愛人ではなく、浮気した夫を罰することにしました ――結婚の女神ヘーラー、三千年目の方針転換
愛人ではなく、浮気した夫を罰することにしました
――結婚の女神ヘーラー、三千年目の方針転換
オリュンポスの朝、ヘーラーの神殿へ一頭の白い雌牛が連れてこられた。角には春の花が結ばれ、背には金粉が振りかけられている。婚姻を控えた娘の父親が、よい結婚を願って奉納したものだった。
祭壇では麦を焼いた平たいパンから湯気が立ち、葡萄酒へ沈めた月桂樹が甘い香りを放っていた。ヘーラーは供物の帳面を閉じ、神官へ雌牛を牧草地へ戻すよう命じた。生き物を殺さずとも、誓いを守る者の言葉は神々へ届く。
「ゼウス様が、また人間の娘をお連れになりました」
虹の女神イリスは、青い衣の裾を両手で握っていた。知らせを受けた神官たちは祭壇から目を逸らし、侍女は葡萄酒の杯を下げようとして取り落とした。大理石の床へ赤い雫が飛び、白い柱の根元まで細く流れていく。
「今度の娘は、何に変えられたのです」
「何にも。まだ、人の姿のままです」
「そう」
ヘーラーは立ち上がり、孔雀の羽根を織り込んだ外套を肩へ掛けた。これまでゼウスに愛された女たちは、牛になり、熊になり、島から島へ逃げた。子どもを身ごもれば、母子ともにヘーラーの目を避けて地の果てまで隠れた。
天上の回廊へ出ると、雷雨の前の匂いがした。ゼウスが機嫌を損ねたとき、空気には焼けた鉄のような臭気が混じる。ヘーラーは何千年もその匂いを嗅ぎ、夫の隣へ座り続けてきた。
広間では、ゼウスが黄金の寝台へ腰掛けていた。その足元に、薄い麻の服を着た人間の娘が座らされている。娘の裸足には乾いた泥がこびりつき、片方の踵から血が滲んでいた。
「ヘーラー、ちょうどよいところへ来た」
ゼウスは蜂蜜酒の杯を掲げた。
「この娘はカリスタという。山麓の村で出会ったのだ。しばらくオリュンポスへ置くことにした」
カリスタは床へ額をつけた。肩が上下するたび、切れた髪が頬へ張りつく。神の寵愛を受けた女の姿には見えなかった。
「顔を上げなさい」
ヘーラーが言うと、娘はさらに身を縮めた。
「お、お許しください、王妃様。私は断りました。父と弟が雷に打たれると言われて、それで……」
「余計なことを言うな」
ゼウスの指先に青白い火花が走った。柱の外で雷鳴が轟き、カリスタは両腕で頭を覆った。ヘーラーは娘とゼウスの間へ入り、火花の散る手首をつかんだ。
「この娘を愛しているのですか」
「もちろんだ。だから天上へ迎えた」
「では、なぜ怯えているのでしょう」
「人間は神々を恐れるものだ」
「いいえ。踏みつけられた者が、踏んだ者を恐れているのです」
広間が静まり返った。酒を酌んでいた美の女神も、竪琴を鳴らしていた芸術の神も手を止める。炉の前ではヘスティアが、焼きかけのパンを鉄板から外していた。
ゼウスは杯を肘掛けへ置き、眉を寄せた。
「また嫉妬か。好きに罰すればよい。牛にでも鳥にでも変え、地上へ追い返せば気が済むのだろう」
カリスタの喉から小さな音が漏れた。ヘーラーの名を聞けば、人間の女たちはゼウスより先に彼女を恐れる。夫の誓いを信じるたび、その怒りを弱い者へ向けてきた結果だった。
ヘーラーはカリスタの前へしゃがみ、泥で汚れた足へ自分の外套を掛けた。孔雀の羽根が、傷ついた踵を覆う。娘は顔を上げ、何度も瞬きをした。
「あなたを罰しません」
「ですが、私は王妃様の夫と……」
「婚姻を誓ったのは、あなたではありません」
ヘーラーは立ち上がり、黄金の王座に座る夫を見た。
「誓ったのは、あなたです。ゼウス」
「余を裁くつもりか」
