第五話
大きく息を吸って、吐く。海風は五臓六腑にしみわたって、感じ取れるか取れないかの一瞬、鼻の穴が痺れて痛んだ。潮の香りが沁みるわけではないが、むず痒くて擦る。よっぽど大きく呼吸しなければ問題はないが、呼吸も実は痺れを伴っているとは優馬も今はじめて知った。
『アストナの葉』号甲板上で、空はどこまでも高い。トマグト行きの列車に乗ってからついさっきまで、頭上に限りを設けられた時間ばかり過ごしていたから、殊更にそう感じられる。
桟橋で水夫が忙しげに行き来し、深く澄んだ海中に薄っすらと泳ぐ人影が見えて、羽持つ者たちが空を飛び回っていたとしても。それは壁にも天井にも成り得ない。檻の中にいるという感覚は抜けないが、箱の中からは出してもらえた。
そう考えると、苦笑い混じりとはいえほんの少しすっきりする。
「……荷物だなあ、俺」
もう一度大きく吸って、ため息を漏らして、優馬はつぶやいた。
「猛獣を運んでるって雰囲気だ」
どちらも多分間違っては居ない。色々な意味を持たせてみても、きっと大半は合っている。
「ははっ。動物園の虎の気持ちが何となくわかってきた気がする」
思い出されるのは、席を外したゼナストが早足で戻ってきた時のこと。
緊急時にも関わらず料理人が用意してくれた品々を囲んで、少しずつ冷めるのを眺めながらに交わした会話。
今、船がどんな状況に陥り、自分たちがどうすればいいのかについて、ゼナストは事細かに説明してくれた。
まずマスクを身に付けろ。優馬であれば異界の霊質がそもそもこちらの病原体を寄せ付けはしないだろうが、悪臭がこれから漂ってこないとも限らない。大気成分は呼吸が出来る事などから維持されているはずで、匂いの成分も食事の香りを楽しんでいるように免れないはず。匂いはバカにならないものである。
次に、『アストナの葉』号は最寄りの港に寄港するはずだ。どれくらいになるかは分からないが、しばしの間そこに停泊することになるだろう。優馬は『アストナの葉』号から離れてはいけない。甲板上ならまだ見張りの目が届くから認められるかもしれないが、陸に降りられると困ることは多い。
そして、極力現地人の目に触れたり会話したりしないように。異界人という奴は、知識はもちろん異界の霊質というのに興味を持たれて狙われやすいものだ。それに、一部の者は悪魔と呼んで憚らず、恐れても居る。歴史上の出来事や触れると痺れる現象。霊質干渉に対する耐性。俺たちはそんな風に言いやしないが、痛い目見たくなければ大人しくしてるように。と。
あとは細々。『島』というものの死体に遭遇したとか、そもそも『島』とは何なのかであるとか。そんなものだ。
それらは優馬の知的好奇心を大いに満たしてくれるものであると同時に、星霊学団に保護されて見えなかった自身の危うさを再確認するものであった。
ゼナストとツェーベルの真剣な表情。部屋に居たゴブリンの少女も見せる、切な意思を持つ目。
そもそもあまり出歩くつもりが無かったのに、あれだけの求めを受ければ、優馬の『アストナの葉』号を降りようという意思など一片たりとて残りはしなかった。
しかしそうすると、どうしても湧いてくるものがある。退屈だ。
優馬自身、知的好奇心を満たすことで補おうとしていたが、運動不足という不満は如何ともし難く。『アストナの葉』号の広い甲板も船員たちが行き来してる以上邪魔になるし。廊下など言わずもがな。するとどうなるかといえば、無意味にウロウロと邪魔にならない範囲でうろつき回り、景色を眺めるに留まってしまう。
動物園で、檻の中を行ったり来たりする虎のように。
「……そろそろ戻るか」
些か後ろ向きな考えだと自覚しながら、荷物は荷物らしくしてるのが一番だと優馬は部屋へ戻ることにした。
こちらへ来てから殆ど初めての単独行動だけに不安があるし、部屋の留守を預かってくれているツェーベルを心配させるのも悪い気がする。席を外している間に何者かが忍びこむかも、という弁は優馬にしてみても飛躍した考えに聞こえたが、否定しきれない自分がいるのも事実である。それを解消してくれている相手にはあまり負担を掛けたくなかった。
