第二話
カーテンの端、木組みの車窓の隙間から忍び込む微かな陽の灯りにくすぐられ、優馬は重たげに瞼を開いた。かかる振動は揺り篭とするのに少し力強く、寝台は硬くて夢の続きを求めようとは思えない。光はまだ柔らかいにもかかわらず室内は暖かすぎて、こちらの世界へ来て以来途切れず続く気だるさだけが、再び泥に似た眠りへと引きずり込もうとしている。
目を醒ましてしまったのはおそらく、陽の灯りだけが原因ではないだろう。やはりこの気だるさ、えも言われぬ不快感と不安感が、眠りを弄んで安らかにさせてくれないように思えた。薄暗い個室の中、ツェーベルもまだ反対側の寝台で目を閉じ、車輪の音を除けば遠く何かの鳴き声が聞こえるばかりだ。
幽鬼めいた動作で起き上がり、カーテンをずらす。眠いが眠りも不快なら目覚めを求めるほかない。時計が目の届く範囲にないから時間まではわからないが、聞いた旅程と外の明るさからして大分長い眠りをとれたはずだ。こちらの時間間隔が如何程のものかわからない以上、そうだと言い切れるものでないとはいえ。
「……? うわっ!」
思わず漏れた声。背後で身動ぎする音が聞こえる。それも長くは続かず、また静かな寝息が聞こえてきた。ツェーベルはまだまだ寝足りないらしい。
だがそれよりも、優馬には車窓からの景色が印象深くて背後のことまで意識が回らなかった。
仄明かりにきらめく眼下の濁った水面は、対岸までおよそ二百メートルほどあるだろうか。その距離同等の高さと、相応しい幹を持った大樹が聳えてマングローブを形成していた。前方でゆるやかにカーブする水路は半ば辺りこそ光が差すといえ、空を殆ど独占する梢が濃い影を落として暗い。
あたかも光の線を辿るようにして、二人が乗る列車はそこに建てられた高架を走り抜けていたのだ。
昨日。あれから優馬とツェーベルは村長から出してもらった馬車に運ばれてひとまずの目的地に着き、そこでこの列車に乗り込んだ。御者が話しかけてくることはなかったが、ツェーベルとの話に終始していた優馬にとっては退屈しない旅であったし、沈黙から不安を煽り立てられることもなかった。
代わりに煽りたてたのは、ツェーベルから語られた様々のこと。興味深いことも多く、そればかりではないにせよ、悪いことというのは心に残る。
曰く。かつての昔、およそ二百年ほど前のこと。この国、ライドーム帝国の北にあったユテルという国が、異界の存在を招き入れようとした。表向きの動機は星霊学団の教義に則った発展への寄与であるが、実際は異界の存在を用いて近隣国家を侵略しようとしたというのが通説となっている。ユテルはこの時、ただ一人の者を召喚しようとしていたらしいが、結果として都市がまるごとひとつ召喚され、元々存在していた町は代わりにあちらの世界へ行くという大惨事となった。
そうして召喚されたのが、優馬の最後の記憶に残っていた故郷の町、作形なのだという。
「なんで、俺よりもずっと昔に?」
その質問に、ツェーベルは確たる答えを持っているわけではないと前置きした上で、ごく単純なことだろうとも言った。
ユテルが召喚する対象に指定した時間はお前にとって未来で、それによって前後する時間に波及した効果から生ずる亀裂のようなものは、あの時点につながっていた。恐らくはそういう事だと。
わかったような、わからないような。とにかく、一応ある程度の理由があるのだなと、優馬は納得しておくことにした。とにかく何か巨大なことが起きて、こちらから見るとなんとも奇妙な状態であるらしい。認識はその程度だがそれで十分だったし、もう自分の手が及ぶ所ではない出来事だとわかって、受け入れるしか無いということに満足もしている。
好奇心が満たされて興味の失われたこの話題よりも、優馬は次に述べられた事柄に食いついた。
名前の挙がった自身の友人、麻井 栄治の成した様々の行状についてだ。
語られたことは端的なことから読み取るだけでも英雄譚でありつつ、深く尋ねもしたがツェーベルが口を鈍らせて聞き出せなかったというのもあって記憶に深く残っている。
彼は立ち、狂える魔王を討って、大罪を屠り、遂にはユテルへ止めを刺した。
