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第三話

「改めましてご挨拶いたしましょう。私はアリュブー。博士です。まずは貴方が良き出会いをされたことに喜びを、そしてここまで連れられたそちらの貴方に感謝を」

 その言葉に続けて何か長くアリュブーが述べると、ツェーベルは恐縮しきった様子でぴんと背筋を伸ばし何事か答えた。優馬にはわからない言葉だったが、アリュブーは同じ内容をツェーベルが慣れた言葉で言って、ツェーベルは彼の慣れた言葉で礼を言ったに違いない。なんとなく想像はつく。

 ここはアリュブーにあてがわれた執務室。あてがわれたというのも、アリュブーはあちこち旅して回っていて定まらず。その土地々々にある学団施設で適当な部屋を借り、旅の間に得た知識を書くからだ、と優馬は道すがらに聞いた。

 それにしては、立派な部屋だとも彼はまた思う。博士号が自分の知っているそれと合致しているかはともかくとして、ツェーベルの様子から言ってもアリュブーは高い地位にあるのだろう。調度品の秘めた華美が、この部屋に居るべき者に要求される格を静かに主張していた。机も、椅子も、それに随分と高い天井から下がった照明ですらも造詣で示すことに余念がなく。全方向から「知」と「美」が押し寄せるようである。

 この部屋もそうであるが、基本木造ながらも地球人とはかけ離れたスケール感から作られた建物は極めて広く、異様であるとは一般的な感覚を持ち合わせる日本人学生ならば思って仕方ないものがあった。部屋に来るまでに辿ってきた廊下も、両脇に間断なく設けられた本棚だらけの部屋や本棚そのものも。高く、広く、そして隣まで遠い。ざっと見た限り、スケール感の違いはおよそ二倍程度といったところか。変哲のない廊下でも高さは五メートルほどあり、幅は二車線道路程度だろう。優馬にもなんとなく、以前聞いたことが納得出来る気がした。日本人の家はウサギ小屋だという。

 今のところ、優馬と大して身長の変わらない者も多いからこれまでの感覚を失わずにすんでいるが、こちらのスケール感にマッチした背丈が風景にまじると途端に調子が狂ってくる。

 ツェーベルもその一端であったりするのだが……それよりもなお狂わせるものが、彼の視界の端に収まっていた。

 勧められて腰掛けた、沈んでしまいそうなほど深く大きな毛皮のソファー。斜向かいに座したアリュブーの隣に立つ、二メートル半は超えるだろう人型の巨躯。今までに見た者たちと違って比較的統一感を認められる岩壁のようにゴツゴツした姿を、彼は幼い日に本で読んだことがある。恐竜だ。全身を生来鎧った、アンキロサウルスとかいう系統のどれか。子ども向けの本だったから詳しいことは知らないけれど、書かれていた分は覚えている。昔の事だからこそ逆に鮮明な記憶もあるものだ。

「それではお二人とも、お名前を聞かせていただけませんか?」

 恐竜人の男に向いていた意識が引き戻される。

「あっ、は、はい。園木 優馬です」

 答えて、続くツェーベルの名前部分しか聞き取れない声を聞く間に息を整えた。優馬の意識を乱す要因から完全に意識を奪われていたため、返事はつまずき鼓動も早い。頭に顔にと、血の巡りが忙しく動くのすら感じられる。

「優馬さんと、ツェーベルさんですね。守衛のものが気にかかりますか?」

「えっ、あっ、ああ、いえ」

「ご遠慮なく。あちらの世界で彼ほどの大きさは極稀だと、栄治から聞き及んでいますので」

 彼女の大きな単眼が傍らに立つ巨漢へと滑り、初めて優馬は彼がなぜここに居るのか理解した。ただならぬ理由でもあるのかと気が気でなかっただけに安堵は強い。同時にまた、やはり地位あるものなのだなと飲み込むことも出来た。

「そうですか。ええ、まあ、正直言うと。あの、それより、栄治。麻井 栄治のことをよく知ってるんですね」

 大きな単眼が細まる。どこか懐かしんでいるような、そんな目。

 優馬が読み取ったその感傷は間違っていない。彼女はほんの一瞬といえ、懐古を抱いていた。

「それはもう」

 それまで湛えていた微笑を強めて、彼女はにこりと笑った。

「私、彼の子供を産んだこともありますから」

 アリュブーの言ったことは全て日本語で、全て優馬の知った言葉であったが。一瞬、ツェーベルが母語で言っていることよりも理解出来ない錯覚に陥った。幼少からの友人と、異世界と、そこの住人に、子供。以前読んだ本に載っていた言葉が思い出されて当て嵌まろうとしたが、これは微妙に違う。全てを関連付けられないことは幸せ、だったか。だがその言葉へ思い至るということは関連付けた後だということで、驚きが、心の底からせりあがり。

