第一話
重いまぶたに、視界いっぱいの青。
やけに気だるい体に、風が運んでくる葉擦れの音と濃厚な緑の匂いが、耳と鼻に沁みてくらりと来るようだった。
園木 優馬(そのぎ ゆうま)の思考が動き出したのは、その二つを認識して少ししてからだ。
手に触れる痺れを伴った柔らかな草の感触。全身にかかる自身の重さから、彼に自身が仰向けに寝転がっていることを教えた。そのことがこの青は空で、視界の端に入ってきたのは雲だろうとも。次いで、その脳裏に疑問が浮かぶ。自分は今、一体何をしているのだろうか。思い出してみても最後の記憶と今はまるで繋がらない。ぶつ切りで唐突な変化だけが認識できて、間にあるだろう過程がすっかり欠落している。
確か自分は通学途中、慣れた道を歩いていた。いつも通りに家を出て、信号たちにも捕まらず、遅刻しようもない余裕の足取り。見慣れた景色を見慣れたなりに楽しんでいたはずである。間違ってもこんなスカッとする青ではなく、そういえば天気は少し崩れ加減で、何かが起こりそうな気配はあった。
どうも自分は今まで眠っていたのではないかと、まぶたに残る眠気から考えた。体の気だるさはそれにしても濃すぎるが、こんな朝だって無いわけではなかったし、可能性は十分ある。なんで眠っていたのだろう? そこを考えようとした所で、我に返った。これは寝ぼけた頭の益体無い想像でしか無い。いい加減周りを見ないと何が何だか。どうにも大儀なことではあったが、上体を起こしてみることにする。
「あ、っと、えー…………ああ」
絶景であった。
なだらかな斜面の中腹から見下ろす一面の緑の中、地平線まで走る一本の緩やかな茶色い曲線。視界に入る限り右から左まで途切れない、かすかな波形で触れ合った青と緑の二色。
生まれてこのかた見たことのない。彼の故郷であるところの日本に於いては、おおよそお目にかかれない平原の景色である。
彼の口から、具体的な言葉が出てくるはずもなかった。
もちろん、感動というのもある。テレビやインターネットでしか見たことのないような絶景。美しいと思うものを直に見れば、人は息を飲まずに居られない。
だがそれはほんの少しだけで、あとは全て『呆気に取られた』、ただそれだけだ。
いよいよもって記憶の繋がりはその間にあるだろう欠落部分が重要になりそうであり、思い出せたのは先程のどうも眠っていたらしいということだけ。気絶でもしたのだろうか? 眠気に押し負けて布団以外の場所で眠ってしまうのは、優馬にも経験がある。あの時の感覚に少し似ているかもしれない。
それにしたって、ちゃんと家にいる時のことだ。今ある最後の記憶は通学路を歩いている途中のこと。目覚めはいつもどおり良かったし、起き抜けの朝食は箸が進まなかったけれどもきちんと食べた。まして歩いている途中でなど……。
いや、まず考えるべきはそこではない。自身に言い聞かせる。ここは、どこだ? 下手に動きまわるべき状況ではないが、それは把握しなくてはならないことだ。だから少し、周りを見てまわろう。頭を振り、立ち上がる。また考えすぎていた。眠たい時なんかにこうなるよなと自嘲して、やはり自身は眠たいのかとも思う。
その時の事だった。背後、なだらかな斜面のさらに上の方から、複数の規則正しい音が聞こえてくる。足音だというのはなんとなくわかった。何者かがこちらへ近づいているが、人数まではわからない。自室にいても家の中の動きは気にするタイプとはいえ、そこまでわかるほど意識していたわけではなかった。
やがて足音は止まった。優馬からそれほど離れていない背後の、恐らくは斜面の頂。音は次第に大きくなってきていて、最後の一歩がとても鮮明に聞こえたことからそうあたりをつける。つまり、見下ろされている。あまり気分のいいことではなかったが、振り返るのも少し恐ろしくあった。
それでも優馬は振り返ることにする。振り返らないで居るのもまた恐ろしかっただけのことで、深い意味はない。状況を打破する何らかの要素も求めてはいたけれども、自身でも気づかない程度のものだ。
かくて、優馬は見た。恐れを知られないように精一杯の虚勢を張って滑らかに振り返り、そこに立つ三つの影を。
大きな単眼と曲がった角に複数の腕。
蜘蛛の体から生えた人体と鱗の肌。
向こう側を見通せる柔らかで透き通った肉体。
次に自身へと降りかかった衝撃が何であるかはすぐに分かった。恐れおののいて足を滑らせ、斜面を転げ落ちたのだ。