ありふれた物語。それも、夢としか思えない世界の者の口から語られると伝説や神話めいて血沸き肉踊り、それが自身の友人が成したことと思えば、現実味は更に薄れていく。あの栄治がそんなことをするとは、友人の立場から思い返してもまるで想像出来やしない。片言で語られると真偽をその中に問うことも難しく、心にとどめておくしかないとけりを付け、黙考の中でも今はそのままおいておくことにした。他に、考えるべきことがあったのもある。
ツェーベルが語る物語の序盤でほのめかされたある行動。立つ、その前に、世界に馴化したという部分があったのだ。
「世界に馴化した、どういうこと」
八つ目の蜥蜴人は少し眉を寄せるような素振りを見せ、程無く全ての眼を大きく見開いた。
「話す、必要、思ってたことだ。言ってなかったな」
そこで崩した座り方を改め、大きな体をぴんと伸ばし、ツェーベルは優馬の眼をまっすぐに見た。作形に、栄治に心当たりがあると言った時にみた雰囲気と似ていて、優馬も目を逸らせなかった。
「優馬。ずっと、だるい。物触れる、痺れる。違うか?」
「……うん」
「それ、世界、拒絶反応。馴化する、この世界、一部になる。拒絶反応、無くなる」
聞き取りにくくこそあったが、要点だけを抽出した言葉は素早い理解を助けてくれた。
自分はまだ、この世界の一部になっていない。だからこの世界から拒絶される。この世界の一部になればそうはならない。
極めて簡潔な内容だ。なら、早めに馴化してしまうのがいいか……そこまで考えて引っかかりを覚え、思考の回転が止まる。なにか大事な事を見逃している気がして、決断を下すことができない。
見落としているものは何か。今一度理解した内容を反芻し、それからふと、自分の世界も思考材料に混ぜた時。
気づいた。
「あれ、えっと、つまり。馴化する、今度、元の世界、拒絶される?」
「……そうだ」
搾り出すようにツェーベルは答えた。
やはりそうなのか。
また一つ、言いようのない不安が優馬の心に根を下ろそうとしていた。
世界への馴化などということもこちらの世界では成立しているようだが、自分が暮らしていた場所では物語の上での想像で散見されるに留まることで、そもそも異界人なる単語をこれほど頻繁に聞くのも今さっきからがはじめてなのだ。
自分の世界に返った時、再び馴化できるかどうかは怪しい物がある。あまりにもリスクが高い。
「だけど、そもそも、帰る、出来ない」
耐え忍ぶべきか……声が割り込む。
「え……?」
「ユテル、事故、起こしてから、異界、召喚、禁じられた。危険、起きないよう」
要点だけを抽出した言葉は素早い理解を助けてくれた。
声を出す気力が、優馬の中から抜け落ちた。
そういえば、そんなことがあった。
寝惚けの霧が晴れていくにつれて見えてきた出来事が、優馬の心に引っかかって重荷になる。どれもこれも印象の強いことばかりで像は鮮明。忘れようも無い。
頭を振った。
考えれば考えるほど比例して、苦しみは増していくようだ。眠りが多少なりとも心から疲れをとってくれたはずだけれども、思い出したことですぐに取り返してしまったのだろう、体の重さはだるさによるものだけでないとすぐにわかる。これではいけない。
道先に憂鬱ばかり控えるような旅路と思うなら、殊更自身を奮い立たせなくては。
そうだ、駅員や乗務員たちからも恐れられて隔離された最後尾の車両も、後方車窓が独り占めできて悪いものではないのだし。前向きに行くのが吉というもの。まだ聞いていない幾らかのことはツェーベルが起きてから聞けばいい。まずは車窓から見える、あちらではあり得ないような風景を楽しむべきだ。
優馬はカーテンを開く。窓の向こう。大樹マングローブは延々と続いている。見事な景色がすっと体の奥を洗って、やっと心から微笑むことが出来た。
「ん、む……んんっ。むう、おはよう」
幾ばくかの時が経って連れ合いの八つの目が開いた時、優馬はやすらぎの時が終わったのを知ったが、既に寝起きに降りかかった重さは降りていた。
「おはよう」
「気分、どうだ」
「悪くない」
「なら、良かった」
優馬が笑顔を見せるとツェーベルも笑顔を浮かべた。
