第二章 古の恨み
土が、口の中にあった。
鉄の味がする。
セイリョウは肘で地を押した。肩が痛む。長剣は、まだ右の手にあった。
口の土を吐き、顔を上げた。
馬の脚はとまったまま、体は痙攣し、鮮血が止まっていない。
賊が、こちらへ近づいてくる。最初に肩を浅く突いた男だ。両手で剣を握り、その剣先は、まっすぐにセイリョウを向いている。
少し離れて、もう一人。鎌を持った若い男が、別の賊と相対していた。肩で息をしている。鎌の柄を握る指の節が、白く浮いていた。
セイリョウは膝を立てた。土を払う間も惜しみ、立ち上がった。
肩から、鈍い痛みが走る。剣を、握り直した。柄の革に、汗が滲んでいた。
賊が、走り始めた。
セイリョウは長剣を構え、腰を落とす。
賊の目が、狂気を一層増し、剣が、振り下ろされた。
弾く。鋼の打ち合う、鈍い音。腕の付け根まで、痺れが走る。
セイリョウは痛みをこらえ、素早く、長剣を右から薙いだ。
賊の体が、よろめく。
その瞬間、セイリョウは、後ろに引いた。
左の手を、腰鞄に走らせる。
球状の何かを拳に握り、その先に出た線を擦った。
火花が散る。鼻の奥を刺す、鋭い匂い。
セイリョウは、それを賊へ向かって抛る。
そして目を閉じた。
炸裂音とともに、閃光が、あたりを一瞬にして包む。
賊が、うめき、剣を取り落とす。目を覆う。
セイリョウは身をひるがえし、鎌を持った若い男に加勢した。
それに相対していた賊と、後ろのもう一人は、不利を悟ると、目を覆っている男に掛け声を投げ、背後の森へ逃げ去った。
目を覆っていた賊はよろめきながら、剣を一本、地面に残したまま、セイリョウたちから距離を取る。
そして去った。
「追うか?」
セイリョウは、傍らの若い男に声をかける。
「いや、親父の手当てを先に……あ、あの、助かりました」
若い男が、鎌を下ろして答えた。
賊の足音が、遠のいていく。山の上のほうへ、消えた。
「あなたの、馬が……」
若い男が黒角馬を見た。
動脈を傷つけられてしまったのだろう。鮮血は土に染み込み、もはや体は動かない。
セイリョウは、馬から落ちた時に痛めた肩をさすりながら、馬の目を見た。生気が、失われていた。
「残念だが、死なせてしまった」
セイリョウはうつむき、わずかに首を振って、嘆息した。
血と、火薬の匂いがあたりに漂っている。
「お怪我は!」
子どもにアサナと呼ばれていた若い女が、走り寄ってきた。
息が、上がっている。前髪が、頬に落ちた。
セイリョウは、顔を上げ、首をもう一度横に振った。
「私は、大丈夫だ」
アサナは頷いた。視線が、伏した男のほうへ向く。
「兄さん」
短い呼び声だった。鎌を持った若い男が頷き返した。
兄妹は、伏した男に駆け寄る。
セイリョウも、続いた。
伏した男の傍に、女がまだ膝をついていた。掌で、男の肩口を押さえている。指の間から、赤いものが滲んでいた。掌の側面まで、血の筋が伝っている。
セイリョウは膝をついた。膝頭に、湿った土の冷えが、染みた。
「動けるか」
男が、目を開けた。口を、薄く開く。声は、出ない。首を、わずかに振った。
セイリョウは腰鞄を開ける。
陶の薬瓶を、一つ取り出す。指の腹に、ひんやりとした感触。
蓋を開けた。
鼻の奥を、刺す匂いが立ち上る。酸味のある、青臭い匂い。乾いた草と、土の中の根の匂いが、混じる。
「何か、清潔な布を」
セイリョウが声をかけると、若い男が、自分の上着の裾の内側を裂いた。
糸の千切れる音。
作った布を、セイリョウに渡す。
セイリョウは、女の手をそっと外させた。男の衣の袖を、肩口まで裂く。
腕の付け根に、深い傷。だが骨は、見えていない。傷口の縁が、めくれていた。
「痛むだろうが、堪えてくれ」
セイリョウは、布に薬を染み込ませると、傷を覆い、出血部に押し当てた。
男は、ぐ、と呻き、苦悶の表情を浮かべる。
セイリョウは、自らの外套からも布を取り出すと、それを重ねて当てる。
しばらく押さえつけるようにして、止血を施した。
男は、歯を食いしばっている。瞼が、強く閉じた。
やがて、血の滲みは、これ以上広がらなくなった。
