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第四話

「これでしばらく、手出しのしようはありません。博士。どこだろうと、洋上のリスクを知らないはずはないはずです」

 沿岸樹上都市トマグトを離れて大内海の洋上、大内海諸島群連邦領海内。大型蒸気船『アストナの葉』号甲板からの眺めは青一色にほんの少し白を添えるばかりで、宇宙へも駆け上がれるような一繋がりの遠景が全方を取り囲んでいる。マストもなければ排気口も後部に配し、眺望を意識しただけの見返りはある風情が、何度見てもアリュブーの心に沁みるようだ。

「それでも船長、私達が発展を世に勧めて導いているからには、思いもよらぬ仕掛け方もあるか知れません。貴重な異界の知恵となれば、これまで手を控えていてもそれを破る価値はあるはず。私は敬虔な人々のことをよく知っています。慎ましい方も、派手好きな方も」

『アストナの葉』号に設えられた悪魔用の部屋に優馬を押し込め、ツェーベルとゼナストがそれに付き合い、船内にそこはかとなく漂っていた緊張がほぐれた。それが、ついさっきのこと。水夫たちは四半舷休息に戻り、月とともに目覚める者たちは多段ベッドに横たわって、休息に静けさを取り戻していた。

 異界の知恵が詰まった存在である異界人を守る上で、洋上にいることは大きな優位を約束してくれる。

 彼らは水中で生きることができないし、空も見通しが利いて翼持つものの隠れる場所はない。攫っても泳げば失い、飛んで近寄ることは難しく。船上高くをこちらの見張りが飛び回れば、入り込むよりはないのだから。

 そして件の異界人は専用の部屋に置き、船員ですら近づくことは許さない。それが翼持つものであれば尚更。持たぬものであっても、アリュブーか船長の許しなくしては不可能事である。

「けれども、彼の生存能力を上回ることは出来ない。海を行くにせよ空を行くにせよ、彼の体力は持ちません。だが、そうですね。船が近づいてきた時や、陸に上がった時は細心の注意を払いましょう」

「お願いします。優馬さんには窮屈な思いをさせているし、出来る限りはもっと解放された状態に置いてあげたい。航海の途中に馴化を望まれたなら、癒しになるものを差し入れたくもあるのです」

「その折には我々も協力すべきでしょうか。この船が彼のようなもののために作られた部分もあるとはいえ、流石に娯楽は別です。食事ならばまだしも、温もりなどについてはどうなさるおつもりです?」

「……やはり、学団の誰かを頼るが一番手っ取り早そうですね。背後は洗い出してあるし、興味も強いでしょう」

「では、共に乗り込まれたどなたかを?」

「そうなるかと」

 そんな環境に押し込まれていては、かかるストレスも並大抵ではない。排泄などの生理現象は全て部屋の中で済ませられるようにしてあっても、洋上という閉ざされた空間で更に閉ざされた空間という状況は神経を削るはずだ。

 だから、解消するための手段を確保する必要がある。

 食事は美味に。衣服は清潔に。これに娯楽を加えることが出来れば負荷はグッと低下し、余裕さえ生まれて来るだろう。

 ただ、彼に提供する娯楽などあるものか? 彼はこちら側のゲームなんて知りもしないだろうし、あちらのゲームをするにも適当な道具が必要だ。ツェーベルとゼナストが話し相手になってくれて孤独は無いにせよ、やがて限界が訪れる。報告では知識欲が出てきたということで、少しばかり安心することも出来るのではあるが……。

 アリュブーとしては、もう一押し欲しいところだった。

 頭の中を過ぎていくのは、別件と優馬のことで連れてきた者たちの顔。追加の護衛や見張り役、また、今悩んでいる事を見越して連れてきた人員達。

 普段は能力をこそ優先して人選する一団も、今回はさらに別のファクターも噛ませて選び出した。

 それは、亜人型の顔で日本語が出来る女であること。

 ここでいう亜人型の顔というのがどういうものかと言えば、凡そ人間のそれと同様の顔形であると考えれば良い。エルフ、ドワーフ、オークに単眼人。その他もろもろ。人間もまた亜人に類されるものなれば、同類の顔形なら馴染みやすいだろうという配慮である。

