第十四話
「この先はラウナル大温泉湖においても、ごく一部の人にしか開放されていません。極めて重要な方のための特別な湯です。特段、秘密にしているわけではありませんが」
船頭の声。船がゆく。湯気濃い大温泉湖を、定員およそ二十名ほどの細身の船が。ゼナストほどの者を基準とした定員であるから、現状の面子ではかなり余裕があるといえるだろう。乗員がライドームの今上帝と、精霊学団の博士であるのを思えば、もう少し余裕があってもいいくらいではあるが。そこは、並べられた軽食が補うところだ。温泉の名物がずらりと、顔を揃えている。内装までも見れば屋形船を思わせ、家が浮かんでいるかのごとくである。
少し前。霊峰を下った一行が導かれたのは、温泉街から見えぬ位置の船着場だった。ディガ・カンドラの指示は早行き渡り。既に二つのグループをもてなす十分な用意がなされ、出港の手はずも整っている。予め備えてはいたのだろう。ディガ・カンドラの口ぶりや整い方を見ると、自然な考え方だ。
また船か、と。『無敵帝』、アリュブーに続いて乗り込む時。優馬は苦笑した。『アストナの葉』号を降りたのがつい先日のこと。それからまたすぐ船上の人になるとは。これまでの人生で乗ったことがなかった分、取り戻しているかのようだと。
船内での席次は上座、皆に顔が見える右舷中央に『無敵帝』。両脇にアリュブーと優馬。それから、ゼナストや『無敵帝』の供をしていた者たちが護衛として周辺に座し。ツェーベルや女学生たちは船の両端に腰を下ろす。
正直言って、居心地が悪い。優馬の率直な感想だ。
これまでの旅路で、自分がガラス細工のような扱いをされるのは慣れたが。右も左も分からないうちに知り合ったアリュブーはまだしも、ここで初めてあった一国の元首が隣に座っているというプレッシャーは、仮に叫べたとしても余りある。ましてや『無敵帝』の両側に自分とアリュブーであるから頼りは遠く。アリュブーがゼナストを隣に配してくれたのはありがたくも、当のゼナストもこの席では緊張が隠し切れていない。
ゼナストは身の丈二メートル半。『無敵帝』はおおよそ、百八十センチ台後半というところだろう。ツェーベルよりも低い。かといって小さいかといえばそうでも無く。肩身は狭い。
沈黙に息も詰まる。
関わりなかった二つのグループが一つの集団にされたのだから、まず上手く回るはずはなく。ディガ・カンドラもそれがわからないはずもないだろうに、何故船を二艘用意しなかったのか。
そこは、竜故という他ない。古き人類種に名を連ねる彼らは、今世に満ちる蠢く者たちの区分について大雑把だ。ディガ・カンドラは一般客、金持ち、それ以上という三つの区分を用いているが。一般人というカテゴリに分けられた者たちは、そのカテゴリの中で平等であるし。他の区分もそうである。そして往々にして、それぞれで変える対応も細やかではなく。
結果として、幾つかのグループが一纏めにされるという事態が起きるのだ。
ゲスト側で要望しなければ、数多の国の首脳陣が大部屋で雑魚寝。それが竜というものである。
つまりこの状態は、要望を出さなかった星霊学団とライドーム帝国の手落ち、であると言えなくもないのかもしれない。
船をこぎ、飛沫立つ音だけがしばしの間響いた。音の醸す雰囲気はわるくない。ただ今は、硬さだけがこびりつく。
すると。
「秘密でしていないか。泳ぎ着くのも並大抵ではない、ですものですな」
沈黙を破ったのは、『無敵帝』。船頭の言葉を補うようにボソリと呟かれるクストラ語。ゼナストが即座に、優馬へ小声の同時通訳をはじめる。
「このあたりな湯は湧出口近くく、かなり温度が高い。そもそも湯が泳ぎ事自体、大きい体力消耗するだです。知っていても船でなければ辿り着けるかどうか。賭けをしてみるにも、悪くなく条件だかもしれんません」
再び、静寂。
いや、静寂が蔓延ろうとして。
「そう考えると、ディガ・カンドラが挑発的ですだな。あちら勝つ入れず、負け入られるだけ、痛むところはない賭けだからでしょうけど」