「ぇ……ぅええっ!?」

 言葉の形で吹き出した。

「驚かれましたか? 」

 彼女の笑いは変わっていた。過去を懐かしむ笑みから、今を喜ぶ笑みへ。悪戯が成功したような気持ちになったのかと、驚きに慌てふためく中で一瞬優馬は思った。思うのも一瞬なら否定するのも一瞬で、それは違うような気がして言葉にならない声を漏らす。

 道すがらにした分を含めて会話は十分でも、出会ってから十分すら経っていないだろう。判断材料はそれだけ少ないのに、不思議とそうは思えない。これは自分が、確かに関係したものだと確信したことからの喜びだと確信できた。

 笑みの中に宿る慈しみが否定させたのだと、しきりに瞬きをして頭を冷やす中に結論する。

 青白い肌と底知れぬ瞳は、この世のものとは思えないが表情豊かだ。感情を宿すことだってできるし、優馬もまた読み取ることが出来る。

 目は口ほどにものを言う。洒落を言っている気にもなってくるが、この諺が彼女には似合っていると彼には思えた。

「……言葉になりません」

「じゃないかと思いました。私の方は、確かに栄治の知人だと確信できたので感動したくらいですけれどね。栄治から聞いたことがある名前と合致しましたし、それはずっと私の心に留めてきました。当時の人は……」

 言葉は途切れて、顔の明度がフッと下がった。

 間に仕切りを置かれたように、気にはなっても続き聞くことはできない。

 時間が必要だ。優馬は勇気を胸に一時しまっておくことにした。栄治の子供を産んだというのが本当なら、彼女は作形についてもよく知っているだろう。その事を聞くには、自分も心の準備が必要になってくるはずだと。

 しばしの沈黙。両者が落ち着くために必要な時間だった。ツェーベルも、アリュブーの傍らに立つ者も口を挟まない。

 先に口火を切ったのは優馬だった。

「えっと、いいですか? その、話は変わりますけど」

「あ……はい。なんでしょう」

「こちらのほうで、馴化、でしたっけ。そういうのが出来るって、ツェーベルから聞いたんですけど」

「馴化。そういえば貴方に必要なことを、まだ話し出していませんでしたね。すみません。どれくらいのことをご存知でしょう?」

「俺は世界に拒絶されてるけど、馴化すれば大丈夫で。でもそうすると元の世界で辛い。けれども帰るあてはない。とか、そのあたりは」

「なるほど。とりあえず必要な分は、というところですね……早速、馴化しますか?」

「あ、いえ。まだ……」

「わかりました。今までに何人も見てきましたけど、やはり時間は必要でしょう。私も作形までの旅には同行させて頂きますから、その内に、いつでも」

「えっ、同行……?」

「させて頂きますよ。異界人と行きあったからには、放っておけません。ついでに、久々に作形へ行くのも悪くないですから」

 また一人連れ合いが増えるのかと思うと、優馬は悪い気はしない。寂しさは減るし、心強いし、なにより楽しくなりそうだ。自分でも意外なほど正気は保てているから見た目の問題は遠ざかりつつあって、良い面が際立ってくる。自棄になってる、と言えばそれまでかも知れない。ただ、自棄だとしてもこういう側面なら持ち続け居たいとも思う。

 気になるのはツェーベルだ。随分と格上の存在らしいのが同行するのだと説明した時、どんな反応を示すか。

 そう思って振り向いた時、彼が見たのは震える八つ目の蜥蜴だった。守衛の恐竜人ほどではないにせよ、ツェーベルも二メートルは超える大きさを持つ。それが震えているのだからなんとも奇妙で仕方ない。

「つぇ、ツェーベル?」

 名前を呼びかけ終わるまでに、アリュブーと会ってから何度目かの早口が蜥蜴の口から迸った。

 ネイティブの発音とスピードで行われる日本語はツェーベルの処理能力を超えていたが、パーツを拾って聞くくらいは出来る。会話内容の要点を抑えた再構成を成功させ、身に余る光栄と知を深めるチャンスでにわかに沸き立ったのだ。