借りた望遠鏡も自分が持ち続けているのはあまりいいことではない。そのうち霊的に取り込むからいずれ解消されるといっても、それまでの間に触れている部分を劣化させてしまう。実際、優馬が部屋で使っている寝具は少し劣化してきているように見えた。優馬が横になっているところだけそうなるものだから、あまりいい気分はしない。
ゼナスト曰く、これくらい気にすることではないらしいが……とてもそう思えなかった。
トマグトの学院で割り当てられた部屋が修士、優馬の感覚ではとりあえず地位の高いものが在るべき部屋であった以上、この船で過ごしている部屋もそれか準じるものであるだろう。部屋の調度はもちろん、実用品に至るまでが格調高いものであり。こちらの経済がどんなものか知らずとも、おいそれと手の出せないものであるのはわかる。
そう考えると、すぐ駄目にしてしまう自分が申し訳なく思えてくるのだ。
空を仰いで立ち尽くす。
全身に視線を感じる。悪いものではない。守ろうとする意思が込められた、硬くも暖かいもの。
「もう、決めたほうがいいな」
報いる必要がある。
ツェーベルにもゼナストにも、アリュブーにも。世話してくれた色々な人達に。劣化した家具たちに。
気だるい体に、痺れにおサラバして、早くこちらで動くことに慣れるべきだ。作形がこちらへ現れたのが二百年前。自分が頼れるあちらの人間は、一人として居るまい。
……いや。
栄治は、どうだろうか。
そういえばアリュブーは、栄治の子供を生んだのだという。つまり、アリュブーは二百年前から生きているということになる。ならそれだけの生を得られる方法を、作形の者たちの誰かが使っていないとは限らない。特に栄治なら、アリュブーにあわせてというのも在るのではないか。
ただ、彼女の耳は長いのだ。全く根拠はないが、エルフの血が濃くて寿命が長いという事も考えられる。もっとも、エルフが自分の知っているそれと一致するかどうかは知らないし、そもそも存在するのかすらわからない。そもそもエルフだの何だのによらず、こちらはあちらに比べて寿命が長いという事も考えられる。
可能性は五分と五分。優馬の贔屓目、希望的観測が入っていると考えれば大分ブレる。どちらにせよ未確認の情報である以上、分を計ること自体無意味だろうか。
しかし優馬にはこの考えが必要だった。
心を支える柱は多いほうがいい。慣れがのしかかるものから錘を下ろしてくれても、無くなるには程遠い。
突如として思いついたこの考えは天啓的であった分煌めいて強く。不確かながらも強固に精神の中そびえ立つ。
まだ日も浅いこの時に決めようとした覚悟、踏み出したその一歩を補助してくれるようで尊かった。
帰る方法がないのなら、ここで生きることを許容しなくてはならない。その事に対して諦観とも、虚勢ともとれる意思で自身に前向きを装っていた優馬には、虚ろでも外的な保証が必要だったのだ。
だけど、優馬は冷静だ。
確かめよう。
声には出さない。
縋っていたものが突如として消え失せた時、受ける衝撃の重さに優馬は怯えている。日本人の多くがそうであるように、彼はリスクを犯さない人間なのだから。
「得意分野はそうだな。聖骸殿にこれのお供へ抜擢されてるくらいだから……言語かな?」
「ご明察です、ツェーベルさん。私共は皆、それを見こまれて此度のお供という栄誉に預からせていただいております」
優馬に割り当てられた船室は、主が不在ながらも賑わっていた。留守を預かったツェーベルと、アリュブーが助手として連れている四人の女学生。彼らの談笑で部屋は暖かい。
やはり母語同士での会話はよく弾むもので、慣れない日本語会話にはない気軽さが心を休ませてくれる。
彼女たちは学生であり、ツェーベルは学徒。学んだ学院は違えども、さらなる叡智を望んで門を叩いた同士であることに変わりはなく。同類としての意識が互いの距離を縮めていた。
どこの生まれであるとか、学院はどこであったのかとか。得意な分野や、何の神に属しておられるのかなど。