アリュブーが言葉をつなぐ。ゼナストは休めない。
「それとここな竜は翼下。負け時た損失を思えば、挑む奴は余程のものでだろう。何かしら」
微かな笑いが起きて船中に満ちた。
明るくなった雰囲気に釣られて、優馬も思わず笑いが溢れる。押さえ込まれるような感覚から開放された時の、息がもれるような緩んだ笑い。
そのすぐ隣で、紛れるようなため息があった。
「なあ、優馬」
「うん?」
「二人がどういう話をしたかわかったか?」
「えっと……まあ、七割くらい」
「……やっぱり俺も、もっと日本語の勉強が必要だな」
霊峰ディガ・カンドラを出港し、北西へ約二キロ。
姿を表した直径三百メートルほどの岩島に船は身を寄せ、乗客たちは波止場にて歓迎を受けた。迎えたのは翼持ち、赤い竜鱗を体の各所に覗かせる、女の魅力を満載にした艶やかなる巨人の女である。
やはり、という念が優馬の中に起こった。まず、ディガ・カンドラとあの巨人女の娘だろう。差し詰め竜巨人。身長は目算で十メートル程と、母親寄りであると見える。手足、翼、それに目は竜由来のもので。鋭い鉤爪を持ち、逞しく、眼光は鋭く。それでいて薄布を内から押し上げる体のラインは、柔肉の厚みを隠さない。
先頭に立ってアリュブーが声をかける。巨人女は恭しげに片膝をつき、返事を返した。大きさの割に高い声からなる異言語はどこかエキゾチックで。いい加減耳に滲みたクストラ語とは異なる、どこか艶かしい調子の言語であることと、本人が持つ雰囲気によるものでもあるだろう。ただ言葉を語るだけで色気立つ。
「おお……恐竜語だ」
ゼナストが小さく笑った。
「これ、恐竜語か。聞く、初めてだ」
「ツェーベルも? それに、恐竜語って」
「優馬がともかくとして、ツェーベルもだか。学院で……あんまりやらないか」
「覚え、ない。支障、ない」
「へっへっ、そうなんだよなあ」
笑いは苦笑いに転じて、岩のような肩が揺れた。
「恐竜語ぁあんまりローカルすぎぜ。それは由緒正しいで高尚だもされすぎだ。まあ、俺に母語なんだが、数年使った覚えなし」
「ごく一部しか使わない、ってことか」
「そうだ優馬。いやまあ、母語だが。とりあえず、あの姉ちゃんがディガ・カンドラより敬意もってる証拠だもなる。古臭い奴で、相手を神扱いする意味に使うの多い」
慣れて久しい、言葉の接続詞を置き換える作業を終えて、優馬にもある程度理解ができた。
恐竜人はかつて神であったという話もあるし、神の言語であると考える人もいるのだろう。そしてその言葉で話しかけるということは、相手を尊い存在であるとみなすことにもつながる。実際は、地方の言葉にすぎないとか、そのあたりなのだろう。
耳障りよく、聞いていると気分が良くなるあたり、神の言語として扱われるのもむべなるかな。
ゼナストとしては単なる地元言葉扱いして欲しいものを、優馬としては悪いと思いつつ古風な概念に親しみを覚えた。
「つっても。もっと古い言葉に儀礼用いられるし。遺跡でもあまり使われてないし。実際覚える必要がないだですよな」
そんなこんなしているうちにアリュブーと巨人女の話は終わり。一行は岩島の奥へと足を進めることになった。
丁寧に舗装された道は歩きやすく。温泉が小川となって流れてくるのに沿い、巨人女の後を追ってゆるやかな上りの道。歩いた距離は百メートルもないだろう。遠目からは岩の盛り上がりにしか見えなかったところが、巨大な洞窟の入口になっている。巨人女が余裕を持って立ち通れる空間の連なり。足元は平らに整えられて歩きやすく。天井には人工的に作ったと思しき等間隔の穴が並び、取り入れられた光が大きな空間を淡く神秘的に照らしていた。
地を揺らさない巨人女の歩法は淑やかさがあり。天井の穴を抜けそこねた音の反響は、不安のある耳でも沁み通る。温泉の沸く音もあり、その反響もあり。決して静かな空間ではないが、不思議と心の落ち着く場所。
