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GG&CK番外編  作者: 根井
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小話 スーパーコンピュータ編(後編)

2、死神と魔女


 ガラス張りの向こうから芝生を挟んだ道路を照らすライトによって、真っ暗な屋内が橙色に縁取られている。それは、締め切られた議員会館のフロントロビーの中。


その端にある待ち合いスペースの椅子に深く座った一人の男が、その奥にパチパチと瞬く暖炉の火を唯一の灯として、片腕を左右に動かしていた。


その細長い指の先には、暖炉の光に黒く、また橙色の瞬きを中に灯して浮かび上がるチェスの駒があり、それらは白黒の盤の上、男の隙のない手腕によって、数式的に美しい棋譜を木音と共にゆっくりと刻んでいく。


「あと2つ…あと2つで、このままいけば19手で…。」


黒影が灰の瞳だけを仄暗く灯して、独り言を呟く。

そうして指先につまんだ白のビショップを端の白に移動し、白銀のキングを牽制の光で瞬かせた時、もう片方の手で真横に掲げたアイパットが、無慈悲に電子番に文字を浮かびあがらせた。


「また…駄目か…!」


途端男―、アーサーはか細い声をあげて条件反射的に盤上の駒を握り潰してしまう。

まるで今までの智慧を尽くし壇上に記した棋譜を一気に恥じる様に、己の軽薄な頭と共に一心不乱に。

それによって弾かれ、艶やかに波打つ床面に甲高い音を立てて転がっていく駒を、忌々しそうにアーサーは眉を顰めて見下ろし、やがて斜め上に目を向け誰もいないロビーの中、らしくも無く舌打ちもしてしまう。


「出来ない、か…。」


言いたくもなかった言葉を転がる駒の音がかき消すも、それがより苛立ちを増して無表情の中に澱むクマを深く刻みつけた。


 アーサーはこうして、睡眠時間を削り真っ暗な会館のロビーに籠もっては机の上にチェス盤を置いて、手持ちのアイパットにダウンロードしたレッドブルーと共に、毎夜チェスをしていたのだった。


目的は勿論、魔女が成し遂げたという-「19手による勝利」を自らも達成するがため。


しかし最初の夜、チェス盤を前に椅子を引いた時にざわついた胸の心地が、こうして当たってしまった事に、アーサーは今、連日の疲労でだるくなった体で椅子にもたれ両手を組んでふてくされる。


レッドブルーに対しアーサーは「勝てる」事こそは出来るものの、それが「19手」までにという縛りにおいてではレッドブルーは実に厄介な「相手」であった。


どんなにその単純かつ無難なルートを読み取って、人間であるが故に思いつく様々な独自な手法でもって攻めようともレッドブルーは偶然か必然か否か、仕掛けた罠をするりとかわし、棋譜を乱してしまう。


伊達にMITに作られたものではないというアーサーの「予測通り」に、立ち聳えるその「壁」に、「19手」で勝つという目的は何度やっても達成されない。


さっきのが特に「あともう少し」だったなだけに、悔しさは己でも計り知れず程で、それを確かめるようにアーサーは唇を噛んでいた。


それに、と目端に机の上に置いたブレゲの腕時計を見ると、銀に光る鋭い短針が午前4時を諭す。

午前にしては深夜のように真っ暗な会館からアーサーは冬の寒さを思い知り、身を震わせてはそれを抑えるように腕を組んだ。


午前4時。 身を震わすと共に湧き上がった焦燥感に更に眉を顰め足を鳴らす。


午前の議会に臨むためには少なくとも6時には起きなくてはならない。

ここから自宅まで戻ってシャワーを浴び、ベットに寝るまでの時間を含めて考えると、そろそろこの時間に止めておかなければ「体力」が持たない。


今までの経験からおそよ間違いない予測を素早く固めてみるも「まだ。」と口にこぼした言葉との齟齬に駆られ、動けないままでいる。


しかし議員として万全な体勢で望まなければ支持者に顔向けが出来ないと、矜持も持ち合わせているアーサーはやはり帰らなければならないと椅子を引こうと腰をあげる。


が、机の上に置かれたガラス張りの白黒の盤上を見た瞬間、がたんと椅子が揺れ、アーサーは背もたれにもたれかかってしまう。


この際、睡眠時間を削ってしまえば良い。

緩んだ眼を押し潰すようにこすり呟いた。例え眠れずともその分は何とか「頑張って」やり過ごせば良いだけだ。


とのばした時に広がる体のだるさなど無かった事にし、アーサーは白のクイーンを握った。後1つ後1つと麻薬に憑かれたように、アーサーは自らの残った力を貪りながらチェスに没頭していった。


