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最終話

 故郷は思いがけず面影を残し、見る陰もなく変わっていた。

 作形駅。

 連絡列車『富士』は寸分違わず停止線に鼻先を合わせ、満足気なため息を漏らした。

 ライドーム帝国、異界人自治領ジャパン。中心地作形は総面積およそ百平方キロの円型。旧い街の構造を重視し、かつての建物は失われつつも跡地に建てて、材質や様式は異なりながら似た姿を保っているという。

 それは優馬も肌で感じることが出来た。

 駅に立ち入った経験はほんの僅かで、中学の末頃だからそう遠い過去ではない。まだ鮮やかさの残る記憶と照らしあわせても、作形駅には郷愁を覚える。馴染みのない素材に取って代わられ、色合いが大きく変わり果ててこそいるが、ここは見事なまでに地方の駅だ。ホームも、ロビーも小さく。改札も三つ四つが精々の、こぢんまりとした駅。

 過去を塗りつぶされてしまいそうだと恐れるほどに。ここは、作形駅だった。

 帰ってきたのか?

 自分は客だという意識が濃く滲みだす。

 再現された故郷の姿は、故郷であって故郷でなく。駅を出た時にその思いは殊更強くなった。

「異界人が住んでるん、だよね」

 今となっては見慣れたこちらの人々が、あちらの形の町中を闊歩している。それは今まで見た全てより異界めいて。本屋巡りに良く通った駅前の記憶が、急速にぼやけはじめた。

「駅から離れればそうなります。駅や線路周辺、外縁部に増設された町は主としてライドームの公職に就く者が住んでいて。人々の出入りを制限しているんですよ」

 アリュブーに言われて、はたと気づいた。ツェーベルが言っていた周辺の町というのはそれのことを指すのか。てっきり、近くにまた一つ町があるのかと思えば違うらしい。

 なんとも効率的というか、執拗というべきか。

 まるで、檻だ。

 違う。まるで、ではない。事実そうなのだろう。出られない代わりに危険にさらされることもない。ここへ来てしまったからには、ジャパンの外で手ぐすね引く危険の目から逃れ得ぬことを意味し。その生をここで終わらせるに等しいということもでもあるのか。

 言われるがままになんという所へ来てしまったのか。仕方ないこととはわかっていても禁じ得ないその思い。そもそもにしてこちらの世界へ、確か、時間の亀裂のようなものだったか。それに落ち込んでしまったのが運の尽き。自分は不幸だと思ったのはどれくらいぶりだろうか。多少世を知り弁えてからは控えていた意識も、姿を垣間見せる。

 それらの全てを抑えこんで心の奥へ戻し、強引に蓋をかけて、改めて町並みを見据えた。更に、アリュブーが口を開いた。

「異界人居留地はもう少し歩かなくてはなりません。ツェーベルさんは最外縁の商業区なら、公職でなくても店が構えられるかもしれないので申請してみるのが良いかと思います」

 それを聞いて、怪訝な表情が八つ目によく現れていた。目は口ほどにものを言う。八つともなれば明らかだ。

「アリュブー博士。店、もしかして、建てる、から?」

「……店舗付き邸宅に空きがあるかはわかりません。既にある店舗へ共同経営を持ち込むのをおすすめします。何と言っても、立場上はほぼ保護区なので、競争するよりもそちらのほうが安定していますよ」

「でしょうね……」

「認可については、私が口添えします。ツェーベルさんの素行については良く見せてもらいましたので」

「あ、ありがと、ござます!」

「いえ。義務もないのに付いてきて下さった報酬です」

「義務、でない。義侠、ありました。俺、心、中に。ただ、そればかり、ないですけどね」

「……ありがとうございます」

 駅を離れ、かつて登下校の際に慣れ親しんだ美術館を横目に過ぎ。すっかり趣の変わってしまった母校が、今や大型の集合住宅として扱われていることに哀愁を覚えつつ。優馬は先頭でアリュブーと並び町を行く。