それもまたごく短い間で。程なく、優馬たちは洞窟温泉の際に行き着いた。直径は八十メートル程にもなろうか。間際まで続く通路の他は細かな石に囲まれ、天井の一角には大穴が空き、それ以外の穴は道中でも見かけなくなっている。自然、光はその大穴のみから差し込むだけとなって、光と影のコントラストを濃くし。洞窟温泉付近は幻惑するような風合いが強い。
これこそは、まさに静謐。
周辺各所の源泉から湯の湧き出る音も、それが洞窟温泉に注ぎこむ音も。さらにまた、洞窟温泉から湯が流れて小川になり、過ぎてゆくさまも。居並ぶ者たち皆の心を慰撫して、一時、停止した時間を作り上げる。『無敵帝』もアリュブーも、ただただその場に立ち尽くしていた。
如何程時間が経ったか。
巨人女が何事かつぶやくと、アリュブーは天井の大穴を見つめ。優馬を始めとして他の皆も同じ場所を注視した時。
差し込む光に影が混ざり。羽ばたきの音は響きわたって、ディガ・カンドラがそこから洞窟温泉へと巨体を滑りこませてきた。
「やあ、諸君。お待たせしたかな? ああ、おっと」
日本語での言葉。それから、どうやらクストラ語。ディガ・カンドラは二度言葉をかけて、赤い体を湯に沈める。
巨体の分だけ湯嵩が増し。小川は氾濫して、溢れた分が優馬達の足元を舐め、やがて、元の水位に落ち着いていった。
「いやはは。まず日本語で言ってしまったが、ここは陛下に合わせ、クストラ語のほうが良いだろうかな? あちらを立てればこちらが立たず。誰か、通訳をしてくれると助かる」
知らず、優馬は息を呑む。
どちらも劣らず高い身分の者であるから、ここで言葉を譲るという意味は大きい。星霊学団も大きな組織らしいとはいえ、ライドームとの差はわからない。もしも明確な線引きがなされてなかったとしたら。
張り詰めた空気を予感し、アリュブーと『無敵帝』に視線を向け。
「では、私が」
思わず視線ごと滑り、身じろいだ。
あまりにあっけない幕切れ。『無敵帝』に随伴する一人。緑色の葉混じりな髪をした、眼鏡の恐らくエルフが、手を上げたのだ。
「竜君殿は日本語にて。こちらでクストラ語に訳しましょう」
星霊学団の力は国よりも大きい。
自分は今、それを目の当たりにしたのだろう。
驚きもあるが感心は勝り。予感していた部分は安堵に転じて、肩の力が抜ける。
「うむ、了解した。では、そろそろ湯を共にしよう」
まず真っ先に、アリュブーと『無敵帝』が入浴の手本を示した。ここに男女別々の脱衣場などは存在しない。野外で泉を見つけた時にそうするのと同じく、水際から少し離れたところに着衣を置くのがルールだ。あくまでも特別浴場のルールであり、温泉街には男女別々の脱衣場はある。混浴なのは同じ事だが。
流石にこのことには、初めてここへ来たらしい女学生たちやツェーベルも戸惑いを見せた。秘されてこそ、内に秘めるものへ興奮を覚えるもの。故に人類社会の風呂場はこちらでも、肌を晒す場は区別されている。
女学生達は養育院より市井へ出、そして学院へ進んでそれ以外の環境を知らず。ツェーベルも旅はしていても、線路や街道に沿って行う商いの旅であり、道無き道を行って野性に馴染むものではないのだ。
なるほど、性の意識は緩くとも無秩序ではない。誰よりも大きな抵抗を感じ、現状から目をそらすために優馬はそう思った。
考えている内に二人、それからゼナストや『無敵帝』に付いている者は一糸まとわぬ姿となって、湯へと身を沈めていく。
アリュブーは見える部分からも想像できる通り、青白く、華奢で、女性性に乏しい。顔の一部に見えた赤い鱗は背中にも散見され、腿の外側には白い毛皮が薄く茂っているのが見えた。
『無敵帝』もまた想像から外れず。緑色の肉体は苔むした大樹のように堂々として。筋肉から立ち上る男の匂いが、離れていても届くような錯覚に陥る。同性でも惚れ惚れとするような、見事に鍛えあげられた修練の痕跡。ここまで打ち上げるのに降りかかったであろう、様々な苦難の鎚の強さを伺わせた。
早々と、全裸になった者たちは湯に身を沈め。躊躇し遅れた者たちは未だ陸の上にあった。先んじたものは彼らに振り返ることもなく、ディガ・カンドラも一瞥したあとは湯に視線を落とした。姿勢を低くし、長い首も湯に浴して、ぬくもりに目を細めていた。
