第十三話
作形は地方都市で、有り体に言うと田舎町だった。だから優馬も日常的に列車を利用したことはない。通っていた高校も地元の近場で、精々中学の修学旅行の時に乗ったことがあるくらいのものだ。その時のことは思い出として深く刻み込まれている。主として、切符を買う時に固まったり、改札で立ち往生したことだったが。
それでも、またそうした思い出が増えるとは夢にも思わなかった。こちらに来てから、既に二つ。押し込められた部屋の後方展望や、トマグトの駅でされた危険物扱い。それに加えて今また一つ。頼りにしていた相手の世話を焼こうとは、それこそ想像だにしていなかったことである。
「大丈夫? ツェーベル、見えてる? 聞こえてる?」
「見えてる、聞こえてる。気持ち、嬉しい。でも、いい」
星霊学団要人用車両『絹衣六号』は駅の深く。一般客が立ち入れない車庫近くのホームに停まり、竜人達の迎えを受けた。例に漏れず様々の要素をあちこちに覗かせながらも、間違いなくそうと言える程度に竜が強く。揃って高い身長はツェーベルと同じくらいあるだろう。彼らは共に並ぶ学団関係者がアリュブーへ見せる礼に劣らぬ礼を優馬達に示し。素人目にも整った所作で、早くも目を楽しませてくれる。
その中で優馬から心配をかけられるのだから、ツェーベルにもこの事は思い出になった。あとあと時間が経てばいい思い出になるかもしれない、恥ずかしさの先走る思い出。守るべき者から憂いを受けるとは。
まあ、なんとなく、優馬がそうしている理由は予想がつく。優馬自身、耳に不安があるに違いない。自分が眼と耳に、果たしてこんな見え方、聞こえ方だったろうかと、確信を持てないのと同じように。優馬は自身のそれを鑑みて、他者もそうなのではないかときっと気が気でなくなっている。
肩の傷が思いの外軽く、一番被害が少ないことも大きいはずだ。優馬は耳。ツェーベルは目と耳。ゼナストは目と腕。単純に部位だけを見たやり方をしているのだろう。単純かつ純粋なその事には、思わず心も温まるのだが。
それはさておき。
「ようこそ、皆様。ご来訪心待ちにしておりました。我ら一同、歓迎の儀にあずかれますこと、まことに嬉しく存じ上げます」
竜人の一人が進み出て、また深く礼を見せた。
彼らはここ、ラウナル大温泉湖と霊峰ディガ・カンドラに属するものであり。温泉街を管理する従業員でもある。
車窓から山と湖が見え始めた時。アリュブー達からその事を聞いていなければ、優馬はまた新たに列車での思い出を得ていただろう。曰く。竜はがめついものであり、時には商売をして財を成して、それを喜ぶもの。ただ経済に無関心でもなく、適度に金を使ってもくれるので決して悪いものではない。
そしてラウナル大温泉湖は、すぐ側の霊峰ディガ・カンドラの主、ディガ・カンドラの支配するところであり。彼の経営する温泉街が湖岸の一角を占めているのだという。
財宝と竜の組み合わせは、さほど違和感がない。がめついというのもそこから考えればありえないものではなく。こちらで見聞きしたものの中ではあちらでのイメージと共通するところも多くて、むしろ親しみすら優馬は覚えるほどだ。
だがそこへきての温泉経営。経済活動に参加するまでは新鮮や斬新の範疇だったが、内容は親しみを伸ばしながらもこんがらがらせて、曖昧な笑みを浮かばせる。
今のこのやり取りも、考えてみればあちらでよくみかけらられそうな光景であるし。