心を軽くする努力の必要性は、なにも優馬だけが感じていたことではない。自ら選んだ道であるとはいえ、悪魔の護送という大任は重く背にかぶさっていたのだ。まして帰り得ぬ事実を告げた時の表情。優馬と同じだけのものが心を覆ったとは言わないが、鉛のようになったのは記憶に新しい。
そしてそれが良い循環を生み出した。連れ合いが笑顔を見せていると気分が良くなるのはどちらも同じ事。自分を保護しているものに余裕が見えれば、保護されている方も余裕を持つことが出来るというものだ。
優馬もツェーベルも、昨日とは打って変わった空気の軽重に自然と体は弾んでくる。
「さて、今は……ここか」
自身の寝台側にあるカーテンを開き、八つの目が細まった。反対にある優馬側が既に開いていたからある程度明かりなれはしていても、すぐ近くから飛び込んでくると眩しい物は眩しい。
向こうの車窓よりも大樹はかなり近く、そこかしこの目に届く木の幹や、高く持ち上がったタコ足状の根の上に設えられた小屋と、小屋で働く人々の姿も確認できるほどだ。強い圧迫感を覚えるほどだがツェーベルに物怖じする様子はない。むしろ、安堵を更に重ねたようにすら見える。
優馬はそのわけを知っている。なんでも何度か訪れたことがあるらしいと、眠る前にポツポツと交わした会話の中で聞いたのだ。確かなんといったか。思い出そうと頭を捻り、先んじてツェーベルの言葉が続く。
「トマグト、近い。早めに、準備」
沿岸樹上都市トマグト。国有数の港だという。
沿岸樹上都市トマグトはライドーム帝国南東部、大内海に面した大樹マングローブの突端に位置する都市である。
林立する天つくような大樹を軸に、陽の差す水路際で組み上げられた木の足場。これを更にいくつも繋げたものが極めて広範囲に渡り広がり、大水路に隔てられた南北の町が橋で結びついて構成されている。
気候温暖で過ごしやすく、交易要衝としてライドーム及び周辺国家から来るもので大いに賑わう。都市下部の船着場は常に喧騒絶えないが、優馬とツェーベルが降り立った南都市上部の鉄道駅もそれに劣らぬものがあった。
正確に言えば、今朝に限って更に賑わいは大きい。ホームにごった返す人という人。大小様々、優馬にとっては人に似ても似つかない者たちが、駅員や乗務員たちに囲われている自分を見ているのだ。大樹の間に設けられた開放感のある高く広い駅も、これでは堪能することなどできそうもない。人ごみの熱気と視線の圧力で持って、人いきれに息も詰まりそうだ。
そんなに俺が珍しいのかと心の中一人ごちて、目に映る全てのものを材料にそうだろうなと直ぐに苦笑する。珍しくないわけがない。いや、無数の組み合わせがあるようだから、俺みたいなのも偶然できる可能性はあるはずだろう。なにか、基準があるのかもしれない。
そんなことを考えられるほどに、ざわめきの大きさは優馬をかえって冷静にさせる。一度眠って精神の処理容量に余裕が出てきたせいか、彼本来の性分も取り戻してきていた。
視線が多く強くなればなるほどに、隔てる壁が強くなるのか。纏わり付く様々の感情がそぎ落とされて尖るのか。彼自身はいい例えを持ち合わせていないが、思考は整っていく。
無論限度というものはあるけれども、些か捨鉢なところさえある現状ではそれも遙かな高みに登って久しい。言葉に出していない悩みはまだ様々に抱えていたし、ごちゃごちゃして整理もどうにも収拾つかないところにこの状況。何もかもどうでもいいという心境に焦点を合わせたのだろう。結果として、ようやく前を見れるようになったようだ。
「あまり、気にするなよ」
「……ありがとう」
ふっと、ツェーベルからの言葉に優馬の気持ちが緩む。体のこわばりも軽くなった気がした。
不気味でしかたなくとも、今は唯一頼れる相手であるし。心から守ろうとしてくれているのは何となく分かっている。出会って一日経つかどうかという関係だけれども、そう感じ取れるくらいには気を許している自分に少し驚いて、優馬にほんの少し安心と恐怖が生まれた。逃避するようなものながらも、視線に耐えるための処置に自分を客観する動きが含まれていたのだろう。出来た余裕から自身を省みることが出来て、上手く言葉が滑りこんできてくれた。