***


 「で、結局2日経っても19手で終わらせられなかったと?」


長丁場だった仕事が終わった隙間時間の事。抜け殻のように椅子に座って俯き顔に影為すアーサーに対し、ミナが淡々とその結果を呟いた。


肘掛けの上に置かれた両腕の裾からは、元から細い手首が更に細く青白くなったものがぬっと突き出ていて、裾口の広さを強調している。その袖口を困惑した面持ちで一点で見定めながらミナはぐるりと執務机を回ってアーサーの右隣に付く。


「仕方ないですよアーサー様。最近、仕事詰めでお疲れなんですし、幾らアーサー様でもその体調では力を発揮出来ません。」


「そんなものは言い訳にすぎない。」


自らを咎める低い声に、ますますミナは首を傾け、机の端に手をつけながら更にやつれたアーサーの顔をのぞき込む。


「アーサー様?どうしてそんなにムキになる必要があるのです?

貴方様はコンピューターのプロでも無ければ、ましてやチェスのプロでもありません。お立場からいっても、貴方様が是が非でも魔女に勝たなければならない道理などどこにも無いじゃないですか。」


右肩に垂れた黒髪を揺らし諭してみるも、アーサーはますます澱んだクマの中から視線の合わない灰の目を浮かべながら、両手を口元に掴み、


「そういう問題ではない。」と言った。


「これは最早自分の都合など関係無い。なんとしでも私は「彼女」に勝たなければならないのだ。」


その言葉の奥深くに何かアーサー個人の情念が垣間見た気配に、ミナは今度は反対側に長い黒髪を垂らして首を傾ける。それをちらりと俯いたままアーサーはミナを睨んで言った。


「・・・君には分からんさ。」


「ええ、分かりませんね。」


とあっさり応えてミナは業務へと背を向けた。あ、そうそう。と机から手紙を取り出し、さっきアーサーの前に立った理由を改めて思い出しながら、再び前へと立った。


「そのために助言を受け取ろうとアーサー様はお友達に手紙を出されたんですよね。はい、今になって届きましたよ。そのお返事。」


と言う間際に素早く顔をあげたアーサーにのぞけりつつ、ミナは気まずそうに掲げた手紙を見上げて言った。


「まあ、でも・・・・あまり良いアドバイスはいただけなさそうです、が。」


と、手の感触で分かる薄っぺらい中身の手紙。しかしその返事を待たずアーサーは手を出しミナからそれを受け取った。


爆発物かを確認するために既に切られた黄色い便箋の封から、細い手首を突っ込んで取り出したのは、ミナの予想通り、たった一枚の中折りの手紙だった。


青いインクが滲む羊皮紙を開けば、達筆な斜体の筆記体が並んでいる。その古めかしい青い文字に、相変わらずだと、アーサーは取り巻く仲間とは異なる、久々に気の合う彼の感性を窺い知る。


そして、手紙の中身と言えばそれもそれで彼の性格を表すように、淡白かつ簡単にまとめられたものであった。


「アーサー・ベリャーエフ氏へ 


先日の手紙拝見致しました。なかなか難しい挑戦のようですね。少しでも助けになれればと私も同封された棋譜を確認しましたが、「相手」の技量はなかなかだと私も読み取りました。