『富士』から降りた時に覚えた感覚は一歩ごとに増し。似ていながらも異なる町への違和感は拭い切れない。

 道順は体が覚えている。思い出に近いものと接すれば想起されて。不自然な中を、自然に歩くことが出来る。

 忘れるはずもない。この道は歩きなれた道だ。舗装が、石畳に取って代わられても。

「ここまでです」

 駅を離れて十五分前後の馴染みある風景。声に立ち止まれば、ここは橋の袂だ。

 市内を流れていた川が、今は流れもなく池のようになり。堤防から眼下を覗けば、両岸を物々しい制服の人々が、ゆるやかな足取りで行き交っている。此岸も彼岸も、どちらも角や尾を持ち。純粋な人間の姿は見受けられない。だが同時に、人に近い姿をしているのも共通しており。それが偶然か、配慮かは、当然ながら知るところではなかったが。

 優馬は自分に施された者たちを思った。

「ここから先が異界人の居住区で、許可のあるもの以外は通ることが出来ません。既に優馬さんの事は通達済みで、私についても許可は降りています。ですが……」

 アリュブーは踵を返し言った。

 自然と、向き合う六人は背筋が伸び。目が伏せられる。

「ゼナスト、それに貴女達は、ツェーベルさんのお供をするように。私たちのようにすぐ離れる身でなく、彼のために残ろうとする人です。協力は惜しまぬよう」

 五人の声が唱和する。

 ツェーベルの総身が震え、唇は硬く結ばれた。逆に瞼は綻んで。優馬の目と八つの目が、互いに求めて絡み合った。

「一時、お別れ」

「うん、そうだ、な」

「応援、してる」

 優馬は頷いた。彼の言うことなら嘘はないと、信じることが出来る。

「ツェーベルに拾われて良かった」

「だろ? 俺も、良かった」

「だったら、本当に良かった」

 彼のように親切な男でなかったなら、自分はどうなっていたことか。当時はまだこの世界を知らず。苦しみの理由も知らなかった。ジャパンまで、作形まで運んでくれたのは星霊学団だろう。それはそれとして、彼には特別の感謝を持っている。

 最初に会った……。

 そういえば最初に会ったのは、名も知らない三人だったなと。苦笑が零れた。

「ゼナストも。それに……うん、皆も」

 例え、大いに姿形が違っても。言葉が通じる同性というのは、いくらも気安くなれるらしい。

 四人に対する照れは、初めての相手達というのが大きい。無論、紛れもなく感謝の念はある。アリュブーや、男二人に向けた感謝とは、毛色が異なるものであるとはいえ。見る方向によっては、感謝の大きさは随一かもしれなかった。

「こちらがこそですね。始めに大変かもですは、軌道乗りが余裕出てくるさぜ。そしたらぜ、ここ手紙でも送れくれ」

 ゼナストから渡された文書は、まだ意味不明な記号の羅列だ。余裕ができたら。これをすらすら読めるようになるくらい勉強するか、手紙自体をちゃんと書ける頃になったら、そうしてみよう。優馬は心に決めた。まだまだその頃の見当はつかなくとも、目標があれば励みになる。

 かつての道は水堀となり、進むべき場所が阻むものになった。ジャパンは自分によく似ていた。安息の地に思えて、檻であり。自身の生が行き詰まったかのように思える。

 それでも完全に失われたわけではない。彼らの励ましが、応援が教えてくれたのは、ただ虜としてあるわけではないこと。

 四人の女学生もそれぞれ、言葉短くとも声援を送り。すべての準備は整った。

「では、そろそろ行きましょうか。栄治が待っています」

「ん……わかった」

 誰もが背筋を伸ばし、姿勢を正す。半月にも満たない旅路。そこで育まれたものの尊さを、体もまた覚えている。

「皆、ありがとう。それから、また、会おう……な」




 街から町へ。いや、都会から田舎へ、だったか。ふと父や祖母が、彼らの若い頃にそうして呼び分けていたという話を、優馬は思い出した。

 駅と、周辺の商店街。文化センターや支庁、諸々の娯楽。確かに長閑な住宅街から見れば、都会めいて見えるだろう。ずっと昔は田畑が広がり、駅を中心とした場所ばかりが発展して、格差は殊更大きく見えたはずである。

