第30話
side 東雲ユウカ
「ハジメ君、行こうっ」
十四歳。中学二年。
下校中、わたしは隣を歩くハジメ君の手を掴んで走り出した。
ハジメ君は「やれやれ」と笑って、でも握り返してくれる。
「今度はどんな話?」
正義の味方ごっこは、まだ続いていた。
いつも通りの展開――のはずだった。
でも今日は違う。
わたしの顔を見て、ハジメ君の眉間に皺が寄る。
「っ、交通事故」
言った瞬間、繋いだ手の力が強くなった気がした。
これまでの事件は、せいぜい小さな不幸だった。
でも今回は――死人が出る。
車同士の衝突で、片方の運転手が死んだ。
わたしはそれを目撃して、家でニュースを見ている途中に、時間が巻き戻った。
絶対に止める。
止めなきゃいけない。
「どこで。どんな車が?」
ハジメ君の声が低い。
わたしは走りながら、見た未来を全部吐き出した。
「学校の近く。スーパーの前の十字路」
「車は、白いクーペと黒いミニバン。ナンバーは……ごめん、分からない」
息が切れる。
でも止まれない。
「白い方、飲酒運転だった」
十字路に着いた。
事故が起きるのは、今から一時間くらい後。
赤信号を無視した白いクーペが、左折中の黒いミニバンに突っ込む。
それが、わたしの見た未来。
「……どうすればいいのかな」
勢いで来た。
でも、手詰まりだ。
頭を抱えかけたところで、ハジメ君が言った。
「車を探そう。見つければ、止められるかもしれない」
それしかない。
わたしは頷く。
駐車場。民家の前。信号待ちの列。
手当たり次第に見て回った。
「あれ?」
「違う。もっと……こう、スマートな感じ」
ハジメ君が候補を挙げ、わたしが首を振る。
それを何度も繰り返す。
その時。
コンビニの駐車場に、白いクーペが停まっているのが見えた。
「あれっ」
事故まで、もう長くない。
目が合うように頷き合って、わたしたちは走った。
運転席に男がいる。
片手にビールの缶。助手席には空き缶が転がっていた。
――間違いない。
わたしは窓を、こんこんと叩く。
同時にハジメ君が、少し離れて警察へ電話していた。
わたしが足止め。
警察が来るまで耐える。
「んあ? どうしたい、お嬢ちゃん」
窓が開く。
男の頬は赤い。目も据わっている。
「おじさんに惚れちゃったかな? んへへ」
完全に出来上がっていた。
「……何か、嫌なことでもあったんですか?」
言葉を選ぶ。刺激しすぎない。
でも、逃がさない。
「まあな。子どもにゃ関係ねぇ話だ」
男は缶を傾けた。
「すぐに来るって」
背後のハジメ君の声。
わたしは頷いて、踏み込む。
「飲酒運転は、法律で禁止されてて。すごく危ないです」
ここで怒らせてでも、引き留めたかった。
でも――誤算だった。
この男には、まともな思考が残っていない。
「はいはい。ごめんなさい。じゃあ、帰りまーす」
パワーウインドウが上がる。
嫌な予感が背骨を走った。
次の瞬間。
車がバックし、駐車場を飛び出した。
「っ……!」
白いクーペは、あの十字路の方へ走り出す。
「運転してちゃ、意味ないじゃんっ」
わたしたちは追った。
完全にわたしのミスだ。
待つべきだった。
逃げようとしたら、無理矢理でも止めるべきだった。
車は信号で止まる。
交通量も多い。
追いつけない。
でも、振り切られもしない。
一定の距離で、ついていける。
十字路に着いた。
白いクーペは、赤信号で停まり――
そのまま直進して行った。
事故は起きない。
起きなかった。
少しだけ、安堵が胸に滲む。
未来は回避できた。そう思った。
でも、それは間違いだった。
飲酒運転の車は、まだ走っている。
危険は消えていない。
ハジメ君は分かっていたのだろう。
立ち止まりかけたわたしの手を引いて、追わせた。
わたしは、安堵で少しだけ、走りが鈍った。
白いリアが、視界から消える。
住宅街のカーブを左折した。
刹那。
悲鳴。
そして、鈍い衝突音。
血の気が引いて、背中が冷える。
カーブを曲がると――車が電柱に突っ込み、フロントが潰れていた。
道路には、倒れた人影。
女性だ。
「どなたかAEDと救急車をお願いします!」
人が集まり始める。
若い男が駆け寄り、女性を仰向けにして胸を押し始めた。
まだ救急車も警察も来ていない。
運転手はよろよろと車から出て、青ざめて立ち尽くしていた。
その光景の中で、ふと気づく。
――隣に、ハジメ君がいない。
「ハジメ君?」
振り返る。
彼はいた。
でも、顔色がなくて、呆然としていた。
わたしは肩を掴んで揺する。
その唇が、かすれる。
「――母さん」
心臓が跳ねた。
そんなはずない。そう思ったのに。
倒れている女性の顔が見えた。
見覚えがある。何度も見た顔。
――ハジメ君のお母さんだった。
「あ、……」
膝が折れる。
力が抜けて、地面に落ちた。
痛い。
でも痛みなんて、すぐどうでもよくなる。
「これですか!」
オレンジ色の箱を抱えた人が駆け込む。
AEDだ。
若い男は迷わず、女性の胸元を開いてパッドを貼る。
機械が、録音の声で指示を出している。
全部が、頭に焼き付いていく。
わたしもハジメ君も、動けなかった。
救急車が到着した。
ハジメ君のお母さんは担架に乗せられ、運ばれていく。
サイレンが遠ざかる。
置いていかれるみたいに。
「キミたち、どうしたの」
近くの大人が声をかけてきた。
ハジメ君は返事すらできず、事故現場を見つめたまま。
「……さっきの、彼の、お母さんで」
わたしが絞り出すと、大人は顔色を変えた。
「なんだって!」
その人はわたしたちをコインパーキングへ連れていき、車の後部座席に押し込む。
携帯電話を渡された。
「すぐにお父さんに連絡しなさい!」
車が発進する。
たぶん救急車を追っている。
隣のハジメ君を、ちらりと見る。
目を見開いて、荒い呼吸を繰り返していた。
声をかけたい。
でも、何を言えばいいのか分からない。
正しい言葉なんて、最初から存在しない気がした。
病院に着いた。
看護師に導かれ、階段を上がる。
「家族控室」と書かれた部屋。
出てすぐの場所に、手術室があるらしい。
ソファに座ったまま、時間が伸びていく。
しばらくして、ハジメ君のお父さんが飛び込んできた。
息を切らし、肩が激しく上下している。
「母さんはっ」
わたしもハジメ君も、言葉が出ない。
お父さんはそれを悟って、看護師に事情を聞いた。
ハジメ君はずっと俯いたまま。
お父さんは息子を抱きしめて、繰り返す。
「大丈夫だから。大丈夫だから」
「……れっ」
わたしの口から、音が漏れた。
拳が震える。涙で視界が滲む。
「戻れっ」
拳を太腿に叩きつける。
何度も。何度も。
どうして。
なぜ。
悪いのは誰。
……わたし?
「戻れっ、戻れっ、戻って……戻ってよぉ!」
叫んでも。
祈っても。
不思議な力は、目を覚まさない。
無情に、世界はそのまま在り続けた。
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