第十五話
「……くそっ」
苦味まじるため息。
温泉街の宿の一室、フリサルタンは頭を抱える。
兄の部屋の隣。側近が控えるための部屋は広く豪奢で。零れた言葉や吐息を大きな空間に溶かしながら、しかし逃がすことなくこもらせて吸い込ませる。
吐いて吸って、吸って吐いて。同じ事を繰り返せば、練り上げられて熟成し。
やがては胸焼けする。
窓を開けてみる。大きな窓だ。兄の部屋のそれよりは大きくないが、フリサルタンよりはずっと大きい。アリュブー博士の一行に居たあの恐竜人が、手を伸ばしても上の窓枠に手が届かないだろう。朝焼けの大気が吹き込む。
要人を泊まらせるには相応しいとも、相応しくないとも言える。狙撃手にとっては格好の隙。表れたのはディガ・カンドラの自信か、無頓着さか。噂では、ディガ・カンドラの定めた独特な間隔で、霊的な隔絶が施されているということだが。いずれにせよ、この温泉街でそうした沙汰があったとは聞いたことがない。無い、という情報をどこまで引用していいのかは分からないが、フリサルタンに不安はなかった。あったのは息苦しさ。
引き出しが開いてしまって、昔の記憶が呼吸を染めた。
温泉の香りは鼻に慣れても、高原の空気としては濃密だ。爽やかというには程遠い。地理上の理由で風が多く、外からよくよく新たな空気が供給される分、新鮮ではあるのだが。熱気に暖められて身を引き締める冷たさはなく。軽くも湿っていて、肺の底にたまらず壁面に張り付くようで、気分を変えるのにはあまり向いていない。
一風呂浴びてくるか。
この気分が蘇ったのも、先日ディガ・カンドラやアリュブーの一行とプライベート温泉に入った折。なら温泉にこそ溶かせるかもしれない。今日はここを発つ。仕事柄遠出はあっても、狙っていけることは稀なのだから。行った先々で動ける限り、名物を味わわないのはもったいない話であろう。
空気が入れ替わり、自身の匂いも掻き出された頃を見計らって窓を閉め。付きのものに告げてフリサルタンは部屋を出た。
橋で区切られた賓客側の岸辺。霊峰ごしの光が微かに差して、水面を煌めかせている。石も草も除かれて均された一面の砂。裸足を優しく受け止める道は、宿の脱衣場から直接結ぶ。
布で腰周りを隠した姿は他にもちらほら。胸から下もそこそこ。ごく一般的な公衆浴場の風景も、開けていれば違うものだ。
これでこそ。
とみに思う。開放的でありながら律されていること。理性あることの素晴らしさよ。
やはり秘されてこそ、裸身はあるべくあれる。尊いものであれる。昂揚と創命の儀式は、渇望あってこそのもの。
ああ、自分はどこまでもエルフだ。享楽の下撲。長い命を持つがゆえに、一つ一つの快楽を慎重に愛でて引き延ばそうとする。一生を喜楽で埋めて、悲苦の入り込む余地がないようにと、長命の一部を犠牲にしてまで不老を得るような、そんな種族だ。
ほんの一瞬。垣間見える女体からも、そこから繋がるあらゆる楽しみが雷のように閃き、脳の隅々へ行き渡る。
ここへきて正解だった。肉体が自然な形で頑健なうちは、異性の肉体が力を漲らせる。悩み倦んでいたこともモヤモヤしていたものが吹き払われ、輪郭が鮮明になって小気味よい。
今は昔のこと。異界人との接触が呼び起こした記憶には、出会った当初からうなされたものだった。
だが、今はどうでも良い。思わず悪魔と口走ってしまいそような心の淵も、たった今埋め立てられた。普段考えているように異界人は異界人。然るべき道を辿る迷子。もう彼らに恨み言をつぶやく自分はいなくなったのだ。