近似した事柄で肩の力が抜けるのはいいが。こちらに親しむことをあちらから遠ざかると認識していた身には、いささか脱力の度合いが強くなっても仕方ないだろう。
ひょっとすると、竜人達が羽織っている軽目の服は法被に相当するのかもしれない。そう思うと、ますます度合いは高まるように思えた。
「アリュブー博士様方には、まず最高の宿にてお休みいただくようにとディガ・カンドラより申し付けられております。星霊学団の皆様方にも差し支えなくば、ご案内させて頂きますが」
「ご厚意ありがたく存じます。今は連れのものも多く、また傷ついた身。ぜひお願いしましょう」
既に話はついていたのだろうが、竜人たちと共に並ぶ星霊学団の者達も儀礼的にアリュブーと同様の事を願った。
優馬としても色々と気になることはある。が、宿があるならそちらの方を優先したかった。車窓の眺めは素晴らしかったが、揺られ続けて多少の疲れもある。それに、意識は昨日までと違って切羽詰まったものでもない。それから少し前に出てきた学術的な好奇心が占めている。
柔らかく暖かな眠りと、眺望優れた列車の旅路が癒してくれたのだろう。
彼らの着ているものはそういうのに属するものだろうか。それについて尋ねることや、大温泉湖と呼ばれる程の温泉と、ディガ・カンドラについてと。
腰を落ち着ける場所はまだ遠くとも。心埋めるものの多さに思いを馳せていた。
湖の中に山が聳えているのか、山が周囲を湯で満たしているのか。
直径およそ十キロメートルの円い湖。その東に寄った所で湯気に紛れて聳える、標高およそ千メートル弱と推測される円錐。それが、霊峰ディガ・カンドラである。
一説には、ラウナル河口から続くなだらかな傾斜まで含めてディガ・カンドラであるとか。また別に、ローバスツライムから始まる高原こそがディガ・カンドラの裾であるとか。異説多々あるが、これまでつまびらかにされたことはない。
古い契約に基づいて、ディガ・カンドラ支配域が広がるのを警戒してのことである。しかし諸々の理由があってディガ・カンドラが沈黙を守る以上。これから後も、しばらくは大温泉湖に聳える峻峰のみこそ、霊峰ディガ・カンドラであり続けると言われている。
そんな裏話のある山ではあるが、宿から眺める分には神秘的で美しく。湖の中聳えて、湯煙に紛れ佇む様は、溜息を漏らさずにはいられない。水質、温度の関係もあるだろうが湖に生命の気配希薄で、山も多く岩肌を剥き出しにしている姿から感じるのは、恐らく侘しさだろう。湖岸の仕切られた場所、人々が遊び安らぐのと対比すれば、引き立てられて心がざわめく。
トマグトであてがわれた部屋よりもなお広く、バルコニーが湖と山の景観を望むに最適の部屋。素晴らしいの一言で尽きそうになりながら、更に賛美の言葉を重ねたくなり。しかし言葉が出てこなくなるような。
「流石、ディガ・カンドラ。部屋、凄い。見る、はじめて。震えるね」
「名乗り竜だけに伊達じゃねえですさ。いや、しかし。湯治効果上昇予感であるますな。怪我は早く治りそうで気がしてきた」
バルコニーの室内近く。外から覗けない位置で、白木の椅子に座る優馬は後ろへ視線を向けた。
列車の旅中、殆どだんまりだったツェーベルとゼナストが快活に体を動かし、笑っていた。どこか子供じみているがそれだけに安心できて、優馬の心も温まってくる。
平和。
唐突に浮かんできた益体もない言葉は、ここの所求め望んでいたもの。意識することすら出来なかった怒涛のような日々は、もうじきに終わりを告げる。ひょっとすると新たな困難の始まりかもしれないが、腰を据えられそうなことはそれだけでもありがたい。