現地人同士ならばわざわざ説明する手間をかける必要もなく。予め備わっている知識を中心として、スムーズな話を行える。
「やっぱり。いや、こりゃますます肩身が狭い。多分接する機会がある連中で一番日本語出来ねえのは、俺だろうな」
「かも知れませんね」
忌憚ない意見は、話の中心となって盛り上げる横長い耳の少女から。
肌白く、長い金髪の合間に植物の蔓が見え隠れし、右腕は五指から肘の近くまで黒く硬質に変質した、こちらの世界ではごく一般的な姿の者。顔立ちは典型的な亜人種。アリュブーが一番の基準とした優馬にも親しみやすい形態の顔で、その中でも整っているといっていいだろう。
優馬が彼女の顔を見たなら、その美に息を呑むはずだ。ツェーベルも感心して思わず声を上げたものだった。
「手厳しいね」
「ですが、貴方は彼を守ってあそこまでいらっしゃった。尊ぶべきことです。危険にまみれた道中だったでしょうに」
「はははは……どっこい、夢中でそこまで頭が回ってなかったりしたもんさ。ただ、使命は感じた。つっても、馬車乗って、列車のって、俺だけでやってたのはそこまでくらいのもんだ」
「十分に長い旅程だったでしょう。村に寄り、街を訪ねて、列車に乗る。ドワーフの目はどこにでもあるのですから」
心は物腰柔らかで、一本入った芯を軸として柔軟に形を変えもする。
多少気高いところは小気味よく、勤勉で実直な人となりが言葉の端々ににじみ出るほど。
いい女だ。
出会ったのがこういう状況でないのなら、男として放っておくことはなかっただろう。しかし彼女らが優馬の世話も任されている理由は察しがついていて、彼の境遇を思えば彼女らにはそちらへ専念してもらったほうがいい。自分たちにとって大したことがないことすら、慎重を求められる彼は大きなストレスを抱えているはず。
そんな彼の心を和らげることこそが、彼女らが今ここにいる意義なのだから。
「そう考えれば、その通りだ。そんで、大内海を抜ければまた長くなるだろう。きっと向こうの港はどこも張ってる」
「間違いなく、居るでしょうね。私共も緊張せずにはいられません」
「あちらだってこちらの手の内を読んでこないはずもなし。川上りも楽じゃなさそうか」
「決して手を出させません。と言いたいところではあるのですけど……」
「……こればっかりはな」
優馬の世話に関する予定は現状維持のまま変わらずにあるが、この先の旅程を考えると出来る限り早めに次の段階へと進めたいのが女学生たちの本音である。
予定ではこの島を出港後、ラウナル川河口で補給した後にそのまま遡って北上。水上という密室を維持したままジャパンへと近づき、ギリギリのところで列車へ乗り換えて到達する。
すると地面よりも遙かに足元の防衛が楽な水上は、進むに連れて両脇から迫ってくる大地に追いやられて失われ。
触れると痺れる状態は防御も同時に成し遂げてくれるとはいえ、こちらが救出しようとする際の足かせにもなり。本人にとってもストレスの元になるなどデメリットが大きく。女学生たちの仕事も、満足に行えない可能性が高くなってしまう。
今の彼女たちは、任された仕事の一旦しかこなせていない。
呼び出しに答えて食事の要請をしに行く程度、初等教育にも満たない子供ですら出来る。
自身達が崇敬する存在から下知された仕事なのだ。まるで出来ていない現状は、彼女らにとっても精神衛生上よろしくなかった。
丁度その時だ。船室に優馬が戻ってきたのは。
「おかえり」
ツェーベルの言葉は後ろへ行くに連れて薄れていく。
優馬の顔が硬い。良くないことがあった、というには少し質が違う。それに優馬に関することで良くないことなど、本人には自分自身しかあるまい。さもなければ、この先の予定で何かあったかどうか。
少し観察してみるとどうにも、必死さが滲んでいるようにツェーベルは思った。思い詰めてるといえばしっくり来る。
「どうした?」
「ちょっと、聞きたいこと、ある」
「言ってみろ」
「栄治は、今、生きてる?」
「? 生きてるぞ」
なんとも要領を得ない質問だった。
いや、その事がわかるような言葉を用いたりしなかっただろうか?
