第29話
side 東雲ユウカ
二人の手を引いて、十分ほど歩いた。
犬がいつ脱走するかは分からない。だから少し早足だ。
二人は驚きながらも、黙ってついてきてくれた。
犬のいる一軒家の前に着く。
軒先の飼育小屋から、シベリアンハスキーが吠えた。
見慣れた光景なのか、通りすがりの人は気にも留めない。
でも、さっちゃんの手は強張っていた。
右手に伝わる震え。
わたしは、ぎゅっと握り返す。
本当は、さっちゃんを連れてくる必要はなかったかもしれない。
けれど犬がもう脱走していたら、公園に残る彼女が危ない。
やむを得ない。
わたしは小屋の入口を見た。
施錠の南京錠が、錆だらけだった。
「どうしたの」
ハジメ君に聞かれて、わたしは南京錠を指さす。
見れば見るほど、壊れそうだ。
「ひっ」
犬が吠えて小屋が揺れるたび、南京錠も震える。
さっちゃんはわたしの背中に隠れた。
「見えたの?」
「うん」
ハジメ君はすぐ察して、黙って頷いた。
そして小さく息を吐く。
この家の主は偏屈なおばさん。
警察の注意も突っぱねて、このままにしている。
わたしたちが「危ない」と言っても、聞くはずがない。
そう思っていると、左手がするりと離れた。
「ハジメ君?」
彼は家の正面玄関へ回り込んだ。
わたしたちも追う。背後の吠え声に、さっちゃんの手がさらに強くなる。
玄関前。
ハジメ君は迷わずインターホンを押した。
ピンポン。
わたしは思わず、ハジメ君の肩を叩く。
「方法なんて、これしかないよ」
彼は振り返らずに言った。
わたしの顔が強張っていたのだろう。
返事がない。
ハジメ君はもう一度鳴らす。
数秒後、ドタドタと足音。
ドアが開いて、中年のおばさんが顔を出した。
「……どうしたの?」
言葉は丁寧でも、表情は露骨に面倒くさそうだ。
「すみません。犬小屋のことで」
ハジメ君は冷静だった。
わたしやさっちゃんみたいに、縮こまらない。
「ああ、ごめんなさいね。怖がらせて。うちのくろすけ、すぐ吠えるものだから」
「いえ、それより、犬小屋の鍵が外れかかってるように見えます。締め直してもらえませんか?」
おばさんは適当な言い訳を並べて、断ろうとする。
でもハジメ君は、引かない。
結局、おばさんは「ちょっと待ってて」と奥へ引っ込み、鍵を持って戻ってきた。
ハジメ君が小屋まで案内する。
「ここです」
おばさんは南京錠を見るなり「あらあら」と言って、締め直した。
そして礼も言わず、ひと睨みして家に戻った。
「あの態度っ……」
わたしが憤ると、ハジメ君は苦笑した。
「でも、よかった。毎日ここ通るし、その都度言えばいいよ」
根気よく続ければ、意識が変わるかもしれない。
ハジメ君はそう考えている。
「わ、わたしも頑張ってみる!」
さっちゃんが拳を握る。
わたしとハジメ君は交互に頭を撫でて、笑った。
「なんだか、冒険したみたいだね」
さっちゃんの言葉に、わたしは頷く。
「確かにね。公園でばっかり遊んでたから」
胸が少し痛んだ。
助けたのは確かに今日のわたしたちだ。
でも実際に動かしたのは、ハジメ君だった。
わたしはまた、頼ってしまった。
二人と別れて帰る道。
そのことばかり考えて、歩く速度が自然と上がる。
自宅の近く。老婦人が一人で切り盛りする駄菓子屋の前で、足が止まった。
道端に、同年代くらいの男の子が立っていた。
駄菓子屋の中を、覗くように見ている。
横顔に、感情がない。
その目に、見覚えがあった。
能力で苦しんでいた頃。
鏡越しに見た、自分の目にそっくりだ。
しばらく立ち尽くしていると、背の高さが違う男女が駄菓子屋に入ってきた。
たぶん兄妹。
妹が菓子を選び、兄が買ってやっている。
その光景が、妙に胸に刺さった。
ふと、男の子が泣いているように見えた。
兄妹が去ると、彼はその背中をちらりと見て、顔を伏せて立ち去った。
「なんだか、冒険したみたいだね」
不意に、さっちゃんの声が耳に入る。
「え……」
まただ。
わたしは能力を発動させていた。
長い回帰じゃない。
目の前には、さっちゃんとハジメ君がいる。
戸惑うわたしに、さっちゃんが小首を傾げた。
「あ、いや。なんでもないよ」
笑って誤魔化す。
ハジメ君は気づいているはずなのに、さっちゃんの前では何も言わなかった。
よくあること。
平常心でいれば、すぐ馴染む。
その後は何事もなく、わたしたちは別れた。
わたしは一人で帰る。
落ち着くために、足だけが早い。
駄菓子屋の前。
さっきの男の子が、また立っていた。
あの悲しい目が浮かんで、わたしは吸い寄せられるように近づいた。
「最近、このお店のきなこ餅、よく『あたり』が出るんだ」
話しかけると、少年は一瞬だけ変な顔をした。
でもすぐ無表情に戻り、わたしなどいないみたいに背を向ける。
「っ、踏み出さなきゃ、何も手に入らないよっ」
ハジメ君が教えてくれた、この世界の真実。
なぜか、この子にだけは言いたかった。
少年は立ち止まり、振り返る。
しばらく、見つめ合う。
やがて、彼が溜息をついた。
「ありがとう」
少年は駄菓子屋に入って、いくつか菓子を選び、買って出てきた。
去る背中が、少しだけ軽く見えた。
それが嬉しかった。
「正義の味方、だから」
背中に声を投げる。
届いたかは分からない。
でも、言えただけでいい。
わたしの力は、人のために使える。
事情は知らない。たぶん、もう深く関わらない。
それでも「ありがとう」は本物で、胸の充足も偽物じゃない。
今この瞬間のわたしは、正義の味方だ。
そう信じた。
そしていつか――。
大すきな人、ハジメ君が窮地に陥った時。
助けられる正義の味方になれたら。
そう思った。
***
いつからか、さっちゃんは公園に来なくなった。
気になって先生に聞くと、転校したらしい。
さよならのない別れ。
わたしたちは動揺して、悲しかった。
わたしが泣いていると、ハジメ君が頭を撫でて言う。
「いつかまた会えるから」
一期一会。そう言うらしい。
でも、絶対にもう会えないわけじゃない、と。
難しい言葉の意味はよく分からなかった。
でも、ハジメ君が言うなら、そうなのだと思えた。
わたしたちは悲しみを胸にしまって、前を向いた。
それから季節が巡る。
転んで怪我をしたお祖母さん。迷子の年下の子。
それに――わたしと同じように「特殊な力」を持つ、同年代らしい少女。
わたしたちは、できることを全部やった。
わたしが未来を視て、ハジメ君と手段を探す。
そして実行する。
失敗だと思う結末は、これまでなかった。
順風満帆に、正義の味方は成長していった。
秋が来て、冬が来て、春が来て。
そして――また、夏が来た。
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