第九話
明けて翌日。
ラウナルの岸壁はトマグトの木々よりも高く。ツェーベルが優馬へ教えたように、鋼の船を岩の谷底へ誘った。
川幅およそ八百メートル。大河を抱く急峻な峡谷は人を寄せ付けず、生憎の曇り空は天中刻でも決して明るくはない。
一雨来るだろうか?
広さのおかげもあって空は良く見えるが、ツェーベルにもそれは判断しかねた。陸の天気なら海の男よりずっと予報の自信はあるものの、谷底にあっては空の果てまで見通せず。風の流れも独特で、湿気も川ということで常に濃い。けれどきっと、晴れにはならないだろう。裏打ちのない勘とはいえ、馬鹿にしたものではない。霊的に何か感じたのかもしれないからだ。
それでも、イドラ大橋につけばさほど意味の有ることではなくなる。気にすることがそもそも無駄なのかもしれない。
気づいてみればそんなことを考えていた自分に、ツェーベルは緊張の時を前にして浮き足立っていると判断を下した。
ライドーム南部を主な活動の場所にしてきたから、イドラを見るのは初めてだし。そこに待ち構えるものがあると思しければ、恐れか武者震いか、どちらとも知れぬものが心に生じている。
深く吐いた息が熱いのを確認して、ツェーベルはそれを武者震いによるものと結論し。まっすぐに前を見つめた。
『アストナの葉』号は最後のくねりをやり過ごして。
両岸を結ぶ「線」ではなく、それに加えて谷底まで埋めた、「面」に行き着いた。
イドラ大橋は橋ということになっているが、初見のものがそれを橋と認識することは稀だ。
まず二つの岸を結ぶこと。これはよい。橋の役目であろう。しかしそれがより広範囲に渡り、谷を覆う天蓋となって。ましてその下、谷底にまで居住性のある階層構造を持っているとなれば、果たして橋と呼ぶべきなのか。
橋長およそ千メートル。全幅およそ千二百メートル。同様の構造が三十層程に、高さおよそ三百メートル。
構造体周辺の町並みも合わせた積層都市。それがイドラ大橋の実態である。
「ふへえ……」
甲板間際の覗き窓から眺めて、優馬は感嘆の声を漏らした。
トマグトの時に味わったのとは違い、余裕がある今は心全体で感動出来る。大河の中に忽然と現れる木と石からなる壁。所々にあいた監視窓に見え隠れする人と、それに合図を送る甲板の船員達。『アストナの葉』号は徐々に速度を落として下部開口部へ滑り込み。闇の港の一角へと身を寄せた。
船舶にも港にも、夜目の効く者が半数はいるものだ。明るい時と変わりない滑らかな入港である。しかしどこか動きに独特の硬さがあり。いや、恭しいというべきなのだろう。偉人を迎えるための礼を備えた、港そのものが持つ雰囲気と食い違う気配が、闇の中を行き交う人々に宿っているのだ。
アリュブーの狙い通り。自分たちの迎えのために人々は群れ集って、行くべき道を形作ってくれている。人という壁の隙間を縫う道。無論、刺客までもが壁の中に紛れている懸念はなくもない。
それでも、相手方の動きを著しく阻害することは出来るだろう。こちらは守るべき対象をしっかり囲めば良い。
相手が人の肉壁を意に介するという前提はあるが……。
ドワーフ三組織であれば、気にすることはあるまい。彼らは時に手段を選ばないといっても、自分たちに反動のないスマートな手段をこそ選んでくるはずであるからだ。
「船旅、終わり。物寂しいな」
下船の段となって。隣に立つツェーベルのつぶやきで、優馬の胸に数日のことが去来する。
『アストナの葉』号は今や、優馬にとってこの世界を象徴するものとなっていた。最もその身をおいた場所にして、多くの未知を既知にした場所。あらゆる意味で以前の自分とは違うものになった思い出の地。
その付き合いもこれで終わりだ。