 優馬とアリュブーはその境となる橋を渡りきって、住宅街側へ足を踏み入れた。すれ違う者はない。観光客を呼んでいた川沿いの文化遺産も、今はただの倉庫として静かに佇んでいる。

「静かだ……」

「こんなものですよ。ここ以外の町境も、ジャパン領内に作られた他の小都市も」

「そこまで、慣れないってことなのか。それに、他の小都市?」

「ええ。とは言っても殆ど防衛拠点であったり、作形から得た様々な技術を実験するために作られた都市です。異界人の中でも、異界人同士で馴染めない人がそちらに移り住んでいたり。異界人用の刑務所だったり。多少の異なる機能は持っていますけど」

 これまでアリュブーと話すことといえば、栄治やジャパンのことが多く。砕けた話をしたことがない。だからだろうか。優馬の口は軽くなって、言葉が滑らかに流れ出る。内容はやはり、暮らす上で知っておいたほうがいいことではあるものの。どこか心に引っかかっていたものが失せて、遠慮なく話せるのだ。

 立場を大事にしそうなのがいないからかな?

 別れた六人を思って苦笑する。

 それにしても、異界人同士で馴染めない。異世界に落ちてまでその調子とは、なんとも難儀なことだ。

 他国人だろうか? もちろん、あちらの世界での。

 ここが作形である以上、主な住人は日本人だろう。当時の人々がどれだけ血脈を続けることに熱心で、子孫たちもそうであるかはわからずとも。寿命やらこちらの世界に来る確率やらを考えてみると自然にそう思える。

 違うのであれば、どういう層だろうか。社会不適合者か。あるいは……。

「また別の、世界の人とか?」

「そういうことも、無いではないですね」

「もしやと思ったけど、あるんだなあ。そういえば、異界人とこちらの子供っていうのは」

「外で産まれたのなら、社会に溶け込んでいるでしょう。血は既に混じっているのでドワーフも気にしません。ジャパンで産まれたのなら大概、作形などの警備をしています。先程も目にしたでしょう。川を見回っていた」

「ああ! そうか……人間っぽい顔をしているのって」

「そうです。異界人は同じ顔の作りをした相手ばかり選びますし。自然とそうなって」

 親同士がそうであるだけに、子供も当然強い影響を受ける、と。優馬自身、ツェーベル達に友情はいだけても、女であった場合に性的な情動を持てたかは、正直怪しい。当然の帰結である。

 まあ、それはいい。注目すべきはきちんと、子供が居るということだ。

「実は、結構交流が?」

「異界人達も、交流自体は望んでいます。やむを得ず、閉じ込められているとはいいましても。必要だと。境付近が静かなのは、慣れていない内に住み着いて、内側に住居を持って動きづらいのが殆どですね」

 それは純粋に喜ばしいことだ。ツェーベルはああ言っていたし、アリュブーも施しをしてくれたとはいえ、どれだけのものか把握しかねていたからだ。

 街自体の方向性で既にそういうものがあるのならやりやすい。

 自分はそういうつもりでも、住民たちが逆なら厳しいものだったろう。人々の目はどうしても気になる。自分はやはり日本人であり、人の目を意識せずにはいられないらしい。人の内心について、悪い想像をしすぎることも。

 流石に恩知らずな真似はするまいという念もあったが、確信は持てなかった。既に世代はいくつも重なり、恩を直接知っている人は栄治を除いて居るはずもない。純血の血脈を続けようとしているなら、その子孫は生まれながらの虜。環境に忠実に生きるばかりでないのが、人間というものである。