 そこからさらに吟味し、異界人の感覚というものをアリュブーなりに考慮した結果。人間、エルフ、ダークエルフ、ゴブリンのみまで絞ることに成功した。栄治も自分のような単眼人は慣れるのに時間がかかった覚えがあり、選択からは外してある。それでも、角や羽に鱗に毛皮と、体の一部に表出する要素までは排しえなかった。

 仕方ないことなのだ。なぜならこの星に純血の人類種はほとんど居ない。種族も所詮、進路を選ぶ目安として示されるだけの存在である。あえてこう言ってしまうことも出来るだろう。人類、皆同種にして異種と。

 さてその中でも厳選された者たちに、アリュブーが何を求めているのかといえばことは単純。「女であること」だ。

「彼女らであれば、改めて疑う必要はありません。純粋に、異界人への興味も強いでしょう」

 ゼナストから受け取った観察記録に目を通した限り、優馬が女性に嫌悪感を持つことはない。年の頃もあって、むしろ積極的と言えるほどだとも。

 これで男女間にかかる問題は解決を見た以上、あとは立候補者を募り、馴化要請を待つばかり。

 馴化せずに航海が終わるようならそれも良し。それだけ優馬の意思が強く、ストレスに耐えられたということで問題はない。やせ我慢なら崩れた時が怖いが、いざとなれば強制馴化も辞さない構えである。感情の暴走から霊質干渉に至り、世界と結びついて爆発を起こされるよりは、まだマシというものだ。

 意に沿わず、優馬を馴化させる光景を想像してアリュブーは目を閉じた。

 強制馴化のことを考えると、過去にやまれず手がけた異界人たちのことが思い出されてしまう。幾人もが元の世界への帰還を望みながら叶わず、幾人かが望んでこの世界へ馴化した。技術は確かにあっても、することは出来ないという事実を前にして分かたれるもの。彼はどちらに転ぶのか。ある程度見当はついていても、気が気ではない。

 ただひたすらに、彼がせめて笑顔になれるよう努めると何へともなく誓って。

 目を開く。

 大きな単眼にゆらぎはない。いつも通り底知れぬ、穴を覗くような瞳があるだけだ。

「わかりました。では、我々は我々の仕事に集中させて頂きます」

「お願いします。何かありましたら呼び出していただいて構いませんので」

「そのようなことがないよう、祈っておりますよ」

 アリュブーが踵を返す間際、海の中から、空の高みから見張りが戻り。また別の見張りが海に飛び込んで、空に飛び上がっていくのを見た。彼らのことは信頼していても、出し抜くものを考えずには居られない。二百年も経ったろうに、心休めるのが下手なのは治らないなと。口元に苦笑いが浮かんだ。




「なあゼナスト先生」

『アストナの葉』号は異界人を運ぶことも運用目的の一つとされているが、実際には学団の要人専用船舶である。船室は厚い壁と扉によって守られ、区画そのものも他の区画との間に常時見張りが立ち、部屋を一切出ること無く船旅を終えることすらも出来る。それが結果として異界人を保護する上でも有用であり、目的は後付で付けられたものにすぎない。

 ともあれ要人専用として作られただけのことはあって居心地よし。無論どれもが品良く、質良く、見目も良い。思索の妨げとなる要素は一つとして縁を結び得ず、小さな世界として完結している。その中各々、備えられたベッドやソファに体を預けて思い思いに寛いでいた。ツェーベルとゼナストは保護と見張りを兼ねてのことではあるものの、部屋を共有する際にアリュブーから自由に使って良いと認められている。