一番下で起き上がり、また見上げて息を呑む。異形の怪物。彼からしてみればそうとしかいいようがない。物語の登場人物としても中々お目にかかれないような、諸々が雑多に混じり合った者たち。心が思わず退き、体がそれに従ったとて、致し方の無いことである。未知であることは恐ろしいものだ。
対して三人、彼らは遠目に体の大きさや体格から見て、人間であるなら子供といっていいような大きさであるが、優馬を見下ろしながらも聞いたことのない言語で会話し、怖がっているようにも聞こえる。どれかの大きな声、おそらく蜘蛛の体を持った者の訳のわからない叫びが遠く広い平地にも響いてその様子を教えてくれた。震えたような調子。未知の生物が持つ特有の声色でないのなら、自身がそうであるように恐れからの声だろう。
今の内に遠ざかるべきだろうか? 脳裏をよぎったが、今自身の置かれている状況はまるで要領を得ない。ましてや場所など見たこともなく、経験の無い地形である以上、下手に動くのもよくないかと板挟みに足がすくむ。
子供たち三人も同じような状態に陥ったのだろうか、優馬を見下ろしこそすれ近づきも遠ざかりもしない。状況は膠着した。
だがそれは長く続くものではなかった。更にまた違う声が、そこに割り込んできたからである。
三人が振り返り、程無く現れた姿に、優馬はまた息を飲んだ。
見た目には、蜥蜴。人の形をした蜥蜴というのが、第一の印象だ。
長い尾に生えた鱗、人間にはない口の付き出した頭部の形状。
しかしその顔には夕焼けに似た八つの赤い目が耳と鼻先の間に並び、空に向かう猛々しい角が両側頭部から生えて、ノースリーブの衣服から顕になった両腕のあちこちから羽毛や植物の葉が顔を覗かせている。
そして大きい。背丈はゆうに二メートル前後あるだろう。
三人組は数も大きな恐れの要因となっていたけれども、これに対しては背丈や肩幅、体の大きさが恐れを抱かせる中心となっている。平均的な日本人高校生の優馬からは見上げる大きさなのだ。
子供に言われて優馬に気づいた蜥蜴も、明らかに驚きの表情を浮かべた。蜥蜴の表情などわかるはずもない優馬でさえ、わかるような表情の変化だった。
蜥蜴はゆっくりと踏み出して、斜面を降りてくる。優馬は後退る。
「待て、落ち着け」
優馬の足が止まった。もう驚きの連続に、体はこわばっていた。
「純血人間、か? ……日本語、わかるな?」
蜥蜴の顔に浮かんだ緊張感の中に、楽しげな笑みが混じる。口の端が持ち上がったそれは人間にも見られるもの。覗いた牙は鋭いが、白く綺麗だ。
「わ、わかる……!」
返事はひきつっていた。訳のわからない言葉を聞き続けていた優馬に日本語は癒しだったけれども、怖いものは怖い。搾り出すような声。
蜥蜴から楽しげな笑いが起こる。
「綺麗、日本語。それに、純血人間、見える。異界人だな」
手招き。
「来い。顔、訳わからん、風だ。案内する。色々教える。一人より、ずっと良い」
手を動かしながら今度は離れていく蜥蜴の背中。服越しでも体躯に似あって隆々と筋肉は浮き上がり、無性に頼もしい物に思えた。内心で湧き上がったそんな感想に従うべきか優馬は迷ったが、頼れるものは他にない。頭の中の冷静な部分が、ついていくべきだと訴えている。見も知らぬ相手、見も知らぬ土地。ならばどんな道を選ぼうが、等しく博打であるのだから。だったらせめて不毛そうな道よりも、なんらかの変化が有りそうな手を取るべきである。
あとは、恐れを超えるだけなのだ。短時間で大分弱った優馬の心には難しいことだが成し遂げなくてはならない事でもある。
行くべきか、行かざるべきか。
手を強く握りしめ、遠ざかる背中を追いかけるように一歩を踏み出した心境は、あきらめからの開き直りもあるだろう。しかし残りは間違いなく彼の勇気。
気だるい体で斜面を登っていく。頂の向こうに、集落が見えた。
「悪魔、ですって?」
山羊の目を持つ豊かな白毛の犬、いや、犬人の顔に渋面が浮かぶ。顔色の悪さはただの影だったが、毛皮の下はどうだろう。
衝撃、面倒、その他諸々の感情が入り混じった表情。思わず八つ目の蜥蜴人は笑った。この犬人とはそこそこの付き合いだが、こんな顔を見るのは久しぶりだったからだ。
「そうですよ村長。俺も実際に見るのは初めてですけどね、ありゃ……間違いないでしょう。純血の人間なんて、悪魔でもなけりゃあいるわけがない。さり気なく触れて、確かめましたしね。体が砂になったみたく痺れましたよ。寝転がっていたらしい草地も萎れて、いや、ありゃ重みで倒れただけかな」