何気ない会話も多かっただけに、ツェーベルは自分自身にさえ断言しかねる。
アリュブーが栄治の生存を仄めかす言動も多く行なっていたのは確かだが、それで理解できなかったのか。しかし思い出してみれば、死んでいてもそれなりに辻褄が合うような発言も多かったような。
ツェーベルはきつく目を閉じた。
あまり自分の記憶について自信をなくしては、普段の生活にも支障をきたしかねない。
多分、優馬ははっきりした物言いでなければ納得しない性質なのだ。はっきりした言葉を使っていなかったのは確かなはず。今回のことはそこからくるものだろう。
自分の中で結論づき、納得して優馬に視線を戻したツェーベルは、少しずつ浮かんでくる笑みを確かに見た。
「生きてるんだ」
無造作に優馬が腰を下ろす。椅子から受ける痺れが和らぐの時間も待たない。深く、体をあずけるように。
優馬の視線は、遙か遠くを見据えていた。ただ一点。
その向かう先はひたすらに自意識の奥底。ツェーベルの言葉が、精神を後ろから押してくれる。
これまでの間に研ぎ澄ませてきた心の欠片は、この時のために誂えていたものだ。正しく測った心の穴を埋めるために、狂いなく形が整えられている。優馬は唯笑っていた。これを手の中で転がして悶々とするのはやめにする。もう、躊躇いはない。
カチリと、撫でて凹凸すら感じることもないほど、その心は定まって滑らかになった。
優馬はツェーベルを見た。
「馴化したい」
迷いの無い眼。ツェーベルの八ツ目全てと正面から合って、女学生四人の計八つの目が驚き混じりに互いを見合う。
黒髪で蛇の鱗を首に生やす人間の女学生が、急ぎ船室を飛び出した。続いて銀髪の中に雌鹿の角と兎の耳を持つ褐色肌、ダークエルフの女学生も部屋を辞する。
あとには、奇妙な沈黙があった。
蔓髪のエルフも、見たところ純粋らしいゴブリンも、見つめ合う優馬とツェーベルに声をかけはしない。
男も女も、どちらも表情に緩みなく。
いくらかの間をおいて、ツェーベルが最初に解いた。
「わかった」
長いため息だった。風船がしぼんでいくように、肩から力が抜けていくのが傍目にもよく分かる。
まだ肩の荷全てを降ろしたわけではないにせよ。今抜けた分は間違いなく、ツェーベルが負っていたものの重さを表していたのだろう。幾分か、顔すら変わったようにも優馬には見えた。もしかしてずっと、しかめっつらで過ごしていたとか、そういう事だったのか。
まだまだ蜥蜴顔を知り尽くしたわけでないから分からないが、優馬にはそう思えてならなかった。
「なんだか、随分待たせたみたいだ。えっと……ありがとう、ごめん」
「はは……なんだそりゃ。いや、どういたしまして。少し、元気出た」
これが一番すっきりとする答だった。
礼を言って、謝りもすること。
自分を拾って世話してくれたことには、本当に感謝絶えず。得ることができた多くの知識を顧みれば、ますますその念は募っていくばかりだ。
しかし。謝ろうとすることは手間を掛けさせたとか、そういう事によるものではなく。
自分の逃避めいた願望が、理想的な形で満たされると確信したからこそのものであり。良心の呵責から漏れたものである。
そこまですらも本当は今話すべきことだったのかもしれない。だが優馬には出来なかった。目の前で喜ぶツェーベルへそんなことを言い出すほどの勇気も、悪意も、彼はまだ持ち合わせていない。
ツェーベルなら笑って理解してくれるのではという希望もあるにはあったが、そこへ賭けるほど相手を知っている自負もまたなかった。
「ご決断、それに伴う前進をお慶び申し上げます」
思考が渦を巻きかけたその時、横からかかる声にその主へ視線を移す。
