後編
―ただ、目に映るものをぼんやりと見ていた。表面上だけは笑って。最低でも、二人だけには気づかれないように。
意識と気力を“二人”に割いていた実里は、不意に近くに寄ってきた気配に視線も向けずに沈黙した。
無関心を貫く実里をどう思ったのか、“彼”は苦笑したらしい。気配だけでそれに気がついた実里は、けれど何の反応も返さなかった。
「“ごっこ”でも、形にはなってきた」
具体的で重要な言葉は何一つ表さず、けれど的確にそれを言葉にしてみせた男性に、実里は顔を動かさずに視線だけを向けた。
「いまさら? ……遅すぎるわ」
「確かにね」
笑い方が、微かに変わる。苦笑というよりは、困ったような表情で言葉を零した男性に、実里はようやく顔を向けた。
「何の用? 晃」
「打ち上げなのに、楽しそうじゃないから。なんとなく、かな?」
「なんとなく、ね」
誤魔化すように肩を上げる。意味深な発言で心に入り、肝心な言葉は曖昧にして濁らせる晃(ひかる)の手口に、実里は呆れたような息を吐いた。
××××
「……お互いに理由が必要で、踏み込まれたくないって判断か。相変わらず抜け目がないというか」
「誉め言葉だね」
意識をせずに零れた実里の言葉に、晃は躊躇うこともなくさらりと返す。陽では絶対に望めない態度に、実里は再び息を吐いた。
視線を晃から外して、晃が来るまで見ていた方へ戻す。とろけそうな位、幸せそうに微笑む希を、実里は表情を変えることなく見つめていた。見つめていたというよりは、見据えていたというほうが近い。
それこそ、親しくない人間が見れば、幸せな希を実里が妬んでいるかのように見える程度に。
「で?」
視線と意識を全て希とその横から片時も離れずにいた陽に向けながら、実里は未だに近くに立ったままの晃に問い掛けた。
晃の視線も実里にはない。けれどあからさまに存在する晃に、実里は鬱陶しさを感じると同時に、焦れていた。
「唐突だね」
「駆け引きは嫌いなの。晃が相手だと余計に……手の中で踊らされてる気がするから」
近くにいながら全く意識していないように装っていた晃は、焦れた実里の言葉に楽しげに笑った。
「それは光栄」
「本当に何?」
それ以上からかうと返答が貰えなくなることを危惧したのか、晃は笑ったままの表情を崩さないまま、真剣な声音を実里に向けた。
「いつまでそうしているつもりだ?」
「……誤魔化すのは簡単だけど、面倒だものね。でもその答えは晃に話さなくてはならないこと?」
「……いや」
視線を希たちに向けながら、微笑を浮かべながらも実里は凍えるような冷たい声で晃の疑問に答えた。それは晃が望んだ答えとは違うと二人とも理解してはいたが、晃はその言葉でそれ以上実里に踏み込むことを断念した。
「理解しているならいい。気づかないままだったら、哀れだと思っただけだ……誰にとっても」
「……晃も大概意地悪よね」
それでも最後に突きつけられたその“現実”に、実里は表情一つ変えないままでありながらも呟いた。実里の抵抗にもならないその言葉に、晃はやはり苦笑しただけだった。
表情を変えなくても実里の不機嫌さを感じていた晃は、打ち上げが終わるまでただ実里の傍いた。
そのことを不信に思いながらも、それ以上心をかき乱されなかった実里はそれを許容した。
××××
実里がそれを知ったのは、なんとなく付けていた夕方のテレビ、その芸能ニュースが一番最初だった。
『ノゾミさんが妊娠しているというのは本当ですか?』
想像もしていなかった言葉に、実里は持っていたマグカップをそのまま床に落とした。高さはあったがカップの底から落ちたことが幸いしたのか、カップは割れずに大きな音を立てながら中身だけを撒き散らせていた。
マグカップに視線も向けず、温度も感じていないのか、淹れたてのコーヒーを踏みつけながら実里の視線はテレビに固定されていた。
『はい。でもだから入籍した、というわけではありません』
『少し前から婚約はしていたんです』
無垢を象徴する真っ白なドレスをまとった希と、実里には見慣れないスーツを着込んだ陽が笑いながら告げる言葉に、実里はただ衝撃を受けていた。
『デルタの活動はどうなりますか?』
『私は、お休みをいただくことになります』
『実里さんやHeilのメンバーからは何か言われましたか? お祝いの言葉などは?』
『実は晃……リーダー以外には秘密にしていたんです』
そこまで聞いて、実里は無造作にテレビの電源を落とした。
落としたマグカップを拾って、雑巾でコーヒーを拭う。機械的に黙々と床を吹きながら、実里は自嘲にも似た笑みを浮かべた。
「そういう事……」
口にするつもりの無かった言葉が、自然と零れ落ちていた。
『理解しているならいい。気づかないままだったら、哀れだと思っただけだ……誰にとっても』
晃の意味深な言葉と態度。あの時に全てを理解していたわけではないその言葉の意味を、実里はようやく実感できた気がした。
「……だから嫌いなのよ……晃なんて……」
誰に告げるわけでもないその言葉は、そのまま部屋に消えていった。水道の蛇口を無造作にひねり、勢いよく出た水でマグカップを洗う。
床を拭った雑巾はそのままごみ箱に捨てて、冷蔵庫からペットボトルを取り出し、洗面所で大き目のバスタオルと剃刀を手にした実里は、そのまま自室へと戻った。
無機質な家具が置かれている。鉄枠の本棚とその前に無造作に平積みされている本だけが、寒々としたその部屋に彩りを与えるのと同時に明らかに浮いていた。
漆黒が包み込んでいる部屋の中で、携帯電話のディスプレイが煌々と辺りを明るく照らしていた。
「のんは、幸せなのでしょう?」
それは答えの返ってはこない。けれど実里には想像のつくブラウン管の向こう側で微笑む少女への質問だった。
「バイバイ、のん」
その言葉を最後に、実里は自分の首筋に当てていた剃刀を思いっきり引いた。動脈に沿って縦に引いたその線は、禍々しいほどの紅い飛沫を上げた。