彼の足取りからも堅苦しさは消えて、逆に駅員たちは戦々恐々としはじめる。きっとどんな変化でも戦々恐々とするだろう。
なにせ彼らはただの駅員で、日本語なんて知りもしないのである。なにか恐ろしい会話をしたと思い込むことも可能なのだ。異界人なんて一生に一度お目にかかるかどうかだし、ジャパンへ行く用がある者も限られる。ましてトマグトの駅員が遙か北北東のジャパンへ行くなど、左遷の他にそうあるものではない。星霊学団の庇護に浴して生まれ育っても、ツェーベルのように学徒として知を深めようというのは限られ。すると知っている事は異界人、彼ら流に言うと「悪魔」に触れれば痺れ、痛むことと。あとは、歴史に残された所業を少し程度なのだから。
恐怖のせいもあってか、優馬とツェーベルの護送は極めてスムーズに行われた。
駅の前には既に四頭立ての恐竜車が止まっており、獣脚恐竜──概ねダチョウを思わせる姿形の恐竜──の風貌と速さから優馬を二度に渡って驚かせ。車窓から見える護衛の恐竜乗り達や四足人──優馬に言わせるとケンタウロス──と、追随しうる足を持った者による警護の厚さで三度驚かせた。
優馬はすすんで驚くようにしている。ほんのひと時のこととはいえ、心が跳ねていれば逆に楽な部分もあると気づいたのが大きい。恐竜車の柔らかで、揺れも殆ど感じない優れた座席に体を沈めた時。歩行という億劫な行為から解放されたと、強まりも弱まりもしない気だるさを広げて放とうとしながらあくびをする。
常に与えられる単調な不調。モノに触れて痺れてしまう状態も叫びだしたくなるほど辛かったが、絶え間ないものよりはずっとマシだ。そして視覚から与えられる情報の驚きは、眠る前と違って歓迎すべきものとなっていた。思わず笑顔が浮かんでしまうほどにも。
一方で、ツェーベルはため息をついた。一日も経とうとして、良くも悪くも砕けてきた優馬の様子に安堵することが出来たからだ。溜息が積もった切なさや苦しさを吐き出すものだとしたら、両手で抱えるほどもある岩を降ろした程にもなるだろう。両肩を回したくもなり、またため息が漏れる。
予定ではこのまま、星霊学団の施設まで直行だ。駅員がそう言っていた。護送の人員も星霊学団から派遣されてきたもののようだから横槍の心配はない。あちらについたら、あとは優馬次第なのだが……。
八つ目の顔が頬杖から離れた。
「優馬」
大河レシオンが分化した末端の一つ、都市を分かつ大水路にかかる大橋へさしかかろうとしたところだった。
マングローブと大海の境。また興味深い風景を前にし、浮き上がろうとしていた優馬の好奇心へ横入りするのは心苦しかった。その上で必要なことだと声をかける。
真剣な声色を優馬も感じ取り、直ぐに振り向いて。
「ん、何?」
「今、俺達、星霊学団、施設、向かってる。お前、馴化させられる人、いると思う。どうする?」
「本当か? それは、ん、むう。決心、まだ」
優馬とて考えずにいたわけではない。これは自身の行く末が決まるだろう極めて重大な案件、悩み続けていたことだ。
いや、心のどこかでは、既に選択は終わっているという確信があった。しかし出ているはずの結論を信用することができないでいる。だんだんと冷静になってきて、自分がまだ混乱から抜け切れていないこともよくわかっているからだ。そんな精神状態で決めたことを、あとになって後悔しないとは到底思えなかった。
先送りといえば先送りかもしれない。自身の心中が信用出来ないなどという言い訳は、やがて「本当」の在り処を見失わせてしまうだろう。自問自答に、自分は本当にそれでいいのかと持ちだすようになっては、永遠に答えを出すことはできなくなる。
それをわかっていてもなお、優馬は今少しの時間が欲しかった。納得に至るまであ一歩だと、自身にしかわからない感触がある。
「わかった。先触れ、行ってるはず。力、抜いていい」
聞きたいことは聞けた。ツェーベルの視線は車外へと向かう。
大橋の上から水路の終わり、河口の直線上に朝の太陽と海の煌きが眩しかった。
橋を渡り北町へ来ると、ようやく優馬は一息付くことが出来た。