「なんでぇ?」

 ツェーベルの言葉に優馬とゼナストは同時に振り返り、優馬だけが再び窓の外に顔を向けた。

 静かな中に響いた音へ反射的に応じてしまったのだろう。言語はツェーベルの母語、クストラ語であるにも関わらずゼナスト同様早かった。

 振り返るのもまた早かったのは、言葉に自分の名前を聞き出せなかったからか。定かではないが、恐らくはそうだろうとツェーベルは意識から外しておくことにする。ここならそれも出来る。常に周囲へ意識を巡らせる必要のない、強固な守りを約束された場所なのだから。

 本題は、ゼナストに用がある。向こうもピッタリの大きな椅子から身を乗り出して、手に持った本に栞を挟んだ。あまりまたせるわけにも行かない。

「いやね、先生は日本語が随分堪能だからさ。どこの誰に習ったのかって思ったんだ」

「ああ、その事か。日本語の上達に興味があるんなら、一度ぁジャパンで暮らしてみるのがいい。やっぱり当の言語がある場所に住むと違うな」

「ご当地か……そりゃ上手くもなる。でもそれじゃあなあ。俺はそこに行くまでに上手くなりたいんだ。そこに行ったら旅は終わりなんだから」

「なるほど。なんか悔しそうな顔してたのぁそういうわけかよ」

「そうさ。拾っておきながらろくすっぽ説明もできねえ体たらく。辛いね」

 自嘲するように肩をすくめる。首を振って、優馬を一瞥した。

 ツェーベルにとってあまりにも劇的な出会いをした二日前から、内心でずっと気にかかっていたことがある。言葉の問題だ。

 もちろんあそこに自分がいたという事は、優馬にとって類まれな幸運であったし。彼を救うことは自身の使命だったとも思っている。

 だが自身の操る言葉はあまりに拙く。話の中で垣間見る辛そうな顔の原因が、境遇以外にあるのではないかと考えるのをついにやめることは出来なかった。

 まだ旅は続く。長くなるかは先の状況次第でも、学団がこの荷物を持って急がない道理はない。

 拾った者として、ツェーベルは優馬ともっと話をしたいと思う。あちらの望む距離はわからないけれど、それはツェーベルの切な願いだ。

「そこで、俺の出番ってわけかい」

「ぜひお願いしたい。あんたは聖骸殿の側仕えをしてるくらいだ、これほどの教師は中々いねえ」

「むーん……日本語の一番の教師なら、そこに居るけどな」

 会話の内容がわからないこともあり、優馬の視線は未だ外に向かっている。

 大事な話をしているのかもしれないという気遣いもあって、そこに母語で会話する理由を見出した気になれば、何一つ興味を惹かれるものは無かったらしい。

「優馬が?」

 そこでようやく、ほんの少し反応があった。

「そう、優馬だ。ジャパンで暮らしてみるってのは、ネイティブに触れるってことだよ。そんでネイティブならそこにいる。本人に習うと良い。第一、一朝一夕でお前さんの満足行きそうなレベルまで行くはずもねえ。だったら今のうちに話して、ついでに上達出来れば一石二鳥ってもんだろ」

 八つの目が、優馬の目と合う。今朝目覚めてから逸らされることもなくなり、彼の顔を正面から見ることが出来るようになった。初対面の時ぶりだろうか。こんな顔をしていたんだなと、遭遇の衝撃に掠れていた記憶が補完される。

 優馬もまた、ツェーベルの顔を正面から見たのは初対面の時ぶりだ。記憶の出来はツェーベルと逆で。焼き付いて忘れられないほどになっていたのだけれど、どこか新鮮味も感じられた。