気遣ってくれているのか。
本当のところはわかるはずもない。もしかすると呆れがあるかも知れないが、そう思うような人柄のものはいないはずだ。優馬の知らない者を知っている者が、信頼する者へ見せる顔を見せていた。
ならやはり、気遣いだろう。どちらにせよ焦らせるものではあるのだが。
優馬とツェーベル、それに女学生たちはそれぞれ顔を見合わせると、その場に衣服を脱ぎ捨てて湯に体を沈めた。濃く濁っていて、自分の体を見ることすら出来ない。幸いなことだ。半分以上が初対面の相手で、強大な存在が眼の前にあるとはいっても、体が興奮を内側に押し込めておけるとは限らない。
つい今も、体を重ねた四人の女が直ぐ側で全裸になり。アリュブーや『無敵帝』の付きをしているうちの女性陣も、惜しげなく裸体を晒していたのだから。
見ると聞くでは大違い。さらにいうと、臨むと見るでは大違いだ。二人きりの空間ではこちらの文化も身にしみた。互いに互いの目しかないのだから、恥じ入ることはなかったのだ。
しかし今は多くの目があり、あるがまま振る舞うのは大きな躊躇いがある。身分も高い。聞かぬは一生の恥というが、無理なものは無理だ。素直に興奮を表してよいものか? その疑問に、ひとまず優馬は無難な態度を取らざるを得なかった。
「ふぅー……ふふふ。よろしい。どうかね、いい湯だろう。なんといっても、空は冷える。いや、言うほどは冷えないが。と思ったがそんなこともない。お陰様で、翼人類とされる者たちこそ、一番お客になってくれるのだからな。ふははは……」
いつの間にやらディガ・カンドラは伸びきって、頭だけを水面から出していた。大きな体は見えず。座っている場所の角度から考えても、奥へ行くにつれて深くなっているらしい。
すっかり体を休めきって、心もほぐれきっているという有様だ。いや、山上の空間で面会した時にも肩の力が入っているようには見えなかったし。元々なのかもしれない。本人の性格か、実際の立場上故かは、判然としない所だ。
「時に諸君。わしのプライベート温泉にお招きしたわけだが、互いに自己紹介は済ませたかな?」
全員が顔を見合わせ、アリュブーが代表して答えた。
「私と陛下であれば知り合いですが」
「それは知っている」
「でしょうね。他の者達はまだだったかと」
「それはいかん。こうしてわしのプライベート温泉にいるからには、和気藹々としていて欲しい。というわけで諸君、お互いに自己紹介すると良い。招いたのも君等が話しやすいだろうと思ったからだし。報告し合う事も多々あるだろうから、好都合だろう。ジャパンに関することとかな」
一瞬ドキッとして、すぐに苦笑いでごまかす。優馬も言及は予測していた。用意していた反応だ。もう散々見せてきているが、更にまた初対面の相手に弱いところは見せたくない。
ともあれ、自己紹介ということでそれについても用意する必要がある。しかも迅速に。必要となって促されるタイミングも、自分が重要な案件であることを思えば早いだろう。
「では、私から。星霊学団博士、アリュブー・エレノウス・メヒド・レオツェルです。私についてはこれくらいで良いでしょう。優馬さんも知っているはずです」
ちらりと振り返り、単眼が流し見た。優馬は頷く。さすがにそれくらいは知っている。フルネームを聞いたのは初めてだが。
次いで、『無敵帝』が名乗りを上げた。クストラ語のようだ。といっても優馬にはなんといっているのかわからない。通訳されるのを待つ必要があるだろう。
流れで行けば、次がその彼のはずだ。
「俺は、ディスティオ・ロンシュ・ライドーム・ゼランドバウガ。故あって現ライドーム皇帝をしている。とのことです。そして私はフリサルタン・ロンシュ・ライドーム・ゼランドバウガ。名前でわかるとは思いますが、陛下とは血の繋がった兄弟、ということになりますか。私が弟です」
そう言ったのか。
などと思うよりも先に、体が前につんのめる。
実の兄弟?
