第十話
談笑のテーブルをひっくりかえし、大穴塞ぐ修羅場の盾とす。ゼナストの腕力たるや凄まじく。優馬では骨が折れるだろうその仕事を、片腕だけで成し遂げてみせた。
突然の爆風は部屋を荒らして埃を浴びせ、調度やベッドは見る影もなく。
要人用脱出路は存在意義に反して危難の元となり、今は舞う埃ともども静かに佇むばかりとなっているが。ゼナストはもちろん。ツェーベルもプラハッタも、優馬も。油断なく盾向こうの空間に注意を払っていた。
「今のうち逃げる!」
盾の背後に陣取るゼナストは視線を逸らさぬまま、身振りもあわせてそれを示す。
死ぬかどうか、微妙な境界線に立つ威力。いかなる手段で引き起こした現象であるにせよ、対象の捕獲を目標としているならば絶妙なさじ加減。穴の向こうに想定される空間は狭隘と言えど、制圧した上での突撃を否定することは出来ない。食い止める壁が必要となる。
自分ならば、それが可能だ。ゼナストは不敵に笑った
二択。
許されているのは二択だ。
壁に開いた大穴と、正規の出入口。そして危険性が高い方は引き受けた。
ここはイドラの腹の中。それも、学団が指定したフロアである。余人の付け入る隙などあるはずはない。それこそ、こうして脱出路を遡るとかの手段をとらない限り。
そしてそれも、この通路を知っていることが前提になる。それを知りながら優位を捨てるのは考えづらいこと。つまり陽動の目は低く。護衛対象にそちらの道を選択させるのは当然。
の、はずだった。
「ぅおわっ!」
ごう、と。なまくらに空気を裂く音。それからツェーベルの叫びに耳を貫かれて、一瞬視線を滑らせる。
揺らめく炎の赤が扉向こうの廊下を染め上げ。燃える建材の木々が、緩やかに黒を帯びて煙をあげる。
まずい。
ゼナストも、目の一つを向けたツェーベルも。視線がかちあった時。互いに同じ事を思ったと悟り、各々の道へ目を凝らす。
変わらず、爆破されて開いた大穴は危険だ。しかし安全であったはずの道もすでに、安心して行くことは出来ない。この布陣は自分達を部屋に押し込め、逃げたとしても危険な道へと追い込むものと見える。単純ながら効果的だ。如何にしてこのフロアに入り込んだかは知れないが、炎がこちらの増援を容易くは寄せ付けないだろう。
この炎は油や火薬の匂いがしないことから、霊質干渉によって発生したものと推測される。それはいい。霊質干渉によって出来たにせよ、物質側の反応によって発生したにせよ、消すことは難しくない。
警戒すべきは閉鎖空間での酸素減少。そして、イドラの構造体に影響を与えたところで気にはしないという、攻撃側の意思が見えるということだ。
大陸東との通商要地。多くが木で出来たここに火を放つのは、目的はどうあれ国への攻撃とみなされる。
襲撃者がどこから来たのかを隠滅する準備は、とうに整っているのだろうが……肝がすわっているのか、隠滅し切るだけの自信があるのか。垣間見えたものは、どちらにしても恐ろしい。
「優馬。首飾り、あるな?」
火の勢いと揺らめきの向こうに注意をはらい、振り返ること無くツェーベルは尋ねた。八つある目の内、片面四つの一番後ろが視線を向ける。
「あ、ああ。ある」
広げた優馬の襟元に、飾り気ない細鎖と薄い金属の板はあった。鎖の輪は大きすぎて、三重にもなり首元にわだかまる。
『アストナの葉』号に乗り込んでいた時、まだ落ち着かなかった頃ゼナストから受け取ったものだ。一体どのようなものかわからない、あるいは、覚えていないが。身に付けるようにという言いつけは、その時から今日まで破ったことはない。ツェーベルは確認すると、小さく「よし」とつぶやいて。
「外すな。狙い、お前だろうから。大丈夫、思うが」
ゼナストへ向ける目をもう一つ増やし、返される頷きに外した。
「少し待て」
ツェーベルが母語で何事か叫ぶ。返事はない。
「……この辺、部屋、警護いるはず。どうした……?」
同室にツェーベルとゼナストがいるとはいえ、警備はそれだけで終わっていなかったはずだ。廊下の巡回もいるし、近くの部屋にはいざという時の人員が詰めている。それなのに、一つとして反応が無いのは如何なる事なのか?