「優馬」

 一つ咳払いして、日本語を出す。母語に慣れた舌と喉では、すぐに流暢な言葉は出せない。けれど、彼の名前を呼ぶことは出来る。

「な、何?」

「少し、話しよう。何でもいい」

「なんでも、って言われても」

「そうだな。ああ。あっちのこと、話してくれ。辛かったら、いい。俺、日本語、上達したい。きっと、色々知らないの、覚えられる」

 ツェーベルは必死だったし、優馬にもそれは伝わった。いい加減、慣れても来た相手である。慣れないとやってられない環境にあれば、意外に早くこの境地に馴染むもの。なんとも思わないということはないが、話をすることに否やはない。ある程度長くなっても許容できる。

 優馬はほんの少しだけ困った風に頭を掻いて。小さく唸り。

「そういうことなら、わかった」




「本当か! ありがとう!」

 快諾にはしゃぐ、ツェーベルの子供めいた反応で苦笑いが優馬に浮かぶ。

「だったら、そうだな。栄治とか、俺が友だちとやったことでも話してみようか」

「それは興味深いでございますな。俺はじっくりお聞かせ願いたいと思うぜ」

 ゼナストが身を乗り出してくると、合わせて優馬が退いた。「おっと」とゼナストが退けば、優馬も元に戻る。流石にゼナストの図体はプレッシャーが大きい。

 栄治やその他友人連中の事はこちらの住民にとっても興味深いはずだと選んだ話題だったが、これほどの反応をされると嬉しい反面失敗に思うことも小さくはない。かと言って今更別のに変えても、身の入り方は違ってくると変えることはしない。というより、優馬としてもこれが駄目だとほとんど話すことがなくなってしまうのだ。

 ゲームやらなんやら、まるで無いわけではないにせよ、そういうのに縁無さそうな相手だと尻込みしてしまう。そんなことを気にしなくていい環境と相手のはずでも、憚られるのは彼の性格か、人間の性というものだ。

「いいかな……? よし。それじゃあ、俺達。俺と栄治、それに勇と悠輝と紗由は幼稚園の頃からの付き合いで、優秀って言葉は似合わない連中だった……」

 あまり思い出したくない思い出も数多くあるが、まずは話していいようなものだけを言葉にした。それにしたって悪戯とか、無茶とか、褒められたことでないものばかりが集まっていく。学団にちなんで誰がどの教科を得意として苦手としていたのか触れてみたり、喧嘩してすぐ仲直りした時のことに触れてみたり。

 思い出は話しだすと楽しいもので、没頭すると周りが見えるものではなく。気がつけば三十分は話していただろうか。

 ツェーベルが時折知らぬ単語を聴きとって尋ねたりしてもいたので、もっとかかっているはずだ。いくらか体はくたびれているし、お互い腹も減っている。喉も乾いた。

「二人共、そろそろいいかです? もう昼飯が時間だ」

 時計もそれを示していて、ゼナストの一声でそうすることになった。

 学院でそうしていたように、呼び鐘を振る。隔離された区画ではあるが、要人の世話をする者の部屋を含めてのことなのですぐに部屋の扉が叩かれるはずだ。厚い壁は音を遮っても、呼び鐘の高い音なら静かにしている限り届かないではない。そして世話のために乗り込んだのなら、その点は心得ているはず。

 事実、十秒前後といったところで扉は開かれた。

「お待たせいたしました」

 流暢な日本語。

 小鬼、というのが優馬の得た率直な感想だ。学院で応対してくれた猫人のように額から一本角を生やして、それ以外はほとんど人間の子供と変わりないように見える。ただ体型は大人のそれを持ち合わせていて幼さは感じられず。無論服の下がどうなっているかは知りようもない。