この相手に19手で終わらせる事など、大変口惜しい事ではありますが、私でも達成する事は非常に困難の事かと思われます。


しかし、実になんとも奇妙な棋譜ではありましたね。

特に11手目。急にその相手の駒が今までの狙いから変わってしまった様な気がします。


気づいた事といったらそれだけです。私はそのスーパーコンピューターという者の事は具体的に把握しきれないので適切な助言を申す事は出来ません。


余り助けにならず申し訳ありませんが、貴方のこれからの健闘を祈っています。興味深い手紙をありがとうございました。」


彼の名前を読もうとした間際、灰の目は手紙の内容に半ば切望したような面持ちで背後の窓へ目を向け、手紙を元に戻した。今までの内容はすべてアーサーが既に把握していた事であった。しかし、同じ事に気付いていたのはさすが彼だと諦めと感嘆を入り混じったため息をつく。


「明後日か・・・・MITに報告しに行くのは・・・・・。」


「ええ、そうですよ。所長にも会いに行く予定ですよね。」


「そうだな・・・・その日は雨でも降れでもすればいいが。」


「え、えええええ?」


手紙を持って立ち上がり、事務所を出て行くアーサーの横をミナは大仰に口を開いて見帰った。


「アーサー様が、仕事に行きたがらないなんて!!」


滅多にない事だと、振り向かないアーサーの背中を見ながらミナはそこでようやく「彼女」の手ごわさを思い知ったのであった。





3、コロンブスの卵


 その日はアーサーの懇願通り霧の深い雨となっていた。


しかし移動する際には何ら問題もなく、アーサーとミナは霧を切り裂くリムジンに並んで乗りMITへと向かっている。


「結局、この日になっても解決しませんでしたか。」


「ああ。」


しとしと雨が窓を濡らす中。冷気のこもった車内で顔を向けるミナは、アーサーがあからさまに「言いたくない風」に素早く返事をし、前を向いたまま腕を組んでいるのを伺った。


「仕方ないですよ。なんてたって相手は魔女なんですから。」


と気休めに、スナックを頬張りつつ何ともない風に応えてみるも、真っ白の窓の風景を背後に目端の相手は眉をひそめたままだ。それにミナは気まずい冷気を振り払わんと、やれやれと首を振りつつ話題を変えようと口を開いた。


「そういえば、スーパーコンピュータが人間とチェスで戦ったのはこれが初めてではなかったんですよね。確か有名な話では1997年にあった・・・」


「IBMのスーパーコンピューター、「ディープブルー」と当時チェスの世界王者だったゲイリー・カスパロフと対戦の事だな。「コンピューターに負けることなどない」と豪語していたその世界チャンピンをまさかのディープブルーが「47手」で打ち負かした。それはスーパーサイエンスの新たな一手をも投じたとされる、世紀の対決とも言われている。」


と、ミナの予想通り、突然アーサーは腕を組んだままミナが知っている事以上の説明をつらつらと語った。


「そうですよね。ほら~それだったら尚更今更、コンピュータに人間が太刀打ち出来ない事なんてそこまで悔しがる事はないと思います。」


「いや、あの対戦には実は少し細かい事情があった。」


「え?」


と訝しげに首を傾けたミナに対し、アーサーが分かりやすく説明するために思考する時間で一瞬沈黙が走った。


「・・・・第一局目の終わり。ディープブルーが為した一手が、「とても奇妙」だった事にカスパロフは混乱したんだ。それは、今までの手駒とは明らかに異なる洗練された動きだった。

まるで、守りを固めながら、同時にその後反対の動きをすることを微塵も悟らせないような、コンピュータではありえない人間のような動きだったという。

その事にカスパロフは戸惑い次の一手を乱され、そこで敗北したのだ。一時期あの手には、人間の手が仕組まれていたのだと唱えるプロもいたらしい。だがしかし・・・その本当の理由はディープブルーのただのバクだと後に判明された。」


「バグだったんですか!?」


頭の中で外の霧のように広がるもやをかき消す、「バグ」という文字にミナはさっと目を覚ました。


「そう、つまりそれは意思的なものではなく、―いや、そもそもスーパーコンピューターに意思などは存在しないが、その電子運動の誤作動によって、本来の動作から外れてしまった手がたまたま人間の目からその様に見えてしまった、という事だけだったんだ。つまりは、だたの誤作動に対し、我々人間は物言わぬ箱の前で人類の敗北だの、屈辱的瞬間など勝手な妄想をぐたぐたと言い争っていた、という事だよ。まあ、何とも教訓めいた話だったな・・・。」


