分を見られるのが嫌で病室を出た。

病院を出たところでおばさんに会った。私は頭を下げて家路を急いだ。


いろいろ考えなければいけないことがあった。それなのに翌日、学校へ行くと真野君の事はあっという間に噂になっていて、仲間が私のところへ集まって真偽を確かめようとした。

私は何も知らないと言ったが、仲間は噂を信じてしまっていて、誰も彼のお見舞いに行こうとするものはいなかった。人と人というのは何て希薄な関係をもつものだろう・・・でも私達は幼いのだ、知識もない。悲しいけれどそういうものなのかもしれない。

そして、彼から去らないと決めた私は自然に孤立していった。


第4章


安藤先生から夕食の誘いがあったのは3週間ほどたった頃だった。学校の近くだと誰に見られるかわからないし、繁華街も誰かに見られる可能性があったので、結局私の家の最寄駅のひとつ先のローカルな駅で軽く食事をすることにした。学校の先生というのは意外と面倒くさいものなのだ。

お互いビールを飲んだ後、食事をしながら安藤先生が話を切り出した。

「白石美里とはどういう関係だったのですか?」

「はい?あの、それはどういう」

「先生が赴任された日、白石は先生に『忘れられない人はいますか?』と質問したと聞きました。彼女を昔から知っていたのですか?」

「いいえ、初対面です。実は私も驚いているんです。何故彼女はあんな質問を私にしたのか、彼女は私の何を知っていたのか」

「その時、先生は『います』と答えたそうですね」

「ええ」

私は2杯目のお酒を飲む気にならず、ソフトドリンクを頼んだ。

「不思議ですね・・・」

「先生は白石さんのことにこだわっているのですか?」

「え?」

「私をお誘いになった理由はその白石さんのことを聞きたかったからですか?」

安藤先生はお酒を飲まないと話せないのか、2杯目のビールを頼んだ。

「彼女はあの年齢にしては大人びた考え方をしていました。だから、まわりと合わなかったのでしょう」

「だからいじめられていたと?」

「おそらく」

「だから自殺したと」

「・・・」

「彼女とは一言言葉を交わしただけですから、私みたいなのがこんなことを言うのはおかしいと思うのですが、彼女の自殺はいじめが原因だったとは考えられないのです」

安藤先生は目を大きく開いて私を見た。そしてすぐに目を反らし、つとめて冷静さを装い

「何故、そう、思われるのですか?」

と聞いた。

「・・・わかりません」

私は安藤先生のただならぬ様子に、つい嘘をついてしまった。

「わからないのにですか」

苦笑して彼はまたビールに口をつけた。

「真下先生は独身ですよね」

「ええ」

「恋人はいらっしゃるのですか?すいません、いきなりプライベートな質問をしてしまって」

「いえ、いいんです。恋人はいません」

「もったいないですね。てっきりいらっしゃるのだろうとみんなで噂していたんですよ」

安藤先生はいつもの様子に戻ってきていた。

「噂ですか・・・」

「理想が高いんでしょうね」

「いえ。安藤先生は独身ですか?」

「ええ」

「恋人は?」

「います」

暗い表情になった。

「じゃあこんなところで私なんかと食事しているのが知られたらまずいんじゃないですか?」

「そうですね」

彼は笑って、残っていたビールを飲み干した。

「来月、結婚するんです」

「え?あっ、そうだったんですか、おめでとうございます」

「いえ」

来月に結婚を控えた男というのはこんなに暗い表情をするものなのだろうか。そして安藤先生はまたビールを頼んだ。

「愛とは何でしょう、先生」

「え?」

「愛しているという言葉はどんな時に使うのでしょうか」

愛しているという言葉はどんな時に・・・・。


第5章


彼が入院して1ヵ月後、一時退院が許され、私は彼の病院へと行った。

「あら華ちゃん」

おばさんは本当に驚いたという顔をした。何度かお見舞いに行ったが、あの日以来彼は逢ってくれなかったので、しばらく私も行かなかったのだ。

1ヶ月ぶりに見る彼はやはり少し痩せていた。

「母さん行こう」

彼は私を無視して通り過ぎようとした。私はその腕をつかんだが、簡単に振りほどかれた。

「弱虫」

「え?」

「弱虫って言ったのよ」

彼はしばらく私を睨みつけていたが、やはり何も言わずに病室を出た。彼が新たに作り出した壁は思った以上に高く強いのかもしれない。それにしても全てが彼のペースだ。


高校2年になっても相変わらず私は孤立していた。

彼とは同じクラスになって、やはり座席は空席になったままの隣だった。腐れ縁というのは本当にあるものなのだと実感した。

「真下」

「え?」

粕谷君だった。違うクラスだったし、彼の噂事件以来一言も話をしていなかった。

「私と話すと病気がうつるからやめた方がいいわよ」

私は笑顔でそう言うと教室を出ようとした。

「話がしたいんだ」

彼が私の腕を掴んだ。

仕方なく私は彼の申し出を受け、屋上で話をすることになった。すっかり春の匂いのする風を感じながら私は大きく深呼吸した。

「で、何?」

「悠二はどうなの?」

「どうって?」

「悠二の容態は」

「知らない」

「え?」

「逢ってないから知らないわ」

「逢ってないって何で」

「彼が逢おうしないのよ。そうなるとどうしようもない」

沈黙があった。

「じゃあ、別れたんだね」

「彼はそのつもりみたい。だけど私は」

「別れたほうがいい!もっと早くに言うべきだった、もっと早くに君を救うべきだった」

「救う?」

「こんな風に孤立する前に」

「やめてよ。悪いけど、私は今の状況を悪いなんて思ってないわ。救ってもらおうなんてこれっぽっちも思ってない」

「真下」

「救って欲しいのは彼よ!真野君を救って欲しい!彼は学校に戻ってきたいのに戻って来られない。あなた達が彼を避けようとするから。ねえ、私はどう思われてもいいのよ、何をされてもいい。でも彼は、彼の居場所を無くさないで欲しいの、お願い、私の事を思うなら彼の事を受け入れてくれない?ここに、学校に戻れるようにして欲しいの」