 ゼナストが用件を伝えているうちにツェーベルへ尋ねてみると、恐らくゴブリンだろうという答えが優馬にもたらされた。

 恐らくというのはどういうことか、と聴きかけて。ツェーベルの露出した羽毛と葉の混じる腕を見て思い出し、なんとなく理由を察して口を噤む。

 種を表す言葉がありながら、多くの人が斑であることを考えると、行き当たらないでもない。

 なんらかの理由で種の分類は一応あっても、かなりフワフワしたものではっきりとはいえないのだろう。優馬はそうあたりをつけて、現状の認識としておく。

 そうこうしている間に、興味の対象であるゴブリンの彼女は部屋を辞していた。

 正直に言うと、優馬はかなり興味があった。なんといってもコンピューターゲームはよくよくやっていたし、そこから典型的なゴブリン像が染み付いている身。彼女はそのどれもと違っていて、可憐な印象さえ与えられたのだ。

 先ほど得た認識と照らし合わせれば、「とりあえずゴブリン」とされた可能性は否定出来ないといえ。とりあえずでもゴブリンとされる何かが在るだろうとは確信が持てるところであり。やはり角や大きさが怪しいと目星まで付いている。

 自身を救ってくれていた知的欲求が鎌首をもたげだして、再び扉を開く時が待ち遠しくて仕方なかった、が。

 彼女の再来は思いの外早かった。

 少し慌てた様子で優馬の聞きなれない言葉を喋り、ゼナストが立ち上がって二、三言葉をかわすと。

「ちょっと博士ところ行ってくるます。お前、今一時代わり頼む」

 ゴブリンの少女がコクリと頷き、ゼナストは部屋を出ていった。急ぎ足で遠ざかるのが、防音の中でも響いていた。




「博士!」

『アストナの葉』号甲板上。変わらず空は果て無く青く、海と繋がって全方を取り囲む。泰然として遠く佇み、掻き曇る様子とてない。

 だが反して。船上は嵐の中にあるかのごとくざわめき、今まさに舵は切られて予定進路を大きく外れんとしている。見張りは海も空も慌ただしく行き来を繰り返し、その中心で船長とアリュブーが逐一報告を受け取っていた。

「博士! 何かありましたか!?」

 ゼナストが報告の間隙を縫ってアリュブーに尋ねると、返事は一本の望遠鏡という形を以って返された。

「面舵一杯!」

 船長の号令が、船上に轟く。伝声管を伝って操舵室に届けば直ちに復唱が響き、船はゆっくりと更に予定進路から角度を強め、船員たちもそれに遅れることはない。奏している間にも矢継ぎ早に次の命令が飛び、新たな報告が届いては細かな調整が行われる。

 自分が言葉での説明を求める暇はない。

 悟って、ゼナストは本来の予定航路上に望遠鏡を向け覗きこんだ。見るべき場所はわかっている。見張りたちが向かっている場所が、見るべき場所だろう。

 息を呑んだ。

「『島』……っ!」

 何か大きな、つやつやした表面を持つ黒いものが海上に浮かんでいた。

『島』という単語から連想される土と木、あるいは砂や石によって構成されるものとはかけ離れて違う。心穏やかに見ていられるものではないなにか。大きさで言えば幅二十メートルそこら、高さ三メートル程度といったところだろうか。単語が本来持ち合わせる意味合いにそぐわず、上陸にも適して居まい。

 けれど、ゼナストはそれが何であるか知っている。

 海の男は島を見つけても『島』などという呼び方はしない。全て共通して、陸と呼ぶのだ。

『島』は、もっと別のものを呼ぶ時に使う言葉。今望遠鏡で見つけたものこそが、それにふさわしい存在なのである。

「腐敗ぁ、まだか……? 新鮮そうに見えるな。なら、近くにいる……? いや、それが原因とも限らねえよな。念のため、マスクぁしておこう」

『島』それは鯨巨人の中でも特に大きな種類のもので、身の丈百メートル前後の生きた壁である。死体は時にこうして海面で姿を晒し、あたかも島のようであることから、そのまま彼らを表す言葉に変じた。