「・・・・アーサー様、スーパコンピュータにもちゃんと意思はあるんですよ。」


「ミナ、私は別にそういう話をしたかった訳ではない。」


アーサーの説明にうなづきつつ頬を膨らますミナを、アーサーが瞳だけを動かして見据えたその瞬間、アーサーの瞳が車の揺れと共に上下にゆらんだ。


「バグ。」


そう呟いた途端、視界のミナは一瞬にして曇り、一斉に棋譜の羅列と文字列がアーサーの横を通り過ぎる。それを左右に読みながらアーサーはさっと後ずさって目を覚ました。

その時に、体の揺れに気付く。車が雨を弾いてきゅっと音を立てて止まったのだ。


ミナが「正面玄関についたようですね。」とそこからドアと傘を開いて車出て側に立った時、アーサーは途端、差し出された傘も構わず車から降りて走り出していった。


「アーサー様!?」


ミナの驚く声を背後に、アーサーは開かれた入口の扉を真っ直ぐに走り抜けた。

一度来た覚えのある最短のルートを、息切れの頭の中に巡らしながら濡れた体で床を濡らして走る。


やがて激しく息を切らしながら壁に手をつき部屋の前に立つと、その奥の硝子の向こうから、漆黒の黒い箱を背景に、彼を待っていたサーラーと、その弟、そして白衣を着た小太りの所長がアーサーの姿を見、驚きで口と目を一斉に開く。


「ちょ、アーサー・・・様・・・?」


短髪を雨に乱れ濡らし、犬歯のある口を大きく開いて苦しそうに白い息を吐くアーサーは、そのまま真っ直ぐ部屋のドアを力強く開いて彼らを見据える。


そして、黒い箱の前に置かれた盤上に棋譜の書かれた紙を置いて、両手を真っ直ぐのばしたまま盤上を棋譜ごと握り締め、棋譜を雫によって濡らした。


「・・・報告に参りました。この、魔女が成し遂げた19手のカラクリを。」


「なんですと!?」


アーサーの突然の行動に避けていた3人は、揃って彼に寄り両腕に隠された顔を覗き込む。アーサーは肩を上下しながら脇目をふらず、きっと顔をあげ目の前に迫る黒い箱―、レッドブルーを睨んで言った。


「魔女がわずか19手でこれに勝てた理由は・・・これのせいであったのです。」


切迫した声色で言うアーサーにサーラーが口に手を当てて戸惑う中、脇からその弟が慇懃無礼に肩をすくめて声をあげた。


「・・・アーサー様。まっさか、あのディープブルーの様にバグが起こったからとか、言うのですか?それならばありえまん。僕らも其処らへんはきちんと確認しましたよ。しかし、あの時レッドブルーはバグなど全く起こしていませんよ。」


姉のサーラーーに首を絞められつつ、それに両腕をあげて首を振る弟にアーサーはびっと濡れた棋譜の書かれた紙の先を、彼の不抜けた顔につきつけた。


「それだ。それこそが魔女の「狙い目」だったんだ。」


「は・・・?」


「これを見ろ。」


と顔をすくめて慇懃に光る灰の目が、弟の背中をさっと冷やす。それを恐れつつ弟は棋譜を受け取った。しかし、幾ら読んでもそれから謎を解く手がかりを眼鏡の奥から捉える事は出来ず、両側から覗き込むサーラーと所長と共に首をかしげるだけである。

そこから、独り言のようにアーサーは語った。



「・・・問題は11手目だ。どうだ、そこから急にBf2なんておかしいだろ。そして、そこからレッドブルーの手が変わったと思わないかね。その途端急に萎縮したように攻めるのをやめ、為すがままに魔女の手駒に翻弄され、19手で終わってしまった事が容易に伺えるではないか。」