「真下・・・それは無理だ」

「どうして無理なのよ!」

「彼はもう」

「死ぬっていうの?だから何?今はまだ生きてるのよ!彼はまだ生きているの!なのにどうして・・・」

私はそれまで溜めてきていた気持ちを吐き出すように泣いた。その場に泣き崩れてしまった。彼に逢えない苦しみが私をぼろぼろにしていた。学校で孤立することなど何でもなかった。だけど残されているわずかな彼との時間を一緒に過ごせないことが何よりも辛かった。

「真下・・・ごめん」

粕谷君はそう言ってその場を去った。

私はそのまま泣き続けた。もう時間がない、それなのに私はどうすることもできないでいる。壁を壊すことが彼を苦しめることになるなら、壁を壊さず自分が苦しめばいいと決めたはずなのに、わがままな考えが私を支配する。彼と一緒にいたい、彼の全てを自分のものにしたい、たとえそれが互いの身を滅ぼすことになっても。そんな自虐的な考え方がまわりを苦しめるとわかっていてもその衝動を抑えることなど私にはできなかった。

若かったのだろう。

いつまでそこでそうしていただろう・・・すっかり夜の闇がまわりを包み込み空一面に星がたくさん見えている。

私は空を見上げる形で大の字に寝転がった。また涙が出てきた。逢いたい・・・とにかく逢いたい。星に願いを・・・そんな曲があったっけな、なんて思い、その曲をハミングしてみた。

「不気味だな」

「え?」

「夜中に屋上から泣きながらハミングする女の声が聞こえる・・・。そのまま学校の怪談だな」

幻聴だと思った。星に願いをかけた女の子にせめて声だけでも聞かせてやろうという神様の配慮。だからしばらく聞いていたい。

「無視するなんていい度胸してんじゃねえか」

何かむかつくけど、彼の声だ、間違いない。涙が出て止まらない。

「また泣いてんのかよ」

目の前に彼の姿が現れた。少しやつれているけど、間違いなく彼だ。私は溢れる涙を拭って起き上がった。

「何してんだよこんな時間にこんなとこで」

「それはこっちの台詞よ!」

「おいおい何で俺が怒られるんだよ、わざわざ迎えにきてやったのに」

「迎えに?」

「何してんだよ」

優しい声、そして優しい腕で抱きしめられた。もう、我慢なんてできない。私は大声で泣いた。

「ごめん。ごめんな」

彼は私の背中をさすりながら何度もそう言った。私はもう泣き声以外の音を出すことができなかった。

しばらく私が泣き止むまで彼はそうしていた。どれくらいの時間だろう。でもいろんな事を話すには朝まで時間が足りない。

私は掠れた声で話し始めた。

「どうしてここに?」

「粕谷から連絡があった」

「粕谷君から?」

「たぶん真下の両親が友人達に電話して、それで粕谷が俺に連絡をくれたんだろ。迎えに行ってやってくれって」

「それで?」

「まあ、それだけじゃあ俺は動けない立場だけど、粕谷から今までの事や今日の事を聞いて、どうしても逢いたくなって来た」

どうしても逢いたくなって・・・。

「そう・・・」

「どうして言わなかった?」

「え?」

「孤立してるって事」

「言ってどうにかなる?あなたがどうかしてくれた?それに話そうにもあなたは私を避けてたでしょ」

「そうだな」

「違う、そんな事言いたいわけじゃない」

「真下」

「私、ちゃんと逢って言いたい事があったの。私、真野君に逢えない事が一番辛い。それ以上に辛い事なんてないの。この先、あなたが病で苦しんでいるのを見るのは辛いけど、一緒にいることで支えになりたい。何もできないだろうけど、1人じゃないんだってあなたに思って欲しいの。たくさん泣くかもしれない、その度にあなたは私に辛い思いをさせてるって苦しむかもしれない。それでも私にとって逢えない事以上に辛いことなんてないの。この先二度と逢えなくならそれまでの時間を一分でも一秒でも長く一緒にいたい。・・・私達腐れ縁でしょ、離れるなんて無理だよ」

「真下」

「真野君、さっき抱きしめてくれたでしょ。私嬉しかった。好きな人の腕に抱かれる事がこんなに幸せな事だなんて私生まれて初めて知った。もっと抱きしめて、もっと他のことだってしていきたい」