燃え盛る炎に一歩、踏み出した時。八方に向けられていたツェーベルの目の一つがそれを捉えた。
廊下側、この部屋の扉の上。赤に染まる全身甲殻の長身が、真下を睨めつけ炎の揺らめきに煌めくのを。
「ぅっ!?」
押しこむように優馬ごと部屋の中へ後退れば紙一重。目を抉る軌道の鉤手が空を切り、間をおかずそれは降り立つと炎の揺らめきに紛れて消えた。
「虫人類……だな」
ほんの一瞬。それでも、ある程度の情報は収集できた。ツェーベルは整理する。
滑らかな甲殻の形から男。具体的に何人かは判断出来ないが、甲殻を持っているということこそ重要だ。
こちらの武器は鞄に入っている、そこそこの長さのナイフ。いかにも丈夫そうなあの甲殻を相手にしては弾かれ、上滑りし、然程の効果を持つようには思えない。
ゆらめきの中で身に着けていたのは、ごく短いズボンが一着だけ。一見して二眼二腕二足と、虫人類とする特徴の一つである六肢、あるいは八肢に届かず。隠すための緩い上着を身に着けて居ない。
炎を扱う作戦行動で、延焼の危険を避けたのが大きな理由だろう。服装からして徒手空拳。さもなければ、跳び回りながら霊質干渉をばら撒く戦法を取ってくるように思われる。本来の肢数を誤魔化しておくのは近接戦において大きな力を発揮するといえ、リスクを避けたのか。はたまた二本の腕自体に何か仕込まれているのか。霊質干渉に専念するということで機動力の確保を図ったのか。
少なくとも、廊下は奴が戦いやすいように整えたものと見て間違いはあるまい。思いついた三つとも、状況に対して有利になる要素を持っている。巡回や他の部屋に詰めている者達も、おそらくは奴に始末されたのだ。
「ツェーベル!」
すぐ側から、鋭い声が飛んだ。優馬だった。
「今のは?」
強く抱え込んだ木の箱が軋みを上げる。
蓋をされ、布を巻かれているものの紋様は無く。ただ、物理的に閉じていただけのそれは爆風からの転倒でずれ、僅かに中を覗かせていた。
ほの暗い闇の中、プラハッタがギョロリと刀身の目を動かして、状況の把握に務めているのが見える。言葉はない。優馬と目が合えば少しの間見つめ合ったが、幾ばくかのうちに視線を逸らした。力強い目だった。
「虫人類、だろう。何のか、分からない」
ツェーベルは軽く手をかざして、炎を改めて確かめた。間違いなく存在する。まやかしではない。焦げた匂いも確固たる存在がある。やはり酸素の減少は免れないだろう。
危険な兆候だ。
ゼナストの方は今のところ大人しい……いや。
ツェーベルが視線を向けた瞬間。二メートル半にもなる巨体が、大盾を置き去りに真横へと跳ねた。
「行け!」
急激に大気を押しのける動きがあり、圧縮された空気が伸びようとしながら優馬を打つ。全身を揺らし、内臓を震わせて、一瞬思考すらも吹き飛ばす。
爆発は小規模だが、壁を塞いでいた大盾を跳ねさせた末にテーブルへ戻し。そこからまた転がして、ついには粗大ごみへと貶めた。
溜まっていた古い空気の匂い。炎の香りは廊下から入るのみで、大穴は微かな酒の香りを漂わすばかりだ。
足音はなかった。
爆音に耳を打ち据えられたせいなのか、廊下が燃える音にかき消されたのか。三人の耳には届かない。
しかしそれがただ技量によるものであり。酒の香りが漂うのも、同一の原因からなることを。教わり飲み込んだばかりの知識から、優馬は思い知る。
低身長の筋肉ダルマ。髭は鳩尾まで垂れ下がり。厚く丈夫な革の鎧に、様々の武器が収まって。濃い酒の香を漂わす。顔は革兜に半ば隠れ。そして、四つの腕を持っていた。
「耳の丈夫な……っ! 息止めろ!」
ゼナストの叫びに、ツェーベルと優馬は即座に従うことが出来た。
何が起こったのか、優馬にはわからない。わかったのは、壁に大穴が空いた時と同じく、ツェーベルが自分を巻き込んで転がったことで。つまり、危険なことをされたということだけだ。