あの猫人は尻尾が艶しい。あの蜥蜴人は鱗が柔らかそうだ。どちらも見目は獣人性が強く、亜人性が薄くかかっている。実に良い。さらにまた、あれは蜘蛛人。蜘蛛の頭に相当する部分から、人の腰から上がある女。大分蜘蛛人としての純血性が高く見える。内臓配置は如何様で、交接器が人の部分にあるか蜘蛛の部分にあるかは、大きな布で下半身全体を覆っており判別しようがない。彼女らは目覚めたところだろうか、これから眠るところだろうか。
公務の最中でなければ、誘いをかけるんだが。
誰も女として魅力高く。ここにいるということは、金銭的にも余裕があるのだろう。肉体か頭脳か。いずれかが優れている可能性は高く、子供を創る相手として申し分ない。
子供は多く創るに越したことはないとはいえ、どうせなら優れた者をと思うのは本能であり。星霊学団の理念に基づく社会に生きるものとしては、ありふれた考えである。
極種へ至ること。
それを目指すならば、やはり競争で秀でるものこそ、求められるものだろう。
そういう点で言うなら、彼女達も選ぶのは兄であろうが。
桟橋を辿り。岸からやや離れた、水温セ氏四十度前後の場所。遠浅の場所に腰を下ろし、息を吐く。
ふと岸辺から、砂を蹴り、木を軋ませる音が聞こえた。そっと横目に見てみる。噂をすればということか。兄だった。
「兄貴。兄貴も朝風呂か」
一国の元首ともあろうものが、一人で湯を楽しみに来るなんて。などとは言うまい。
治安に関しては信用できる場所だし、裸でも兄をどうこうできる者などいないだろう。自分以外も見えない形で守りに入っているはずである。土の中も水の中も行ける者に心当たりはあった。そんな彼らに、兄も行く事は告げているはずだ。
それにしても。こうして、実兄弟二人で湯を楽しむのはどれくらいぶりだったか。よく覚えていない。
「……目が覚めてな。名残惜しく思えた」
「ははっ、俺も。いやあ、スッキリサッパリ。このなんとも言えない気だるさがたまらない」
「どうにも寝苦しそうにしていたようだ。そうなったのなら良い。異界人で、うなされていたんだろう」
「まあ、な」
湯に顔をつけて、こする。こびり付いていた眠気も疲れも落ちて、こんどこそ本当に目が覚めた気がした。
「昨日も、早くに伝えて楽になりたそうだった。言葉がわからなくても雰囲気でわかる。横から見ていて少しヒヤヒヤしたぞ」
「兄貴をヒヤヒヤさせるなんて、誇らしいやら不甲斐ないやら。でもそう……そうだったな、実際」
「あえては、わかると言うまい。しかし、ああした風に口にするな。辛くとも」
「……悪かった」
部屋同士を隔てる壁は厚くなく。むしろ双方の音が聞こえやすいよう薄いくらいだ。朝の唸りも聞こえていた方が自然である。異常察知のための措置であるが、こういう時には恨めしい。
「……いいところへ来た」
兄が遠くを指さした。普段から眼鏡をかけているフリサルタンに捉えることは出来なかったものの、その先に何を見ているのかはなんとなくわかる。いいところへ来た。などと言われては。
「アリュブー博士の一行だ。異界人。それに蜥蜴人と恐竜人だな。悪く思うなら、彼らに言うのが筋だろう。行くぞ」
何をどう考えたって、それが覆るわけでもない。覆ったところで自分は同じく悩むだろう。星に溶けたと思わしき自分も、今こうしている自分も。連続しているという確証が得られない以上はただの堂々巡りだ。
結論づけても煮え切らない気持ちに、優馬の目覚めは汚されていた。
体に良さそうな湯へ全身をつけたのに、心の底から沸き上がってくる濁ったものが嵩を増す。論理にも感情にも徹し切れないというのはつらいものだ。豊かではあるが、故にこそ陰も濃い。光と闇の必然。