「真下、それは俺だって」

「感染を防ぐ方法はいくらだってあるわ」

「俺には怖くてできない。お前が好きだからできないんだ」

「私は好きだからできる」

私は思い切って彼の唇に自分の唇をあててみた。

「真下、お前」

「悠二が好き」

彼は泣いていた。

「まいった・・・お前の方がずっと強いんだな。もう一回していいか?今度は俺から」

「うん」

「華が好きだ」

彼はゆっくりと私の唇に自分の唇をあてた。優しいキス、このキスを一生忘れない。

その後、私達は抱き合い、何度もキスをした。この時間が止まればいいと何度も思った。そうすれば永遠の別れなど訪れないのに。

けれど、別れの時はすぐそこまできていたのだ。


第6章


「先生?」

「あっ、すいません」

「いえ、こちらこそ変な質問をしてしまい申し訳ありませんでした」

「いえ。愛しているという言葉を使う時、でしたよね」

「え?あっ、はい」

「それは自然に出てくる言葉なんだと思います。その人を大切に思った時、愛しく思えた時、思わず口をついて出る言葉・・・」

「思わず口をついて出る言葉ですか・・・」

「そういうと一時の感情の高ぶりに思えますが、そういう時の心情こそ本当の気持ちなんだと思います」

「真下先生には愛している方がいらっしゃるようですね」

「ええ」

「その方とは何故お付き合いをされないのですか?」

「もう、いないんです」

「え?」

「彼は、数年前に私の前から姿を消しました。自らの命を絶つという形で」



第7章


結局彼は病状の悪化から学校に復帰することはできなかった。入院するほどではないが、安定するまでは自宅療養という形を医師から通告されていた。

私は毎日お見舞いに行き、いろんな話をしたり、勉強をしたりした。彼がいつでも学校に復帰できるように。

夏がきて、彼は暑さで体力を奪われて食欲もなくなり、どんどんやつれていった。私は心配で自分もあまり食べる事ができなかった。そのことで彼と喧嘩になり、両親から彼にはもう逢わないようにと何度も怒鳴られ、殴られることもあった。

いつしかそのことに彼が気付き、突き放されたこともあった。

とにかく闘いの毎日だった。学校での闘い、両親との闘い、彼との闘い。疲れ果て、自分の人生がめちゃくちゃになりそうな不安に襲われ何度も吐いた。彼から離れた方がいい、そう自分に囁きかける自分の中の悪魔とも何度も闘った。そして、いつ、彼が死ぬかもわからない不安に何度も泣いた。

それでも、私は彼を失いたくなかったし、逢わずにいるなんて事はできなかった。それに、一番辛いのは病と闘っている彼なのだから。

「華」

「ん?」

「何度後悔した?」

「え?」

「あの日、屋上で一緒に生きていくって決めたこと」

「数えきれないほどよ」

「そっか、俺もだよ」

私達は顔を見合わせて笑った。

「なあ、華、それでも一緒にいるのはどうしてなんだ?」

彼は急に真剣な目をして私を見た。

「悠二が好きだから」

「それだけでここまで一緒にはいられないだろ」

「だったら悠二はどうして?」

「俺は・・・俺も、やっぱり好きだからだろうな」

「ねえ、考えて欲しいことがあるの」

「何?」

「セックス」

「え?」

「抱いて欲しいの」

彼は瞬きもせずに私を見た。私は恥ずかしかったけど、ここで目をそらしたら彼は私のこの思いを気まぐれだと思ってしまう。だけど、私は決して気まぐれで言ったわけではなく、ずっと考えていたことだった.

どれくらいの時間が流れただろう・・・。

「本気なのか?」

「本気よ。冗談で言えること?」

「信じられない女だな。お前死ぬ気か?」

怒っている。

「あのなあ、俺とセックスしたら死ぬんだよ。俺は近いうち死ぬ、そんな男と命をかけてたかがセックスをする女がどこにいるんだよ」

「ここにいるわ」

「ふざけるな!」

怒鳴られた。でもそんなのもう怖くないほどに私達は喧嘩ばかりしてきた。

「ふざけてなんかない」

「華!」

「私は、悠二に抱かれたいの。それでたとえ死ぬ」

「お前だけの命じゃねえんだよ!お前には家族がいるんだよ。お前を大切に思ってる家族がいるんだ。自分で勝手に命を粗末にするような事考えるな」

「粗末になんてしてないわ」

「とにかく考える必要はない!答えはノーだ」

それ以来彼は私と口をきこうとはしなかった。私にとっては大きな賭けだった。そして私はその大きな賭けに負けた。

結果、私は彼に逢ってもらえなくなった。こうしている間にも彼の命の炎は小さく弱くなっていっている。

私は彼の主治医に逢って、彼とセックスしたいことを訴えた。感染の可能性、それを防ぐ方法。彼とのセックスは可能かどうか。先生はそんな事には慣れているようで丁寧に話をしてくれた。


翌日、私は早速彼の家へ行った。

「いつまで避け続けるつもり!私がこんなことで諦めるとでも思ってるの!ふざけんじゃないわよ!こんなことで駄目になるならとっくの昔に別れてるのよ!出てきなさい!」

私は家の前で恥ずかしげもなく怒鳴り続けた。それも3日間連続で。

そして、やっと彼が逢う事を承諾した。

彼の部屋へ入った私を彼はベッドの上から睨みつけた。

「ふざけんなよ華、今すぐ別れてもいいんだからな」

私は彼のベッドの脇に座った。

「できないわよそんな事。私はあなたを愛してるんだから」

「お前」

「悠二、私ね、こんなに強く思える相手はこれまでもいなかったし、この先も現れることはないと思う。どれだけ傷つけ合っても嫌いになれないなんておかしいもの。ねえ悠二、私は死のうとしてるんじゃない。覚えていたいの・・・この先あなたがこの世からいなくなっても、私の心に悠二はずっと残る。だからもっともっとたくさんのものを覚えていたい。この先、生き続けていく中で、あなたをもっと感じられるように。たくさんの悠二を覚えていたいの。あなたの体を覚えていられるのは私だけだもの。わがままを聞いてくれない?悠二は何もしてやれないって言ったけど、私を幸せな気持ちにさせられるのは悠二だけよ」

彼が私の背中に手をまわして強く抱きしめた。

「覚えてなくていい」

「いやよ」

「忘れろ、俺のことなんて」

「無理。だって、今こんなにも幸せなのに」

彼の腕の力がゆるくなって、手が私の頬に触れた。彼は泣いていた。私は彼の頬を伝う涙を拭った。彼の唇が私の唇に触れ、そのまま押し倒される形になった。

「やっぱり」

「富田先生が挿入する時にちゃんとコンドームをつけて、外に出ないように注意すれば大丈夫だって言ってたわ。コンドームの中に出てもすぐに出そうとしないで、ゆっくり抜けばいいって」