友人。きっと向こうにとっては旧友なのだろうけど、再会は待ち遠しく。
出会った幾つかの町に育まれて景観への期待は膨らみ。知るものと同じであれと並行し相反する願いと絡み合って、胸の奥がこそばゆい。
「優馬。一緒、入ろう。なんなら、皆で!」
優馬を見て、それから背中を見せて、ツェーベルが声を上げる。皆というのはきっと、女学生たちを含めてのことに違いないと、なんとなく見当がついた。この辺りの感覚はもう身についている。流石にアリュブーまで誘うかは怪しいと思うのも、その一環だ。
部屋は広さの割に、いや、広さを満喫できるようになのだろう、一部屋あたりの定員は多くない。最高四人まで入ることが出来るこの部屋はアリュブーの部屋から幾分かランクが落ちるもので。彼女が泊まる部屋は更に安らげて、しかも一人で楽しむ事ができるのだとは、ゼナストの証言だ。
これまでに何度も旅を共にした経験があり、ここへ泊まるのも初めてではないらしい。
ともあれ、入浴することに否はない。ずっと密室にいて疲れた体をさっぱりさせたくある。それに女学生たちまで一緒となれば、疲れもますます吹き飛ぶというもの。浴場での性交は規制されているが、全面的に混浴なのは文化から来ている。彼女達も躊躇いなく裸身をあらわにするだろう。
興奮したまま解消できず、高まりつづけるだろうことは想像に難くない。苦痛を伴いそうな事だが、後に待つだろう解放のカタルシスは今から魅力的だ。
ひょっとすると、自分達の待遇から延長して個別の浴場が宛がわれるかもしれない。事に及んでも問題ない浴場だ。流石にツェーベルやゼナストのいる所で出来る気はしないけれども、許されるのなら欲情でというのも悪くなさそうだと思えた。
所詮、優馬の妄想が生み出したものでしかないが、ありそうだと思わせる立場の後ろ盾は強い。それで元気は出ているのだから悪いことではないだろう。これも大温泉湖が持つ力の一端ではある。
「失礼します」
意気揚々と、ツェーベルが廊下に出るため手を伸ばそうとした瞬間。扉は向こうから開かれた。
アリュブーと、女学生たち。
面食らって二歩三歩と後退るツェーベルを単眼が追いかけ、すぐに全体を収める方角を向いた。
「皆、揃っていますね」
「へい、この通りでござるます、博士」
何用か、ゼナストは心得ているらしく鷹揚に頷いた。ツェーベルと優馬はそうではない。二人は要領をえず向き合うと、同時にアリュブーを見た。彼女に表情はない。
「私たちはこれからディガ・カンドラを訪ねます。優馬さんたちもご一緒してください」
そういえば、元はそれこそがアリュブー達の目的だった。なるほど、ゼナストが心得ているはずである。
得心はいったが、するとまた疑問に思うことが浮かんでくる。なぜ、それに自分たちが招かれるのだろう。プラハッタとの別れを、もっと気の利いたところでしてもらおうという配慮だろうか。
道中、ちょっとした話し相手になってくれたり、危機を救ってくれたりしたかけがえない仲間であり。優馬にとっては一線で踏みとどまらせてくれた恩人でもある。
どうせならこういう、宿の一室でなく、もっときちんとした場所でとは考えないでもなかったのだが。
「それは、なんで?」
「ディガ・カンドラの方から是非に、と。二百年前の名残に興味が有るのだそうです。優馬さんからしても、ディガ・カンドラと面識が出来るメリットがありますし。行っておいて損はないでしょう」
見せモノ扱いか?
