前編
無機質とも思えるほど寒々とした家具が置かれている部屋の中を照らし出すのは、月と星の輝きだった。
コンクリートの壁と床。リビングから扉を開けた所にある唯一の部屋には、鉄パイプのベッドが置かれていた。
ベッドの上部―枕元とでもいえばいいのだろうか―には平べったい鉄枠の本棚と、本棚に入りきらなかったのだろう、その前に平積みされている本だけが、その部屋からは浮いていた。
ベッドの鉄枠に背中を預けながら、少女が一人、月に照らされた部屋の中で携帯電話のディスプレイを眺めながら、酷薄に嘲笑(わら)った。
「……“のん”は、幸せ?」
問いかけは、画面の向こう側の少女に向けられていた。華やかなブラウン管の向こう側の世界で無垢を象徴する白のドレスをまとった少女は、頬を染めて微笑んでいた。
少女の笑顔に釣られたかのように、こちら側の少女も微笑んだ。その瞬間、赤の他人のはずの二人の少女は双子と見間違うほどに似通った。
「大好きだったはずなのに、な……」
物が置かれているはずなのに、少女の口から零れた言葉は部屋中に反響して少女の元に戻った。それに苦笑した少女は、五百ミリリットルのペットボトルに残っていた液体を飲み干し、空になったペットボトルを力いっぱい壁に向かって投げつけた。
乾いた音が、部屋いっぱいに響いた。その音に、衝撃に、少女は可笑しくもないのに乾いた笑いを唇から零した。
「もう良い。イラナイ……のんに、全部あげる」
幸せそうに微笑む二人を写していたニュースを携帯の電源ごと、少女は自分の目の前から消し去った。漆黒のディスプレイに一つ口付けを落とした少女は、そのまま携帯を手の届かない場所へと放り投げ、剃刀を手に取った。
「バイバイ、のん」
その言葉を最後に、少女の意識は闇に落ちた。
無造作に切り裂かれていたのは、闇に映える少女の白い首筋だった。少女の体はずるずると力を失い、冷たいコンクリートに触れた。
月に照らされた少女の表情(かお)は、安らかだった。首筋からは血が、伝って零れ落ちた。
××××
『delta 様』
白い扉に貼り付けられている紙を視界に入れた少女は、ドアノブを見て思案すると音を立てないように扉を開いた。
扉に背を向けている少女―相方の姿を確認した少女は、何かを見つめて悩んでいる少女の背中に回ると、抱きしめた。
「何しているの?」
「実里!」
するりと細い腕を回して抱きしめた“侵入者”に少女は過剰なほど驚き、それをやってのけた実里(みのり)に非難の声を上げた。
「もう。どうして音を立てないで入ってくるの? びっくりした!」
「だって、のんにしては珍しく考え込んでいるみたいだったし」
のん―希(のぞみ)に回していた腕を放し、笑いながら希から離れた実里に、希はどこか困ったように笑った。
「ん……ちょっと、ね……」
言葉と同時に携帯電話を閉じた希にかなりの不自然さを感じた実里は、軽く首を傾げた後に頷いた。
「ホソカワくんだっけ? 連絡、来ないの?」
ごそごそと自分の鞄の中から財布を取り出した実里は、希には視線も向けずに聞いた。だが、実里の口から出てきた名前に反応して、希は頬を染めながらも、脱力したかのように頭をたれた。
「相変わらず耳が早いね、実里は……まだ実里には言ってなかったと思ったけど」
「そうだね。のんからは聞いてない……何か飲む?」
「ありがとう。でも、今はいらない」
どこか困ったような笑顔で告げた希を見ながら、実里は軽く頷きながら楽屋のドアノブに手を触れて、すぐに手を離した。
それと同時に一歩引き、扉から離れたところで扉が開かれた。
「よっ」
軽い挨拶とともに現れた青年を目にした実里は、軽く眉を寄せて青年をねめつけながら楽屋に向かいいれ、あからさまにため息を吐いた。
「何の用? アキ」
「陣中見舞。それにしても相変わらず冷たいな、姫」
「何が“姫”よ。優しく歓迎したって不気味がる癖に」
ポンポンと弾むように言い合いながら、実里はアキから“陣中見舞い”の缶を二本受け取り、目を丸くしている希に向き直った。
「のん、うるさくてごめんね。……“Heil(ハイル)”は知ってる、よね?」
アキから渡された缶の一本を希に渡し、プルトップを空けながら実里は首をかしげた。
「Heil、の……陽? みのり、仲良かったの?」
「コレとは従姉弟なの。芸能界に入る前からの腐れ縁」
缶を手渡されたまま驚いて目を瞠らせている希の様子に、実里はアキ―陽(アキラ)を睨みつけながら息を吐いた。
「コレって言い方は無いだろ、ノリ」
「アキだって、メンバーに紹介する時はコレって言ったじゃない。……それより、良いの?」
「あ、そうだな」
言い争いというにはオーバーだが、再び希を置いてテンポ良く会話を始めた自己嫌悪と陽の態度に軽くため息を吐いた実里は、脱線した話の修正を促した。
「はじめまして、Heilの陽です。いつもノリ―実里が迷惑かけていると思うけど……見捨てないでやってくれると……」
「あ、deltaの希です。こちらこそいつも実里にはお世話になって……」
硬くなりながら頭を下げあう二人に再びため息を吐き、陽の言葉に眉を寄せた実里は、陽を軽く小突いてから希に向き直った。
「のん、アキはデビュー時からのんのファンなの。陣中見舞いや私はこじ付けで、のんに会いに来ただけだから……放っておいていいよ」
「ノリ……」
疲れたとはまた違うが肩を落として名前を呼んだ陽に、実里はツンと顔を背けて口を開いた。
「事実でしょ? それにHeilのメンバーに挨拶に行った時、似たようなことを言ったのは誰だったでしょうね?」
「まだあの時のことを根に持ってるのか?」
「さぁね。私は誰とは限定していないわよ? “根に持っている”っていうのはアキの主観でしょう」
「Heilの時のことを持ち出した時点で、根に持っていることは明白じゃないか。第一……」
くすくす
段々ヒートアップしていた二人の言い争いを止めたのは、二人の声に比べれば微かと言ってもいい、希の零した笑い声だった。
「ごめんなさい……二人とも、本当に仲が良いのね」
希の言葉に毒気を抜かれたのか、実里と陽は顔を見合わせて息を吐いた。実里はそのまま陽に椅子を勧めると、持ちっぱなしだった財布を鞄の中に片付けた。
「だからアキとは腐れ縁なだけだって」
ポツリ、とつぶやいた負け惜しみにも似た言葉は、希の笑いを誘っただけだった。