「おまえ」

「富田先生に聞いたの。真野君とセックスしたいけどどうすればいい?って」

彼は呆れたように私を見て、そして大笑いした。

彼の屈託のない笑顔は本当に久しぶりで、私はその笑顔が好きなので、顔が真っ赤になってしまった。

「何よ」

「そんな事先生に聞くことだっておもしろいのに、お前、今淡々と説明しただろ。ったく、そんな女お前しかいないよ」

「だって」

「で、そのコンドームは勿論持参してきてんだろ?」

「うん」

彼はまた大声で笑った。

「何よ!ムードを壊すような笑い方をしないでよ」

「ごめん、ごめん」

彼は私の髪をなでて

「本当にごめん。お前ばっかにいろんなこと考えさせて」

と優しい眼差しと優しい声で言った。

「言ったでしょ、私のわがままだって」

「俺も許されるならこうしたかった」

彼の唇が私の唇に触れた。そして、そのまま彼の舌が私の口の中に入ってきて、私は戸惑った。

「怖い?」

「ううん、びっくりしただけ」

「大丈夫?」

「うん」

「華」

「ん?」

「愛してる」

胸が大きく鼓動して、全身が波立つ感じがして、涙が出て止まらなかった。愛している人に愛していると言われる事がこんなにも嬉しいことだなんて。

お互いの手が震えていてうまく服が脱がせられなかったので結局私達は自分達でそれぞれ脱いだ、それが何だかおかしくて笑ってしまった。

彼の手が私の肌に触れた時、体がどうにかなってしまったみたいだった。彼が私に触れる手や唇の感触で私の体は電気が走ったようになり、彼も同じように感じているみたいだった。

「大丈夫?」

息をきらして彼が言った。その大丈夫がどういう意味なのか、彼の真剣な眼差しで私はすぐにわかった。私は頷いた。その決心は鈍ることはない。

最初は痛くて我慢できなかったけれど、彼は我慢強く待ってくれ、ゆっくりと彼が私の中に入ってきた時、私はこの瞬間のこの気持ちを一生忘れないでいようと思った。


彼はさすがに疲れたらしく、しばらく眠っていた。

「なあ」

「何?」

「何か、変な感じだな」

「何が?」

「今までも華を好きだったけど、今はもっと・・・なんつうか・・・すげえ愛しいって気持ちが強くなった」

彼は私を抱きしめながら言った。

「わかる・・・私も同じだもの」

「華、ありがとうな」

「何よ改まって」

そして、彼はまた私にキスをした。何度も何度も私達はキスを繰り返した。私は彼との全てを覚えていようと思った。たとえこの先彼がいなくなったとしても・・・。

そして、それから1ヵ月後、彼は自らの命を絶った。

17歳の秋だった。


第8章


「自殺ってことですか?」

「ええ」

「どうして?」

「さあ・・・私にもわからないんです」

「わからないって」

「私達は愛し合っていました。愛し合っていたからこそ、残された時間を少しでも長く共有したかった。けれど、彼は違ったのかもしれません」

「残された時間?」

「彼は・・・エイズだったんです」

「エ・・・イズって」

「14歳の時、血液製剤で感染してしまったんです」

「・・・あなたはそれを知っていて付き合っていたんですか?」

私は頷いた。

「彼を愛していましたから」

「いくら愛していても、彼は死の病だし、感染すればあなただって死ぬかもしれないんですよ」

「そうですね・・・でもそれでも良かったんです」

「真下先生」

「彼に罪なんてなかった。罪があるとすれば、病と闘わず自らの命を絶った事です」

彼を失ってから一生分の涙を流したと思っていた。それなのに、彼を失って7年目の秋にまた涙を流すなんて・・・。


第9章


7年前の秋、突然の彼の悲報に私は涙を流せなかった。これは現実ではないという声が何度も何度も頭の中で繰り返されていたからだ。

前日まで私は彼と一緒にいた。彼に変わった様子など全くなかったのに、翌日になった途端、彼は私の前から姿を消した。

彼の遺体を見た後も、私は何度も「信じない信じない」と繰り返しつぶやいていたらしい。既にその時、私の意識は私のものではなかった。記憶がないのだ。

その後、彼がいるものとして部屋に尋ねて行って、おばさんが彼に逢わせてくれないのだと大声で叫び、精神科に連れていかれた。それから彼が死んだのだと認識させられ、涙を枯れる程流した。眠れない日々、泣き叫ぶ毎日。私はもう死んでしまいたかった。どうしてあの日、感染しなかったのだろう、こんなことなら感染してしまえばよかったのに、そうすればこんな風に1人取り残されて泣くこともなく、彼のところへ行ってしまえたのに・・・。


第10章


「手紙?」

「ええ、見つけたのは彼が亡くなってから1年が経っていましたが」

「すぐには見つけられなかったのですか?」

「ええ。それは私にしか見つけられない場所に置いてあったんです」

「何処ですか?」

「私がクリスマスにあげたプレゼントのCDの中身が取り替えられていたんです。全く彼らしいアイディアです。彼の手紙は音声として残されていました」


第11章


私は彼の後を追って死のうと思い、彼の部屋を訪れた。最後に彼の好きだった曲を聴こうと自分がクリスマスプレゼントにあげたCDのケースを開けると、何も書いていないCDが入っていた。