ゼナストやアリュブー。女学生たちも集うこの部屋に、船長の姿もまたあった。寄港してからそうは経っていないものの操舵室は近く、別れを告げるため足早にここを訪れたのだ。
近くいた者達は早くもそれを済ませ、ツェーベルと優馬を認めた船長が足を伸ばす。二人も踵を返し向かい合って。
「船長。本当に、ありがとうございました」
ツェーベルも彼の母語で例を述べ、船長の鯱顔が微笑みを浮かべた。
幾度もしきりに頷いて、恐れること無く優馬の肩を叩き。それから、何事か呟いて去っていく。
「元気で、って。船長、日本語。下手。俺より」
船長との会話が航海中なかったことに、優馬はふと思い至った。乗船する時の物言わぬ励ましや、船内で時折垣間見る堂々たる様が印象深く。話さずとも心に残っていて、今の今までその事に気が付かずいたのだった。
今からでも、とは思うが。ツェーベルがそういうのなら難しい。
こちらはまだクストラ語を習い始めたばかりだし、船長も日本語が殆どできない現状。通訳なしでは不可能だろう。それに、もう『アストナの葉』号は降りてしまうのだ。アリュブーを待ちわびる人々が港に詰めかけ、それを利用する関係上自分たちもそれから遅れるわけにもいかない。
どうやらそうして迷う時間も僅かしか無く。アリュブーの高い声が優馬の耳にも届いて。
もう一度船長の背中を見ると。深く、せめてとばかり頭を下げた。
あちらの神話の人物は海を割ったが。現代でも、有名人は波に揉まれるか海を分けるかの二択だった。
アリュブーはどちらかと言えば後者だったらしく。『アストナの葉』号を歓迎するために群れ集った人々は姿を見るや態度を控え、彼女が一歩踏み出すごとに行先を示して左右へ退いていく。
予め備えていた星霊学団の者達が示しをつけた部分も確かに多いだろう。しかし群衆はそれのみによらず、己の意思で成したことも確実であり。退かせるため駆けつけた戦士団に、ほとんど疲労がなかったことがそれを証明している。
だが彼女以上にそれを成さしめたのは、やはり優馬であった。正確なところをいえば、悪魔か。彼自身にその力はない。群衆を慄かせたのは悪魔と、封印を施されたものものしい木箱である。
ツェーベルとゼナストに脇を固められてのことだが。アリュブーで盛り上がった熱は一瞬に冷め、焼け石になどとよくぞ言ったものだと。諺に対する嘲笑が、優馬の脳裏を過ぎった。ただ人々の反応は興味深く。トマグトではもっと熱心に、見に来るほどの勢いを感じられたものが、ここイドラでは恐れ離れて決して寄り付こうとはしない。
確かジャパンのある場所は、作形が現れた場所を中心とした周辺であり。それこそが歴史に残る出来事始点ともなれば、近づけば近づくほどに人々の反応が劇的になっていくのも当然かと。知的好奇心に寄りかかって分析してみれば笑みすらも浮かんで。薄く笑う姿に人々は、一層優馬を恐れたようであった。
そうしたこともあって芋洗いの憂き目に会うことなく。出迎えの人々をやり過ごして水車エレベーターに乗り込み、目的の階まで素早く上ると。優馬は無事、控え室へ到達することが出来た。
こうした方法をアリュブーがとった以上、彼女はイドラの上層部へと挨拶をせねばならず。それが済むまでの間、過ごすための空間である。『アストナの葉』号でそうだったように、要人を想定しているらしい部屋は居心地よく。家具はもちろん調度品も落ち着きと気品を持って、ストレスの低減を念頭に置いているのが窺える。
できるだけ早く終わらせると、提示された時間は六時間。
何かを待つ状況だと些かばかり長い時間を過ごすには、悪くないものであろう。
「よっこら、せ。っとお。や、ちょっとゆっくりしたでござるっすね」