蜥蜴人から促されて村長が視線を寄越した先には確かに、言うとおり純血の人間がいた。見たところ、純血の人間だ。横付きの丸い耳に丸い瞳、角も鱗もなければ目立つ毛は顔に集中している。人間の特徴だとされるものしか、彼の体には発現していない。ならばつまり、悪魔であると結論してもいいのだろう。身ぐるみを剥いでまで確認したわけではないけれども、日本語を特別流暢に操るという。村長に日本語の心得は無かったが、異界人、悪魔の一種が持つ特徴であるとは聞き知っていた。
「ツェーベルさん。どうして、連れてきたんです? 出立したんですから、そのまま連れていけばいいじゃないですか。置いてったっていい。いえ、村の周りに置いて行かれても困りますけど」
「村長、俺もそう思いましたよ。だけどそのとおり、悪魔を放置しておくわけには行きませんでしょ。この村には俺もお世話になってるし不義理はしたくない。だから連れていくことにしたんですが、悪魔を連れにするなら速いほうが何かと良い。貴方もそれはわかるでしょう? ですからね、車を出して欲しいんです。ええ、馬車で構いません」
「そりゃ、こんな田舎じゃ馬車くらいしかありませんからね……その馬車も大事なものなのですが」
「なぁになに、行きに乗せるだけです。少し馬車が痛むけれどせいぜい床板で、その上爆弾は遠ざかる、悪くない話のはずですぜ」
「むう……」
もう一押しといったところか。確信めいたものを抱いて、ツェーベルは内心、安堵の溜息を漏らす。良からぬ方向へ行かないかどうかを危惧していたのだ。見た瞬間に純血であることを推測して、触れた手に宿った気だるさから悪魔、異界人であることを確認した時。彼の腹は守りぬくことで決まっていた。
そう思ったと、明言した事柄も決して嘘でも建前でもない。しかしあれは自分の弱さであり、既に反省していることだ。彼に、優馬に出会ったのなら、彼を彼の地に送り届けることが自分の使命だと思っている。
なぜなら彼は、自身らの直接の根源たる星霊へ発展の誓いを立てる集団、星霊学団の敬虔な学徒だからである。
彼らにとり、異界人はこの世ならざる知識が詰まったもの。確保してしかるべきものだ。
「お願いします、村長。俺は星霊の学徒として、異界人を、純血の人間をそのままにはしておけません。あなたも学徒ならわかるでしょう。彼らの知識から得られることは多いのです。それに一個人として、困っている奴は見過ごせません」
敢えて緩めていた態度に一本芯を入れ、さらに村長へ迫った。人類というのは、案外こういう劇的な変化に押し切られてしまうものである。相手がそれを心得ていたとしても、それを用いるということに多かれ少なかれ本気であることを見出してくれるのも期待できた。
「……わかりました。出しましょう」
「ありがとうございます!」
待ち望んだ言葉。商談が成立した時そうするように、ツェーベルは村長の手を強く握りしめた。
異界人が持つ異界の知識を、世に埋もれさせるわけには行かないのだ。そして純血であること、異界人であることは、世に蔓延る多くの者の鼻をくすぐってやまないもの。彼らから守るために、安全な場所へと送り届ける必要がある。
彼の地、ジャパンへ。
ツェーベルに招かれた先で村が見えた時は安堵に力が抜けたものだったが、今の優馬はえも言われぬ緊張感と不快感、不安感に苛まれていた。
「……はぁ」
ため息を付き、精神の平衡を図る。体の中に溜まっていた様々が抜けるように思えて、ほんの少し楽になった。目覚めた時からの気だるさだけは、相変わらず回復する兆しは見せなかったが。
今、訪れた村は大変なことになっていた。優馬に村人たちの言葉はやはり分からなかったし、姿形も得体はしれなかったが、どうも村人たちは優馬の事を知らないではないようなのだ。一目見るや人々は釘付けとなって、動き出した人が家の中から別の人を呼び視線が増える。村長の家に入ってからも窓の外から遠目に何人かが眺めているとなれば、気分のいいはずもない。今のところわかっているのが、自分はどうやら異界人という立場で、八つ目の蜥蜴人がツェーベルという名前で商人らしいということだけなのも、焦燥感となってさらに混ざり合い、心身ともに落ち着かせないで居た。
と、そこで思い直した。他にもわかったことが幾つかある。
視線の先、今ツェーベルと村長と話している内容は、馬車を借りれないかどうかについてのはずだ。ツェーベルの名前と仕事を聞いた時、一緒に目的も教えてもらった
「ジャパン、ねえ……なんだそりゃ、だよ。ジャパンって」
優馬は愚痴が好きではない。自分が言うのも、聞くのもだ。
だけど今は愚痴を吐かずに居られなかった。