そんなことがあり得るのか! と。
この世界の子供は親が手元において育てるものではないし、ましてや見た目からして全然違う。仮に同じ養育院へ親が預けたのだとしても、兄弟であることが確認できるものなのか。それも兄はオーク。弟はエルフ。見た目にも似ている要素は全く無い。
周知の事実なのか、珍しいことでもないのか、優馬の他に目を丸くしているものはなく。
あまりにもわかりやすく顔に出ていたのだろう。フリサルタンは小さく笑って言葉を付け足した。
「どうやら、異界人の方には驚きが大きかったようですね。でも、これはそれなりに見かけることなんですよ。母が短い内に連続して子供を産めば、それだけで成立しうる。名前もこのとおり、兄弟であるらしいことを示しています」
「名前、ですか?」
「帝都ライドームのゼランドバウガ養育院にて、母ロンシュから産まれたフリサルタン。私のフルネームが意味するところです。養育院で機械的に決められる三節が陛下と一致していますし、養親や探した実母からも確認をとったので、間違いありません」
整理してみると、単純な名前の構成だ。けれど頭になかなか定着しない。湯に暖められ始めてとろけはじめたのだろうか。
何にせよ、様々のことがそれを証明しているというのなら優馬は納得しておくことにする。言われてみれば十分あり得ることだし、こちらの文化をちゃんと思い出せば兄弟で全く見かけが違っても何もおかしくない。いや、あちらでも見かけるのは難しくないだろう。『無敵帝』ディスティオの時はオーク寄りの男が相手で、フリサルタンの時はエルフ寄りの男だった。それだけのことだ。
「ああ、なるほど……わかりました。なんとなく」
「それは結構。では、次は君かな。異界人君」
「あ、はい、ええっと、園木 優馬です」
フリサルタンに促され、優馬はたどたどしく名乗った。説明が用意していた気持ちを押し流してしまっていた。
その後ツェーベルやゼナスト。女学生たちに、『無敵帝』の供をしている他の者達も名乗って。
「うむうむ。では最後に、わしが竜君ディガ・カンドラ。ここ、ラウナル大温泉湖の主をしている。とまあ、こんなところか。あとは、そう。適当に話でもして楽しもうじゃないか」
最後にディガ・カンドラがそう言うと、自己紹介は終わりとなった。全員の名前は覚えていない。新しく覚えられたのはディスティオとフリサルタン位のものだし、ディスティオの方は『無敵帝』のほうがわかりやすくて忘れそうになる。
そもそも、ここを離れたらまた会う機会があるかどうかも怪しい者たちであり。覚えておくモチベーションが上がらなかったのだ。再び出会い、名前で呼ぶことがあるものか? 栄治がアリュブーと繋がり、アリュブーからお偉方へ繋がるなら、ふとした弾みで会うこともないとは言い切れないといっても。確率は決して高くあるまい。
だが、まあ、一応。ここで会話をする分には必要である。口を開くのはごく一部に限られるはずだ。その分は覚えているからいいだろう。
「ではお言葉に甘えまして。とはいってみましたが、こちらの目的はいくらか済ませてしまっているだけに何をお話したものか。ここはやはり、優馬君」
フリサルタンの視線が優馬を射抜いた。眼鏡の奥に秘められていた薄く鋭い双眼。細蔓の髪を添えた眼光は、草陰から獲物を狙う猫の瞳を持つ。声は柔らかだが、ぶつかってきたのはあまりにも強い意識だ。自然、優馬の背筋がピンと伸びた。
「はい。なんでしょう」
思わず力のこもった返事。それでいて、魂の抜けた声。
脱力するような笑いがフリサルタンから小さく漏れた。
「あはは……っ! そんな、気張らなくていいよ。大したことを聞くわけじゃない。君はもう、馴化を済ませたかな?」
「大内海に居る時、終わらせましたけど」
「そうか、なるほど」
フリサルタンはディスティオと目をあわせ、短く何かを呟いた。クストラ語でわからないだけで今言ったことなのだろう。