 だから、アリュブーの言葉は心を安らがせてくれた。

 いや、気を緩めるつもりはない。対外的な顔と、身内の顔を使い分けるのも、考慮すべき線である。なあなあにして話を進めないなんて簡単に想像できる。

 特殊な存在である栄治を頼れば、また違ってくるだろうか。

 こちらの点で、世代が変わっているのは大きい。二百年生きているということを、人々もそのまま受けいてれくれるはずである。

「そろそろですね」

 ふと気が付くと、そこは見知らぬ町だった。

 町境、橋のある辺りは曲がりなりにも風情を保っていたが、ここまで来るとまるで別物。建物は建材のみならず、様式までもがこちらの世界に取って代わり。自分の居た世界へ近づいたつもりが、遠ざかっていたのかと、優馬はあたりを見回す。

「確かさっき、橋を渡った、よね」

「確実に」

「なんだか、見覚えのある建物が全然ない」

「……私達はこの町から建物や、車や。その他様々なもののヒントを得て、生活に役立ててきました。そして歴史的な価値があると、この辺りも補修しながら維持するように訴えました……ですが」

「上手くいかなかった、か」

「賛同は得られつつも、新しい家が欲しいという人も少なからず。結局一部保存、一部指定外となり、ここもその一つです。こちらの文化に触れてもらえると割り切っていますが、さほど居住率は高くありません」

 大きさはかつてあった住宅の三倍。いや、もっとあるか。概ね角張り、多少の装飾はあってもシンプルなデザイン。建物はどれもこれもが集合住宅なのだとアリュブーは語る。これもまた、大きな文化的差異であるとも。

「家族の捉え方の違いは、実に興味深いものです。まだ浸透しきらず、ここではこのとおりですけども。栄治もあちらの家族形体を当初は望んでいましたっけ」

 家族と血族は別物。水と油のように、こちらでは家と血が明確に分離している。

 同じ屋根の下にあれば家族。

 定義はごくシンプルである。

 誰かが引っ越していけば、その者はもう家族ではない。

 養育院を出る前に、日本の中高生が進路を決める如く、住み着く住宅を決め。やがてそこの家族となる。平たく言って、家族とはアパートの住人たちだ。下宿、アパート、マンション。同じ建物に住んでいる者は家族である。

「そういえば、彼と家族でいたのは本当に短い間でした……」

 ぽつりと、言葉が零れた。

 栄治とアリュブーの間には愛があった。子供も、すぐ手元を離れたが創り。けれど家族でいる時間は短く。今は離れ離れでいる。

 優馬の、あちらでのラブロマンス、ラブコメディを好んだ心には、侘しさばかりが募っていく。相反し、思い返すアリュブーの顔に陰りは殆ど無い。微かに差すそれは、栄治の名を出す時に濃くなって見えた。

 愛ある時間をもっと過ごしたかったのだろうか。

 強くなる鼓動と逆に、冷える頭はそれに納得しない。彼女は、栄治がこちらの風習に慣れない内にそうしたことをしてしまったのだろう。全ては予想である。予想ではあるが、陰りは栄治の心に傷をつけた悔恨と見た時。腑に落ちるのだ。

「さ、着きましたよ」

 そんな表情も、見せたのはほんの一瞬のことで。もう見慣れた無表情があるだけだ。探してみるのも悪くはなかった。しかし、それよりも意識すべきことがある。

 今、旅は終わった。ごく呆気無く。話に夢中になっている内、

「ここが栄治の?」

「そうです。立派なものでしょう?」

 優馬が覚えている栄治の家はなく。日本建築とこちらの様式を組み合わせた、こぢんまりとした家がそこにあった。いや、こぢんまりと言っても、平均的な日本の一軒家と同じくらいだろう。サイズこそ異界人に合わせてあるが、それでも周りの建物は大きい。