優馬にも、交わした言葉の端々や住む人々、突然の出来事から自分の身に降りかかったことは推測出来なかったわけではない。認めるのに、また別途勇気を振るわなくてはならなかっただけである。ここが自分の知る世界とは、全く別の世界、または天体である、と。様々な文化が発達し、娯楽に溢れた環境に浴する一般人の一部であった優馬が、その可能性に至るまでは早かったが。それでも流石に、現実の状況と認知するのは勝手が違う。
「いやまあ、薄々、そんなような気はしてたけどさ……」
その上でジャパンという単語はどうなのだ。
「ジャパン……」
英語で言うところの日本。短い間に優馬にとって異界の象徴となったツェーベルの口から出るのは違和感しか無い。
それは置いておいても気になる土地の名前だった。更に日本語まであるとなると、もう自分の暮らしていた国としか思えなくなる。国の名前が同じで、言葉も同じなんていうのが、別世界にも偶然あるなんていうのは現実的ではない。
手っ取り早く考えてしまえば、先駆者が成り立たせたものなのだろうが……その辺りはこれからツェーベルに聞く予定であった。なにせ、まだ優馬はその名前しか聞いていないのだから。
「待たせた」
交渉がうまく行ったのだろう、ツェーベルは笑っている。対して村長は腑に落ちない物を抱えた顔で、仕方ないという感じで手近なものに馬車の準備へと向かわせていた。今ので疲れてしまったらしい村長は、早々にその旨を告げて辞去し。優馬とツェーベルも村長の家を辞した。
「……ツェーベル、だっけ」
並び歩くツェーベルが顔を向け頷いた。
「ああ、そうだ。どうした?」
「早く行こう。視線、気分、良くない」
「わかった」
心持ち、馬車へ向かう足は早まる。優馬は更に早く、走るくらいを求めていたが、肉体的にはこれくらいが折り合いの付け所だ。求めた速さは焦る心の現れで、その通りにいけば殊更に焦っただろうし。無闇に走れば気だるい体にさらなる負担を掛けることが目に見えてもいたのだから。
「ツェーベル」
「なんだ?」
「ジャパン、何?」
さらに言えばこんな、ツェーベルと会話するために必要な処置も負担の一端となっていた。たとえある程度外国語に通じていたとしても、ネイティブの発音や言葉の速度についていけるわけではない。自然、自身もある程度片言で話さざるを得なくなる。今は母国語での会話も癒しの一つであるから、むしろ会話は積極的にするようにしていても、自由に使えないのは辛い。そしてこれらの困難を越えながら、決して顔を見ることはないでいた。八つ目の蜥蜴顔はおよそ、慣れることができないように思えたせいだ。
ツェーベルも心中では彼のそんな気遣いをありがたく感じていたが、言葉には出さなかった。出していたら優馬もいくらか気が楽になっただろうが、双方ともに突飛な相手で慎重になりすぎていたのだ。
知ることがなかった以上ひたすら前にと、はぐれないよう視界の端に蜥蜴姿をおさめて急ぐ。
少しでも心の負担を軽くすることも忘れない。気になることが減れば、その分楽になるはずだと。
「ああ。異界人、作った町。北の、異界人、自治区。大体、二百年前、召喚された。本当は、作形(さくなり)、言う」
「……作形っ!?」
ツェーベルの足が止まった。優馬の足が止まる。
振り向く八つ目の顔から、優馬は視線をそらすことができない。
作形。知った名前だった。
「優馬、知ってるのか?」
「知ってる! 俺、そこ居た。生まれて、育った!」
「本当か……!?」
「本当だ! 学校、行く途中。気づいたら、あそこ居た」
腹の奥から響くような唸りを上げて、蜥蜴の足がまた早足に歩き出す。連れて優馬も慌てて追いすがり、さらに急かした。馬車への道も、ツェーベルの返事も。
「麻井 栄治(あさい えいじ)」
「んなっ!?」
「言う、人……知ってるな」
それは友人の名。近いからと同じ理由で同じ高校を選ぶような、かけがえない幼馴染連中の一人。
同じ名前の町に、さらに同じ名前。なら話に出てきた町は、自身の住んでいたあの町なのか? いよいよもって優馬の混乱は一線を越えて、思考は支離滅裂の迷走をはじめるに至った。
なぜ、異世界でその名前を聞くのか。もし自身の育った町ならなぜ、自分の記憶では存在していた故郷が、自分より先にこちらへ来ているのか。
止まりかける足を何とか奮い立たせ、休息のために更に速く。速く、速く。
「俺、日本語、この通り。じっくり話す。馬車乗ろう」
いっぱいいっぱいの優馬に出来ることは、頷くことだけだった。