 星霊学団の学徒にとって、アリュブーと旅路を共にすることは自身を高める上で大きな助けになる。ツェーベル以外の学徒が同じ位置に居たとしても、大小こそあれ同じ反応と考えを見せただろう。特に若く大きな者たちにとって、見目可愛らしいアリュブーは格上の相手ながらに庇護の精神が湧いてくる。恐竜人の守衛もあえて見咎はしない。

 事ここに至ると。優馬がツェーベルに抱く不気味という印象は自身でもよくわからないものが混ざって、不気味という感情を抱き続けるのが難しくなってきた。よくわからない、というのが最も適切だろう。不気味の一種でありながら、好奇心を不気味以上にかきたてるものである。

 程無く、甘く香るような笑い声も混じる短い歓談を終えて場も落ち着き、ツェーベルの満足気な吐息が物理的でない熱を払うと、アリュブーが切り出した。

「それではこれからの予定ですが、今日はここに泊まってもらって、翌朝に船で発ちます。お二人には彼に部屋へ案内させますから、それに従ってください」

 視線を受けて、恐竜人の守衛が小さく頷く。

「私は基本、この部屋に居ます。居なければテラスに居ると思います。優馬さん、ここに居る内に決心がついたのならいつでも訪ねていただいて構いません。この施設、学校なのですけれど気になれば見学もどうぞ。ただし出歩く時は必ず、彼についてもらうようにお願いします。日本語はできますから、安心して下さい」

「つうわけだ。よろしくお頼み申す」

 姿を見てから初めて、恐竜人は声を発した。言葉遣いはなるほど、ツェーベルよりも聞き取りやすい。非常に背が高いせいで声が極めて低く、文章が奇妙になっているのを除けばいくらか気安い会話もできそうだ。

「ははぁ、こちらこそ」

「よろしく」

 優馬もツェーベルも、些か気の抜けた返事になってしまったが守衛は満足そうだった。

「挨拶はお互いに終わりましたね? では、ひとまずこれでお話は終わりです。実を言うともう少々話すことはありますが……馴化していないのなら、むしろ安全なくらいでしょう。守衛も居ますし、ツェーベルさんも腕が立ちそうです。今はお部屋を確認しておいてください」

「いやっ、むしろ安全って、一体」

 それは聞かないでいられなかった。

 気だるい体を抱えて、物に触れば痺れもする。食事はゆっくりとすれば支障はないようだが……この上さらに何か積み重なると言われれば、気にならないはずもない。

 内容がわかっていたほうがまだ気楽だと、優馬は尋ねた。

「異界のモノは世界が拒絶する。そして貴方という世界の泡も、こちらの世界を拒絶している。故に貴方は苦しんでいるのですけど、逆に言えばこちらの世界の災いを寄せ付けないという事でもある。お分かりいただけましたか?」

「はあ……まあ、なんとなく」

「もっと詳しく聞きたいのであれば、それもまたの時に。今は他にすべきこともありますからご容赦を。それでは、ごゆっくりどうぞ」

 アリュブーが小さく一礼したのをきっかけに、守衛の恐竜人が二人を外へ導いていく。威風と圧力に叶うはずもなく押し出される間際、優馬が見たのは彼女の笑みが解けるように失われていく姿だった。




 アリュブーは頬杖をついた。

 顔は笑みの名残にすがりついて微かに緩みを見せるものの、雲が太陽を遮るように失われていく。目を閉じて、また開くと、真横に顔を向けた。

「思いがけない拾い物でしたね」

 四角く色濃い木箱。長方形で厚みのある、アリュブーなら両手で抱える必要が有りそうな代物。固く巻きつけられた幅広い白布には幾何学性の薄い、しかし何らかの法則が秘められた青い紋様が描かれている。

 造り付けの棚の上、一見して無造作に置かれているように見える。だが、アリュブー以外の者が取ろうとすれば決して容易なことでないと知るだろう。

 部屋の中からは見えない位置。箱の壁側面から置かれている棚に掛けて、描かれたまた別の紋様が存在を知らしめることもなくひっそりと眠っている。その体は固い。決して半身が引き裂かれるようなことはなく、仮にあれば声なき声がアリュブーに届くだけの声量で叫ぶだろう。

「いやまったく。アタシだけじゃなく、あの時絡みなんてね。アンタ、本当に大丈夫かい? これ以上荷物背負っちゃってさ」

 確かな声は箱の中から。

 力強い川の流れを思わせながら、どこか調子はずれで聞きづらい。時折かすれてつっかかり、あまり長くは聞いていたくない類の声。女のもの。

 箱越しながらも明瞭に聞こえてアリュブーの耳にしっかりと届き。一語一句、声の主が表したとおり響いて、欠けるところは全くなかった。それは不快感を更に煽る効果をもたらす筈だが、アリュブーにそんな様子はなく。むしろ慣れ親しんだクッションに体を預けているような、安心感がにじみ出ている。