やはり馴化しているかどうかは気になることなのか。
「君の幸せを祈る。なにせ君は既に、僕らと同じものだ。その点については」
ちらりと猫の目がアリュブーの単眼を伺い、アリュブーは頷いた。
「ご存知のようだね」
「世界の一部になる。ということだとか」
「いかにも。具体的に言えば、あちらの霊質からこちらの霊質に君の情報を丸うつしにし、ごっそり入れ替える。というものらしい。僕には出来ないから、言葉の上でしか知らないけれども」
好奇心が満たされると同時に、得も言われぬ気持ち悪さが優馬の中で目を開いた。
自分に起こったことがなんだったのか、具体的に聞いたのは今のがはじめてだ。しかし、今のを聞く限り。聞き捨てならない場所がある。
情報を丸うつしにし、ごっそり入れ替える。
うつす、とはどういうことだ? そして入れ替える……。
途端。自分が自分でないような気がして、眼球が忙しく動き出した。
かつて自分そのものであったものが、今はもうこの体から失われているのだ。いや。いや、それならばまだいい。
これだけは確かめておく必要が有る。
「うつす、というのは……」
「うつすは、うつすだ。段々……飲み込めてきたようだね」
少し深く入って考えてみる。
この世界では魂の存在が定義され、観測されている。則って考えて見るなら、自我の内側にある霊質こそがそれであり。
優馬の場合、その魂すらもあちらの世界のものであったはずだ。
なら、つまり。うつす、というのは。
「書き、写す?」
そう考えるほかない。
「事は全て星霊に願い、そしてなされることですが。観測した結果、そうであることは間違いないようです」
ふと気がついた時、アリュブーは優馬の隣にいた。細い体は湯を浴びて温まり、ほのかに赤く。深淵へ続くような瞳は間近にある。
優馬には理解できた。この瞳の昏さは、星の奥底の闇だ。
「フリサルタンさんが言わなければ、私から言う予定でした」
「……なんで、言わなかった、んだろう?」
「馴化していないうちは暴発を防ぐために。馴化してからも色々あったので。一つ一つが片付き、身軽になるのを待っていました。きっと温泉街のどこかで話していたと思います。陛下と話した際、旅の憂い無き終わりを語ったので、あちらのご一行も知るところとなりましたから……ありえぬことではないと思っていたのですが」
「あとはジャパンへ行き着くのみ。であれば、彼らの知ることを彼も知らねばならない。ジャパンはこちらの、ライドームの領土です。無知を入れれば、既知の者たちの心に波風が立つでしょう。領土の平穏を守ることは国の義務。僭越ながら、明かさせていただきました」
フリサルタンの声が、皆との距離が。遥かに遠く、途轍もなく近いものに感じられ、めまいがした。
湯に当てられた部分も果たしてあるのか。暖められた血は脳をもめぐり、働きを鈍らせて曖昧にする。
思い返せば、推理できるところはいくつかあった。けれどもその時は馴化も済ませておらず、全身を苛む気だるさと痺れに押されて考える余裕もなく。たった今まで、記憶を雲のようにふわふわしたままとどめていたのだ。
このショックの無さは、そのせいか。決していきなりではなかった。仄めかしから本当は気づいていたのかもしれない。
一番ショックなことは、その事実に対してさほどのショックがないこと。不思議と受け入れる、無意識の自分の存在である。
「加えて、ジャパンについても話をする必要がありますか」
落ち着きとも動揺ともとれぬゆらぎの中。聴覚はフリサルタンの言葉に傾いた。
ツェーベルが、アリュブーとは反対の隣に来る。話に関わりない者が介入するような位置に立ち、フリサルタンは訝しんだが、すぐ気にしなくなった。
「作形。いえ、ジャパンを有り体に言えば隔離所。入れば出ることは難しいと、まずご理解を」
「出てこれない、ということ、ですか」
「絶対ではありませんよ。ただ麻井 栄治を除けば、外は極めて危険であるということです。特にドワーフの三組織が、異界人に対して強い執着をもっているので」
