第34話
side 東雲ユウカ
住所の先にあったのは、古いのに手入れの行き届いたマンションだった。
外観のくたびれ具合が、逆に家賃の高さを匂わせる。
ここに――黒澤サチがいる。
エントランスを抜け、オートロックの前に立つ。
同行の女性が、躊躇なく「五〇六」――続けて井桁を押した。
呼び出し音。
数回で、途切れる。
『はい』
覇気のない声。
「……東雲ユウカです」
『……』
ガチャリ。
ロックが外れる音がした。
扉を開け、二人でエレベーターへ。
五階。五〇六の前。
インターホンを押す。
反応がない。
もう一度。
やっぱり無音。
居ないはずがない。
ドアノブに触れると、簡単に開いた。
踏み込もうとして、隣の気配が止まっているのに気づく。
振り返ると、彼女は首を横に振った。
「……なんでもないです」
強く言って、息を吸う。
「あたしも、覚悟がいるんです」
理由は聞かない。
聞ける立場じゃない。
でも、彼女の顔は張り詰めていた。糸みたいに。
わたしたちは頷き合い、玄関へ入る。
扉を閉めると、廊下がいっそう暗くなる。
奥の閉じた扉――その小さな窓から漏れる光だけが、やけに明るい。
そこへ向かって歩いた。
リビングは、灯りがついていなかった。
薄闇の中で、三つほどのモニターだけが光っている。
椅子に座る、小柄な少女。
背中をこちらに向けたまま、両手をデスクに置いていた。
「……黒澤サチさん」
迷って、フルネームにした。
返事はない。
でも聞こえていないはずがない。
「ハジメ君は、貴方をずっと求めてる。……受け入れてくれない?」
沈黙が落ちる。
数秒か、数十秒か。
ようやく、声が返ってきた。
「何故」
「わたしは、ハジメ君がすきだから」
ずっと、色褪せない。
胸の奥に咲いたままの気持ち。
「……馬鹿みたい」
わたしが言い返す前に、怒鳴り声が割り込んだ。
「ふざけないで!」
同行の女性が、一歩踏み込んでいた。
震える声なのに、芯だけは折れていない。
「……あの時の、あなたの言葉は嘘だったの? 卑怯な手を使おうとしたあたしに、正面からぶつけたあの気持ちは――虚構だったの?」
息を呑む。
黒澤サチは、背中を向けたままだ。
ただ、聞いているように見える。
「絶対に、そんなはずない……!」
女性の声が、ひび割れる。
「もう逃げるの、やめてよ。あたしじゃ駄目なの……あたしじゃ、先輩の心を埋められない……」
そこで、彼女の膝が崩れた。
泣きながら、床に落ちる。
「だって先輩は、ずっと、二人を見つめてきたから……」
その言葉は、黒澤サチに向けられている。
でも――わたしにも刺さった。
黒澤サチが、静かに言う。
「……理解できない」
「……ええ。あなたには、そうでしょうね」
わたしは女性の肩に手を添え、立たせながら言った。
「でも――さっちゃんなら、わかってくれるんじゃない?」
モニターの光が、黒澤サチの右手を照らしていた。
傷ひとつない、綺麗な手。
言うべきことは、言った。
ここから先は、言葉じゃ変わらない。
わたしは女性の肩に手を置いたまま、背を向けて部屋を出る。
「……バレてたよ、さっちん」
玄関を出る直前、背中に届いた声。
口元が、勝手に笑みの形を作っていた。
***
帰り道、女性とは途中で別れた。
聞きたいことは山ほどある。でも今日は、やめた。
わたしは自宅へ戻らず、近くの公園へ向かった。
昔の遊具は、ほとんど撤去されていた。
記憶の中の公園は、もうここにはない。
それでも残っていたのは、屋根付きのベンチだけ。
腰を下ろし、園内をぼんやり見渡す。
夕陽が傾き、世界がオレンジに染まるまで、動けなかった。
「……間違ってないよね」
吐き出した瞬間、涙が落ちた。
頬を伝い、顎先から地面へ。
主任から渡された封筒。
中には小説のほかに、手紙が一枚――ハジメ君から、わたし宛。
ポケットから出して、声にして読んだ。
そうしないと、心が保てなかった。
今の生活には触れていない。
でも病気や怪我とは無縁らしい。
それだけで、少し救われる。
「……僕ら三人が出会った、あの公園。ずっと、待ってます……か」
読み上げて、顔を上げた。
西日を遮るみたいに、誰かが立っていた。
――ハジメ君。
「毎日、来てたの?」
「……まあね」
「……ばか。手紙が届いたって、わたしが素直に来るかなんて分からないのに」
ハジメ君は、目を逸らさず言った。
「それでも。キミが屋上から落ちていくのを、ただ見てるだけだったから」
胸が詰まる。
「病室の前でも、竦んだ。……だから、もう逃げたくなかった」
わたしはベンチに座ったまま。
ハジメ君は向かいに立って、夕陽を背負う。
かつてと、逆だ。
「……僕は不器用で、二つのことを一度にできない」
言葉が、ゆっくり落ちていく。
「弱いから、どちらかを選べない。今でもずっと……宙ぶらりんのまま。あの頃から何も変わってない」
そして、苦しそうに笑う。
「不誠実で、ごめん。キミを一番大事って言えなくて、ごめん」
「ほんとだよ」
わたしは息を吸い込んだ。
背中を押す言葉を――選ぶ。
「もうハジメ君なんて知らない。どっか行っちゃえ」
名刺を差し出す。
住所が書かれた、あの名刺。
ハジメ君は受け取り、目を走らせて、理解した。
「……」
「ハジメ君は、わたしと同じ。だから今、行かなきゃいけない」
目が熱い。
きっと真っ赤だ。
でも逸らさない。逸らせない。
数秒後、ハジメ君は小さく頷き、はっきり言った。
「ありがとう」
そして、去っていった。
胸は妙に晴れているのに、涙は止まらない。
悲しいのか、嬉しいのか、もう分からない。
「酷い男の子だよ……ほんと、ずるい……」
ふと、昔の会話がよぎる。
未来を視られたら、どうする?――そんな質問。
『なら、キミならどうする?』
矢継ぎ早に、景色が駆け巡った。
最後に辿り着いたのは――
ベンチで、一冊の本を覗き込みながら笑う、男女二人。
仲良く、同じページを見ている。
……そうだ。
守りたいと思ったのは、最初から――あの笑顔だった。
「わたしはっ――」
立ち上がった、その瞬間。
――右手に、温もり。
――頬を撫でる、温かい風。
――目を細めた、次の瞬間。
景色が一変した。
わたしは戻ってきていた。
あの時、あの場所――学校の屋上に。
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