「大丈夫です。むしろ、望むところですよ。栄治に手土産が出来たと、そう思えるほど」

「そうかい。なら、信じておくよ」

 感心でも呆れない。彼女がそういう人物であることなど、声の主は知っている。こんなものはお決まりのやり取りに過ぎず、あえて感情が挟まるまでもない事だった。

「だけどさ、これは本当に大荷物だ。私に加えて悪魔。それもあの絡みで関わり深いとなっちゃあ、あちこち黙っちゃいないだろうね」

「規定のルートを通れば、大きく問題が出ることはないでしょう。こういうことだって想定してないわけはないんです」

「あのツェーベルっていうのも、それを期待して来たんだろうしねえ。まあ、私も実績は経験済みか」

「異界人であることは隠しようがありません。なら大きく目立っていたほうが、人垣でむしろ安全になる。ツェーベルさんは賢い選択をしましたね」

「運が良かったのも大きかったんじゃない? あっちもこっちも、ね」

 アリュブーは大きく頷いた。

 ともすれば社会の陰に消えていたかも知れない存在を、その前に保護することが出来た。それも自分がだ。

 星霊が導いてくれたのだろうか。静かにそうも思い、否定する。星霊はそんなことはしない。ずっと昔から常識だったし、体験から納得できることでもある。

 だけども運命的なものを感じずには居られない。運命など彼女らにとっては「そういう考え方もある」程度でしかない概念だが、こんな出来事があるたびにぶり返す感情が今たしかにあった。

「……とりあえず、念のために警備は増備しておくよう言っておきます。優馬さんには船室で缶詰となってもらうことになりますけど、仕方ありません」

「仕方ないね。船員とかの心象的にもそのほうがいい」

「ええ。あとは優馬さんの慰めになるような何かを色々と……彼にとってはどうしたって、閉鎖空間になるんですから」

 紙を一枚とペンを取り、諸々関わることを書き付ける。

 広い部屋に呼び鐘の高い音が響いた。




 部屋は広く高く、二つあるベッドは大きく厚く。その他安らぐのに申し分ないものが揃っていて、優馬は苦笑いをこぼした。

 ここまで学習した世界観にぴったりな部屋だったからだ。

「いい部屋、寛げる。来た甲斐あった」

 というツェーベルの言葉もあるから、一応良い部屋という要素含んでこれだけの物になっている可能性も考慮はしている。

 ただ想像の中ですら、要素を取り除いてもなお自分が抱いた感想は変わらないだろうという自信もまたある。

 なんとも、体は休まっても心は休まりそうにない。

 日本人感覚からして高すぎる天井を見上げながら目覚めることを思うと、途端に気分が悪く。いや、逆に良くなってきた。脳が防御反応で快楽物質でも出し始めたのかも知れない。

 他に優馬の安らぎになりそうなのは、海向きのガラス窓がこれまた大きく、日が差し込んで部屋を照らすことだろう。時刻は未だ天中刻─正午─に至らず、東から差す日は角度もよくて暖かい。左手に大樹の梢や町並みを見ることも出来れば、それで気を紛らわすことも出来るはずだ。世界に慣れる助けにも、多少はなってくれることが期待できる。

「本来が修士位以上の奴使う部屋だでありますからよ、居心地に関しましては約束しまっせ」

「修士! なるほど、良いわけだ」

 入り口を固める守衛の変な日本語に、ツェーベルは得心がいったとばかりに大げさな頷きを繰り返した。

 アリュブーが博士で、ここが修士以上。修士という言葉に優馬は馴染みなかったが、博士ならわかる。なんとなく関連もありそうなところだし、使い方からして身分を表すのだろうと見当もついた。