「良い所に住んでると思う。ただ、少し窮屈そうかな」

「こちらの集合住宅は店舗や談話室付きが標準ですからね。時には食堂、中庭まで。その点、この家は少人数で暮らすことを想定していますから」

 肩身が狭いという表現で、一息に語ることもできそうな。そんな佇まいがこの家にはある。

 不特定範囲の集団で暮らすことを前提とした建物に対し、狭い範囲の関係で暮らすことを前提とした建物。醸しだすのはその対比で、疎外を連想させるからかもしれない。

 栄治自身は、肩身の狭い思いをしていないだろうか。

 ふと脳裏をよぎった。

 大きな力を持つ故の苦しみ。常に無い生を生きてきたが故の隔意。人が夢見る内に見出された反証は、想像するに難くない。こんな人気なく、望まれながらも遠ざけられたような地区で、小さな家に暮らしている。家が住人の現身になるなんて、有り得ないことではないだろう。

「この家は、確か六代目。初代を建てる時には一悶着あって……あ、すみません。入りましょうか」




「お待ちしておりました」

 玄関。応対した女は、恐らく竜人に分類されるのだろう。太い尾と、頭部に生えた後ろ向きの真っ直ぐな角が、そちらの気配を際立たせている。体色は海のような青を基調として、肌は鱗でなくイルカのようであり、豊かで長い銀の髪を生やす。張り出すような耳は無く、翼の代わりに鰭に似た薄い副肢を備えており、二本ずつの手足にも同じようなものが付いていた。

 異界人でない事に優馬は驚かされたが、交流を望んでいることの証左とも取れる。どういう立場なのだろう、手伝いだろうか。

 姿をよくよく見てみれば、それはなんとなくつかむことが出来た。彼女はゆったりとしたローブを身にまとっているのだが、腹部が大きく膨れている。尾を通すための留められるスリットや、自己主張する乳房など、興味深いことは他にもある中。やはり、友人の家にいる女の腹が大きいことは、それらに勝る。断じて肥満のそれではない。

「アリュブー博士の直接のご足労、畏れ多く存じます」

「いえ、お待たせしました。栄治はここに?」

「はい。すぐにお知らせしましょう。まずはどうぞ、こちらへ」

「お願いします」

 女は腹をかばうようにゆっくりと立ち上がり。二人を応接室に通して、家の奥に姿を消した。

 遠ざかる足音も聞こえなくなった頃、優馬は隣に座るアリュブーを見て尋ねた。

「今の人、お腹が大きかったけど、もしかして」

「多分、栄治の子でしょうね」

「ああ……一体、どれくらい子供創ったんだろ」

「さあ? ここが行きずりのほぼ無い土地と考慮しても、仕事か何かで短期間来たきりというのはありそうですし。本人にも正確な数はわからないと思います」

 むっつりスケベだったとはいえ、二百年経っても性欲が健在というのは尊敬に値する。友人として敬うべきところは敬ってきたつもりだったが、これに関しては男として、いや、生物としてだろうか? 心からの畏敬を禁じ得ない。ましてや後付の長命である。生来の長命でなくこれとは、優馬が嘆息を止める手立てはなかった。

 一応、本人が覚えている限りをきいてみようか。

 短い言葉のやり取りを終え、そう思うと同時。戻り来る足音が立ち止まって、応接室の扉を開けた。さっきの女だ。

「主人は自分の部屋で会うとのことです。ご案内いたします」

 主人。結婚のないこの世界だ、雇い身分などでの主人ということだろう。忠誠、崇拝、愛欲。そうした可能性も無くはない。

 夫婦や結婚の概念はなくとも、似たような形態が全く不可能ではないなら、目指してみるのも悪くないだろうか。優馬としては、前の世界の在り方が引き続くなら楽である。必要ならば慣れるが、せずに済むならそれも良い。