プラハッタは卓の上。優馬がベッドに、ツェーベルが椅子に腰掛けて。ゼナストも備え付けられた椅子を引き出し、どっかと体をあずけた。
彼の任務はまだ終わっておらず。むしろ今こそが一番気を張るべき時であるとは、優馬も知っている。けれども様子をみるとどこか気が抜けて、少しでも体力の回復を優先しようとする気まで見え隠れしていた。
優馬自身が人垣から抜けて安堵しているのと同じように、ゼナストも一時の安息を喫しているのだろうか。常に気を張っていてはいざというとき動けない。そう考えると、納得は行く。
「なんか、ゆっくりしてるね。ゼナスト」
「ああ。娘っ子らいないで、心軽々てなもんよ」
「ふむ」
女学生たちとは、ゼナストの言う通り今は離れている。
彼女たちも彼女たちで何かしら用があるらしく、それを済ませに行っているのだと聞いたが。優馬は詳しく知らない。学院の方に行くとも聞いたので、学生らしい用でもあるのだろう。それについては一先ずおいておくことにした。
「あんまり、気を張ってる感じ、無かったけど」
気になるのは、そこだった。
船に乗っている間中、ゼナストと女学生たちが触れ合う機会はとても多くあったし。一緒に授業まで受けていたが、その時に硬さや張りを感じることはなく。優馬には静かな時間を過ごしていた覚えしか無い。
実は自分が気づかなかっただけというのも、十分考えられる話しではある。ならそれは一体どういうことか。
プライベートに踏み入る重さを喉に覚えたが、さり気なく尋ねて見ることにした。
「そう見せないくらい出来るますよ。伊達に教師してない」
「じゃあ、何に気を張ってた?」
「ダークエルフの奴いただろ」
「うん」
良く覚えている。
折しも昨晩、褥を共にした相手。印象も新しく鮮明で。姿形は目の前に居るように。肌触りは今触れているかのように。思い出すことが出来る。
それがどうしたのだろう。頷き混じりに首を傾げた。
「ダークエルフって、俺達恐竜人信仰してる。教師として敬われるのいいけど、拝まれる勘弁して下さい」
自分が今浮かべている表情は、きっと変な顔と呼んでしかるべきだと。優馬は自信を持っていうことが出来る。
それほど、ゼナストの発言は疑問を呼び起こしてくれた。
トマグトや、舷窓から見た河口の街。そして先程の人だかりに恐竜人であろう姿を。少ないとはいえいくらか見てきた記憶が確かなら、ダークエルフはそこら中にいる人を信仰していることになってしまう。果たして、そんなことがあり得るのか?
いや、あり得るのだろう。
ゼナストは当の恐竜人であるし。なんとなくこの世界の雰囲気を掴みとった優馬は、教師であることの重みが少しは分かる。嘘や冗談で言っているようには見えない。
つまりダークエルフは本当に、恐竜人を信仰している。
道行く人を信仰する感覚。日本人的な感性では、変な宗教にハマっているのかと思わざるを得ず。優馬は曖昧な笑みを浮かべて。かしげていた首を、反対の方向にかしげた。
「なにか、理由が?」
大きくは、昨夜に抱いた相手であること。
隅々まで触れた相手が妙な行動を起こすというのを、優馬はまだ許容出来る歳ではない。心が変にざわつくし。納得出来るだけの理由を求めるのもむべなるかな。
学術的興味もまるでないわけではないものの、今大きく重要なのはそこである。
祈る思いで身を乗り出した。
「そうだな。これ第四紀。んまあ、神話の頃だいってもある程度間違いじゃないかもだぜ。ちなみに今が第五紀でござるますが……曰く、恐竜人は神だったって話在るです」
「神、だった?」
「おう。地元古老もまことしやかな言ってた。本当どうか、知らんですが。それでダークエルフ、恐竜人作ったとかで。ダークエルフ限らず寿命長いやつ、信じてるみたいぜ」
