第6話
side 宮崎ハジメ
「その、昨日の子のこと、なんですけど」
朝の食卓。席に着くなり、沢田が切り出した。
味噌汁をすすっていた僕は椀を置き、沢田を見る。
昨夜は普通に話せたし、布団に入ったのも遅かった。
だからこの話題は、もう流れたものだと思っていた。――沢田は蒸し返してきた。
「もしお兄ちゃんが、その……すきとか、付きあいたいとか考えてるなら、やめたほうがいい、と、……思います。昨日も言ったんですけど、あの子――」
僕は机に手のひらを叩きつけた。
音が立つ。
心配してくれているのかもしれない。だとしても言い方がある。
あまりに直球すぎる。
睨むつもりはなかった。
でも視線が鋭くなっているのは自分でも分かる。沢田は顔を逸らした。
僕もすぐ、目を外した。
それから会話はない。
沢田は淡々と食べ終えると、
「それじゃあ、わたし、先に行きますね」
それだけ言い残して出ていった。
直後、テレビのアナウンサーが「午後から雨」と言った。
僕は聞き流しながら残りを食べる。
机の上の携帯が震えた。
毎朝届く、自称『探偵』のメールだ。今日はいつもより家にいたらしい。
文面は分かっている。
それでも開いてしまう。
読むたびに囚われる。罪の意識は、拭えない。
送り主は興味本位だろう。半年経っても、こういう人間は消えない。無視すればいいだけだ。
――でも僕は、このメールを拒めない。
飾り気のない文章が、ただ真実を知りたいと願っているように見える。
それが今の僕と似ていて、妙な連帯感を覚えてしまう。
***
放課後。部室に顔だけ出そうと、足を向けた。
昨日だけ集合がかかったが、文芸部は大抵、毎日誰かがいる。そこで読書するのも、僕の日課だ。
部室が近づいたところで、廊下の窓から外を見る。
雨が降っていた。ぽつぽつ、じゃない。止みそうにない本降りだ。地面はまだ乾いて見える。今、降り始めたのだろう。
「……はぁ」
息が漏れる。
この時間、沢田はたいてい買い物に出ている。節約志向のくせに買いだめはしない。だから毎日スーパーへ行く。
僕は歩調を上げ、ドアをスライドさせた。老朽化したドアが、いつものようにうるさく鳴く。
中にいたのは、同級生二人と部長。三人だ。
僕はすぐ言った。
「すみません。今日は僕、もう帰ります」
「ばいばーい」
堺のよく通る声に手を挙げて返し、下駄箱へ向かう。
足が勝手に速い。
外へ出ると雨音が強くなった気がした。
慌てて黒い傘を広げる。
スーパーは学校の近所。放課後すぐ行っていれば、もう帰り道だ。
道路側の窓ガラスを横目で見て、制服の女子がいないのを確認し、先を急ぐ。
雨宿りするなら――と考えて、公園で足を止めた。
案の定、屋根付きのベンチに沢田がいた。
沢田は僕に気づかず、ぼうっと一点を見ていた。
視線の先には、球体の遊具――回転ジャングルジムがある。グローブジャングルジムとも呼ばれるそれは、危険だとして使用不可になり、ビニールテープでぐるぐる巻きにされていた。
沢田は悲しげに、それを見つめている。
僕は息を飲んで近づいた。
沢田も気配に気づき、驚いた顔をする。
「ほら」
鞄から折り畳み傘を出し、そのまま渡した。
沢田はしばらく傘を見つめ、素直に受け取る。
「ありがとう、ございます」
「うん。雨、止みそうにないよ」
僕はベンチの買い物袋を持ち上げた。
沢田も頷いて立ち上がる。二つの傘で、通学路へ戻った。
雨の日、傘同士の距離は微妙だ。雨音も大きい。
会話は生まれない。今の僕らには、そのくらいが丁度いい。朝のことが残っている。
家の手前の交差点で、赤信号に捕まった。
僕が少し前に立っている。
買い物袋を下げた左手が、雨に濡れて冷たい。
立ち止まった拍子に、傘と袋を持ち替えた。
そのとき、右手の甲にひんやりした感触が触れる。
「さ、さむい、から」
沢田の左手だった。
指先は、ほんのり温かい。僕は払いのけなかった。
信号が変わるまで、僕らはそのまま立っていた。
胸が速い。寒いはずなのに、体の内側が熱い。
僕は沢田マリにときめくはずがない。沢田は、東雲ユウカが「正しく成長した姿」で――僕が惹かれているのは、沢田じゃなくユウカだ。
そう思っているのに。
ユウカとの思い出の中にはない状況で、鼓動だけが勝手に速くなる。
うるさい。静まれ。
命令しても身体は無視を続ける。
鼓動の音が大きくなった錯覚すらして、沢田にも聞こえてしまうんじゃないかと焦る。
手を繋ぐ。それだけで、意味が増える。
触れているのは指先だけなのに、受け取るものが多すぎる。
僕の手が冷たいのは、外気に晒され続けたせい。
沢田の指が温かいのは、カーディガンの袖に隠れていたからだろう。
僕は買い物袋の持ち手を親指に引っ掛け、残りの指で沢田の手を握り返した。
――してはいけない。だって僕は。
良心の呵責。罪の意識。拭えない、あの日の景色。
反対の感情が渦巻く。それでも僕は、手を離せなかった。
ユウカ以外を愛さない。そう決めたはずだ。
なのに、この温かさは何だ。
きっと、ただの気まぐれだ。
瞼を落とす。
裏側に映るのは沢田じゃない。泣いていたユウカだ。罪の意識に押しつぶされそうな笑顔の奥の。
目を開いたとき、信号は青に変わっていた。
僕らはゆっくり渡る。
いつの間にか、手は離れていた。
沢田は黙って、僕の後ろを歩いていた。
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