 文化を知る上で、いいかも知れない。

 分泌されている快楽物質のせいか、そんなことにも考えが及ぶ。先ほどまでのどうにも沈んだ気持ちが∨の字を描いて上昇中の今、躊躇いはない。

「えっと、修士、ってなに?」

 二人十個の目が優馬に向く。特に何か篭るでもない視線でも、巨漢二人相手では思わずたじろいでいた。

「ふむ。異界人はお前さんくらいだと、ご存知ないのが稀によくあるって聞いたことあります」

「俺も、少し。簡単に言う、学位、中位」

「星霊学団での地位です。博士が一番上で、修士、学士、って続くんだ。ほとんどがその下な学徒っていう身分だから、ここはとても良好だな部屋だって言えるます」

 一瞬見えたツェーベルの悔し気な顔は気にかかったが、優馬にはまず知れたことのほうが大きくて目に入った。

 学団はこちらにおけるキリスト教や仏教のようなもの。それが優馬の中のイメージとしてあっただけに、教えられた事はかなり大きな意味を持つ。

 博士。一番高いらしい地位の者が、わざわざ自分に同行する。

 抽象的な表現でのみ知っている栄治が関わった事件が、少しずつリアルな輪郭を持ち始めて脳の中を転がりだした。その博士は栄治の子供を産んで、先ほどの話は途中で口篭った。あのあと、どんな話が続くはずだったのか。

 形がしっかりしてくるという事は、痕跡を残すようになったということ。そして同時に、更に確たるものとする道筋が見えて来たということでもある。

「へえ……なるほどね」

 分厚いベッドに腰を下ろし、揺さぶられる。抵抗する気力はだるさから体の外に流れ出てそのまま仰向けになり、案の定、高い天井は眼を絞るように竦ませて脳を軋ませた。やはり気分は悪い。ベッドに触れている肌が痺れる。

 ふと、好奇心や向学心が、一時とはいえ体の辛さを忘れさせてくれたことに優馬は気づいた。

 優馬自身は知らないことだが。意識下では取り留めなく物事を巡らせることしかできなくても、より深い部分では負担を減らすものを探していて。この感覚が出ることを虎視眈々と狙っていたのだ。

 今一瞬の痺れの遅れ。だるさの忘却は、些細なようで大きな事だった。心も体も気づけた今、意識の舵はきられて。

「そういえば、まだ守衛の人の名前聞いてなかった」

「おっと、そういやそうです。俺ぁゼナストっつうんだ。よろしゅうな」

「ゼナスト。こちらこそ、よろしく」

 これでもまた少し、知ったことが身体にしみてくる。

 しっかりと感覚を捕まえた意識は、少したりとて見逃しはしない。麻薬のように効いて全身へと満ち充ちていく。

「よろしく、ゼナストさん。それじゃあ早速だけど……学団とか、ここが学校だとか、それに栄治が関わったこと。少し落ち着いたから、聞きたいことが山ほどある。どれくらい教えてもらえるかな」

 ツェーベルとゼナストが目をあわせて満足気にニコリと笑った。

「いい向学心ですね。学団と学校については抜かりなくするぜ。麻井 栄治が関連は、もっともっと落ち着いてから望ましいです。他にもあれば、どんどんどうぞ」




 過ごすことの出来た時間は素晴らしいものであった。

 多くの知識が優馬の頭脳に収まって、休息をもたらすと同時にこの世界に対する理解を深めることが出来たのだ。

 これまでは裸で、あまりにも無力だった。そこへ武器と防具を得ることが出来、ようやく自衛する事ができる。未だ身に馴染みきらず、いわば着られているような状態といえども防ぐくらいはしてくれるだろう。もっと多くの物事を糧にすることもできそうだったが、体力の限界もあり叶ってはいない。

 今は明けて翌朝。

 ゼナストとの対話は主に、変な日本語を理解するための時間を取るなどして夜が更けるまでも続いた。途中でだるさからの消耗もあり、眠気に見舞われて話途中で打ち切ったが有意義なものだったと、優馬は満足がすることができている。

 学校見学は短く終わったものの、他の場所で見る機会もあるだろうと期待の形で留め置くことにしており。先に楽しみを作っておけば、ひとまず自身を満たしておくも出来るはずだと火種を絶やさず燻らせていた。

 昨日の出来事に思い巡らせて復習とし、薄闇の部屋でベッドから体を起こす。二十四時間以上着たきりだった服は昨夜に部屋を訪れた洗濯屋へ託し、学団の提供による植物性の緩い衣服に着替えてある。体も洗ってすっきりと少しは軽く、寝起きの高い天井を差し引いても気分は良い。体を洗うのは些か厳しい物があったが、汗やら何やら汚れたままなのも気持が悪いので耐えぬき。着替えも始めのうちは痺れ続きで辛かったものの、今はそんなこともない。

 この事を少し不思議に思ったものだが、これについても優馬は知識を授けられた。

 曰く。知あるものは「自我」によって世界から分かたれ、己を保ち守っているとのこと。そして自我薄弱なものと自身の自我が触れ合っている場合、相手を自身の一部として取り込むことが出来るとも。