また、小さな爆音。
全身を打つようなものではない、ごくごく小さな、意識を叩くだけのもの。
銃声だ。
大穴の向こうに見える暗黒から不可測の礫が飛来し、ツェーベルの口元をかすめて木の壁の一部を砕く。
鱗は抉れて熱を持って、微かに赤い血がこぼれだしていた。
「ぐっ!?」
痛みに、飾らぬ声が呻きとなってツェーベルの口から漏れる。
「ツェーベル!?」
ハッと。ツェーベルの懐に収まったまま、優馬は肩越しに迫るものを見て息を呑んだ。先ほど炎の揺らめきに紛れた虫人類の拳が、弓矢のように大きく引き絞られている。
今の一瞬でツェーベルの背後に迫り、攻撃の体勢を整える素早さと技量。それがどれ程のものなのか、優馬では正確に推し量ることも出来ない。ひたすら、恐ろしいという思いが湧くばかりだ。
自分はどうすればいい。真っ先に浮かんでくるその思い。
『島』の時とは違う肉薄した危機にとって。成長したとはいえほんの僅かで、鍛えこんでも居ない付け焼刃の精神など、こうして容易く浮かばせることが出来る程度のものだ。
それでも、意地はある。
この迷いは、一瞬の遅れを生んだだろう。修羅場での一瞬は首にめり込む。素人の優馬に、それを省いて反射めいた行動を求めるのは酷だが、厳然たる事実だ。それでもすぐ答えを出し、行動に移したことが、次の遅れを消したのもまた事実である。
「後ろ!」
ツェーベルの一番後ろにある両眼が、迫る敵を捉えた。
すでに拳は解放の気配を宿し、鋭い軌道を幻視させて、後頭部への道筋を得ている。迷っている暇はない。片腕で優馬を抱えたまま、大穴側を正面と見るように、体を捻った裏拳が大気を裂いた。先の爆発のようななまくらではない、鋭利で研ぎ澄まされた二つの風切り音。拳と拳はぶつかり合って弾かれ、虫人類は一歩引き出入り口を塞いだ。
炎を背後に、虫人類の姿が顕になる。パッと見た印象ではやはり甲虫。ほっそりとした体つきは甲虫離れしているが、兜虫かそれに類するものだろうと、ツェーベルは結論した。
その上で構成は四肢。翼や羽の有無はまだ不明だが、鳥の足腰は持たず。鰓も鰭もない。なんらかの亜人類、獣人類とのハーフという見方も出来る。
ハーフは二つの種族の特徴が等しいほど大きく出て、一つに定められない時に用いられる呼称。多様性はないが、その二つが持つ利点と欠点に尖っていて侮れない。
「閉じ込められたな……」
油断なくドワーフと、甲虫人の両者を視界に入れて、ゼナストは呻いた。
方や拳銃その他の武器。方や優れた身体能力からなる高速の運動。役割の分担が整った理想的な布陣で、相手方はかかって来た。戦士団の一因として、教師の位をえたエリートとして、僅かな所作にも油断ならない相手であることを読み取ることが出来る。せめて、これ以上増援がないといいのだが。
「おう、ふむ」
ちらりと、甲虫人を一瞥し、それからゼナストも一瞥して、ドワーフが腕の一本で髭を扱く。
「流石に、守りあるぜな。良かったよ。馴化済み、残念無念。まあいい」
日本語力は、ツェーベルと同じ程度だろう。見た目のイメージ通り身長の割に声は低く、くぐもって些か聞き取りづらいが単語自体は言えている。発音はクストラ語の抑揚に引きづられていておかしくなっているが、注意深く耳を傾ければ聞き取ることは出来た。
「まあ、二人、生きてる。こっち本当、残念」
わざわざ日本語でモノを言ってきたということは、優馬に対して何事か話しかけるつもりがあるのだろうか。ツェーベルとゼナストは警戒を強める。ドワーフが出てきた以上、仕掛けてきたのは三組織のいずれかに間違いあるまい。こちらが敢えては話さずに居ることを予想して、揺さぶりをかけてくることが考えられる。
ゼナストにとってはチャンスだ。同時に、警戒すべきことだ。