不審に思った私はそのCDをかけてみた。

「華?」

「え?」

「これを聴いているのが、華だったら嬉しいよ。見つけてくれたんだな」

「悠二?」

私は慌ててCDを止めた。

「何?これ何?」

私の頭は混乱していた。でも間違いなく彼の声だった。忘れるはずはない、優しく私に語りかける時の声。私は震える指でPLAYボタンを押した。

「華?これを聴いているのが、華だったら嬉しいよ。見つけてくれたんだな。これを華が聴いてくれているっていうのを前提に話すよ。華、ごめんな、たくさん苦しませて。でも俺、お前に逢えて良かったって心から思うよ。お前といた時間は幸せだった。華、絶対に死のうなんて思うなよ。教師になるんだろ」

私は涙が止まらなかった。その場に彼がいたらひっぱたいてやりたいぐらいだった。ここでしばらく沈黙があったので終わったのかと思ったら

「俺にとって生涯でたった一人の女性、真下華へ、真野悠二は真下華を愛しています。華、ありがとう。じゃあな」

私は声をあげて泣いた。こんなのってない、こんなのって・・・。最後にこんな言葉を残して私の前からいなくなるなんて、卑怯だ。私は、私は何も言えなかった、言わせてもらえなかった。明日いなくなるってわかっていたらあの時気持ちを伝えられたかもしれないのに・・・自分だけ

「ずるい、ずるいよ悠二、ねえ、悠二、答えてよ、ねえ一方的に話すだけじゃなくて私の声に答えて!私の言いたい事聞いてよ!いつもみたいに笑ってよ!怒ってよ!ねえ!悠二!悠二!やだよ!やだよ悠二!」

私はデッキに向かって泣き叫んでいた。

「華ちゃん!」

おばさんが驚いて部屋に入ってきた。

「お願いだから1人にしないで・・・無理だよ、1人で生きていくなんてできない、悠二のいない世界でどうやって生きていけばいいの・・・ねえ、教えてよ悠二・・・悠二・・・」

「華ちゃん・・・」

「何で?何で死んだのよ!何で!何でその理由を教えてくれないのよ!」

どれくらいの時間泣き叫んでいただろう・・・。病院で意識が戻った時には声が出なくなっていた。

両親は泣いていた。私は体中の水分がなくなったかと思えるくらいに泣いて、全てが枯れ果てていた。


数日後、彼のお墓参りに行った。そこに悠二はいるはずだ。

「悠二、私も悠二に逢えて良かった。一緒に過ごした時間はとても幸せだった。でもたくさん苦しめたかもしれないね、もしかして悠二が死を選んだのは私のせい?どうしてその理由だけは教えてくれないの?」

答えてくれるはずもない疑問をぶつけてみた。そして一番伝えたい言葉を伝えた。

「真野悠二へ、真下華は真野悠二を愛しています」

伝わってる?悠二。


第12章


「それから7年間、今でも涙を流せるくらいに愛し続けているのですか?」

安藤先生はもうお酒に手をつけることなく私の話に耳を傾けている。

「さあ、どうなのでしょう。死んだ人を愛し続けることのできる人なんているのでしょうか」

それは私がずっと抱えてきた疑問だった、でも一番の疑問は

「でも、何故彼が自殺したのか、その理由を知るまでは次に進めない気がしています」

安藤先生は考え込むようにして下を向き、時計を見た。

「真下先生、お時間はまだ大丈夫ですか?」

時計を見ると、もう23時になっていた。

「最終電車までは大丈夫ですけど」

「じゃあ、もう少しお付き合い願えますか?」

「ええ」

安藤先生はようやくお酒に口をつけると私を真っ直ぐに見た。

「真下先生、やはりあなたには話すべきかもしれません。白石美里のことです」

「はい」

「白石美里は・・・私の恋人でした」

やっぱり。最初からそんな気がしていたのだ。

「意外ではないようですね」

「ええ」

「モラルに反するとは思いませんか?」

「思います。婚約者がいる1人の教師が教え子に手を出した。しかも相手は中学生です。許されることではありません。でも、今の世の中、モラルに反する行為があちらこちらであるのも事実です。それにそんな事は人に言われるまでもなく先生本人がわかってらっしゃったことでしょう」

「ええ」

安藤先生は先ほどまでとは全く違う憔悴しきった表情をした。

「白石は私の友人の妹でした。まさか彼女が僕を男として慕っているなんて思いもしなかったのです。彼女が中学に入学した時に気持ちを打ち明けられました。若い女の子にありがちな単なる年上の男性、しかも教師に憧れる思春期の一時の感情だと僕は軽く考え、彼女の気持ちを無視しました。ですが、彼女のそれは違っていた。真っ直ぐ僕に向かってくる彼女の愛情、大人びた考え方、幼い頃から彼女を知っていた僕は、いつしか成長していく彼女を1人の女性として見るようになっていました。僕は僕の中に芽生えた危険な感情を抑えようと必死でした。でも抑えようとすればするほど高まり、そして彼女もそんな僕の葛藤を見抜き、自分の方へ気持ちを引きよせようとしました。僕は・・・彼女から離れようとお見合いをして、その方と付き合うようになりました。それが今の婚約者です」

安藤先生は大きく息を吐いて、お酒に口をつけた。

「婚約者の彼女は、よく気が利き、優しい、料理の上手な女性で、僕は好意をもちました。そして彼女も僕を好きになってくれました。でも、美里は、美里の態度は少しも変わりませんでした。中学2年になってから彼女は少しまわりと違う空気を持つようになり、生徒達から阻害されるようになり、それだけでは止まらず、いじめられるようになりました。美里は身も心もぼろぼろになっていきました。僕はそんな彼女を見ていられなくなり、学校以外で逢い、美里の壊れていく精神を守ろうとしました」