 自我とは。大体腕を組んだ時と同じ程度までの距離に存在する、自意識と世界との境界である。またの名をボディーゾーンと呼び、優馬のいた世界においては生物的な縄張りの一種として認識されている。

 これが存在するお陰で痺れる程度で済んでいると聞いた時、優馬は顔を顰めたものだった。続けてもしもこの緩衝帯なしでこちらの世界に他世界の霊質─あらゆるものの根源的構成要素─が放り出されていたら、大爆発を引き起こすと聞いて青ざめたリもしたのだが。

 とはいえ自我の恩恵を優馬が一番感じているのは、今のところ着替えと食事に関することくらいであった。服を霊的に自身の一部として取り込むことが出来たので、新品の服の着心地を楽しむことができている。ワイシャツの下に着ていたティーシャツより少々固くとも、通気性には優れていて開放感がある。優馬が欲しかったものだ。

 踏み台を経由してベッドを降り、東向きの窓にかかるカーテンを開けると、日は既に水平線から半ば顔を出していた。

 遠く展望を飾る大樹の梢には鳥人の洗濯屋が飛び交い、日当たりが良くて風通しのきく木の頂上付近に干された洗濯物が、そよそよと風になびいている。

 トマグトにおいて衣類の洗濯は洗濯屋の仕事であって、空を飛べない者が関われる仕事ではない。大樹を軸として構成した都市は堅牢で、収納に優れる反面。夜に生きる種族ばかりが得をする構造になっている。日光は力強い幹や鬱蒼と茂る木の葉に遮られてほとんど下部に届かず、当然洗濯物が気持ちよく乾くはずはない。そこで空を飛べる者は多くが梢を縄張りとし、沿岸樹上都市で「衣」の多くを手のうちに収めているのだ。

 あの中に、昨日自分が出した自分の衣服もあるのだろうと思うと、優馬はついつい目で探してしまう。登校途中だっただけに学校の制服で、探すのに苦労はあまりしない筈だがそれらしいものは見つからない。いかんせん遠い上に、数が多すぎていちいち見極めるのを頭が拒んでいるのかも知れないと、しつこく改めてもみた。

 すると今まさに、鳥人の一人が梢の一つへ見慣れた制服を掛けるのが目に入った。

 両手と翼が一体となっているようなのに、丁寧でしっかりとした仕事を見ているとなんだか嬉しくなってくる。思えばあれは、一緒にこちらへ来た数少ない道連れの一つなのだ。いささか大袈裟な言い方をすれば、現状という苦しさと共に戦う戦友。普段何気なく着ているものも、今となってはかけがえない。

 抱いた暖かさの中に混じる一握りの切なさから、ひとまず優馬は目を逸らしておくことに決めた。

「ん、お、おお……おはよう」

 すぐ近くのベッドで、衣の擦れる音がする。ツェーベルの眠たげな目が優馬を見ていた。

「おはよう、ツェーベル」

「……よく眠れなかったか?」

「昨日よりは、ずっとよく眠れた。早起きな体質じゃないはずだけど、目が覚める」

 お世辞にも、優馬の一日の始まりは基本的に清々しいものではなかった。もっと布団に執着して、闇を愛していたはずだ。

 こちらに来て越した二度の夜明けは、あちらの世界ではほとんど見ることがなかったもので。精々年越しとか、さもなければ気まぐれに思い立ってか。連休に友人と集まってというくらいでの経験であり。どれもしっかりと眠りをとって、その上で目覚め眺めたものでは決して無い。

「緊張、あるな」

「そうらしい」

 いい寝起きだったと自分では思っていても、自覚していない部分はそうなのだろう。

 言われてせわしなく動く自分の足に気づき、優馬の口から溜息が漏れた。

「色々知って、余裕は出来たか。表面上。でも、まだ目を合わせてはくれない」

「あっはは……気付いてた?」

「おう。そんなもの、思うが」

 ツェーベルは優馬の暮らしている場所が、純血の人間しか居ないのを知っている。

 あまりピンとこない風景ではあるけれども、想像できなくはない。なんとも奇妙で興味深い光景だと、顔にでた。

「思いきれないな」

「いいことだ」

 優馬の返答に破顔して、ツェーベルもベッドを降りる。踏み台は必要ない。

「とにかく、飯にするか。出発、洗濯乾いてからっても、早めに済ませる良い」

 起きてすぐに食事というのも優馬は苦手だが、水分は欲しいところだ。水分さえ入れば食欲が湧いてきたりもするし否やはなく、軽く顔を洗って呼び鐘を鳴らす。

 こんな朝早くに、ということはない。

 数多の種族が混在すれば夜に活発なものも多く、自然と街は眠りを失う。何時いかなる時間帯でも必ず閉まっている店があり、同時に開いている店が存在するのだ。施設の職員もまた然り。