話に夢中になってくれれば、こちらも隙を伺う暇ができる。ツェーベルはすでに上手い事立ち上がっているし、優馬も体勢を整えた。刺客それぞれに向かっていけば対処は難しくない。学徒で、商人としてあちこち巡っているというツェーベルならば任せるに値する。鉄道が敷かれているとはいえ、旅路は決して安泰なものではない。
だが話の内容によっては、優馬の行動にこそ意識を割かねばならなくなる。もし優馬がなにか行動を起こしたのなら、それこそが絶好のチャンスになるだろう。しかし心に傷を残すかもしれない。
スタンスはこれまで通りだ。いずれは全て知ってもらう。しかしそれは育まれ、心が力をつけるのとあわせてのこと。
決して、いきなり剣を持たせるようなことがあってはならない。
「俺等は一端に霊質干渉出来ないわけないね。口周り、まる分かった」
「……だよなあ」
ゼナストの顔をじっと見ると。ワンテンポ遅れて、全身を揺らしながらドワーフが笑う。
本音を言えば、危ないところだった。呼吸のリズムを読んでいたのだろう。的確なタイミングにゼナストの肝は冷えていた。
ドワーフが仕掛けてきたのは【酸素消失】攻撃。呼吸器周りの酸素を消失させることにより、無酸素大気を吸引させ即死に至らしめる恐るべき手法である。相手の自我へ干渉しないだけに、意思での抵抗は叶わず。近くにある大気の霊質を弄れば済む手軽さと必殺性は、霊質干渉における数少ない定形として戦いに携わる者へ理解を義務付ける。
究極的に言って、戦いはこの攻撃をいかに通すかどうかだと、囁くものも少なくはない。
優馬に渡した首飾りは、これに対する備えだ。あの首飾り【酸素消失】に反応し、【酸素を一定に保つ】干渉を行うようになっている。干渉が既に成されている場所へ干渉を重ねるのは難しいが、首飾りは自我の内側。無酸素大気が近づかないように処置をすれば良い
死体でもいいから持ち帰る方針で来るかもと、万が一のために準備したのだ。
「なら、死ぬまで」
腕の一本が革鎧に縛り付けた瓶の一つを抜き取り、ゴミでも捨てるようにゼナストへと放り投げた。
言葉で弄せず、攻撃を繰り出してくるのは想定内だ。ツェーベルにとっても、ゼナストにとっても。
銃での脅しは完全に相手の動きを抑えるものではない。
ゼナストとて大人しく当たるのを待つわけもなく、ごつごつした甲殻の体を横にして軌道を逃れ。向きを戻す勢いに乗って足を前に踏み出し、強く床を蹴る。
背後に瓶が割れる音を聞き、泡立ち焦がすような音を続けて捉えた。酸だ。拳銃ではゼナストの甲殻を貫けないと踏んで、そちらを選んだのだろう。拳銃は人類種の多くに対して有効な手段だが、人里離れた場所で遭遇するような生物には効果が薄い。そしてゼナストは、どちらかと言えば後者じみている。罅を入れることはできても、止めることはできまい。
それらを置き去りにして勢いの乗った高硬度の拳は、表面の凹凸で微細ながらも複雑な気流を生み出し。腕周辺にある大気へ干渉するのをほんの少し難しくした。【酸素消失】は大気への理解が幾らかあれば可能な芸当であり、出来るということは気流操作によって攻撃を回避することも不可能でないことを示す。ゼナストの拳はそれを邪魔するのによく出来たものといえよう。複雑で、重い。戦闘という瞬間のやり取りの中では、僅かの差が決め手になることも珍しくはないのだ。
ドワーフは回避を選んだ。狭所でも憂い少なく振るえる鈍器は、余程のものでなければ恐るるに足らない。そしてゼナストの拳は恐るるに足るものである。素早く体を動かす訓練はしていても得意ではないが、これを受け止めたり流したりする選択肢はなかった。
四本の腕を持ってしてもこの拳を受けることは叶わず、流そうにも甲殻の凹凸がおろし金のように傷つける。道具を用いたとしても、そのあと使い物になるかは怪しいし。どちらにしても体ごと持っていかれる可能性は高い。
腰を曲げ、膝を曲げ。体の丸さを生かして前方に転がり、ゼナストの前から遠ざかる。
