トワの大いなる学習帳:「携帯電話」
俺は気怠い眠気を振り払いながら、生贄の儀式で供物にでもされていそうな姿勢で眠っていた体を起こし、見慣れた白い部屋を眺めた。初めてこの世界を訪れた時と比べると、今のこの部屋は俺が過去に持ち込んでそのまま置いていった数々のものによって驚くほどの情報量を内包していた。「少女」と「部屋」だけだった白い空間は、その間に「歯ブラシ」だの「ミニカー」だの「ストラップ」だのといった多くの文脈を孕みテクストを拡張させており、俺にはその様がまるで出産を待ち肥大する胎内の生物であるかのように思えた。
この部屋に召喚されるのは実に四日ぶりである。この間隔は毎夜のようにアプローチがあった往時に比べるとかなり緩やかな間隔と言える。最近俺が気の無い素振りを強めるようになったことを、感情に疎い少女も流石に気付き始めたようで、この間隔の調整も含めて近頃は彼女なりに俺との距離を測り直そうと努めているような行動が見られた。
「それ、何」
突如目の前に現れた少女(名をトワという)に指を差されて、俺は初めて自分がスマートフォンを握っていることに気付いた。どうやらアプリを操作している最中に眠ってしまったようである。
「これは携帯電話だ」と、俺はスマートフォンの能力は掻い摘んで、本質の部分だけ抜き出して説明した。宮廷料理について質問されて、飯だ、と返すような我ながら間の抜けた返答だった。
「ケイタイデンワ」
「そう、持ち運べる通信器具だな。これによって人は離れていても科学の力で連絡を取り合う事が出来る」
「通信、連絡」
「話が出来るんだ。離れていてもコミュニケーションがとれる。この機械に話しかければいい」
「科学の力・・・」
科学は少女の好きな言葉だった。理路がはっきりしているからだろう。皮肉なことに俺は大抵その言葉を説明過程を省略し誤魔化すために用いている。
「科学の力って、凄い」
「そうだな」
俺は昔なら更に何度か過程を踏んでいた彼女との問答を早々に切り上げた。近頃はなるべく打切りに努めていたが、今回はその最短記録を更新しており、俺は人間の持つ経験による技術の練磨を体感していた。
「電話、欲しい」
トワは今一度口を開いた。いつもならば俺が言葉を続けなくなった時点で少女も引きさがり会話は終えられるため、これは極めて稀なケースだった。
「いや、無理だよ。高いもん。ていうかなんで欲しいんだ?」
「連絡する。離れていても、コミュニケーション」
俺が夢の世界にいない時でも交流を図ろう、と言いたいらしいということが分かり、俺は彼女の要求を更にあからさまに跳ね除けた。そんなことをしたら彼女の存在をますます変質させてしまう。昔、自分で「私を定義づけるな」と言ったことを彼女は忘れてしまったのだろうか。それとも意識が変わったのだろうか。どちらにせよ、俺はそんな危険な轍を踏む気は無かった。というかそもそも夢の世界は電波が通るのか?
「アキラは・・・」
俺は目を閉じて寝転がり、その行動で暗に会話を終了する意思を示したが、しかし少女はなおも引き下がらず、代わりにしっかりと俺の服の裾を掴んで食い下がってきた。トワはその無表情の裏で自身に渦巻く感情を必死に言葉にしようとしていたが、それを表現する言葉を知らないために、どうにか表現出来ないものかと頭の中で思案しているのが見てとれた。目を見るだけでそれだけの情報量を抜き出せるようになるとは深い付き合いになってしまったものだなぁ、と俺は仕方なく立ち上がり、彼女を見下ろしながらそれとなく頭を掻いた。
「アキラは・・・今、アキラは、良くない」
もうちょっと言葉を捻れたんじゃないか。
「熟慮を感じない。意図的に浅識を提示して接触を回避しているように感じる」
少女は言葉を続けた。俺は黙って彼女の言葉に耳を傾けていた。
「好意的で無い。私はアキラに好意的なのに、アキラは好意的で無い。それは端的に言ってしまえば、イヤなことだ」
途切れ途切れになりながらも、なおも少女は意思を伝えようとしてくる。頭上に見える遠い星に砂を投げつけているような、そんな無謀な行いに思えたが、それでも遠い距離を繋ごうと彼女は正しい電波を求めて言葉を放り投げていた。
「イヤなことは、良くない。感情で表すなら、辛い」
トワは俺の服を掴んでいた手を放すと、自分の胸へと持っていき、心臓のある辺りに乗せてゆっくり撫でた。
「この辺りに、モヤモヤと何かがあって無くならなくなる。恐らく人はこれを辛いと言う。違う?」
彼女のその仕草に、俺はもう取り返しがつかない段階にまで来ていることを悟った。今目の前にいる存在は無知で無機質な謎の人型存在などではなく、弱々しく佇むただの人間の少女だった。彼女は無表情だったが、しかし心が無いわけでは無かった。心は表情に宿るのではない。命に宿るのだ。彼女は既に生きてしまっていた。
そして心は、コミュニケーションによって培われる。俺は彼女との交流を断絶し、彼女の心の成長を抑え込もうと画策したが、それは見当違いの考えだった。ただ交流するだけがコミュニケーションではないのだ。拒絶も立派なコミュニケーションなのである。少女は俺に拒絶されることで、不確かな不安感を強め、むしろ足りなかった心の作用の発見を促すことになってしまった。「コミュニケーションがとれなくて、寂しい」。これも立派なコミュニケーションの作用と言えよう。
俺が今更小手先で何か考えても意味は無かったのだ。俺と彼女が初めて会った日に全ては決していた。俺が彼女に名前をつけたあの日に。
「トワ」
俺は少女の小さな頭に手を乗せながら、彼女がどうなろうが最後まで付き合ってやることを心に決めた。
「悪かったな。買ってやるよ、ケータイ」
今日学んだこと
携帯電話・・・遠距離時におけるコミュニーケション手段。
・私とアキラを繋ぐこの部屋と類義。
・久しぶりにアキラが沢山話した。私は嬉しい。