まだ日も昇らぬ、夜に生きる者の時間に目覚めて。気がつくと足は温泉に向かっていた。同室のゼナストとツェーベルも早いもので目を覚まし、滑らかな石の床に靴の音が反響する。人の通りは多い。夕暮れと夜明けは同じものだ。夜に生きる者たちはこれから、日が高く登る頃近くに眠る。
優馬のことは少し気にかけても、あからさまな反応を見せるものはいなかった。ここは賓客の泊まる場所。その中でも特に位の高いものがあてがわれる宿である。異界人にも少なからず触れ合っているのだろう。多くは職員というのが手伝って居るかもしれない。
こうして、束縛なく街並みを楽しんだのはこれが初めてだ。
今までは部屋の中に閉じこもって、窓から眺めるくらいしかなかったし。その部屋自体が閉鎖空間の中にあるものだったりして。自分の足で、意思で、歩きまわった記憶がこちらに来てからというものない。
解放の時が近づいている。
その象徴のように思えた。
脱衣場について、抜けて、湖の岸辺に出た時。ため息が漏れたのは優馬自身の意思によるものではない。
雄々しく、神秘的で。陽の光がもたらす効果を存分に受けて。脳に焼き付く風景は、どこか日本的に思えたからだ。
雰囲気がそうだ。こちら風に言えばライドーム的だとか、竜的だとか、そういうのが当てはめられるだろう中に。湖と、山と、太陽。三つの組み合わせからなる空気感。あちらの世界でも、様々な国でその組み合わせはあっただろうに。そしてそれを優馬は知っていてもなお、心休らがしめるものであったのは違いない。
早起きは三文の得。朝焼けに映える美は胸を打つ。
これは、三文に収まるものではない。
桟橋から湯に体を沈めて。水圧から押し出されるように、またため息が溢れる。もやもやも絞り出した。若い身で気づきづらい身近なことも、今はよく見えるような気がする。眠りは頑なな心を解してくれたし。素晴らしい景色は、それをそぎ落としてくれた。暖かな湯は体の中からそれを浮き上がらせて。香りが、それを再び吸い込まぬよう蓋をしてくれる。
保養地。今までは額面でしか知らなかったものだ。
けれどもこれからは、こういうものだと。確たる基準があってくれる。
しっかりと知識が根付く喜び。こちらでしっかりと認識できたものこそ、こちらの出来事を補う気がした。
「優馬。落ち着き、たな」
「ん。あ、ああ。お陰様で。諦めはいいというか、良くなったのか、な? 元々、気分の悪いことは早く捨てるよう努めてたし。それが功を奏したのかもしれない。自分でも少し驚きだけど」
ツェーベルに問われて、慌てた返事を返した。驚きのせいだ。少し思考に没頭していただろうかと首を振る。
言った通り。先日に話されたことは頭の隅に追いやって、目の届く範囲には置いていない。適当な結論をつけて放置している。考えるのはもっと別のことにして、頭の圧迫感は取り除いた。
自分が何者であるかなど、迷う余地はない。園木 優馬だ。
生物が星霊という巨大な存在の一部なら、星も世界の一部で。その世界すら。
そうして考えを広げてみれば慰めにもなる。小さな枠組みでは他人になっていても、巨大な枠組みでは不変だ。例え世界が異なれば拒絶されるとしても、同一のものでないとは言い切れない。
叫びあげたくなる心を大きな蓋で抑えこんで、なんとか優馬の腰は落ち着いた。そこそこ時間がかかった。
「それも一つの在り方ですなぜ。どこが重要なもの隠れてるかもでも、考えられなくなるだは悪い」
三人の体を預かってなお、桟橋は軋まない。木製だが作りはかなりしっかりしている。そういえばこちらの木材で軋むとかいうのは、あっただろうか。燃えてしまうのはあったけれども、なんだかなかったような気もする。