呼吸を合わせて、甲虫人が動いた。ドワーフの転がる先にはツェーベルが居る。優馬を手にするチャンスというには、少し不安の残る保護者だ。声に対して素早く反応し、体重の乗った打ち下ろしの拳を払う腕力。身長に対して重いドワーフの体重も、長身の蜥蜴人には何するものか。
故に、この攻撃は囮だ。拳闘の構えを取ると同時、手首から肘までの腕から鎌が跳ね上がり、掌が受ける。見ようによっては腕が伸びたようにも見えようか。蟷螂の腕。鋸刃のように獰猛な刃は、鎌としてよりも鈎としての機能をこそ発揮する。室内ではあるが要人用の部屋ということもあって広さは十分。甲虫人の身長、およそ二メートル程度ならば何ら問題のない運用が見込めるだろう。
優れた瞬発力を生かして振るわれる鈎の一撃を、ツェーベルは見逃さなかった。彼の目は八つ。後方すら見通すことも不可能ではない視界を持ち、警戒すれば不覚を取るようなことはまずない。
だからこそ躊躇する。目が八つあっても構成は四肢であり、同時に寄り来るドワーフと甲虫人の両方を捌くのは難しい。霊質干渉も行使には集中を要する。どちらかは甘んじて受け無くては。
一瞬の時間が経過し。ツェーベルは転がり来るドワーフを蹴り飛ばした。蹴る準備もなっていない、足裏で突き飛ばすような無様な蹴りだ。それでも接近は止まる。坂道で力尽きた球のように、来た道を丸い体が戻っていった。
ツェーベルは笑おうとして、痛みに引き止められた。わかっていたことだ。肩からかかる痛み。こうしたことに駆り出されることもあって、流石に手馴れている。的確に鱗へ鈎は引っ掛かり、甲虫人によってその体が引き倒された。身の丈は同程度。互いの身体特徴を加味すればそちらも同程度だろうに、やはりそういった術は収めているらしい。
「っぐ、ほっ……!」
木の床へ体が打ち付けられる寸前、つるりとした甲殻の膝がツェーベルの脇腹に入った。引きこむ動きを取ると同時に、甲虫人は一歩前に踏み出していた。鱗や鍛えられた腹筋は堅くも、打撃がはらわたへと浸透する。幸いにして損傷はない。沈黙してしかるべき一撃ではあったが、意識をつないですらいる。咄嗟に腹へ力を込めたのが幸いした。
しかし、痛みは重い。ツェーベルはこの接近を生かして組み付きたかったが、体は重みを増して言うことを聞かずに居る。すっかり力は抜け、甲虫人へ縋るように膝をつく。
もう一撃。この体勢なら膝を入れることが出来る。そうすればツェーベルは昏倒し、甲虫人はドワーフの援護へ向かうなり、優馬を攫ってさっさと離れてしまうなりして、終わらせることが出来るだろう。
それはいけない。跳ね返るように転がり来るドワーフは危機だが、そちらは更に避けるべき事態だ。ゼナストもまた決断を迫られた。
ドワーフをこのまま圧殺することも出来るが、そうすれば圧倒的に手は遅くなる。優馬を攫った甲虫人においつくなど、自分には難しすぎる仕事だ。かといってこちらも放置する訳にはいかない。ツェーベルの危機を救う間に、体勢は建てなおされてしまう。なら、自分が取るべきは。
「ツェーベル! ちっ、こうだ!」
拳を振りぬいた格好から、大きく体を捻った。ゼナストには尾がある。石鎚のような尾だ。幸いにして拳を振るった際のひねりに乗り、勢いをつけるだけの距離はあって申し分ない。
逆の拳を連撃のように振りぬいて、渾身の力を総体に込めた。
一瞬、ドワーフの見開かれた目を見たような気がした。
「がっ!」
差し戻され、回転の衰えていたドワーフの体に、石鎚状になったゼナストの尾の先端が強かに食い込んだ。ゼナストが感じるのは、確かに捉えた手応えだけ。突起部に神経はなく、間接的な衝撃が尾の神経を叩いた。
十分な威力だ。ゼナストは確信する。