そこで安藤先生はまっすぐ私を見て、

「先生、今の中学生のいじめの現状を知っていますか?僕達大人が想像もできないものです。僕は教師である自信が持てなくなりました。もし僕があんな仕打ちを受けたら耐えられない」

私も大学時代、中学校でのいじめの非情な現状を聞かされてきた。それはまさに犯罪だった。肉体的な暴力で死に至るいじめ、精神的に追い詰められての自殺、それに性犯罪。10代後半は法律で裁かれない上、力の加減ができず、善悪の境が不明瞭な年代だと教授から教わっていた。

「彼女がそれほどまでにいじめられる理由は何だったんでしょう?ただ彼女が大人びていたからだけだとは思えないのですが」

「彼女は交通事故にあっています」

「え?」

交通事故という言葉に私は反応してしまった。彼がエイズに感染したのは交通事故にあって手術をしたからだ。

「いつ?」

「先生も気付かれましたか・・・。私もさっき先生から彼の話を聞かされたときに共通点はそこにあったのだとわかったのです」

彼女も悠二と同じ血液製剤のエイズ感染者。

「彼女は2月になり、具合が悪くなったという理由で学校に来なくなりました。けれど僕は彼女がエイズだと知りませんでした。精神的なものから体の具合が悪くなってきているのだと思った僕は落ち着くまで彼女についていようと決めました。しかし、彼女は僕を受け入れようとはしませんでした。僕とは会いたくない、婚約者と早く結婚してくれと言うようになったのです。僕には一体何がどうしたのかわかりませんでした」

私は悠二に逢いたくないと言われた事を思い出した。彼女は安藤先生を愛していたのだ。

「先生?」

私は白石美里の姿を思い出し、あの時の強い視線を思い出し、その悲しみを思い、その姿が悠二と重なり、涙が出てきた。

「先生」

「ごめんなさい、続けてください」

「わかりました。でも僕はそんな彼女だからこそ余計に心配で、逢わずにいられなかった。僕は嘘をついて、彼女に玄関のドアを開けさせました。僕は少し痩せた彼女を見て、抱きしめずにはいられませんでした。そして、愛しくて、彼女を抱きたいと思い、彼女にそう告げました。彼女は拒みました。そして、その理由もその時初めて聞かされました。混乱しました。感染すれば僕も死んでしまう、それほどまでに彼女を愛している自信が僕にはなかった」

確かに・・・ただでさえ二人の間には大きな壁があり過ぎる。

「僕は考えがまとまるまで彼女に会う事ができなかった、怖かったんです。それに比べて真下先生は本当に強い、本当に彼を愛していたんですね」

「いえ、きっと若かったのだと思います。何も持っていなかった。失いたくないのは彼だけでしたから」

「けれど、4月になって、美里が突然僕に会いにきたんです。そして、もう二度と二人きりで会わないと告げられました。婚約者と幸せになってくれと言いにきたのです。涙を堪えて真っ赤に充血した目を見ていて、僕はなんて馬鹿なんだと思いました。こんなにも彼女は変わらず僕をまっすぐに愛してくれているのに、そんな彼女を僕は1人で死なせようとしていた。彼女がエイズウイルスに感染したのは彼女のせいじゃない。そう思い、僕は彼女を抱こうとしました。しかし、彼女は頑なに拒み、そして・・・そして」

安藤先生が言葉に詰まった。

「そして、・・・自殺した」

「はい」

「私のせいなのかもしれません」

「え?」

「彼女の生死の迷いを断ち切ってしまったのは私なのかもしれません」

「先生のせいなんかじゃありません」

「でも私が彼女の質問に答えてしまったことが引き金をひかせてしまったと」

「違います!・・・でも何故なんでしょう、何故美里は・・・」

「同じなんですね。先生も私と同じ、愛する人を突然失ってしまい。その理由がわからずに前へ進めない。私なんて7年間も同じ場所を彷徨っている」

「先生」

「私が、彼女が死んだのは私のせいではないかと思った理由の一つは、先生も知っている『忘れられない人はいますか?』という質問に『はい』と答えた事、それから彼女が自殺した翌日に彼女から私宛に一通の手紙が届いたことにあります」

「手紙?」

「ええ、たった一言『誰かの忘れられない人になる為に』と書いてありました」

「誰かの忘れられない人になる為に・・・」

「私が彼を自殺という形で失ってしまったが為に彼は私にとって忘れられない人になりました。もし、自分が自殺をすれば安藤先生は自分を忘れられなくなる、もし彼女がそう思ったのだとすれば」

「でもどうして美里は先生の恋人が数年前に自殺していたことを知っていたのですか?彼女がそれを知るはずはないのに」

そこで二人とも黙ってしまった。時計を見ると既に1時をまわっていた。

「そろそろ帰らないといけませんね」

安藤先生がそう言った。

「遅くまで申し訳ありませんでした」

「いいえ、お話ができてよかったです。私も少し考えてみようと思うのです。私と悠二と、白石美里、どこかに接点があるかもしれません。ただ」

「ただ?」

「ただ、接点があった場合、彼女を殺してしまったのは私だという事になりますが」

「そんな事はありません。もし誰かが彼女を殺してしまったのだとすれば、それは彼女を、美里を愛してしまった僕です」

その安藤先生の言葉は私の心に深く突き刺さった。

ずっと思い続けてきた。彼は私が彼を愛してしまったから死んでしまったのではないか、彼の自殺の原因は自分にあるのではないか、それがずっと私の心にひっかかっていた。


自分の部屋に戻ってからも、興奮から眠ることができなかった。今夜の会話、白石美里と安藤先生・・・あまりにも私と悠二との関係に似ていた。交通事故、血液製剤によるエイズウイルス感染。そして愛する人を残して自殺してしまった。彼が死んで7年が経った今、こんな出会いがあるなんて・・・これは何かの偶然?それとも・・・。

悠二・・・もしかして、私はあなたを思い出にしなければいけない時を迎えているの?