じわりと熱が回りだした頭では思い出すべくもない。
少なくとも、この桟橋を歩く時にはなかったな。
他の桟橋を見ようと顔を上げて、優馬は動きを止める。
「あれは……」
フリサルタン。それに、『無敵帝』。こちらへ来る。
どんな表情をすれば良いかわからなかった。
苦しみは、彼の口からもたらされたものに由来する。しかし真実を告げたに過ぎず、彼のせいであるともないともいえる。話す時のどこか嫌味混じりというか、やけっぱちというか。あの時の調子に搦め捕られて、つい悪感情を持ちそうになるが、根本的には誰も悪くない。感情が行き場をなくしている。
「やあ、皆さん」
彼の口調には嫌味もヤケもない。あれは話している内に帯びてきたもので、はじめのうちは穏やかなものだったと思い出す。
素直に受け止められないのは、偏に優馬の心がまた鎧ってきたからだ。
クストラ語の挨拶二つを横に聞き、曖昧な笑顔を見せておく。日本人の基本武装。今はまだどうしても、前日の印象を拭い去ることはできなかった。
「ああ、えっと、おはようございます」
「ええ、おはようございます」
『無敵帝』も、軽く会釈を見せた。
考えることは同じということか。それとも、違う理由があったのか。ここの朝風呂はとても惹かれるものがあるから、前者のような気もする。
いずれにせよ、間の悪い時に会うものだ。優馬はなにもかも湯に溶かしてしまいたかったのに、これではきりがない。
不満をぶつけろということなのか? そうした運命的な考えもありだろう。あれきり別れたままでは、こんな感情を抱えたまま過ごすことになる。それをなくすには絶好のチャンスだ。
「優馬君」
しかしそれは手から滑った。
「はい……?」
先手で主導権を握られると、溜め込んだものは吐きづらい。
ひとまず鬱屈した思いは引っ込めておく。前に押し出していては、これから話すことに対して壁になる。粗を探そうとする精神は御しきれずとも、そこにくべる燃料を出しておくべきではない。
ひょっとするとわだかまりを解く、何かしらの話が出てくるかもしれないのだから。
平和に終わるのであれば、それが一番である。
「…………ええっと」
しばしの沈黙。間に二、三度の呼吸を置き。
「昨日は、少し配慮の足りない言い方をしたと思いまして。そのお詫びを。嫌らしい言い方だったでしょう。少しずつ追い詰めるようにして」
斜向かい、岸側に座ったフリサルタンと、優馬の視線が交差する。
「ああ、いえ」
平和を望んでいても、それまでふつふつと泡立っていた心はすぐ冷めるものでもない。曖昧な言葉はその証左の一つでもある。言葉に詰まるのを嫌って、とっさに出せるよう用意していた言葉だ。事前に会うとわかっていれば、もう少し気の利いた言葉も返せたかもしれない。
「それに、内容も衝撃的だったはず。アリュブー博士も恐らく、これまでの旅の内に積み重ね、この地で最後の詰めをするつもりだったでしょうに。一時の感情を理由としてふいにしてしまったことは、皇弟として痛恨極まる思いです」
言葉を積み重ねても。
そう言われる事もある。
けれどフリサルタンの言葉は不思議と、優馬の心に染み入るようだった。内心で頭を振る。そう、皇弟だ。国の頂点に纏わる存在だ。話術も、声色の域に至るまでそうした力をもたせられても、決して不思議なことではない。
しかし。
「これは私事になりますけれども……昔に、私も異界人と関わりがありまして。その折、色々ありました。ええ……これは言っておいたほうが良いことでしょう」
自分は何が欲しい?