反感が顔を上げた。竜という存在に憧れもあるとはいえ、がめついとか支配権とか、そういう話が出てきて少し心が尖っている部分もある。子供めいた反発心だとわかっていても、そうした扱いなのかと邪推してしまう部分もなくはない。
温泉を楽しもうという心が、無粋な要素を排除するため過敏になっていたのもあるだろう。穢された気分になったとも言える。
単に二百年前のことで関わりがあるだけかもしれないと考えなおして、優馬は小さな頷きを繰り返した。
やはり、プラハッタとは少し大仰なくらいの別れをしたい。そしてもう少し先では、ゼナストや、ツェーベルとも。
「なる、ほど……わかりました。いいですよ」
「ありがとうございます」
アリュブーが小さく頭を下げた。
「では、早速参りましょう。先方を待たせていますから」
温泉街中央に掛かる橋は、霊峰への道筋であると同時に金の境目だ。西に賓客、東に一般客。東西の違いは些細だが、景観や、かつて東のシラード山脈が国境であったことを所以としてあげられるだろう。霊峰は大温泉湖東寄りであることから湖の景観は開かれず、またいざという時には契約に基づいてライドームの盾ともなるため、金を持つものは比較的安全な西へ案内されるのだ。
ライドーム今上帝。通称『無敵帝』によって隣国がライドーム領となった今、後者は理由から失われて久しいものの。シラード山脈を貫く大路、オフアロトンネルを抜けてくる旅の人々にとっては利用しやすいということもあり、今なおこの形態をとどめたままとなっている。
この橋は、そういった意味で象徴的なものであろう。ディガ・カンドラが未だその物欲を衰えさせず。金持ち、それ以外、そして自分たちを区別しているという意味でも。
高温多湿の環境であるというのに、木造の橋は取り立てて朽ちている様子もなく。優馬は架けて間もないものだと思ったが、皆の話によってそれが誤解であると知った。山に近づくと足元から上る熱気は強くなり、かと思えばふとした瞬間に失せて涼んで、また熱気を浴びる歪な環境。であるにも関わらず、建材の木は若々しくてしなびたところはない。
いったい何がどうして。
それを小さく呟くと。
「こうしたところにお金をかけているのでしょう。これほどの距離。地続きでない以上必要な物とはいえ、架け直す手間を嫌ったのだと思いますけれど」
アリュブーは手すりを軽く撫でて言った。蒸気を浴び続けてなお、滑らかな感触。
「見えないところに描かれた整流式。どれほどのお金を掛けたのか……見当もつきませんね」
橋長およそ千メートル。長さこそイドラと同じだが、規模は比べるべくもない。全幅は二十メートル。水深はかなり浅く、平地でほんの少し窪地んだ部分に湯が溜まったと見える。もしかするとカルデラなのかもしれない。高さは湖底から測って平均四メートルといったところだろう。
水中に橋脚を打ち込むのには苦労するだろうし、熱湯を吹き出す湧出口には邪魔をされる。影響して水底の地面は強度に不安もある。なんだかんだで千メートルの橋をかける資材の調達に相当な資金を要するのは確実だ。整流式というのは優馬の知らない単語だったが、それについてはプラハッタが。
「アタシの箱にも描かれてるだろ? これだよ」
にわかに沈黙を破り語りだすと、布と木箱を結ぶように描かれている紋様こそがそれなのだと理解することができた。
「このままお別れの言葉まで黙ってようかと思ったけど。ま、いいさ。ちょっとそれも味気ないと思えたからね」
やがて一行は霊峰ディガ・カンドラへと辿り着き。岩でできた山肌を踏みしめた。話に聞くディガ・カンドラの威容は直立高三十メートル。全長はそれより更に長いというのだから、それを隠しきれる山は遠目よりもなお大きく。また複雑で多くの陰を孕んでいる。
骨の折れる登山になるだろう。しかし、今ここで汗を掻くことによって温泉はいっそう楽しくなるのではないだろうか。長く大きな運動ができなかった優馬の体は鈍り、ただでさえ運動量の多くなかった体は衰えている。どうあがいても苦しいが、そこへ勘を叩きこんで取り戻すのにも悪くないかもしれない。景色も退屈そうに思えたが、湖がそうであるように、山もひっそりと生物は存在していて。それぞれに似合った、魚と、草花。視界の端に時折入ってくる緑は、息上がる体を癒してくれた。