 程なくして、額から尖った一本角を生やす白い猫顔の女学生が入ってきた。身の丈は優馬と同じくらいで、二人の巨漢に挟まれていた事を思えば清涼剤ですらある。

 どの服がどんな身分を表すのかは聞いていたので、優馬にも彼女の身分は判別がついた。彼女は現役で学院の教授を受ける身分、学生に違いない。ちなみにツェーベルの学徒身分は、学院課程を終了して見聞を広げていることを表すと聞いた。ゼナストは学院に留まるか戻り、学生に教授する教師身分であるという。

「お待たせ、ました」

 これほどの宿泊施設が併設されているなど、優馬の知る学校とはかけ離れているが確かに学校、学院であることを確認にした瞬間だった。

 そしてその証左である学生が、客人の呼び出しに応対する。

 進路指導とかで見たことのある特定の専門学校とか、そういう関係でもなしに。これが普通だとは昨夜のうちにゼナストから語られた。学院という小さな社会で、更に大きな社会に通ずるものを心身に溶かしておくと。

 あちらの世界でも学校に求められていることではあるが、ここまで任されるものではない。学生同士のやり取りで終始するような小さな枠組みを出るものではなかった。

 こちらの学校はもっと下の機関が存在するものの、同じ事はそちらでもするというから一般教養の一部に組み込まれているのだろう。

「朝食、お願い」

「畏まり、ました」

 拙い日本語のやり取りで全てを見ることは出来ない。彼女の年齢も測ることはできない。

 それでも、去っていく姿から身に染み付いている礼節を読み取ることは出来る。優馬は感服し、少し恥ずかしくもなった。身分としては同じでも、自分ははるかに劣るように思えて。

「どうした?」

「んやあ……今の子、見てたらさ」

「気になったか。確かにいい体、思ったが」

「意味、違うけど」

 思い出してみると、わからないではない。体のラインは高校生を欲情させる程度に女性的で、制服の上からでも性的欲求を刺激される。ツェーベルが自分と同じような美的感覚を持っていることには優馬も驚いたが、話の取っ掛かりができそうなのはありがたかった。

 二度も眠りを経れば、一昨日の感想は薄れてしまうもの。いや、慣れると言うべきなのか。優馬も僅かずつながら、コミュニケーションを取りたいと思ってきている。既に決まっている心に踏ん切りをつけるための努力。多分それが最も適した言葉なのだろう。自己防衛のために固く閉ざされていた心の扉は、自己防衛のために開き始めている。

 再び、部屋の扉が開かれた。ゼナストだった。

「おはよう。よく眠れ申したかよ」

「おはようゼナスト。今朝食頼んだ所」

「ちょうど行きあったので聞いたぜ。俺の分もお頼みしておきました」

「なら、朝食、三人でか」

「そういうことにござるです」

 ゼナストは部屋の隅にある頑丈そうな厚い丸テーブルを引き出して、彼にピッタリ合いそうな大椅子を三つその周りに置いた。背もたれは背中の一部を支えるのみで、尻のあたりは空白になっている。ゼナストのいかつい尾をみれば、存在理由はすぐに見当がつくものだ。優馬には余白が大きすぎてリラックスできそうに無く見えたが、背もたれの部分はスライドする構造であり不安はすぐに払拭された。

 ゼナストが椅子の調節をしてくれている間に優馬はずっと眺めていたのだが、そこに用いられている技術の高さにもまた感服させられる。どう頑張ってもレストランの幼児向け椅子か、座椅子のように扱わねば落ち着かないのは免れなくても。テーブルの上をしっかり見渡せて手を伸ばすことができ、顔の高さも他の二人と同程度に落ち着くまで特に難しいことは行われていない。