「……わかります」
この身で経験したのだ。言われずともわかる。
数字にするとごく短い出来事だったが、そのほんの僅かな時間は消えない記憶として焼き付いた。
「おっと、なるほど……悪いことを思い出させてしまったみたいで、心よりお詫び申しあげます」
「確か、希少性目的、でしたか」
「それもあるでしょう。忌憚なく言わせてもらいますと、我々の目からしてもあなたは奇妙だ。これが純血というものなのか、とね。ですが……詳しいことは、麻井 栄治が話してくれるはずです。後回しに、人任せにしているようで気も引けるのですが」
「栄治にこそ、その権利は、資格あると」
「……良き頭脳に、敬意を表します」
ピンと伸ばしていた背をほぐして、フリサルタンは肩まで湯に浸かった。眼鏡を外して片手で顔を洗う。拭い、かけ直せば、作っていた表情は洗い流され、顔のパーツの陰に疲れが顕になった。
「彼は責任。いや、義務と思っているかも知れません」
それらはまた隠れた。職業柄なのだろう。巧妙に隠すやり方を覚えている。
「故郷は檻になり。純血の子らは外を知らない。その中で長を務めながら、思い出が肉を持つ。何も知らない友に、自分たちが関わった事を話すという責任。彼にも、貴方にも辛いでしょう。疲れのなきように」
言い残して、フリサルタンは体を伸ばす。伝えるべきことは伝えた。
半ば公に近い場でも、遠慮はなかった。
フリサルタンが下がり。優馬も背を向けた。労るように囲んでいた者達をみると、心が絞られるような錯覚を覚える。
闇に射す光にだと思っていた。けれどもそうだ。そんなわけはない。堅く隔てなくては食い荒らされる。都合よく思おうとしていただけの事。
ツェーベルがどこか、不安げな顔をしていた。ゼナストは覚悟を決めて、アリュブーは涼しげで。女学生達は見極めようとするような。
何故そんな顔をするのか?
優馬の心は痺れている。
僅かに無言の時が流れて。
「いきなり、だった」
何を言い出せばいいものか。漏れたのは、優馬の率直な感想。
ほとんどなにの前触れもなく。ショッキングな事を立て続けに聞かされて、反応に困っている。ここへ来たことこそが、前触れなのだろうか。ジャパンが、作形が、間近に迫り。話すべき時が来た事柄だったのかもしれない。
「彼は十分、前置きをしたように思えましたけど」
アリュブーは、そう思わなかったようだ。名指しで話しかけ、幾つかの段階を経て、あの話を切り出した。彼女にはそう見えた。
「そうですか?」
脳の底をせき止められて、流れ出ようとした言葉が行き場を失い。結果として、優馬は落ち着いた。行こうとしていた方向を塞がれた力の反響。頭はかき混ざり、暗い考えが乱される。雲に切れ間が出来るように、光が見えた気にもなれた。
まあ、錯覚だ。
泥沼でもがいているところに、棒切れを投げられたようなものである。それでも一応きっかけにはなった。
「少なくとも、私はそう思いました」
「なるほど……」
温泉の縁。砂地の斜面に腰を下ろすと、女学生たちの肌が触れた。彼女たちの方から寄せてきた。
顔に浮かぶは慰めの色。優馬は愕然として、それを受け入れる。今自分に必要な物を思い知ったゆえの衝撃と納得。今の自分を再確認したことによる衝撃は大きい。
「ああ」
こわばっていた首の筋肉が痛む。
「俺がどう思うかって、心配してたのか」
自分が見えれば、他人のことも見えてくる。
ツェーベルやゼナスト達の浮かべていた表情の意味が、ストンと収まるべきところに収まって。ふと、曖昧な笑みを浮かべてみた。二人は痛ましげに牙をのぞかせ、同じような笑みを見せる。
「いや、いいよ。無理しなくて。これはうん、言いづらかったと思う。俺もあまり考えないようにしてるし。だけどこれも、なんだか消化できそうで。ジャパンのことは、たしかにそうだなっても思えたから」
「優馬……」
「俺は、大丈夫。あの、アリュブー」