男が息を、整え始めた。
「す……すまない」
襲われた驚きから、ようやく立ち直ったのだろう。声が出た。
傍らの女が、息を吐いた。涙が、頬の土を、一筋、洗っていた。
* * *
セイリョウは薬瓶の蓋を閉めた。
腰鞄に戻す。革の口を、結び直した。
「私は、セイリョウだ。都サトから来た」
若い男は頷いた。肩の止血を終えた男の傍に、膝をつき、起こすのを手伝っている。
「祭祀府の者だ。ロクサラで役目があって参った。災難だったな」
若い男が、首をわずかに動かした。荷車の陰のアサナと、母のほうを見る。
「カイだ。家族を助けていただき、何とお礼を言えばよいか」
それから、続けた。
「妹のアサナと、コハク」
アサナはコハクを抱いたまま、こちらへ歩いてきた。妹の背をゆっくり撫でているが、目は、セイリョウをとらえている。
セイリョウも、アサナの目に視線を取られたが、すぐに彼らの兄に戻した。
「そして、父と母だ。ここロクサラの、農家だ」
カイが続けた。
「街は海側だ。山の畑へ出ていた、その帰りに」
セイリョウは頷いた。
コハクが、姉の腕から下りる。睫毛に、まだ涙が、わずかに残っていた。
父が低く呻いた。
コハクの指が、姉の袖を握った。
「……おとうさん、いたい?」
声は、小さかった。掠れている。
アサナが頷いた。コハクの頭を撫でる。
「もう、大丈夫よ」
アサナがコハクを抱きながら、父の傷を覗き込んだ。
セイリョウの顔に、近づく。
また視線が、合った。
一拍、止まった。
びっ、という布を裂く音で、セイリョウは我に返った。
カイが、布をもう一枚裂いていた。糸の切れる、低い音が、繰り返される。
「カダラだ」
カイが、憎しみのこもった声を上げる。
「強硬派の連中だ。和平に反対している」
カイは、布を裂く手を止めない。
「古い、昔の恨みだ。俺たちが、何かをしたわけでもないのに」
セイリョウは何も言わなかった。
カイは、父の肩に布を巻き付け、固定した。
アサナの父が目を固く閉じ、そして開けた。自分の妻を見る。
「む……立つぞ。家へ、戻ろう」
妻に肩を支えられながら、ゆっくりと立ち上がった。
膝はわずかに震え、息が、荒い。
やがて、収まった。
コハクがセイリョウを見て、口を開く。
「おじさん、だれ?」
アサナがコハクの頭を、軽く撫でた。
「まずはお礼でしょ……あの、ありがとう、ございます」
アサナはセイリョウに頭を下げた。
「助かりました。私はアサナ、こちらは妹のコハクです」
「ああ、先ほどお兄さんから聞いたよ。私はセイリョウ。都サトから役目で来た」
それきり、沈黙が続いた。風が、二人の髪を撫でる。
セイリョウは、間が悪いと感じたのか、旅嚢から、カルラにもらった色とりどりの飴を取り出した。
「妹さんに、これを」
アサナは再度礼を言って、受け取った。コハクは嬉しそうに眺め、一つを口に入れる。
アサナ一家は、横倒しになっている麻袋と、散乱している豆を片付け始めた。
セイリョウは、黒角馬の傍に立ち、この巨体をどう葬れば良いのか、途方に暮れていた。
* * *
日が傾き始めた。
途中で携行食を取り、ようやく片付けを終えた。
セイリョウは、馬を葬ることをあきらめざるを得なかった。
どうにか動かそうとしたものの、大人四人でも苦労する上に、これだけの穴を掘るのも現実的ではなかった。
「申し訳ありません。可哀想ですが……」
アサナは、心底辛そうに、そう言った。
「仕方がない。父上のことを考えれば、早く街へ戻るべきだろう」
セイリョウは振り返り、カイを見た。
「荷車は、まだ使えるか」
カイは横倒しの荷車の軸を、確認している。
「家までは持ちそうだ。下りだしな」
カイは立ち上がった。荷車の後ろに手をかける。
母親に荷車の前を取らせ、カイの腕に、力が入る。荷台が、きしんだ。ぐっ、と押すと、動いた。
「戻るのは、あちらか」
セイリョウは、わずかに木々の間に見える、塔の方角を指さした。
途端に、カイが嫌そうな顔をした。
「あれは、カダラが住んでいる。我々は、ここから下りたところに家を持っている」