 相手が、その生活にどれだけ耐えられるか次第だろうが。

 ともあれ席を立ち、アリュブーと共に女の案内を受ける。廊下が狭い。心地良い狭さだ。体が大きな者の来訪を意識していない、あちらの世界の規格。ひょっとするとこれまで、こちらの世界の建物を寝食の場と認識していなかったかもしれない。そう思えるほどの安心感が湧き起こった。

 異界から現実への帰還。というには、いささか異界すぎる。優馬が暮らしていた痕跡など、この街からも二百年の内に失せたのだ。寄る辺はこの安心感の他にない。友人を目前に起こる感傷は確信めいている。

 こちらで友が出来た。故に、恐るるに足らぬ。それも確信できることである。だが今まさに、ぼやけていた喪失感は形を持ち。寂寥感が優馬を支配したのだった。

「お連れしました」

 一度右向きの角を曲がり、さらに廊下の突き当り右の扉。

「ああー。ああ」

 優馬の心臓が跳ねた。紛れもない栄治の声。

 しかし自分が知っているものとは違う。干した果実のように、詰まっていながら萎びている、大人の声色である。

 口調はあっさりとして、十日ほど前に聞いたものとそう変わりはない。親しい者に向ける力抜けて砕けた態度は、優馬にとっても一番見聞きしてきたもの。違和感はないと思えた。

「うぃ、お疲れさん」

 竜人女がドアを開けた先。向けられていた背中は椅子の回転によってたちまち失せ、不敵な笑みが二人を睨め覗く。

 確信はぼやけ、疑念に還った。声は、紛れもなく栄治だ。顔立ちも、栄治のはず、である。雰囲気だってそう。圧倒的な他の要素を捨て、感じ取れた既知の部分を貼り合わせると、ようやく信じられる程度に栄治だ。

 見かけ上、歳はとっていない。どんな経緯があってその姿であるのかは、優馬の知らないことだ。瑣末なことでもあるし、ありがたいことでもある。大人の姿になってしまっていたら、年寄りになってしまっていたら、平静に話せたか怪しかったろう。

「……どうした?」

「ん、ああ、いや、何でもない」

 優馬は勧められるのを待たず、転がっている座布団を引き寄せて腰を下ろした。礼儀にもとる行為であろう。それをあえて咎めるものはいなかったが。

 声の調子が、同じなのだ。あまりにも、知っているとおりだった。自身の体験した時間と、栄治が過ごした時間の差異を測ろうとして、どうにも調子を狂わされる。

 心の奥底で、どんなふうに変わったか予測して、気休めくらいにはなるだろうと想定したものが通用しない。学校から帰って遊んでいる時と同じように、それぞれの家で脱力している時と同じように。形式張ったもの一切を取り払った言葉遣いは、時間の距離感を悪戯にかき混ぜた。

 竜人女は去り、アリュブーも座布団に腰を下ろした。板張りの床に様々のものが散らばって、本棚からあぶれた本はそれそのものが塔を作る。寝床はない。かつてもそうだった。きっと別の部屋だろう。

「……優馬! 二百年、長い時間だったぜ。まさか、また会えるとはな!」

 椅子から跳ねるように立ち、一歩踏み出しながら身振りを交えた感動の声は、あまりにも芝居じみていた。

 栄治もすぐに白けたのか、木製の回転椅子に再び腰を下ろす。ほんの少しの間、弛緩した空気が漂い。アリュブーと優馬の対照的な有様が色を添える。

「やっぱ、それっぽいのを実際やるのは辛ぇーよ。これでいいだろ」

「んー。ああ。いん、じゃね?」

 道化じみた振る舞いが、時間のもたらす隔意を砕いたのか。

 ずっとそうしてきたように、返事に笑いを絡みつかせることが出来た。空間を共有しても、異なることに意識を向け。けれど共有していることが重要であるからこその、曖昧な反応。