ドワーフの体は弾き飛ばされ、頑丈な木の壁にめり込み、燃え盛る廊下をもほんの僅かに覗かせていた。骨の折れた音なのが、木の砕けた音なのか。定かではないものの、身体機能に何らかの障害を与えただろうことは期待できる。腕が多ければ多いほど、一本一本は鍛えづらくなるものだ。
けれども、それでは駄目だ。狙いはほんの僅かにしか達成されていない。
甲虫人の近くへぶつけることによる脅し。怯めば、そこにチャンスが生まれる。今回の成果はそれに不十分だ。怯みこそすれ一瞬にとどまり、振り子のように体をゆり返しても間に合うかどうか。
こうなればあとは。
優馬を捉えたゼナストの瞳孔が、収縮する。
腕の行き先は他のだれでもない、自分自身であるべきことを理解したのだ。
布は、木箱は、床に落ちて。抜き身のプラハッタがいつの間にか優馬の手の中に収まり。瞳孔を、広げた。
ドワーフが転がってきた時、優馬は木箱の中へと手を差し込み。
プラハッタを抜き放った時、ツェーベルは倒れ、廊下との壁に穴が開いていた。
動きはのろくて鋭さもなく。剣の重さに負けて重心もおぼつかない。プラハッタは、断末魔剣ジンセイは、重い剣だった。これがあらゆる意味で人の重さなのだとしたら、あまりのブラックジョークだと優馬は笑うことも出来なかった。
優馬は笑う。
結局重みに勝てず、振るおうとした時は既に過ぎ。だがしかし、振るうと決めたことは間違いなく勝機をもたらしてくれる。
「プラハッタ、頼む」
あれを間近で聞いた時どうなってしまうのか。想像もつかなかった。けれど、今はそれが必要だ。想像もつかない事態に巻き込まれるのは自分だけではない。味方も、そして敵もなのだ。
戦況の把握はまるで出来ていなかったが、とにかく危機であるのは分かった。なら、躊躇いはない。
「あいー、よっ……!」
散大する瞳孔。開かれる口。一瞬の静寂。
プラハッタの叫びが可聴域を突破し、全員の総体が、イドラがすくむ。
声は遥かより飛来する如く訪れて、各々の頭を揺さぶり、悪戯に足をも震わせ。木材が戦慄いた。
耳を塞いでももう遅い。突き立つように入り込めば脳幹をつついて、ついには手をも震わせると、彼方へ飛び去っていく。
再びの静寂が訪れた。
「っ……っ!」
きつく食いしばった歯の隙間から、晒されていた耳の穴から。優馬は細く血を流す。耳栓をしている暇もないまま、断末魔剣の叫びを耳にした代償だ。
軽い、と言っていいだろう。触れてみれば、歯は砕けていない。プラハッタが加減してくれたに違いなかった。そもそも二人抑えることが出来ればよく、アリュブーたちへの警報として機能してくれればよかったものだ。多少抑えたところで、そのくらいは果たされよう。
ゼナストは上手くやり、絶叫より先に耳をふさいでいた。分厚い手は遮音性も高かったのか、しっかりと立っている。優位を確信するには十分なものだ。ツェーベルは気を失っているが、甲虫人ももろに聞いてしまったに違いない。足元はおぼつかず、壁に手をついて頭が揺れる。これもまた優位を示す。ドワーフは壁から落ち、真下に転がって動く様子もなく、変に曲がった腕の一本を晒して脱力している。これは、確信を抱かせるに足るものだ。
惨状は、自分たちの勝利を示す。数の勝利だ。お世辞にも総力で勝っていたとは言えず、敵方はこちらを挟んでいた。手数の多さと、必殺の武器。それなくしては逆の結果になっていたかもしれない。
「優馬」
ゼナストは確かにそう言ったが、優馬には聞こえていなかった。
「優馬」
プラハッタが続けて呼びかけた。微かに伝わる振動で、優馬は漸く話しかけられたことに気付いた。耳は働いていない。死んでは居ないが、役目を放っている。やけに静かだと思ったのは、物音を立てる者が居ないからではなかったらしい。
「あ……」
自分が何を言っているのかもよくわからなくて、言葉を紡ぐことは出来なかった。もごもごした感触は骨を通してなんとなく伝わっても、確証を持つには至らない。
ゼナストが横に首を振る。