「私は婚姻を司る女神です。誓約を破った者を裁かず、巻き込まれた女だけを罰してきたことの方が、間違っていました」
ゼウスが立ち上がると、宮殿全体が揺れた。天井の雲が渦を巻き、供物台の果実が床へ転がる。林檎が一つ、ヘーラーの足元へぶつかって止まった。
「オリュンポスの王に命令できる者などいない!」
「では、王妃として管理しているものをお返しします」
ヘーラーは腰から三本の鍵を外し、卓上へ置いた。一本目は、神殿へ集まる供物庫の鍵。二本目は、天馬をつなぐ厩舎の鍵。そして三本目は、雷霆を封じる青銅櫃の鍵だった。
「本日より、私の神殿へ納められた供物は、あなたの宴会へ回しません。人間の娘をさらうための天馬もお貸ししません。雷霆は、村人を脅す目的では持ち出せないよう封じました」
「誰の許しを得た!」
「私が管理を任されているものです。ご自分でできるとおっしゃるなら、麦の収穫量を数え、葡萄酒の壺を洗い、天馬の糞を片づけたうえで、使用申請をお出しください」
炉のそばで、ヘスティアが吹き出した。アレスは咳払いで笑いを隠し、アテナは蝋板へ何かを書き始めた。ゼウスの頬が、雷雲より濃い色へ変わっていく。
「こんな人間の女のために、夫を辱めるのか」
「いいえ。私自身のためです」
ヘーラーは床の林檎を拾い、袖で埃を拭った。赤い皮には小さな傷があったが、割れてはいない。彼女はそれをカリスタへ渡した。
「私はもう、あなたの不実の後始末を、女たちへの罰という形で引き受けません」
ゼウスは雷霆を呼ぼうと右手を上げた。しかし空は一度低く唸っただけで、稲妻は落ちなかった。青銅櫃の鍵穴には、婚姻の女神だけが解ける白い糸が幾重にも巻かれていた。
「ヘーラー!」
「大声を出しても、申請書は不要になりません」
広間の柱の陰から、笑いをこらえる声がいくつも聞こえた。ゼウスは倒れた杯を蹴り、奥の間へ去っていく。扉が閉まると、雲の切れ間から朝の光が差し込み、濡れた床を細長く照らした。
ヘーラーはイリスに、カリスタの家族が無事か確かめるよう命じた。アテナにはゼウスが人間の村へ下りる際の規則を作らせ、ヘルメスには過去に置き去りにされた母子の居場所を調べさせた。神々は互いの顔を見たが、誰も異議を唱えなかった。
「王妃様、私はどこへ行けばよいのでしょう」
カリスタは、まだ林檎を両手で抱えていた。ヘーラーは娘を炉のそばへ連れていき、椅子へ座らせた。ヘスティアが焼きたてのパンを割り、山羊乳のチーズと一緒に木皿へ載せる。
「足の傷が治るまでは、私の神殿にいなさい。その後は、自分で帰る場所を選べばよいでしょう」
「私が選んでもよいのですか」
「ええ。選べないものを、愛とは呼びません」
ヘスティアは蜂蜜を垂らした温かい乳を三つの杯へ注いだ。ヘーラーも王座へ戻らず、炉の前の小さな椅子へ腰を下ろす。焼きたてのパンは表面が固く、割ると中から麦の香りを含んだ湯気が上がった。
「ずいぶん遅い方針転換だったわね」
ヘスティアが言った。
「ええ。三千年ほどかかりました」
「神々にしては早い方よ」
カリスタが小さく息を漏らした。それが笑い声だと分かるまで、少し時間がかかった。ヘーラーはパンへ蜂蜜を塗り、今度は誰の杯にも毒が入っていないことを確かめずに口へ運んだ。
その日から、ヘーラーの神殿には新しい言葉が掲げられた。
婚姻を破った責任は、誓いを破った者が負う。
愛された女でも、生まれてきた子でもない。
最初にその言葉を読んだゼウスは石板を雷で砕こうとしたが、申請書の提出を忘れていたため、雷霆は青銅櫃の中で静かなままだった。