 百聞は一見にしかず。本来の意味は異なっても、今の経験は数多の妄想に勝った。

「じゃあそういうことにして。ほい、これと、これと、これと……」

 優馬の前に、次々とガラクタが積まれていく。紙束に、布紐に、瓶に、本に……。

 雑然とした部屋の中でも、棚に収められていた幾つかの物品を、他のものを落としながら栄治は集めだしていた。机の上も引き出しも、どれも部屋に相応しく散らかっている。そこへ迷いなく手を突っ込み、目的の品を掴み出せる辺り、位置を覚えているほど重要な品だと窺い知れる。勿論、栄治が散らかす性分で、特有の記憶力を持っている可能性も否定は出来ない。いずれにせよ、その手の動きは目にも留まらぬと言ってもいいだろう。

「相変わらず散らかしてるなあ。ちょっとは片付けろよ」

「あちらにいた当時から、とは聞いてましたけど……本当なんですね」

「そういえば、アリュブーとそういう話をしたことはなかったなあ」

「ええ、今が初耳で……!」

 ガラクタの一番上に、長い木の箱が置かれようとした時。伸びた栄治の手をアリュブーが押さえつけた。

 単眼が、じいと栄治の双眼を覗きこむ。栄治からも、細めた視線が単眼を見据えた。

「まだ言ってねんだろ?」

「ええ」

「じゃあ、俺に任せたってわけだ。連絡でも、これを避けるとか書いてなかったし」

「……ええ」

 小さな手は力を失して、乗り出しかけた体も座布団に収まりなおす。

 横目に向けられる、優馬に向けたアリュブーの視線。緊張と不安がある。

 こんな顔も出来るのか。かつて愛し合った二人の前で、優馬は初めてアリュブーにその由来を見出すことが出来た気がした。

「気持ちはわかる。でもまあ、俺は機会が来たらとっとと済ませねえと気がすまねえし。優馬もすっきりできないだろ。だからまあ、まずこれを紹介しとく。二百年前のこととかの前にだ。ほい」

 嫌な予感しかしなかった。だってこの木の箱は、前に似たようなものを見たことがある。

 あの姿になっても気風よく振舞った、旅の仲間の一人。それが収まっていた箱によく似ている。

 ちらりと、栄治の顔を伺ってみた。滲んでいた軽薄さはない。かといって、アリュブーが湛えているような悲壮もない。無表情。徹底した無表情だ。栄治にこの顔でじっと見つめられるのは、優馬をしても初めてだった。

 静かな威圧感に、木箱の蓋をずらしてみる。

 予想通りのものがあった。

「う……」

 断末魔剣ジンセイ。プラハッタのような存在が在ったことの証。あの大音声は、即座に耳をやられてなお忘れられぬ。鱗も無く毛皮もなく、目も閉じて姿形は異なるが、見紛うはずもない。

 ただ一つ。既に刀身半ばが砕けているのを除けば。

「これは……」

 一体どういう由来を持つのか。その答えを期待して、優馬は顔を上げる。

 栄治は答えた。

「勇」

「え?」

「勇だよ、それ」

 天池 勇。

 友人である。

「え? あ……? あ」

 この叫びは、即座に正気を失してもなお忘れられないだろう。




「勇は、ウヴェルってのに捕まったんだと」

「……今、何があった?」

「ジンセイになった勇を見て発狂したから、正気に戻した。発狂すると自我はブレブレになるから、外からでも色々できるんでね。お前の魂は話してる間に把握してたんで、ちょこちょこ、っと」

 狂気の記憶はなく。絶叫の記憶はあった。木箱は既に閉じられて、体はアリュブーに預けられている。そっと、上目遣いに見上げてみる。胸に顔を置いた優馬を見下ろして、単眼が微笑んでいた。

 母のようだ。そう思ったのは、発狂からの回帰が再誕を意味し。母性を求めたせいかもしれない。温もりが狂気を遠ざける。

「でだ、ウヴェルの研究は勇と、一緒にいた連中を使って完成してな。こりゃ馴化してない奴を材料にしたら、もっとすげえと思わせて。ますます大変なことに連鎖していったんだ」