まず、真摯な詫びの言葉だ。こうして正面から話す機会が出来たからには、当人の心の底から謝意が伝わって欲しくある。伝わっている。真摯な詫びの言葉に聞こえている。
結局、この言葉をそのまま受け入れるのが正解なのか。
未熟が憎い。未熟から始まる理が憎い。ままならぬ世界が憎い。
頭でっかちであればあるほど、対象だけはいたずらに広げられるものだ。これもまた未熟か。
相手の真意を見抜ける眼力が、今何よりも欲しかった。相手の言葉を疑う心が煩わしかった。また同時に、ああ、これこそ疑いを是とした神々の意図なのだと、清々しさが心に生じる。
疑ってみよう。
そのために、耳を傾ける。なにか重要な言葉を果たすようだと、頭脳に水をさした。眼力を養わねば。これは素晴らしい機会である。
「それは、一体」
「……君は確か、麻井 栄治と友人関係にあったと聞いた。確かかな?」
「え? ああ、はい。そうです」
「なら、少し酷なことになるけど……麻井 栄治には気をつけるんだ」
疑え。
疑うんだ。
話がこちらの世界で唯一の、あちらの世界での縁に及んで、一瞬心構えが解けかけた。
ここで疑うべきなのか?
子供がクレヨンを振り回すように、思考をかき消す。
嗜虐心からくるものでない限り。ドワーフたちがそうするように、自分をさらうのでなければメリットはないはずだ。だったらこの言葉は信用していいはず。財も無ければ、力も無い。
今度は納得の上、自ら構えを下ろした。自信なく、恐る恐ると。
「栄治に、って。どういうことです?」
「麻井 栄治は自分の心の在り方について、昔から実践して研究している。リッチという存在は大小こそあれ同じ研究をするけれど、麻井 栄治はその中でも特に強い傾向にある。近年はそれが、殊更開放的な方向へ向かっているらしい。二百年前あったことについて、あっけらかんとひけらかすかもしれない」
開放的な栄治。しっくり来るようで来ないような、不思議な感覚を優馬は味わった。
普段の振る舞いから受ける印象に、開放的な要素のない男である。だが大胆不敵で、そんな印象がある分インパクトも大きく、二元論では評しかねる部分が多い。
「気をつけたほうがって、気をつけようがないような……」
それに正直、出来る気がしない。
栄治が随分偉い立場になっていることについては、まだどうにかなる。ただどうにかなるであろう理由の、友人であるということから不安は大きく蠢き。彼の人となりを知っていてもなお、二百年の時を隔ててはその行動を予測できるとは思えない。
あいつとはまた友達でいたいと思う。ちょっと会うのを躊躇ったって、それくらいで崩れるものでないのは互いによく知っていることだ。しかしいずれは顔を合わせる必要がある。選ぶとしたら、開放的でなくなった時が狙い目だろう。だがそれは何時になるのか。
ひょっとすると、自分が生きているうちには無い。可能性は否定しかねる。
となれば、何時来るとも知れないチャンスを待ってはいられない。
心のあり方ということから、肉体的な面で危険はないと思いたい。開放的であるということが、粗暴であるのと違うかは不安の残るところだが……ひとまず、心に受ける衝撃に対して構えておくことが重要になる。幸いにして、いや、皮肉にも? そういうものならフリサルタンから受けて、材料は減ったはず。先まで憎々しく思っていた相手が、数分経たぬ内にありがたく見えるとは。苦笑を抑えずにはいられなかった。
「そうした話について語ろうとし始めた時、先んじて話題をそらすとか、かな。あとは、あちらに予定が入っていることを祈る他無い。時間が来れば話を続けるわけにも行かなくなる」
「予定がなかったら、そのうち聞かなくてはならないわけですか……一体、どういう時に割り込めばいいものやら」
「……二百年前の出来事は。君がいずれ知らなくてはならないことだ。友達でいたいと願うならだけども。けれど同時に、知らないほうがいいことも多い。というのも、知っておいたほうがいいだろう。その話に行ったら、警戒したほうがいい」