終わってみればいい運動だったと、優馬は心のそこから言うことができた。優馬からしてみると健全な運動は本当に久しぶりで、交合では吐き出し切れなかったものを発散できたらしく気分もいい。筋肉の隙間に詰まり、わだかまっていたものが抜け落ちた感触は精神をも健康にしてくれる。
「すっきりしているところ、悪いぜですけど」
立ち止まって伸びをする優馬を追い越して、ゼナストは振り返った。
「ディガ・カンドラはいるところもうちょっと上だござる。まあ、ここまで来れば一息ねだぜ」
七合目付近。遠景ではほんの少し出っ張った平地部分に小さな村がある。従業員たちが暮らす場所は湖岸の温泉街、東の東にあるのだが、ここはまた別の目的があって設立されている場所だ。
例えて言うなら、この村は控えの間。秘書室といっても適当だろう。ディガ・カンドラと面会する前に踏むべき段階であり、賓客を待たせる時にもてなすための土地でもある。そうした目的もあってか山の高いところであるにも関わらず、建物は軒並み豪奢で隙のない作りをしており。山がまるごと揺れたとしても、崩れることはあるまい。
さぞかし多くの空を飛べる人足が雇われたんだろうな。とは、ゼナストの言葉だ。
土地は決して広くないながら、その分だけ贅は詰め込まれており。如何程の貴人が訪ねてきても礼を失する事はないだろうと、優馬は桃源郷を見る心持ちで眺めた。温泉の中に聳えるなど、どう考えても火山であるというのすら忘れて疲れを溶かし。ゼナストについて歩いて行く。今は少し、待つ必要があるということだ。
いや、だった、というべきか。
「む、あれは……」
ゼナストが足を止めた。ツェーベルも後ろから駆け寄ってくる。
村の端、山の中央へ向かう坂から降りてくる一段があった。他に道がない以上ディガ・カンドラの居所に違いなく。そこから姿を現すからには客人であり、それすなわち只人でないことを示す。人数は決して多くないが、オーラというべきか。こちら風に言うなら自我が、離れていても影響を及ぼしてくるようだ。。
もはや見慣れた統一性のない集団も、着ているものが整えばまとまりあるように見え。特に囲まれて中央を歩くものは優馬の心にも印象深く判を押し、存在を刻み付ける。あれが客だろう。周りは付きのものか。見極めに自身を持ちきれぬ心ですら疑いはない。
緑色の肌に仁王像のごとく厳しい顔立ち。髪は剃っているのだろう、黒みがかった頭の丸みがそのまま見える。何かの毛皮でできたトーガに身を包んでいて他の特徴をうかがい知ることはできないが、優馬でも種族を定めることはたやすい。
「オーク……?」
そう、オークだ。日本のファンタジーだと豚をモチーフにされることも多い悪役の定番。だが彼にそうした要素は全くなく。緑色で、逞しい、外国のゲームで見かけられるようなオークがそこにある。
この付近に集落があるオークの長とかだろうか。
そう優馬が思いを巡らせた時。
「む、無敵帝、陛下……!」
ツェーベルの口から驚きとともに、驚きの事実が零れた。
無敵帝。温泉街から橋へ踏み出す時にツェーベルとゼナストから聞いた、ライドーム今上帝の通称。
あれが、無敵帝……!?
優馬の目が驚きに見開かれる。あれこそが自分の今いる土地、見知らぬ世界の大州デラストム最大国、ライドームの皇帝だというのか、と。
横合いから真っ直ぐに足を進め、無敵帝へと向かうアリュブーの姿が見えた。互いに高い身分にあるもの。出会ってしまったからには無視するわけにもいかないと見える。
「俺達も行こう」
ゼナストの呼び掛けにツェーベルは頷き、優馬も一瞬遅れて同意を示した。まだ飲み込み切れていないものの、ゼナストがそういうのなら従ったほうがいいだろう。こうした旅も何度かしているらしいから、判断は信用できる。
自分より遥かに身分が高い者を相手にするのは、優馬の人生において二度目の経験だ。一度目はアリュブー。つまりどちらもここ最近で立て続けに起こったこと。