流暢な日本語の、高く滑らかな声色はなんとも耳に心地よく。纏った雰囲気の静謐さは空気に混じる昂奮を鎮める。
喜色に満ちた蔓髪のエルフ。物言わぬゴブリンも、同じく嬉しさをあるがままに表して誤魔化さない。
ツェーベルでそうだったように、二人の笑みが優馬の心にチクリと突き立つ。
「ああ……ぅん」
曖昧になりそうな笑みを必死に繕い、しっかりとした形に整え、見た目には内心を感じさせないものを作り上げた。
このことが喜ぶべきことであるのも間違いではないと、笑みをもっと自然なものに変えるべく心の中それに縋る。今まで自分は異物だった。帰ることは出来ないと告げられながら、異物で在り続けた。いや、これからも異物で在ることにきっと変わりはない。しかし馴化すればその溝は狭まる。感謝の念を届ける時の距離もきっと。
そんな気がする。
そうして優馬が自分を納得させた時、船室の扉が開いた。アリュブーだ。
この場で最も地位の高い者が現れたにも関わらず、誰もが沈黙を守っていた。
声もなければ動きもなく。ただ入ってきたアリュブーと、ゼナスト。先ほど呼びに行った人間とダークエルフの女学生だけが、空いている場所に腰を下ろす。呼吸器に薄膜が張り付いたように、空気は柔らかく奇妙に張り詰めて、優馬も息苦しさを覚えずに居られない。
口火を最初に切ったのは、やはりアリュブーだった
「優馬さん」
「はい」
アリュブーの底知れぬ大きな単眼を、優馬はまっすぐに見つめ返した。
この時を、世界の壁を乗り越えようとする今の優馬に、怖いものは何もない。心理の深層にあったこの世界に馴染もうという願いが、知識欲からなる快楽を伴うことから実を結んでいる。
しばしの間、両者はそうして瞳の奥底を見つめ合い、また沈黙の時が部屋に満ちた。呼吸音すら抑えられて、波の音もどこか遠く。普段それらの音に隠された些細な音すらも、耳に届きそうな沈黙。
微かに響く、優馬が唾を飲む音。気候のせいか、緊張か。汗が一筋、額から眼下をなぞり頬骨をつたい落ちていく。
「いいんですね?」
「もちろん」
「……わかりました」
大きな単眼が閉じられた時、ガクンと。優馬は体を大きく、いや、意識までも含めた自身の存在そのものを大きく揺さぶられる感覚に見まわれ、大きく目を見開いた。
ほんの一瞬の出来事。
アリュブーからわずかに揺らめきを感じたと思った次の瞬間。全てが遠のき、同時に近づくという、相反することが同時に襲いかかって。主観と客観が境をなくし、優馬は優馬であることを見失って、すぐに取り戻す。
彼は山であり海であり、つまり星になっていた。今はもうただの園木 優馬でしかないが、遙かに巨大なものと一体化していたことを彼は確信できている。
そしてそれら全てが過ぎ去った時、優馬は平静に戻っていた。
現象の中で味わったくらつきも、拡散もなく。激しく波打った感情も一直線の平面に戻って、人並みの上下があるばかり。
こちらの世界へ来てより味わっていた気だるさも痺れもなく、あたかもあちらの世界で暮らしていた如く。肉体は健康で、憂いの一つも宿っている気配はなくなっていた。
素晴らしい夕だった。
今の優馬には、躊躇いなくそれを言うことが出来る。
夕食のムニエルは絶品だったし、海藻のサラダも体に活力を漲らせてくれて。何より、暖かく、痺れない。
ベッドシーツは変えられて肌触り良く、自身が与えていた劣化の大きさを否応なく知らしめられて切なくも、何もかもが自身を拒絶せずにいてくれることが嬉しかった。
『アストナの葉』号甲板上。
満腹で仰向けに寝転がった景色は言う言無い。
西の水平線へ太陽は沈み、空は虹に等しくなった。