今のである程度想像はつくかもしれないけれどと、フリサルタンは言葉を結んだ。
友達でいたいと願うなら、か。
そういうことに関わる話なのだろうか。いや。二百年前の事を知らずして、友情を維持することは出来ないと、そう言いたいのかもしれない。
フリサルタンはその内容を知っている。これはまず間違いないことだろう。異界人と色々あって、どうもその時の出来事が先日の態度につながったらしいと思えば、栄治が余程のことをしたと推測は行き着く。
「わかり、ました。あの」
「ん。なんだい?」
「その……フリサルタンさんが色々あったっていう異界人は、もしかして」
「いや」
伏し目がちに、ため息を漏らすように。言葉がたなびく。猫の目が瞳孔を細めた。
「麻井 栄治が今のようになってからは、いちいち面通しをしなくなったんだ。僕のはもっと別の……別のことさ」
ドワーフ三組織に捕らえられたのか。作形には、もっと別にあるのか。そのことを穿つのは酷なことに思えて、優馬は言葉を詰まらせる。無理を言ってでも聞くべきだろう。だが出来ない。疑えと自分に命じた時、遠慮を捨てようと思ったはずなのに、到底できそうになかった。
これ以上の追究をするのは……そこに正しさを求めてしまう。こちらの世界だって疑ってばかりでは疲れてしまうだろう。どこかで信じる方向へ妥協するはずだ。いやそれより。区別出来るほど訓練されていると考えたほうが、心象的にも優しくて良い。
あちらの世界にもあった普遍のジレンマを、優馬は拒絶する。
拒絶しながらも受け入れて、徹底することはなく、多くの人がそうするように。優馬は平凡であることを選んだ。
心を読めなければ解決することはない。心を読めたとしても、相手が確かにそう考えているという証明はしようもなければ、決して逃れ得ぬ事象。
諦める。そして信じることにする。自分の記憶とて決して信用しうるものではない。これは、馴化したあとの自分にも、その前の自分にも言えることだ。最近気づいた。だからあえて、頑張って自分は信じよう。
追求はやめておくことにした。
劣等感は拭えずとも、失敗への恐怖は乗り切ることが出来た。
「それで、君はどうする?」
「えっ。どうする、と言いますと」
「アリュブー博士はどうやら、君と麻井 栄治が面会する前提で話を進めているようだ。兄が僅かに言葉を交わした程度ではあるけれど、そこに含ませる程度は既に予定だっているらしい」
「言われてみると、そう、ですね。アリュブーは栄治のそういうところを知らないとか」
「無い、とは言い切れない。麻井 栄治はジャパンの代表という身分があるから、離れることは稀だ。我らが国と、北の国に少し挨拶する時くらいだろう。アリュブー博士も公務が忙しい。けれど、知っている可能性も高いと思う。そうか、博士も……いや、滅多なことを言うものじゃないな」
フリサルタンの視線が、一瞬ゼナストのほうにぶれた。ふん、と大きな鼻息が聞こえて優馬も振り返る。何事もない。普段通りのゼナストが居るだけだ。
「栄治とアリュブーは、子供を創った仲だとも聞きました。やっぱり、その辺りが?」
「そのあたりは別に重要じゃない。重要なのは、歴史に残る限りでは愛があったのも確かなようだということさ。出来る限り麻井 栄治に喜ばしいよう、計らおうとしていてもおかしくないね。ああもちろん、博士は君を道具のように扱ったりするつもりはないだろう。だから、後顧の憂いが無いようにしているのが真相だと思う」
アリュブー自身もそんなことを言っていたような、言っていなかったような。他の誰かだったろうか。言われた記憶はある。
そうだ、考えてみれば、もう予定はついていて。そのための時間も栄治は空けて待っているに違いない。