「いえ、貴方と違って我々凡人はこんな文字列だけじゃさっぱり分かりませんが・・・。」


睨むアーサーを、紙の影から窺う弟は畏れに汗を垂らしつつ呟く。横から所長が白い顎髭を撫でながらそれを見下ろしつつ言葉を続けた。


「なんだね。つまりは11手からの後ずーっとレッドブルーの調子が悪くなっt・・・いいや、バグが起こり続けていたというのかねえ。」


「馬鹿な!だから、さっきも言った通り、そんな事は絶対ありえなー」


と言いかけた所で弟はかっと目を見開いた。それにアーサーは遠目からゆっくりうなづいて口を開く。この19手というカラクリに隠された衝撃の「一手」を。


「バグだったんじゃない・・・レッドブルーはハッキングされていたんだ。」


それに3人は一斉に現れた応えに戸惑い、動かなくなった。

その中でアーサーは儀式のようにして淡々と語る。漆黒の箱を見上げながら遠くにいるであろう「彼女」をぼんやりと浮かべて。


「レッドブルーは11手から既に魔女にハッキングされ、操られていたのだよ。

それを君達、開発者に気づかれないまま達成出来るかどうかこそが、彼女の本当の「狙い」だった。

チェスに19手で勝てるかどうかなど、・・・本当はそんな事、彼女にとっては「どうでも良い事」だったんだ。」


その脇で弟がサーラーに肩を掴まれながら、がくがくと棋譜の紙を掴み身を震わせ、膝を曲げて叫ぶ。


「つ、つまり、なんでって事ですかぁ?!要はこの棋譜は・・・11手よりこの先は・・・!魔女によるただの「一人相撲」だったて事なんですかあぁぁぁ!?」


「ああ、そうだ。それが世界原理の中で唯一、レッドブルーという「物」に、「19手」で勝てる唯一の方法だったという訳だ。サーラー捜査官の言うとおり、実にとんだ茶番だったて事わけだよ。」


かつんと甲高い音に一瞬3人がアーサーの方を見た。彼は今、机の上に置かれた白黒のチェス盤を落としていた。その中から白黒の駒が散らばり硝子の様に艶やかな床に転がる。


しかし、それをも構わず呆然とレッドブルーの端をだらんと両腕を垂らしたまま見上げているアーサーの浮かんだ灰の目に、さしものサーラーもはっとたじろいだ。


やがて姉と同様気性の荒い弟の、膝をつく嘆きが白い部屋に反響する。


手品のタネ明かしはいつも興ざめ。


しかし、MITの連中にバレずにクラッキングを出来た事を示してみせた、魔女の「本来の目的」は確かに達成された訳であって。立ち尽くす3人共、それを見破れずに嘆く事が、魔女の「完全勝利」の合図である事を悟っていた。


その嘆きに続いてアーサーも呻く。

誰にも聞こえず、誰にも示さず無表情のまま、黒い端が意思のあるようにぎらりと瞬いている黒い箱ただ見ながら。


ああ、君は。


そんなどうでも良い「19手」に、必死になってしがみついて。


ああだこうだと、この身がやつれるまでもがき続けた私は―、貴女にとってははさぞかし、




「滑稽に見えた事だろうなぁ。」



やがて、その目端に白い裾の靡きと共に、遅い拍手の音が聞こえた。

と、所長が端の椅子に倒れるように座り、脚を組み交わして手を叩いていたのだった。


その顔は、自ら、いや―1997年から変わらぬ人間の愚かさを嗤うように口角をあげ、肩をすくめて目を瞑っている。しかし、その後開かれた目は、黒い箱の前で立つアーサーを尊敬の青い眼差しで細めていた。


「ありがとうございました、ベリャーエフ議員。私たちは負けこそはしましたが、何も気付かないままという、最悪の事態だけを回避する事は出来ました。それ以上の恥をかかなかったのは、何よりも貴方の奮闘のお陰です。本当に、感謝致します。」


隣で嘆く部下の背中に手を当てながら、所長は頭をもたげ膝の上に手を置いて言った。


「もし貴方がよろしければ…何か此方からお礼をさせていただけないでしょうか。出来る限りの事でしたら、是非叶えさせてください。貴方はそれ程の事をなさったのですから。」