 基本的に穏和で温厚な性質を持ち、海上を行き来する船を襲うようなことはない。それも、彼らの死体が見つかったのなら話は別である。『島』も同種同士で仲違うこともあれば、殺し合いに発展することもあって。死体は常に敗者の容疑がかかるもの。敗者がいるならば必ずや興奮した勝者があり、遠く離れているとは限らないものだ。

 頻繁に遭遇するものではないにせよ、対処はマニュアル化されていて悩む必要はない。

 恐らくこのまま、手近な陸地に寄港することになる。不意の寄港のはずだから上陸後の心配も無用のはずだ。

 とはいえ、油断はできない。この船の積荷を狙う者が居るとすれば、陸に上がった時は狙い目になる。進路は大内海中央へ向けられ、大陸からは離れているといえども。

 ともあれまずは、『島』への対処が先決。

「ありがとうございます博士。それでぁ、戻ります」

 望遠鏡をアリュブーに返却して、足早に見張りへの挨拶を済ませると部屋に戻っていった。




「キャプテン、最寄りの港と話がつきました。こちら、証明書です」

 両腕翼の単眼男が鳥の両足で甲板に降り立ち、黄と黒の緊急証明服から丸めた書状を取り出して言った。

「そうか、ご苦労。港側はなんと?」

「即時、連邦海安局に連絡する。当港に受け入れの準備あり、何時でも来られたしとの事。なお、上空から見た限り近辺にそれらしい影は確認できませんでした」

「わかった。引き続き、周辺の哨戒を」

「了解!」

 飛び立っていく姿を見届ける間もなく、船長は受け取った書状を広げ見た。書類内容、落款、いずれをとっても正式な書類であることを確認して、胸をなでおろす。

 隣のアリュブーに差し出して確認を促すと、手が空いたところでパイプを咥え火を灯した。

「博士のお手を煩わせることはなさそうですな」

「だといいのですが」

 ゼナストに連絡してから幾らか後、甲板はひとまずの静けさを取り戻していた。

 死体の浮かんでいた地点から東へ離れ、遠くまばらな陸の見える場所で停泊し。危惧していた勝者の姿も近辺には認められず海は穏やかである。

 たった今上陸の許しが手に届いて、最後の憂いももはや無い。船長から思わず溜息が漏れた。

「しかし、まさか『島』に遭遇するとは……大内海も広いとはいえ、彼らも大きい。ここのようにある程度大陸に近ければ、縄張り争いもあるものでしょうか」

「ある、でしょうね。浅くなればそれだけ海中も豊かになると聞きます。彼らの腹を満たせるだけの獲物も寄ってくることでしょう。それを見越しての航路ではあったのですが……海の中で何か異変が起こったのかも知れません」

「港に寄った折、聞いてみましょう。事によってはしばしの停泊も余儀なくされるかも知れませんが」

「……その時には無理をしていただくことになるでしょうね」

 じっと。遠く目的の陸地を望んで、アリュブーは目を細める。

『島』という大きな脅威から逃れる道筋とは言えども、人が集まれば何が潜むか知れぬものだ。

 いかにアリュブーと言えども、自我の壁を抜けて内心を読み取るのは容易いことでなく。まして人が数多あれば敵の発見に繋がるものとは言いがたい。まさかすり抜けられる隙のあるものを、航路近くにおいていることもないだろう。

『アストナの葉』号が今回辿る航路は公にされたものでないとはいえ、計算して割り出すことは誰しもができうることだ。

「ふむ。結局、お手を煩わす可能性はございますか」

「陸に長居するよりはマシでしょう。島国とは言っても、ドワーフたちの入り込まない理由はありません」

「確かに。どうやら彼には、変わらず窮屈な思いをしてもらうことになりそうですな」

 船長は懐に手を伸ばし、懐中時計を検めた。上のボタンを押せば、盤上の水夫が手旗を挙げて現在時刻を示す。

「予定時刻よりもずいぶん早い上陸。船員たちにはほんの少し、のびのびした思いをさせてやれそうです」

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