断りたい気持ちと、流されたい気持ちがせめぎあい。挑むための勇気を優馬は求めて。得た。きっとそれは、流されるのを選んだことを誤魔化したりとか、流れの後押しを得ることで固めたとか、勢いでの決断である。
だが、しかし。友人とは対等で居たい。それが介在したことも確かだった。
「……わかりました。それは、それとして。わざわざ謝りに来ていただいて、ありがとうございます」
「いやあ、ははは……こちらこそ、ありがとう。そう言わせてもらいたいかな。こちらもモヤモヤしていたし、兄にも叱られてしまった。このめぐり合わせは、良いものだったよ」
清々しい笑顔。この笑顔は下心あってできるものではないと信じて、優馬はフリサルタンの謝意を信じた。そして彼が、本来はあのような言い方をしない人物であるとも、また確信した。
彼にあんな言い方をさせるような、異界人に降りかかった出来事。作形に、ジャパンに、由来するものなのか。
一抹の不安は残しながらも、彼との会話を終えることにする。
「それは良かった。ええ、お互いに良かったです。正直言うと、一先ず落ちつけたといっても、苛立っていた部分もあったので」
「だろう、ね。思い出すと我ながらあれはいただけない。何度思い出してもだ」
「ははは。どうやら、すっきりした気持ちでお別れできそうです。無敵……陛下も、良い出会いでした」
フリサルタンが伝えると、『無敵帝』は頷いた。笑みはない。どこか満足気な雰囲気だけを帯びて目を細めている。
「……麻井 栄治は苛烈な戦いの経験から、他のリッチよりも心の動きに力を注いだのだろう。力なく、望まず、惨禍に巻き込まれたとなれば、無理からぬ。新たな友はいても、旧い友は必要だ。過去の自分を知る旧い友が。君にそれを押し付けるつもりはない。しかし、彼の癒しとなれることも期待している。アリュブー博士のように。だ、そうだよ」
兄の通訳を果たし、フリサルタンは笑った。『無敵帝』の低くもよく通る声は、言葉こそわからずとも慈しみを覚え。血に響くようで心地よい。優馬は、頷きを返す。
「はい、と。伝えてください。期待に応えますって」
「朝風呂は心地よかったかな?」
「ええ、とっても」
北へ駆ける車窓ごしに、優馬とディガ・カンドラは言葉を交わした。要人たちを見送る礼のついでに、この大いなる竜の方から声をかけてきたのだ。
空は晴れ、青く白く。それよりも赤の比率が今は勝る。
列車は鋭く風を切り、翼は力強く押しのける。飛び方が巧みなのか。霊的な力を働かせているのか。あおられて影響が出ることはない。ティータイムのように穏やかだ。
「ならよし。どうやら悩みも、いくらかは湯に溶かすことが出来たようだ」
「全部、というわけには行きませんでしたけど。これまでに持っていたものは、おおよそ」
「経営者としては無念なところだがね。浮世の疲れを流してもらうのが、一応モットーだったりするのでなあ」
「こればかりはどうにも。自分で片付けてこそ、なんぼのものだと思うので」
「ほっほう。だったらば、かえって流れず良かったとしようじゃあないか。応援しているよ、優馬くん。では、わしはそろそろ『無敵帝』ご一行へ行かせてもらおうか。亜竜が来たところで問題無いだろうが、そこは礼儀というもの。君等の方は安全な方でもあることだ、するべきことはしたろう。と、いうわけで、先の安全を祈っている」
音もなくディガ・カンドラの巨体が離れ、羽撃く衝撃を残し一息に小さくなった。東の空も晴れやかで荒れる兆しはない。山並みと空の間に、赤い点は消えていく。
静かだった。
列車は揺れて、蒸気機関が唸り、風を切っても。窓を閉めれば人は止まる。
ラウナル大温泉湖発、ジャパン行き。連絡列車『富士』の貴賓室は八人乗ってもまだ余裕があり、故にこそどこか寒々しくもある。高地を下る路線は頂に温泉湖を構えるだけあって上昇気流強く。それが北風であることもあり、冷えるのも致し方ないことではあるだろう。尤も、この辺りはまだ温かい地方ではあるのだが。