それに困惑気味に、かつほんのりと頬を染めてサーラー捜査官はただ黙って所長を見下ろすアーサーを見る。と、彼はやがて短い灰の睫毛で目を伏せつつゆっくりと首を振った。


「いえ、それには及びません。ただ・・・。」


「ただ・・・?」


さっと顔色を変えるサーラーと所長の手前、アーサーはうずくまる弟の前に立ち、そっと、彼が両手に掲げていた棋譜を取った。

そして再び背を向けスカイビーンズの前に顔を向けてしばらくじっ、とよれてしまったそれを見つめている。


その精錬な横顔にサーラーが胸に手を置いたとき、アーサーは微かに顔を此方に向けたまま小さく口を開く。


「…この棋譜をいただいてもよろしいでしょうか?」


「え?…ええ、それは勿論ですが…どうしてそれを?」


所長の問いに遂にアーサーは答えなかった。

再び棋譜を掲げそれを見つめ続け、それ以上、彼が何かを呟く事はなかった。



***


「・・・・という事だと思うのさ。」


と、言い終わった時に吹き荒れる春の風。それに心地よさそうに目を瞑ったゲオルクは、わずかに残っている左腕の方を枕にし、白い布生地に覆われたサラの膝の上に眠った。


「・・・まあ。」


と魔女は寝息を立てる彼の、僅かにくすんだ金髪をまるで蝶を掴むかのように、そっと撫でて整える。その愛おしそうに老人を見下ろす群青の瞳は、遥か彼方まで広がる眼下の空を見る。


「だとしたら・・・・殿方という生きものは、なんとやりにくいものなのかしら。」


と彼が起きぬ様に一言、すっと口角を交互にあげながら呟いた。

老人のために向けられたはずだった眼差しは、やがて円状に広がる薄く白い雲へとー、そしてまだ見ぬ遥か先の彼に注がれていく。


「でも好きよ。」


最後にそう「魔女」は囁いた。ざあっと赤褐色の髪が彼女の頬を撫でるように揺れる。


「そういう(ひと)、私とっても好きなのよ―。」



***


 ミナは時々後ろを見る。仕事中のちょっとした息継ぎに、ちょっと何か別の事を考えていたい時に。


すると、たまにだがそこにアーサーもいたりする。


彼はその時決まってたまにしか吸わないタバコを吸いながら、古物の棚の上に置かれたインテリアを眺めているのだ。


今までは他の例に漏れずそこには家族の写真や、甥っ子からもらったブリキのおもちゃなどが置かれていたが、そこにまた新たな「物」が飾られた。


最近はずっとそればかりを眺め、アーサーがタバコを口端に咥えながら煙を燻らせているのをミナは知っている。


それはアーサーの手によって丁寧に広げられ、綺麗に額縁に収められたアルファベットと数字の羅列。その隣にはこっそり洒落っ気も込めて、白い薔薇も添えて。


事務所の来客がこれを何かと訪ねたら、彼は適当に応じつつも、決してそれを説明する事はない。まるで、それを「自分だけの秘密」にしておきたいように。


「でもアーサー様。私は知っているんですよ。」


と、薄い煙の向こう。一点にそれを見つめている微かに「輝く」灰の目を伺いながら、ミナは気付かれないように微笑む。


それ以降、「スーパーコンピュータの浅知恵」という言葉を彼が二度と言わなくなった事にも。



〈終〉



番外編1話これにて完結です。読んでくださってありがとうございました。


さて、この話はシャーロック・ホームズシリーズの中で度々論争にもなっている「アイリーン・アドラーとホームズの関係性」をちょっとした小テーマにしました。


実際、ホームズがアドラーに恋心を抱いていたのかというのは、原作で具体的な描写が無いためにその有無は人によってそれぞれです。


その中で私も(自称)シャーロキアンとしてそれなりに考察し、実際どうだったのかを、アーサーと魔女子との(どちらかというと一方的な)やり取りと重ねて見出してみようとした次第でした。


さて、ゲオルクはどう魔女子に答えを出したのか―、それはあえて書かないまま、皆様の想像におまかせしたいと思います。

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