上がりかかっていた肩が下がっていくのに気づいて、優馬は長く息を吐く。
自分でも気づかないほど、かなり気にかかっていたらしい。そしてゼナストの説明に納得することが出来たようだ。
「まあ。知っての通り種族は目安で、熱心拝むの古風趣味。そこを特徴に見れば、らしいダークエルフだな」
「つまり、あの娘って古風な趣味なんだ」
「そうだ」
「ふうん……」
そそる。
安心したが早いか。優馬の心は既に、彼女を引き立てる材料へと向かっていた。出来れば古風な趣味というのも、昨夜のうちに知っておきたかったくらいである。
具体的にこちらで古風といえばどんなことか、よく知らないとはいえ。古風な趣味であるという事自体が重要なのであり、よっぽど突飛や危うげなものでなければ、人を飾るものとして見れるのは優馬にとって普遍のこと。
そうして考える自分が、なんとも卑しくて頼もしい。
優馬の自認するところだと、これこそが自分本来の調子なのだ。復調している。実に喜ばしい。
思い出せば思い出すほど。エルフに人間の女学生と交わした夜と、昨晩のダークエルフと交わした快楽は、まるで違うものであったのがわかってくる。貪り逃げるものから、楽しみ追うものへの変遷。
女へ積極的に向かって行こうとする気性はかつて無かったものだが、これは本人にとり好ましい変化であり。
自然と、興味は今夜の相手となるだろうゴブリンの女学生に移っていった。ダークエルフの女学生では逃してしまった今のことを、今度は逃さず平らげるためである。
さて、何を聞こうか。
生い立ち、は凡そわかる。この世界での親子関係や男女関係は、衝撃的な思い出として刻み込まれた。外れている存在の可能性も捨て切れないため、養育院などのこともついでに聞いておこう。あとは詳しい人柄、普段の行状。こちらは欲望が透けて見えて少々憚られるが、それとなく聞いておきたい。肌の触れ合いではより重要である。
優馬の思考は加速する。
これはそう、余裕の現れであり。本質的な部分であり。高まり留まる緊張をほぐすための、無意識の処置でもあった。
しかして本能は、危険であることを決して忘れはしない。ほどよく精神が和らいで、肉体によらぬ性的昂奮が一定得られたと見るや、脳内にその疑問は提示された。
「一応種族の特徴みたいなのはあるんだなあ。あ、ドワーフは?」
自身を付け狙うと目される存在、ドワーフ三組織。
目下の敵であり。また見たことはなくとも、存在を知っているもの。
ならば、知らなくてはならぬ。
「よし。ゼナスト、ダークエルフ話した。なら、ドワーフ俺話そう」
聞きに回っていたツェーベルはここぞとばかりに口を挟んで、ゼナストは開きかけた口を閉ざした。
ツェーベルがどういった事を望んでいるかは、相談を受けた身でもあるだけによくわかっている。譲ることに否やはない。教師としてはどれほど教えられるか気にかかるところではあったが、そこも信じてみる事にする。一応はツェーベルも学徒。学生身分を修了しているのだから、悪くはならないだろうと。
「じゃあ、お願いツェーベル」
「いいとも。それじゃ目下、注目すべきから始める。ドワーフ、暗殺に適した種族」
「えっ?」
優馬から、驚きの声が漏れた。
全くの不意打ちだったのだ。あちらの知識。特に、自分が好んでいた分野における差異は、予想することも難しい。
「暗殺、得意?」
「人類種図鑑によると。原始ドワーフ、頑健で、洞窟ぐらし好む。はじめに道具作り、知の先駆けなった。原始世界で、大きな力持っていた」
それは、まさに優馬がイメージするドワーフそのものだ。様々の媒体で見ることが出来る、ごくありふれたドワーフ像。
なぜそれが、暗殺に適しているということになるのか。目を大きく開いて、耳を傾ける。