長く伸びた太陽光が大気のスクリーンを鮮やかに染め上げ、星や月が色とりどりに彩り飾る。
学校の帰り際時々見ることのできた景色が、今は建物や電柱に遮られることもなく、視界の限り一面に広がっていた。
今夜はよく眠れそうだ。
体を苛む一切が払われた優馬であったが、どうやら心も軽くなりすぎて考えることは取り留めもない。
知識欲という新たな欲望を得たといっても、大部分は苦しみから逃れることに重点を置いていただけのことはある。逃れる相手が失われてしまえば、逃げ場も必要なくなるものだ。喜びが大きくて心を奪い、世界の美しさまでも滑りこんでくれば、こうもなろうというものか。
「お加減はいかがですか?」
この新しく、どうしようもない現実の中。確かに息づく幻想の風景に、入り込んでくるものがあった。
左右で形の違う角。黒い瞳は空にあいた穴のようで、吸い込まれ体が起き上がりそうになる。
アリュブーは立ちながら、優馬を見下ろし覗き込んでいた。
水中も空も、未だ警戒に見張りは飛び回っているが、馴化したばかりの優馬は危なっかしくて仕方がない。重しを外された紙のようだと気が気でなく。アリュブーも甲板上に訪れ風景を楽しみ、見守ってもいる。
「最高……です」
「そうでしょうね」
優馬にはそれ以上なかったし、アリュブーもそうだと思っていた。尋ねてみたのは確認のため。
万が一にも体に不具合が起きていやしないかと、安心するためだけのこと。
寝転がる優馬の隣に直接腰を下ろして、アリュブーもまた空を仰いだ。夕映えの中で羽ばたく見張りが、虹の中を泳いで星々の間を抜けていく。
現在地は比較的南のほうだが、日は沈んで空気は緩やかに冷気を帯び始めていた。
むせ返るようだった潮の匂いは引き締まって鋭さを増し、鼻の奥へ入り込んで肺に満ちる。異物故の気だるさでなく、寝転がっていた体に宿った気だるさが追われるように、吐息とともに離れていくのが優馬には分かった。
「ついさっきまで」
アリュブーは振り返る。
「栄治が生きてるって確信は持ってなかった。皆わかってて、それとなく教えていたのかもしれないけれども、気が付かなかったんだ。それで、その」
「はい」
「もう、二百年も前のことだって聞いた。だけど、栄治が生きてるのは……」
「リッチだからです」
「え?」
「リッチです。私と同じで」
「……金持ちってこと?」
「……違います。一応、そうでもありますけど」
リッチ。
思わず一般的な用法でものをいってしまったが、優馬は何を示しているのかわかっている。
可能性は考えていなかったわけではない。アリュブーの容姿も、生まれつきのものだという確率を捨て切れないながら、そうではないかと思っていた。
リッチ。生ける屍。
この世界ではどんなものをリッチと呼び表すのかはまだ知れない。ただ、尊ばれうるものであるのはわかっている。
内心は複雑だ。自分が元いた世界では、生ける屍だの何だのそういうのは物好きが語ることだし。物好きの間でだっていい印象を持っていたのは稀なこと。そんな感覚が身に染み付いていると、悪い暮らしはしてないだろうという喜びと共に隔意が湧く。その肉体は死んでいるのだから。
優馬とて、人の死体を見た経験は無いこともない。祖父母とも暮らしていたし、冠婚葬祭はきちんとする人たちだったから出席したことも多くあった。
しかしそれが生きて動いているとなっては、不気味さが勝るだろう。
ジャパンへついた時、栄治と昔のようにふれあえるのか。不安は多い。
二百年の月日。リッチと化したこと。子供……もう自分の知っている相手ではない覚悟は決まっている。
あとは飲み込んで、目をつぶるだけだ。
「じゃあ、生ける屍のほうか」