「今はいい。とにかく、よくやった」
近づいてくる笑顔を見て、優馬も笑顔を浮かべる。
不安も何もない、呆然とした心の内に、染み入るような笑顔。人間の顔ばかり見ていた頭の中に、漸くそれがすとんと収まってくれたような気がして。
肩から力を抜く。
「まだだ! 起きてるよ!」
プラハッタ握る手が緩んだ時、微かに伝わってきた振動へ優馬は笑みを落とした。何と言っているか聞こえなかったから、祝福の言葉だと思ったのだ。
そうではない。
下を向いて見逃したゼナストの変化は劇的で。笑みから驚愕、驚愕から渋面。壁に手をついて優馬へ半ば覆いかぶさり、しっかりと床を踏みしめる。
今度は優馬にもわかった。空気の振動は大きくて、耳が眠っても肌が教えてくれる。
銃弾がゼナストの背中に放射状の罅を走らせ、部屋の中央へ転がされた爆弾は優馬の髪をめくり上げた。ドワーフの姿は壁際に無く、甲虫人の肩に腕を回して入り口にあり、得意げに耳へ指を突っ込むと。
「対策、ない、思ったか?」
耳栓を外し、また詰めてみせ、甲虫人共々炎のゆらめきに紛れていった。
見開いた目で、優馬はゼナストを見上げる。苦悶はない、悔恨がある。
「……っ! やけに耳丈夫だ思ったですぜ……怪我はない、だな」
見下ろすゼナストに頷いてみせると、優馬の手に力がこもる。まだプラハッタを手放す訳にはいかない。どうにか片手で支え、懐から出した栓を耳に詰めた。今は要らないほどだけれど、後で必要になるかもしれない。これで今度はリスク無く頼むことが出来る。振るえるかといえば、振るえそうでもある。間近で聞いた断末魔の叫びが、頭のどこかを弄ったのかもしれない。
視界の端でツェーベルが立ち上がるのを見た。動きはひどく緩慢で頼りないが生きてはいるし、動けないわけでもないようで安堵する。キョロキョロと辺りを見回しているのもなんとなく見当がついた。耳が聞こえないに違いない。少し申し訳ない気分になり、優馬は顔を伏せた。
「ひとまず、無事だぜね。だが……」
ゼナストがため息をつく。込められているのは二つの意味。
「ここから脱出しないとな」
要人用脱出路は侵入経路として使われた以上、待ち伏せは考慮すべきであり不適切であろう。性格上他の部屋に通じているようには思えないし、救援も期待はできない。
待ちぶせも得策ではない。炎も【酸素消失】で消すことは出来るが、自分たちの吸う酸素まで消耗する。かといって酸素を生成すれば二重の疲れがあり、再度の襲撃を行われれば今度こそ耐えられないだろう。脱出路から敵方の応援が来る可能性だってあるのだ。
故に廊下を行く。
燃え盛る炎に廊下表面は炭となり、埋め込まれた月光石は露出する。日の届かないイドラ深部における照明の一部だ。日を嫌う者でも障りない代物で、明かりの程度も柔らかく。炎の赤では霞んでしまう。
ともあれ故に、道がないではない。木と石でできたイドラでは、不燃材として挟まれた石が道の役割も果たす。脱出路の喪失には至らないのだ。
炎を【酸素消失】で消し、最低限の酸素を生成しつつ駆け抜ける。条件はあちらも同じ。炎の中では酸素が減少している分、【酸素消失】の手間は減り、生成は難しい。まして下手に生成すれば、火勢をにわかに強めるだろう。
それでも、アリュブー達に近いのはこちらだ。プラハッタの叫びが呼び寄せてもくれるはず。場所だってわかっている。敵方も必死になるだろうとはいえ、冷静さを欠いてくれるならありがたい。甲虫人はもうフラフラのはずだし、耳が聞こえるようになるまで時間はかかるだろう。手数は減ったも同然と言える。
諦めてくれるなら良いが、あの様子ではそうもいくまい。三組織では失敗にどう報いるのか。ゼナストは知らないが、きっとろくなものではないだろう。
此処から先は伸るか反るか。恐らくは全てを賭けた。
「博士に、合流だぜ」
デス・レースだ。