「多くの武器長け、閉所適し、昼夜選ばず。そして丈夫。つまり。手先器用で、小細工もいけるし。狭い空間でも、足音立てず。明るくても暗くてもいけて。中々止められない。身軽さないが、どうとでもなる」
ツェーベルが上げた要素一つ一つを取り上げて、暗殺という事柄に対して当てはめ考えていくと。理解が及ぶに連れて優馬の顔はこわばり、逆に目は新たな解釈で輝きを増し始めた。
こっそり殺す、ではなく。確実に殺す。
手段を変えてみれば、これほど頼りになりそうな奴は居ない。
間違いなく、暗殺向けだ。そして何かを強奪しようとする上でも、間違いなく役にたってくれるだろう。足元にまで警戒を払うわけである。ここまでイメージ通りなら、きっと穴掘りだって得意に違いない。
船の時間を長くしようとする理由を聞いても、いまいちピンと来なかったものだが。優馬はようやく理解することが出来た。
「それは、考えもしなかった」
「そうか。と言っても。現代、特徴バラける。ここまで揃うこと、珍しい。ただ、血統実験の噂、聞こえてきたりするが」
「血統実験、って」
「純血も、人類種の完成形の一つと見る思想ある。回帰目指してるとか、で、団体あったり」
「結構、危ない団体、あるんだね……」
「んー。血統実験団自体は、それほどでもないな。実験団いうが、殆ど追跡調査。観測。時々、相手を紹介したりするらしい。まあ、良心的とこ、はな」
「はあ……相手を紹介って、やっぱり」
「もちろん、目的、子供」
「それ、紹介された人、いいの?」
「見返り、相応なら」
こんな感覚を味わうのは、少し振りになるだろう。結婚の存在しない文化と聞いた時には驚いたものだし、男と女の関係性にも目を丸くさせられたものである。
だがそれを改めて穿ち聞くと、脳に書き込まれる情報量と質から圧倒されずには居られない。
なんとも、心地良い感覚だ。性交とは違う、入ってくる快楽。
話の内容もますます若く青く、猛る部分に訴えてきて、優馬はグイグイ引き寄せられる感覚を味わった。ツェーベルも教えるさまは中々堂に入ってて、そのうえ楽しそうとなれば、この八つ目蜥蜴にいつしか抱いていた友情をも満足させてくれる。
「さて、ドワーフ、戻すか」
冷水を浴びたのか?
額に触れる手を濡らしたのは汗で、冷たさは酔いが醒めた血であった。
主な話の内容はそちらで、自分が求めたのもそちらだった。ほんの二言三言の内容ながら、最近の優馬には効果てきめんで。たやすく本筋から本能的な話へと求める先を変えてしまう。
未熟な部分を晒したようで、羞恥の念に喉が絞まる。
「あ、ああ……」
かろうじて漏れるか細い声。誤魔化すように、優馬は苦笑を見せた。
かつて恐竜人が神であった頃、神はかく宣われた。
『種等しく交わり、極種へと至るべし。我ら星の産毛。我等の知と力こそ、星の知と力なれば』
その言葉が今日に至るまで守られているかといえば、さにあらず。なぜなら、神を過信してはならぬからだ。
純血か、純血に程近い種族は稀ながらも確かにあり。交わり難く致し方なきものもあれば、あえてその道を辿ったものもある。ドワーフは後者で、神はその道を祝福した。疑い持つことは、探究の礎だからである。
「一説、ドワーフ。純血のやつ、全体、五分。結構な割合」
時々飲み物を取りながらの一時間。
話題がそれて右往左往しながらも、ツェーベルの話は充実していた。ゼナストはプラハッタと何かしら会話を始めていたが、内容は耳に入ってこず。拙い日本語でも一字一句逃さぬよう耳を澄まして組み直し、心の隙間を埋めるように詰め込むことは、優馬の足腰に力を与えてくれる。
それはこの世界の大地に立って歩くための、確かな力である。