顔を背ければ振り切るように。不安ヘと、目を向ける。
「なんでしょう」
「作形では、どんなことを聞かされると思う」
沈黙。瞑目。
顔における面積が大きいぶん、単眼のそれは厳かだ。
「栄治がどう出るかは、分かりません。昔からどこか気まぐれで」
「うん……知ってる」
「面倒を嫌って、いきなり全て聞かされるかもしれない。それは、覚悟しておいてください」
なんだか、今言われたとおりになりそうな気がする。単なる勘だが、友達付き合いの中で育まれた勘だ。隔たりは二百年。けれども半ば確信めいて、心の中に腰を下ろす。きっとそうなる。
自分のことが既に連絡されているならなおさら。タイミングを事前に熟考している内、日が近づくにつれて期待は盛り上がって思考を圧迫。段々考えるのが面倒になって、悪い意味で適当な手段を取ってくるに違いない。
期待半分、不安半分。今は昔。三対七。どちらがどちらかは、あえて語るまい。
「わかった」
ふと、笑い声が聞こえた。すぐ近くで、大きく。くぐもり、水面に波紋を起こして。鼻から漏れた風が茹だる肌を冷やす。
「若者の悩めるは美しきかな」
ディガ・カンドラ。いつの間にここまで近づいていたのか。首は全て湯につけて、浅瀬では下顎が浸かる。それでも直立したゼナスト程に大きいのに、まるで気づくことが出来なかった。
これには心臓も跳ね上がった。
自分を容易く口の中へ収めうるものが間近にある。根本的な部分に響いて、寿命が削られるとはまさにこのこと。
「ディガ・カンドラ! 止してくだせえますですか。自我がブレちまう」
「まあそう言わんとゼナスト君。こういうのを向こうの一時代によっちゃ、サプライズと呼んだらしいじゃないか。どうかな優馬君?」
「うぇ? あ、ああ。はあ、まあ」
「歯切れが悪いな。ちょっと間違ってしまったかな? まあ、別にいいんだが。そろそろホストとして、ゲストのお相手をしようと思ってね。あちらの方は娘に任せて、こちらに来たというわけさ」
やっぱり娘だったのか。
『無敵帝』達の対応を務めるのは、ここまでの案内をしてくれたあの巨人女。様々な姿の人を見かけて来た目には容易い問題だった。
一行を見下ろして何か話す目はきらめく宝石に似て。それは憧れるものの眼である。視線の先には『無敵帝』。身体バランスを見ると子供であるようには見えないから、内に秘めた思いを邪推してしまう。体の大きさというネックがなければ、こちらの流儀に則って求めに行く事はためらうまいと。
咳払いに似た笑い。竜の頭が微かに持ち上がる。
「で、若者が悩めるのは美しきかな。ちょっとお悩みだったみたいだのう優馬君よ。流石に自分がどんな存在かなどは、考えるに重すぎたかな?」
ディガ・カンドラの声はどこまでも脳天気で。重みのかかる場所などどこにもなかったが、今はそれで良かった。
友人へ話しかけるような軽い調子は、のしかかる物を払い落とす。重くなった口にも頭にもよく聞いて、不思議に口の端も持ち上がる。
「……それでも俺は、俺だと思って、思いたい。ジャパンもそんな、窮屈だとは思ってなかったし。それに、なんだろう。これは。言いしれない何かが」
「なんで言ってくれなかったのか? ではないかな」
無遠慮な一撃。物理性を欠いた、精神のうねり。
考えまいとしていた中核を、一切の迷いもなく貫いた一言。睨みつけるように振り向いてもディガ・カンドラに反省はない。ふてぶてしく、思いもなくただ見ている。
アリュブーを除く皆が、同じような反応を見せた。
「ふふふ。わしはそうしたことに関し、何も言うまい。アドバイスという柄でもないんでな。案外あっさり終わらせることも出来る。くらいは言っといてもいいがね」
鎌首をもたげて。頭が遥かに高く行く。湯は流れて首をつたい、滝のように水面へ帰った。
「さあもう少し楽しい話でもしよう。君の思い出話とかな。そうしていれば、自然と苦しみの鍵も見つかっていくことだろうさ」