第32話
side 東雲ユウカ
キィボードを叩くのは、好きだ。
というより、「打ち込めるもの」が好き。
在学中はサークルにも入らず、やることもなくて、勉強ばかりしていた。
卒業してから「何で時間を潰すんだろう」と思っていたけど――仕事は案外、没頭できた。
「東雲さん。それが終わったら、こっちの資料まとめておいて」
主任が机に、分厚い紙束を置いた。
「はい」
聞こえる程度に返すと、主任は頷いて席へ戻っていく。
女性で、わたしと歳はほとんど変わらない。
でも役職があるだけで、仕事の終わりが見えている。すごいと思う。
わたしは自分のことで精一杯だ。
だから、ああいう人が「できる人」なんだろう。
「あー、やだやだ」
隣の同僚が悪態をついた。
この人は、主任が嫌いだ。
「ほんと偉そうだよね。私と歳変わんないくせにさ、年上の男に命令して」
入社してすぐに分かった。
それ以来ずっと、わたしは隣で愚痴を受ける係になっている。
主任は確かに辛辣で、妥協もしない。
でも、わたしは嫌いじゃなかった。
「うん、そうだね」
反論はしない。
社会では、合わせるのが基本だ。
「でもユウカ仕事できるからさー。淡々とこなすじゃん? だから苛立って、次々仕事持ってくんだよ。きっと」
わたしは適当に笑って頷いた。
たぶん違う。単に効率で回してるだけだ。
でも、言わない。
ここで正しさは、役に立たない。
「ねね、今日ランチどうする?」
同僚は仕事そっちのけで、グルメサイトを見ていた。
小さな事務所とはいえ、こういうのが放置されるのは正直どうかと思う。
「わたしは今日もお弁当」
笑って断る。
「そっか」
同僚はスマホを取り出して、別の誰かを誘いはじめた。
腹は立たない。
「わたしはこんなに働いてるのに」なんて、思わない。
彼女は彼女で、日勤帯の仕事はこなしてるし、残業もしない。
会社は回っている。帳尻が合っている。――それだけだ。
仕事が終わって、直帰して。
気づいたら、少し寝ていた。
起き上がると、座椅子に預けた背中が痛む。
湿布あったかな、と思いながら、冷蔵庫のペットボトルで水を飲む。
洗面所へ行って、シャワーで汗と化粧を落とす。
それから缶ビール。ポテトチップス。テレビ。
黙々と咀嚼する。
家にいる間は、ずっとこうだ。
くだらないバラエティを流して、酒を入れて、眠くなったら寝る。
無味無臭で、つまらない。
でも、こういう「何もない」が続いていることに、どこか安堵もしていた。
――高校二年の冬。退院して、母の勧めで市内の別の高校へ転校した。
前の高校より偏差値はずっと低くて、クラスの人数も少なかった。
それでも、何かしていないと壊れそうで。
わたしは勉強に打ち込んで、地元の県立大学の、一番偏差値が低い文系学部に受かった。
新聞奨学生で通って、四年が過ぎて。
今の会社に入社した。
ハジメ君が今どこで何をしているのか、わたしは知らない。
『彼女』のことも。
お母さんは、知っていそうだった。
でも、今まで教えてくれない。
わたしが聞けば、教えてくれたのかもしれない。
――それが、まだできなかった。
『僕ね、実は未来が見えるのよ。未来が!』
『ほーん。で?』
売り出し中の若手コメディアンの漫才が流れている。
別に面白くないのに、ぼんやり見てしまう。
不意に、思い出した。
真夏の悲劇。
わたしはあの事件以来、未来予知の力を発動していない。
理由は分からない。ただ、消えた。
漫画やアニメみたいに、死の淵で力に目覚めたり、失ったりする。
だからきっと、あの自殺が原因で無くなったんだろう。
もっと早くに、そうなっていたら。
そもそも、未来予知なんてなかったら。
「もしも」が、頭の中を走り回る。
一人で何もしていないと、いつもこうだ。
嫌になって、テレビも電気も消した。
逃げるみたいにベッドに転がって、布団を頭から被る。
でも、酒が回りきるまで――眠れるわけがなかった。
翌日。出社してすぐ、異変に気づいた。
廊下ですれ違う誰もが、わたしを見るとヒソヒソ話す。
付き合いがいい方じゃないのは自覚してる。でも最低限はあるはずだった。
陰口を叩かれるようなことをした覚えも、ない。
理由は、席に着く前に分かった。
わたしのデスクに、大きな紙が貼られていた。
印字された文字が踊っている。
『同級生と自殺。自分だけ生き残った女』
『母親は精神的に参って入院』
――間違いじゃない事実が、並んでいた。
「おはようユウカー……って、なにこれ!」
出社してきた隣の同僚が声を上げた。
小走りで寄ってきて、内容を読んで、顔を真っ赤にする。
「死神って……ひどすぎ! 信じらんない!」
同僚は紙を力ずくで剥がし、くしゃくしゃに丸めた。
「誰よ!」
社員を見渡して怒鳴る。
周りは「俺じゃない」「私じゃない」と目を泳がせた。
その中で主任だけが、黙々とキーボードを叩いていた。
同僚の視線が鋭くなる。
主任に詰め寄るつもりだ。
わたしは同僚の肩に手を置いて、首を振った。
「いいよ」
「でも!」
わたしは、もう一度首を振った。
全部、本当のことだ。
わたしは、自分の犯した罪から逃げるつもりはない。
紙に書かれていない、わたししか知らない罪からも。
犯人が誰かなんて、些細な問題だった。
分かったところで、仕返しをする気なんてない。
同僚はやり場のない怒りのまま、丸めた紙をゴミ箱へ投げた。
わたしはデスクに残ったセロハンテープと、紙の欠片を集めて、同じゴミ箱に捨てた。
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