第13章 


私はインターネットを使って血液製剤によるエイズウイルス感染者による団体を調べ、そこの代表者に直接会えないかと交渉を試みてみた。すぐには無理だったが、1ヵ月後、連絡がきて会う事ができた。

「真下華さんですね。お待たせして申し訳ありませんでした」

代表者の方は私に頭を下げた。

「いえ、こちらこそお忙しい中お時間をとらせてしまい申し訳ありません」

「いえいえ。ところであまり時間がないのですが、確か7年前に亡くなられた真野悠二さんと1年前に亡くなられた白石美里さんの事でしたね」

「はい」

「白石さんが感染したのは真野さんが亡くなられた6年近くも先ですから二人が直接接していたという事実はありません。ただ、白石さんがうちの団体に接触してきた時に、真野さんの手記に興味を示されていたことは何人かが知っていました」

「手記?悠二が手記を書いていたのですか?」

「ええ。あなたはご存知なかったのですか?」

「はい。彼がこの団体と関わりがあったことさえこの前初めて知りましたから」

「そうですか・・・私は、実はもっと早い段階であなたがうちと接触を試みてくるのではないかと思っていたのです。そうですか・・・真野さんはあなたに何も言ってなかったのですね」

「どういう意味ですか?」

「その真野さんの手記には真下さん、あなたとの事が書かれていたのです」

「私との事?」

代表の方は優しい微笑みを見せた。

「ええ、一度お会いしたいと思っていましたが、こちらから接触するわけにはいきませんからね。しかし、7年経った今、まさか現れるとは思いませんでしたので、少し時間がかかってしまいました」

「その手記、読ませてもらってもいいですか?」

「ええ、その為に大切にとってあったのですから。ただ外部に出すわけにはいきません、個人情報なもので。こちらで閲覧して頂けますか?」

「はい」

そして、私の目の前には日記帳のようなものが置かれた。しばらく手を触れる事ができず、私はその日記帳を眺めた。

「それでは私は他に用がありますので、ごゆっくり」

代表の方はまた優しく微笑むと席を立って部屋を出て行ってしまった。

1人になってからも私はしばらく手に取ることができなかった。悠二が書き溜めた手記、私との事が書かれた手記。そこはもしかしたら私が決して触れてはいけない悠二の心の奥が書かれているのかもしれない。悠二亡き今、私が彼の許可なしにこれを読んでいいのだろか・・・とは言え、今さら亡くなった彼に許可をとることなどできないのだが。

「悠二、これはあんたが私を置いていった罰として読むからね」

私はそう独り言を言うと、その手記を手にとった。それほど重いわけではないのに、そこには彼の心の重みがあり、片手で持つことが出来ないほどだった。

ゆっくりと頁をめくると、そこには見慣れた悠二の文字でびっしりと埋められていた。それを見ただけで私の目からは涙が零れ落ちた。駄目だ!読まなきゃいけないのに、これじゃ文字が読めない。私は急いで涙を拭い、ゆっくりと読み進め始めた。


最初はエイズと診断されてからの辛い日々が書かれていて、高校に入学した時くらいからは私との事が書かれていた。

私が知らなかった私への思い、私を好きになってしまう事の心の葛藤。そして、ようやく互いの思いを伝え合ったあのクリスマスの夜の事。幸せだった日々。しかし病は彼の体を少しずつ蝕み始めていた。そして、私にその事を伝えられない辛さ。そして、伝えた後、私に逢えない辛さ。それでも私が彼を愛している事を伝え、初めてキスをして、二人で生きていくと決めたあの屋上での夜。

読めば読むほど彼の思いが私の中に浸透していき、涙が止まらないのに、体は熱くなっていった。彼に抱かれているようだった。私は今彼と共にいるのかもしれない。

その後、喧嘩ばかりの毎日。傷つけあい、私がぼろぼろになっていくのを見ていられない、別れた方が良いのかもしれないと何度も書いてあった。

そして、初めて結ばれた夜のこと・・・。不安と喜び、その二つの感情のぶつかり合い。

その日から彼は苦しみ続けていた。彼は一度私を抱いてしまった事でその後の欲望が抑えられなくなっていた。勿論それは私も同じだった。だけどそれはお互いにとって危険な感情だった。一度は運良く感染しなかったが、その後も大丈夫だとは言い切れない、医師もそう告げていた。彼は私への精神的愛情と肉体的愛情との狭間で苦しんでいた。そして、苦しむ事に疲れ、・・・死を選んでしまった。

それが私がずっと答えを求め続けた彼の自殺の理由だった。

なんてことだろう・・・。私が彼を求めなければ彼はあんなに早く命を絶つことはなかった・・・私が欲望を抑えきれなかった為に、彼は苦しみ、そして死を選んでしまった。

「彼を殺したのは私・・・私だった・・・」

私はその場で号泣した。

驚いた人達が部屋に入ってきて、何事か言っている。それでも私には自分のわめき声が大き過ぎてその人達が何を言っているのかわからなかった。

「真下華さん!」

代表の声が聞こえた。私はぼろぼろになった顔で彼の顔を見た。

「私は殺人者です。私が彼を殺したのです」

私はかろうじてその言葉を発した。その瞬間、頬をひっぱたかれた。

「馬鹿な事を言うもんじゃない!」

「でも!」

「あなたはちゃんとこの手記を読んだのですか?この手記にはあなたへの愛が溢れんばかりに書かれている。愛しているからこそ彼はあなたを抱いたのです」

「それでも彼は死を選んだ!あんなに早く自分で命を絶った!」

「それでも幸せだったのです!幸せなまま死にたかったのです。それはある意味彼の弱さだったのかもしれません。それでも一度も愛する人を抱けずに死んでしまうことよりも数倍幸せだったのです」