さておき、室内に立ち込める重さと冷たさは、およそそうした天然自然のものからはかけ離れたものである。
あるいは人いきれ。風がそうであるように、人の気持ちもまた密から疎へ流れていくものらしく。この空間を満たすそれは、およそ半数の人からもたらされるそれである。即ち、女学生四名を除いた者たち。男三人に女一人。女所帯の旅路であるとかそういうものでなく、ささやかな関係の絡みである。
「なあ、優馬」
沈黙を破ったのは、ツェーベルだった。
優馬の席の反対。顔の片側四つの目は風景を眺めながら、もう片側四つの目が、優馬を見る。
「ん……何?」
「ああ、いや……何、言うかな思てよ」
ツェーベルは苦笑を漏らして、優馬もまた同じく漏らした。
「なんだそれ。どうしたの」
「うむ、なあ」
優馬を見ていた目が、四方へ逸らされ中を泳ぐ。首を捻り捻り。なんとか搾り出そうとする素振りは少し続いて。
「……よし! 俺がついてるぜ!」
キョトンとしたのは、優馬だけではない。空気そのものも呆けたように緩み。皆、外の景色を眺めながら意識はツェーベルへ向ける。僅かな霊質のゆらぎからそれを察し、咳払いが響いた。
「えと、なん。俺もジャパン、作形、周辺住もう思った」
緩んだ空気が、今度はざわめいた。誰にとっても藪から棒な突然の表明。
「そりゃまた、いきなりなんで」
「住むても、拠点くらい? 店構えるか曖昧。でもそう、新しい友、力なる」
どんな心境の変遷があったものか、優馬にはうかがい知ることは出来ず。けれども素直な喜びを表情にした。
疑いのない心の有様。まだ甘いと言えなくもないだろう。しかし灯台下暗しではなく、懐に受け入れた。自我を許したのだ。いつの間にそうなっていたかも、優馬にはわからない。旅の内、この蜥蜴人に対して湧いていた親近感はかけがえないものとなっていたようだ。孤独の中で寄る辺を求めたに過ぎぬとしても、そこに打算はない。
「本当に!? そうか……ありがとう、ツェーベル。なんだか、勇気が湧いてきたよ」
本音を言うと、恐怖があった。今、友人が怖かったのだ。麻井 栄治が。
間違いなく、栄治は友達だ。だけど想像を超えた出来事を経て時間は隔たり。気がつけば、こちらの人々から伝え聞く噂に塗りつぶされて、怪物めいて見えていた。
確かめる必要がある。今の真実の姿を見極めて、どう付き合っていくべきなのか。それもまた旧い友の役目であろうと信じて。
しかし友人出会ったからこそ、再会は恐ろしく。背中を押すものが必要だった。
「良かった。ゼナスト、あんたも……教師だったな」
「ん? おお。そうでだすよ。ちっと俺で作形住むが難しいな。仕事あるぜ」
「残念。でも、良いなら。会いたい、偶に」
「ああ、それなら良い」
頷いて、ゼナストは窓から顔を離した。
「そだな。俺も優馬は話し事あり」
「ゼナストも? なんだろ」
「……応援してるぜ!」
「ははっ。ありがと!」
フリサルタンが話したことについて、自分たちが黙っていたこと。
教師という公人の立場として、黙っていたことに後悔はない。博士が決めたことに自らの意志で賛同した。それを翻すつもりはなかった。
ただ、一人の人として。優馬がショックを受けた姿にはこたえるものがあり。彼を護衛対象としてではなく、旅の合間、穏やかな時に芽生えた友人と見る意識が、先程までゼナストの中でくすぶり続けていたのだ。
結局、それを口にすることはなかった。謝ることは出来ない。そうすれば自らの決断を翻すことになる。
だから、応援の言葉を送るにとどめた。
それを見て、アリュブーは微笑む。男たちは近い席に腰を移して顔を突き合わせ、旅の終わりを惜しみながら友情を温め始めた。
美しい。
細められた視界の端で、また異なる美しいものが過ぎていく。旅の終わりはもうすぐそこ、と。
「皆さん、今、ジャパンに入りました」
『富士』の遥か後ろ。線路の際に。
桃色の桜木が佇んでいた。