 優馬の具合を詳しく確認することもなく。まくし立てるように栄治は話を続けた。

 早口で、全てを聞き取れたかは自信がない。しかしもう一度聞く気になれないのも、また事実である。理解できた部分ですら衝撃は大きく。栄治の語りが止まらないのも、さっさと終わらせたい心理に見えてはばかられるのだ。

「紗由はいかれて、勇を振り回して死んだし。悠輝に至っちゃどうなったのやら……ユテルも滅びて、ライドームから拾われるまで宙ぶらりん。いやあ、大変だった」

 それとも、発狂したという事を押し流そうとしているのだろうか。

 責任逃れと言えば言える。言えるが、押し流されてしまえば優馬としても助かるのは事実。薄ぼんやりと、視界の端にひっかかる形で瞬間の記憶はあり。直視すれば、またあの渦へ飲まれかねないのもわかってしまっている。

「おい」

 だが、しかし。

「何も言うこと無いのか」

 体に力が入らない。情けないことに、アリュブーの膝枕から見上げながらだ。

 優馬は、自分が発狂させられたことに関して黙ってはいられなかった。

 自分の弱さによるものだとか。栄治が見誤ったとか。なあなあにするため付けられる理由は、いくらだって思い浮かぶ。

 だけれども。優しさかもしれない押し流そうとする動きに、憤りも湧いたのは隠し通せない。

「この先、知らずにもやもやするよりはいいと思った。それに星とも近くなる。自我がブレブレになるって言ったろ? 少なからず、発狂している間は星との繋がりが強くなるんだ。リッチになる上でも、ちょっとくらいは有利だ」

「そんなことのために……!」

「寂しかったんだって。そりゃ、こっちの友達とかいるよ、俺も。だけどさ、クラスメイトが死んでくと見てきたからな。あっちの友達で、一緒にいてくれる奴が欲しかったんだ。俺はエルフでも不死生物でもない。元々の生態としてそういうメンタリティじゃないんだ」

 そんなことのために。

 もう一度、同じ言葉を紡ぐことは出来なかった。

 フリサルタンの警告が予想以上の形で実現してしまっても、互いに互いがこちらに残る唯一の過去という立場が邪魔をする。

 リッチ。永遠の誘惑。寂寥。友への同情。

 脱力しては場を逃れることもかなわず、直面し、向き合わなければならない。そしてこれからも。この町で過ごすからには、逃れ続けることは出来ない。

 永遠の可能性を知った時。有限を恐れる身にそれを否定することができようか。

 永遠の恐ろしさを仮定することはできても、実際に手の届く距離に来た時。有益さを思わずにはいられない。

「くそっ……」

「ゆっくりと、考えてくれよ」

 栄治は、栄治だ。しかし全くの別物になったことも、わかってしまった。

 友を求めるという当然の心理に、手段を選ばないという非常の精神。

 友人の無残な果てを手元において、それをまた別の友に躊躇いなく見せる突飛。

 栄治の皮を被った怪物。

 いや、違う。

 栄治に、時が覆い被さった。世界が覆い被さった。ただ、それだけのことだ。

 不思議と、自分は納得できたのだろうか。それとも諦観が支配したのだろうか。

 憤りは脳の奥底に姿を隠して、今は悲しみが満ちている。友人たちを失った。親族を失った。故郷も、家も。友人は別物に変わってしまった。

 涙が零れた。

「……飯を用意させるよ。その間、墓参りに行こう。皆の墓だ。お前の家も用意する。今日は、泊まっていくといい。勇のやつも、お前に見せた以上、入れるべきところに入れてやろう」

 優馬の生活はこれから始まるんだ。栄治は立ち、部屋を出た。

 過去に決別を。未来に目を。

 留まることなく流れる涙を、あえて拭うことはしなかった。

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