快楽は欲望を生み出し、欲望は快楽をもとめる好循環。この輪転こそが人を動かすエンジンの機動。
知識への欲望が萌芽し、肉欲を満たされれば、それを求めずには居られない。
これはひとまず、アリュブーが手並みを見せたといっていいだろう。
五十分の授業を最後まで聴き通すことが出来なかった怠惰で無気力な若者が、一時間も耳を傾け。それを自ら望んで話を促すようになった。生存本能の加速を逃すこと無く尻馬に乗せて、そのままに意識へと定着させる。見ようによってはあくどいといえど、生きる気力と指針を与えたのだ。賞賛してしかるべきであろう。
「五分。五%。二十分の一。なるほど、大した割合だ」
「まあ。特徴、隠れ、あるかも。だから、もっとない、思う。それでも、純血、存在する。すごい」
「今も存在するほど、血を管理してきたわけだ。確かにそれは……すごいな」
この世界の人々にとって。それはあまりにも窮屈で、優馬が想像する以上に身のすくむ。想像することも憚られるようなことに違いない。
少し前、特にすることもなく気だるい夕時に、ツェーベルやゼナストとそれぞれの男女文化について話したことがある。
結局。二人は結婚について概念は理解しても、社会契約としてしか捉えることができなかった。そして社会契約としても、その存在を疑問視するほどだったものだ。
奔放な男女文化の中。そういう特徴の種族でなくして純血を維持するのは、監禁か、もっとえげつない方法を用いるか。なんにせよ。神話の時代がどれほど隔絶した過去か見当もつかない以上、如何程まで世代を重ねたかも分からないが。ツェーベルやアリュブーの混じり方を見ると、驚くべきことであるのが染み入るように理解できた。
原始より、神に背いた種族、ドワーフ。背いたゆえに、祝福された種族、ドワーフ。
仄めかされて輪郭だけが見えていたその実態を、優馬はようやく捉えられた気がした。
「確固たる意思か、でないか、わからん。でも、とにかくすごい」
ツェーベルは軽く喉を鳴らして。
「これくらいか。流石に、疲れた」
実に有意義な時間を過ごすことが出来たと、満足気な溜息が優馬から漏れる。喉を下っていく暖かな茶が体にやさしい。
この心地は女学生と過ごす夜にも少し似ていて、得も言われぬ達成感と充足感が痺れるように全身へと注がれていく。胴においてはそれがわかりやすく、臍のあたりから顕著になって、頭を抜ける時に震えるのだ。
痺れとは、時に心地よいものだったと。思い出してまた震える。ベッドに寝転んで、壁掛け時計を見た。
まだ一時間。あと、五時間もある。
「一時間だけか……」
「もっと、話してた、気するな」
「うん。面白かったのに、それくらい思えるんだからと思ったけど」
伸びをすれば、筋肉や骨の隙間に吹きだまっていた疲れがこぼれ落ちる気がして、少し気分が変わる。
眠るにも半端な時間だし、そもそも眠れる気はしない。なら、あとの時間を如何にして潰すべきか。ふとゼナストとプラハッタがなにか話していたことを思い出し、そちらへ目を向けてみる。
2メートル半の巨体が、体を縮めて壁に耳を当てるところだった。
「……ゼナスト?」
「しっ」
プラハッタのたしなめ。
「優馬、アタシを持ちな」
室内に走る緊張。ツェーベルは椅子を立ち、優馬も起き上がって木箱を持つ。物々しい雰囲気のゼナストから離れるように後退って、抱える木箱を強く抱いた。
「何?」
「何か聞こえる。アタシは地獄耳なんだ。本当にかすかな音だけどね……少し前から近づいてきてるんだよ」
「それが、そこ?」
「そうさ。きっと、要人用脱出路を遡ってきてる。イドラにはそういうのが」
「伏せろ!」
自分の意思によらず体は倒れ、それがツェーベルの仕業だと理解するよりも早く。
爆風が、優馬の体を舐めた。