 ツェーベルとゼナストが座る椅子も手早く調整が成され、食卓を囲むのに申し分ない環境がすぐに整った。

 丁度、部屋の扉がノックされて。

「お食事、持ちました」

 先程の猫人と大きな手押しのワゴン。大小様々の皿の上に同じ料理。テーブルにそれぞれ並べられるまでの間も芳しい香りが胃の奥に入り込んで腹の虫を転がす。

 やがて全て整うと一礼し、猫人の女学生は部屋を去っていった。

 昨晩に供された大椰子蟹の肉は大味で、決して万人受けするものではなかった。

 今朝も優馬はそれを危惧していたが幸いにして杞憂に過ぎず。見も知らぬ植物のサラダは爽やかで甘みすらあり、しゃきしゃきと新鮮な歯ごたえが脳を刺激する。

「予定はわかってる思うですが、再確認だ。あと二時間ほどで出発する」

 魚と思しき生の肉を口にしながら優馬はゼナストの言葉に耳を傾けた。

 食事をしながらの休み休みな会話は時間ばかりが掛かって、およそゆったりとした時間とは言いがたい。友人と会話をしながらの一時は楽しかったものだが、それはある程度聞き流しても問題ないような気安さから来たものであったし。口にしている酸味のあるソースと肉の調和に対する気がかりが会話との天秤に乗らなければ、もっと楽しめていただろう。

 ましてこちらの世界の食事は優馬に慎重さを要求する。

 食べ物が自我に取り込まれて痺れなくなるのを待たねば、食感も味もあったものでははないのだから。

「洗濯物、乾くの?」

「あそこ干しておきますればすぐだぜ。さもなきゃ霊質干渉でどうにかいたす」

「それは頼もしい限りで」

 そちらにわかりやすく言って魔法。

 優馬の霊質干渉に対する認識は、説明されたことそのままだ。

 具体的に言えば世界の根源的構成要素、霊質に接続して世界を直接改変する技術。その概念はおおよそ理解出来るが、しきれない部分を魔法という言葉で穴埋めできるのが大きい。

 学院に在籍したことがあるものならほぼ使えるということなので、メジャーな技術ではあるようだった。

「さて、ごちそうでした。俺は準備するです。またあとで」

 ゼナストの前にある皿はすでに身軽な姿を晒して、ツェーベルもまた同じく表面を顕にしていた。

 彼らには優馬のような事情もなければいかにも大食いそうで、状況に不自然はない。少し恨めしく思ってしまうのは優馬に事情があるからだろう。暖かかったものは冷めて、溶けていたものも固まりだしている。優馬は温冷どちらの状態も味わえるお得感を意識して誤魔化すことにし、静かな食事も出来そうだと首を振った。もう少しの間は、意識してポジティブで居るに越したことはなさそうだった。




 半日ほどぶりに着込んだ戦友は既に知っている相手ではなく。肌に触れる部分は痺れて、徐々にまた馴染んでいく。

 これは、自分を助けてくれた法則が適用されただけのことだ。脱いだ衣服がこちらの世界に馴染む。こうなるのも当然のこと。ふと、小学生から中学生になった時のことを思い出す。今の自分とその時の自分が、優馬には少しだけ重なるように思えた。

「もっと他に都合することも出来ましたけど……いいえ、なんでもありません」

 それだけ言うとアリュブーは桟橋に歩を進めて、脇に厳重な封印を施された木箱を重たげでもなしに抱えたまま、停泊した大型蒸気船の中に消えていく。

 都市下層部。最も空に遠く光の薄い場所。水面から照り返す陽光なくしては、月の夜とそうは変わらない。補うためにあちこちの壁面で照明が輝き、微かに木漏れ日は差し込んで。エラやヒレを持つ人々が、隙間を縫うように行き渡る狭い通路を辿っている。時に水中に飛び込んで上がっては、濡れた艶やかな肌がきらめていた。

「俺達も、乗り込もう」

 ゼナストは既に乗り込んで、ツェーベルも今まさに先を行く。

 船旅はこれが初めての優馬には、長期航海になるらしいことに不安が隠せない。不安な中に重なる不安が、郷愁の形をとって逃避へと導いている。海近い町で育った身に水平線は助けとなって、船の向こうに意識を飛ばし足を止めていた。

 軽く背を叩かれる。

 ツェーベルよりは背が低い、それでも優馬よりも大きな体。彼の顔の模様は優馬も見たことがある。シャチだ。

 他の水夫よりもずっといい身なりをして、独特の帽子を被り、無言の中にも自信を込めた鯱人。船長と直感するのにそう時間はかからず。ぼそりと掛けてきた言葉は優馬のわからない言葉だったが、不思議と心を奮い立たす何かがあり。優馬は、笑っていた。心の底からにじみ出るものだった。

「ありがとう」

 つぶやき、桟橋へ歩き出した優馬の背中を見届けて、船長の視線は油断なく周囲を舐めた。梢の間に間に、上層の縁に、水中に。港を行き交う水夫の顔を眺めて、ようやく彼の足も進みだす。決して安心は宿すことなしに、自身の城へと。

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