大水路を隔てるだけあってかあちらの騒ぎを視認しても何かはわからないし、物々しい恐竜車とその護衛たちに驚きこそすれ干渉してくることもない。橋を渡りきった所で優馬側の窓は閉めていたから、人目につくこともなかった。
何度か道を曲がってから程なく、恐竜車は緩やかに速度を落として動きを止めた。
「着いたかな」
荷物を取るツェーベルの発言に、窓を開いてみる。
第一印象は学校。直近にある最も高い角柱塔に大きな時計が掛かって、その下を固めるようにいかつい建物が鎮座する。建材は凡そが木で、素朴な佇まいを見せながらも温かみを感じさせるものだ。主な入り口なのだろう正面の扉はそこそこのもので、高さはおよそ四メートルほどだろう。
時に、これまでのことで優馬が気づいたことの一つに、スケール感の違いがある。そこらにある建物のどれもが、日本人、いや、地球人の感覚としてはあまりにも大きいのだ。この扉も優馬自身の身長からすると大分余裕のあるものとはいえ、あの人ごみに様々なものを見たあとでは決して大きいとは思えない。自分自身には誇大したものに思えても、親近という言葉を立てたほうが納得できる。
とはいえ作り自体は素朴なもの。ここが件の学団施設なのだろうか、と軽い疑念も沸き起こる。片言の会話から得た情報の解釈だと、優馬の中では学団という響きから結構大きな組織であるという認識になっている。「最大」とか「全域」とか、スケールの大きな単語も出ていたからほぼ間違いないだろう。反して建物はだいたい木造で、自分のイメージにおける学校の典型的な形に一致している。どうにも、大きな組織と、目の前の建物が結びつかない。
しかしツェーベルは既に反対の扉から身を翻し、こちらの外から護衛たちによって開けられている。つまりここが、話に出ていた学団施設なのだろう。
ここに自分をどうにか出来る人物がいるのか?
疑いはどうにも晴れないまま恐竜車を降りると、濃い潮と緑の匂いが優馬の鼻をくすぐる。車内や人ごみの中では気づくことができなかったもの。更に濃くそれをもたらすように、施設の扉がゆっくりと開かれはじめた。
「お待ちしてました」
隙間から流れてきた流暢な日本語に目をみはる。高い女の声。成長期の少女から出るような澄みながら張りのあるそれ。
ツェーベルの語りに慣れ始めていた耳では些か衝撃が大きく、脳まで揺さぶられるような力強さまで感じた。
「ようこそ異界の人。それに案内の方。ここの方々には僭越ながら、先触れの者に麻井 栄治に縁の方と聞いては落ち着いて居れず。お出迎え、務めさせて頂きました。私はアリュブー。以後、お見知りおきを」
黒く大きな単眼。
まず、それだ。吸い込まれそうになる生気の薄い漆黒の目、大地深くまで続く穴のような底知れぬ闇。
青白い肌は湛えられた闇を引き立て、長い茶の髪と首から頬にかけての赤い鱗が飾り。横に張り出す尖った長い耳や、片方が下へ向かい巻いた角は冠のように堂々として。背は優馬より頭半分ほど低いにも関わらず、博士服含めて全てが彼女によく似合っていた。
ごくりと唾を飲み込みかけて、形容しがたい声が背後から追い越していった。ツェーベルだった。
日本語を頑張って喋っている時の一定間隔で跳ねるような口調ではない。立て板に水を流す勢いでぺらぺらぺらぺらと意味不明の言葉で何事か叫んでいる。
優馬にも、ツェーベルが彼の母語で喋っているのは察しがついた。それに、アリュブーというのが大物らしいこともなんとなく。母語の速度で喋るから捉えがたい中にも、アリュブーの名前は混ざっていた。
「ツェーベル」
アリュブーが苦笑混じりに目を細め、ツェーベルの語りが沸点に達しようかという時。振り返って言葉を挟む。
差し水を受けたように、感情の沸騰は収まったのか口は止まった。アリュブーの優馬を見るよう促す視線を受け、大きく開かれた八つ目と、口元に浮かぶ歪みが羞恥を示す。
「いや、すまん。つい、興奮した」
「いい。それより、なんで興奮した?」
「アリュブー。居る、思わなかった」
「そんな、すごい?」
「ああ。この方は」
「それについては後ほど、自己紹介させて頂きます」
差し込まれた声。二人のやり取りを見ていたらしいアリュブーは、招くように体の側面を見せる姿勢をとっていた。
「まずはようこそ、星霊学団へ」