その上今回は偶発的な接触であり、心構えは無く。見た目もアリュブーとは別の意味で恐ろしい。彼女は温和であったが彼もそうであるとは限らず、無敵帝という通称は殊更に想像をかきたてる。
正面に立ったアリュブーが声をかける。優馬の知らない言葉。近くでみるとよくわかる、無敵帝の鋭い目つきが、ほんの僅かに緩む。無敵帝もまた知らぬ言葉で返した。
まず、挨拶。それから世間話。見る限り二人のやり取りは親しげで、礼節の範囲内で砕けているように見えるから、会話の流れはおおよそそういうふうに流れて行くだろう。世間話は互いに高い身分であることから、近況報告から化けてなるものだ。
中身の見えない会話をそうして推測するのは他愛ないことだろう。しかし、やはり、わからないのは怖いことで、気を紛らわす意味もある。時折優馬を見てくる理由は察しがついても、せずにはいられない。さらにそこから掘り下げてきやしないかと。
少しして杞憂に終わり。無敵帝一行が村の建物へ姿を消すと、誰からともなくため息が漏れた。優馬は言うまでもなく緊張していたし、ツェーベルもだいぶ気を張っていたようである。女学生たちも同様だ。
アリュブーは淡々と告げる。
「どうやらこの付近へ軍を置き続けるための契約更改に訪れたようです。後ほど、私達も一緒に風呂に入ろうと仰っていました」
どよめきが起こった。
一国の元首が、こちらも極めて地位の高い者が主とはいえ、そうした誘いをかけてくるなど。予想の範疇に収めているものはいなかったようである。
無防備と取るか、自信の表れと取るか。『無敵帝』の名に誇張がないとするならば後者なのだろう。
この豪胆さには誰もが舌を巻いた。
「流石、無敵帝。実績、伊達じゃない」
ツェーベルが唸る。
「実績、って?」
優馬は気になって尋ねた。オークが皇帝に収まっていることは、頭が冷えてこちらの文化に当てはめると当然あり得ることと腑に落ちている。それでもそれなりに理由があるはずだし、名の由来もそこに有りそうだと思えたからだ。
「さっき言った、隣国、ライドームなったこと。隣国、ウムジマルド、無敵人形発掘した。まさに無敵、でも無敵帝、倒した。それで、無敵帝なった」
戦争があったのだろう。発掘した無敵人形を頼みに隣国が仕掛けた侵略戦争。しかしそれは倒されて、今の無敵帝が誕生した。
知ってみれば単純で、故にこそ劇的な出来事だと思える。無敵人形は無敵と呼ばれるだけの力を持っていたのだろうし、それを倒した者が祭り上げられるのも、考えられない話ではない。
ということは、ライドームは世襲ではないのか?
考えてみるのは楽しそうだったが、今は目先の用を済ませることにする。無敵帝達の用事が終わった以上、今度は優馬たちがディガ・カンドラと面会する番になったのだから。
ディガ・カンドラはまさに、竜らしい竜であった。
赤い鱗は硬く鋭く、今は四足で伏せた姿勢を取っていて体感しきれないが、直立した時を想像すると間違いなく三十メートルはありそうに見える。傍らには見目麗しい巨人女を侍らせて秘書とし、両者で山中の広間の半分を使っていた。
推測に推測を重ねてみるに、多分この広間もかつては洞穴だったのだろう。おおよそ山中であるとは思えぬような細工が施され、岩の床は平らに磨きぬかれ。天蓋とそこに開いた幾つかの窓は陽光を引き入れ煌めかせる。巨大な調度品はどれも輝き、それが飾られた壁も床と同じように滑らかで、外の世界と繋がりながらも確実に異なる世界を演出していた。
本人たちと、その財によって品よくまとめられた空間は、凡そ大きさによって小さき者たちを威圧する。ひいては、彼らの浮かべる微笑みが息を呑ませた。
理解は強制され。納得は押し付けられる。
アリュブーを除いては、誰もが皆緊張を隠せない。大きければ強い。単純かつ明確な摂理である。余裕を見せるアリュブーが共にいなければ、緊迫の度合いが増していただろう。彼女が見せる態度は、後ろにいる者たちへ安心感を与えてくれる。
プラハッタを用いてとは言え、『島』を容易く退けたことも優馬にとっては大きなポイントだった。さらに言えば中空に留め置き、離れてから落とすという芸当も力の程を示してくれて。あれほどの力を持つものが味方にいるという事実は、まず膝へ震えずにいる活力を注いでくれる。