「わしらの家は、な。海の方だ。さあ、あんたも、来てくれ」
アサナの父が息を吐いてから、セイリョウに語りかけた。
アサナがコハクと手をつないで、歩き始める。
セイリョウは、旅嚢を肩に担ぎ直した。
一行は、塔に背を向けて動き出す。
鳥たちが、はるか上空を群れて飛んでいた。
* * *
道は、山を下っていく。
木の枝が、低い。荷車の軋みが、後ろからついてくる。
下りに入ってからは、カイが轅を引いていた。荷車の後ろはアサナが取り、セイリョウはコハクに並んで歩いた。
アサナの母は、夫の左の肩に手を添えている。アサナの父はやや前傾していた。右の腕は垂れたままだ。歩幅は狭い。
土の匂いに、苔の冷えが混じる。沢の水音が、どこか遠くでしている。道の脇には、山栗が、いくつか落ちていた。
山を下り切ったところで、アサナの父が立ち止まった。
息を整えている。左の手で額の汗を拭った。
「いや、すまない」
アサナの父は、セイリョウに詫びた。
「その傷で無理はいけない。よく歩いたものだ」
セイリョウは答える。
「あんたは……本当にいい青年だな。我が家の恩人だ」
そう言うと、アサナの父は歩き出した。
皆、その歩幅に合わせた。
木の枝が、まばらになる。空が、頭の上に、広く出てきた。
光が、わずかに黄を帯び始めた。西の空が橙に染まる。
* * *
田の刈り跡が、見えてくる。鎌で刈られた稲の株が、整然と並んでいた。畔の上に、藁束が、いくつか積まれている。
畔の土は乾いていた。風が、その上を渡る。
田の縁に、小屋が一つ、立っていた。低い萱葺き。戸は、閉まっている。誰もいない。
カイは轅から片手を離した。指の腹で、額の汗を拭う。
セイリョウは、ロクサラ地方では陸稲がよく植えられている、という話を聞いていたのを思い出した。
「これは、アサナたちの主食なのか」
「そうよ。大事な食べ物なの。私たちは小黄米と呼んでいるわ。あとは、今運んでいる緑豆と、野菜ね。海で取れるものも少しあるけど。どれも、大好き」
アサナは、荷車を後ろから押しながら、明るく言った。
田の中に、白い鷺が、数羽、立っていた。首を時折動かしている。
「ここは港が無くてな。長い海岸があるだけだ。貝や海藻を拾ってる」
アサナの父が、残念そうに言った。
「港があれば、な。もっと豊かだったんだろうが。遠浅でな。うまくいかなかった」
「その分、豊かな山がある。でもあいつらがいるから……」
カイが、話に加わった。憎しみを込めて、山を振り返る。
道が、緩やかに曲がった。
街道の、先だった。
低い屋根が、並んでいた。
アサナの父が、立ち止まった。息を整える。アサナの母が、荷車の後ろに回り、アサナが代わりに父を支えた。
遠くに海が、見えた。屋根の向こうに、灰色がかった青が、横たわっている。海と家の高さはそう変わらない。
ロクサラの街は、屋根が低く、家と家の間が、広かった。土に石が埋まり、そこに乗った木の柱が、地面から少しばかり家を持ち上げている。柱の根元には、苔が薄く生えていた。
家々の壁は灰色がかった白の漆喰だった。窓の枠だけが、濃い茶色に塗られている。
遠くで、犬が、一度吠えた。さらに、家畜の声がした。山羊だろうか。海を背にする土地には似つかわしくない、とセイリョウは思った。
一行は街の入口へ足を踏み入れた。
夕餉の煙が、低く、街を流れていた。
「無事に戻れました。あなたのおかげです」
アサナが、セイリョウの隣に立った。顔が、近い。澄んだ目が、まっすぐにセイリョウを見つめ、そして微笑んだ。
「あ、ああ。私も、ロクサラの街にようやく着いた。日が暮れ始めてしまったが……まずは祭祀府に行きたい」
セイリョウは、西日に照らされたアサナの、若さと美しさに、思わず目を伏せ、街を向いた。
「祭祀府は……あるんだが、人がおらんでな。まずは、うちに寄ってくれ。これから夕飯を作るんで少し時間がかかるが、どうか、あんたを、もてなさせて欲しい」
と、アサナの父が横から言った。
「ぜひ、そうさせてくれ!恩人だからな」
カイが、轅を引きながら、そう声を上げた。