「そんなの間違ってる。たとえセックスしなくても長く一緒にいる方が」

「それは健常者側からの考え方です」

「健常者側?」

「あなたは健康だから長く一緒にいたいと思うかもしれません。しかし感染者は日々、食欲がなくなり、食べても吐いてしまうこともある、体力が奪われ、発疹が出てくる。そんな姿を愛する人に見せたいですか?そのまま愛する人を抱けないまま衰弱していくなんて耐えられないと思う感染者もいます」

「でもあなた達は生きているじゃないですか!」

「私達は一例に過ぎません」

「じゃあ、じゃあ突然愛する人に自殺という形で先立たれた人間はどうすればいいんですか?死んでしまった人は苦しみから逃れるために死んでしまって苦しまないかもしれない。

だけど残された人間は苦しむんです、愛し合っていると実感して、このままその時間が続けばいいと思っていた矢先に目の前から姿を消されてしまい、その理由さえわからない。それがどんなに辛いことかあなた達にわかるもんですか!」

「真下さん、あなたの気持ちはわかります」

「気持ちがわかる?ふざけないでよ・・・しょせん感染者側の考え方しかできないくせに」

私はそこにいる代表や感染者達を睨みつけた。

「そうですね・・・あなたの言うとおりです。やはり両者の間には相容れないものがあるのかもしれません。でも真野さんはあなたを愛していた。それだけはわかってあげてください。そして、彼を殺したのはあなたじゃない。手記を読んだあなたは本当はわかってるはずだ。あなたに再会しなければ彼はもっと早くに死を選んでいた。彼はあなたとの幸せな時間の為に、命を大切にしていたのです。それは白石美里さんも同じです」

「違うわ。白石美里を殺したのも私よ」

「真下さん!思い出してください。白石さんがあなたに質問して、答えを聞いた時、彼女はどんな表情をしていましたか?」

「どんな表情?」

「ええ。それにあなたは真野君の遺言を聞いたのではないのですか?」

「遺言・・・」

「答えはそこにあるのではないでしょうか?彼らは彼らなりの幸せを選んだのです。誰に強要されたわけでもない。きつい言い方をすれば彼らは弱かったのかもしれない。だから生きていく勇気が持てなかったのでしょう。でもこれだけはわかってください。エイズに感染し、死と向き合うことはあなた方が思うより遥かに辛く、厳しいことなのです」

私はもう嗚咽しか出てこなかった。

白石美里は私が答えた後、優しく微笑んだ、その答えを待っていたかのように・・・。

そして悠二は幸せだったと言った。生涯でたった一人の女性である私を愛していると言って死んだ。そして死んだ理由を私に残さなかった。

二人とも勝手だ。残されてしまう私や安藤先生の気持ちなど考えてもいない。自分達が楽になりたかっただけだ。

だけど、代表の言うとおり、死と向き合うことは私達が思うより遥かに辛く、厳しいということも事実なのだ。悠二や白石さんは感染がわかってから想像できないくらい辛い日々を過ごしていたのだろう。私達にその気持ちがわかるはずはない。だから責めることなどできやしない。


第14章


それから数日、私もやっと楽になれた気がした。知りたかった答えはとても単純だった。

私達は自分達の欲望を抑えることができないくらい若く、そして弱かった。だけど、それでも限られた時間の中で精一杯愛し合い、幸せな時間を過ごした。

私はやっと前へ進めそうな気がした。それは答えがわかったからだけではない。私は7年前、何も告げられず目の前から去った恋人に何も言う事ができなかった。これから二人でやりたいこと、話したいこと、たくさんあったのに、その全てが不可能になり、その寂しさ、悲しさ、やりきれなさ、怒り、むなしさ、そのいくつかの感情の持って行き場を失っていたのだ。勿論泣き喚くことはできた。だけど、それを受け止めてくれる人はいなかった。

あの日、あの団体で代表者や他の感染者達に悲しみや怒りをぶつけ、それを受け止めてくれた上での代表者の言葉に私は救われたのかもしれない。例えそれが納得のいかない答えでも、それが一つの答えなのだと理解することはできた。

私は一歩前へ進む事ができた。安藤先生はどんな答えを出すだろう。


エピローグ


1ヵ月後のクリスマスイブ、私は白石美里のお墓に行き、話をした。彼女はある意味、私と悠二の犠牲者なのかもしれない気がしたからだ。

そして、その足で悠二のお墓に行き、ここに至る経緯を話した。勿論何処かで見て全て知ってはいるのだろうけど。

「悠二、悠二が導いてくれたんでしょ?もういいんだね、もう、新しい一歩を踏み出してもいいんだね。ありがとう、悠二。悠二の事、絶対に忘れない」

そのとき、一瞬背中が温かくなった。彼が私を優しく抱きしめてくれたのかもしれない、8年前、初めて私を抱きしめてくれた日のように。

その温かさがなくなると、私は立ち上がった。7年前から止まっていた時間が動き出した。

「華」

「真下?」

悠二の声と同時にもう1人の男性の声が聞こえた。振り向くと、そこには懐かしい姿があった。

「か、すや君?どうしてここに?」

「いや、何となく悠二に呼ばれた気がして」

私は墓石を見た。全く、これって7年間、私を縛り付けてしまったお詫びのつもり?

「馬鹿悠二」

私は久しぶりに心から笑った。


おわり

プロローグ


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