「色気はないですけど、そのとおりです」
自分はそのリッチによって助けられた身分だ。恩知らずな真似はしたくなかったし、数少ない縋れる相手でもある。
まして自分に連なる絆があるなら、どうして心隔てる必要があろうか。
「夫婦揃ってリッチなんて、あいつもえらい人生になったもんだ」
「夫婦……?」
ふと、アリュブーが怪訝な顔を見せた。
「あ、もう、夫婦じゃなかった……かな?」
「……? ああ……」
大きな単眼を細めて眉をひそめ、ひとしきり首を傾げたあと、なにか合点がいったように大きく頷く。
なにか拙い質問をしただろうかと思うのを通り越して要領を得ず、優馬は沈黙する。離婚してたりするのかとおもいきや、どうもこの反応はそれと違うものがある。
もっと根本的なところから、見解の相違が在るような。
その相違がわからず、優馬はアリュブーの言葉を待った。
「栄治にも、昔言われましたね。同じようなこと」
「えっと、どういうことで……?」
「結婚とか、夫婦とか。責任とか。そんなことです」
「つまり、未婚で愛人関係とかそんなこんな」
「未婚……ああ、そういうのも聞いた覚えがあります。そうか、まだ言ってませんでしたね。大事なことなのに」
「な、なんですか?」
「私達に、結婚とかそんな文化は無いってことですよ。少なくともデラストムや聖域、サナス・トマスではね。要するに、この大陸の殆どでは」
得た知識の持つあまりの衝撃に、優馬は言葉もなかった。
なにせ自身の世界観を構築していた大きな要素の一つが、まるごと全て欠落してしまったのだから。
結婚のない文化とは、一体どんな文化なのか? 優馬には全く想像がつかない。結婚は世界に存在する普遍のものであると思っていたし、一度たりとてその事を疑ったこともない。
混乱収まらぬ優馬をそのままに、アリュブーは続きを淡々と語り始める。
「男と女は交わり、子を宿した女は養育院で産み、子は養育院で纏めて育てられる。私は父を知りませんが、それが普通のことです。母の名は、名前の一部に組み込まれているので知っていますけれど、父に関しては名も知りません。男女は互いを気に入れば交わり、そして大抵それっきり。そういうものなんですよ」
いつの間にか優馬は体を起こし、間抜けに口を半開いていた。顔の筋肉はほとんど力を失って、だらしない表情を晒している。無理もないだろう。なまじ今説明されたことが理解できて、なおかつ納得いってないのだ。
優馬の常識に照らし合わせるとあまりにルーズな貞操観念は、馴化したことへ不安を抱かせるのに覿面な効果をもたらした。
オープンで、大らかで、と。頭の中感想の言葉を組み替えていくのは、彼なりのささやかな努力である。どうあがいてもこれからこの世界で暮らしていかなくてはならない以上、もっとわかりやすく飲み込める噛み砕いた表現が必要なのだ。
「優馬さん」
はっ、と。
呼びかける声に意識の水底から浮き上がった優馬は、目の前に蔓髪のエルフを見た。いつの間に現れたのか記憶はないが、そんなことはどうでも良かった。
柔和で整った顔立ち、花のように甘い香り。女として抜群のプロポーション。
まさに彼女は虫を誘う花であり、世界を揺らされて判断力の鈍った優馬には抗うすべもない。男であること、多感な時期であること、色々と溜まっていたこと……全ては優馬の背を押し。
気づけば、差し出された黒く硬質な手を取り立ち上がって。
横からのアリュブーの声は、壁越しに聞くような遠いものに成り果てていた。
「ですので、ご遠慮なく。彼女たちはあなたへのそういう目的もあって連れてきたんですから。今日は体から全ての荷を下ろして、ゆっくりと休んでください。それでは……」