「んー、ふふん。日本語のほうが、よろしいかね?」
ごく低い声が、巨大な口から流れ出た。流暢な日本語。不思議と違和感はない。この竜であれば、異なる言語を覚えるくらいは造作も無いことと、ごく自然に思えてしまう。
「……そうですね。皆、日本語は心得ています。ですが書面の上ではクストラ語であるようにとは、お忘れなく」
「くっかかっ。それはもちろん。彼女は優秀だ、任せておくがよかろうさ」
巨人女が一行へと微笑んだ。彼女を自分たちと同じように種族を当てはめていいのか優馬にはわからなかったものの、人間であると判じてもいいように思える。四人の女を知っても、知って日の浅いせいか、それとも優馬自身が強欲なのか。彼我の大きさはあまりに違うというのに、その美貌には思わずどきりとさせられた。
こちらの文化を考えると、一人の女を一人の男が独占し続けるというのは、あり得るのかもわからない。しかしディガ・カンドラが数多に大きな力を持っていることを考えると、その美貌は場数を踏んだ女ゆえの色香であり、老いた口ぶりで語るこの竜によってもたらされたものと、考えずにはいられなくなる。あちらでもあった当然のルール、自然界の掟たる弱肉強食。人間社会でも通用した金と力の大きさは、おおよそどんな文化でも普遍的なものだろう。
金のあるものにおもねること。考えやすいことだ。ディガ・カンドラと彼女の子供が登場したところで、驚く程のことではない。優馬は心に留めた。
「では日本語で話すとしようか。異界人に興味を持って呼んだのはこちらだが、それ以前に大事な話もあるから気になっていた。それではアリュブー博士。支払いの方は、すでに学団から済ませてもらっている」
「了解しました。では、こちらに」
言葉のやり取りもそこそこに。アリュブーが木箱を携えて進み出ると、ディガ・カンドラも手を伸ばしてそれを受け取った。秘書は介さない。ごくあっさりとした直接の引渡しである。
「うむ。久方ぶりだなプラハッタ。また少しの間世話しよう」
「ああ、久しぶりだ。んまあ精々、アリュブー達に不義理のないようお願いするよ。大声で叫んでやるからね。それでまあ、引っ込めるのはちょっと待っててくれないかい?」
「何かな?」
「優馬」
待っていたこととはいえ、これほどの力持つものが見ているという負担は大きく。一同が振り向きながら退き、道を作られては緊張もある。優馬はその道を辿り、力強くディガ・カンドラの前まで進み出た。別れの際という大きな出来事の前では、殺せない程ではなかった。
「ありがとう、プラハッタ」
先んじて、声をかける。木箱を摘むディガ・カンドラの手は顎下にまで引かれて遠い。自然と大声になった。
「私は私の、するべきことをしたまでだよ。でも嬉しいね。そういってもらえると……私も、積年の不甲斐なさが洗われるようだ」
優馬は、あえて尋ねるようなことはしなかった。彼女にもまつわるだろう様々のことを、聞くべき相手はすでに定まっている。なら、言い出さないのなら、待つのみだ。
「……優馬」
「うん」
「作形で、アンタはきっとまた、色んな辛いことを知るだろう。だけど、挫けないでおくれよ。いやあ、はははは。また、不甲斐ないね。栄治にまた丸投げなんて。でもあいつこそ、一番語る資格があると思う……それを聞いた時、私らの間はもっとずっと近くなるだろう。だから、また会う時を楽しみにしてるよ」
「……ああ」
小さな頷きに労いと感謝を詰めて、言葉短く優馬は同意と、別れの言葉を告げた。
木箱はディガ・カンドラの大きな翼の影に隠され、秘書はその有様を書き付ける。
ここに、アリュブーの旅は終わりを迎えたのだ。
「諸君、ご苦労だった。契約に基づいて、寝床は揺るぎなく踏みしめておこう。異界人君はまだほんの少し旅程を残しているようだが、今は湯に禊ぐと良い。積もる話は温泉でするようにしている。少なくとも留まる余裕のある者とはな」
言い終えて、ディガ・カンドラは体を起こした。『島』よりも遥かに小さいとはいえ、人に比べてあまりに巨大であるという点では変わらず。微かに地面が揺れる。
「寝床にプラハッタを置き次第、わしも追いかけよう。さ、温泉が待っているぞ」