第23話
side 黒澤サチ
夜。
情けなくて、わたしは部屋で泣いていた。
襖の向こうに気配が来て、兄が小さな声で言った。
「年々、父親に似てきてる自分の顔が嫌いだ。だから、お前を避けてた。たぶん、お前も……無意識に、そうだったんだろ。ごめんな。つらい思いをさせて」
――それ、わたしの台詞だ。
兄は守ってくれたのに、わたしは「似てる」だけで、ありがとうも言えない。
「ごめんなさい」
襖越しに、何度も繰り返した。
面と向かってしまったら、きっと声が出なくなる。
兄は、そのたびに「うん」と返してくれた。
それからも、うまく会話できない日々は続いた。
気づけば兄は中学を卒業していた。
進学先は県内トップの公立。
でも兄は、バイトに明け暮れていた。
わたしには分かった。
止められなかった。兄が「わたしのため」にやっていることを。
自分が、いちばん嫌いだった。
それでも、兄と同じ高校を選んだ。
寝る間も惜しんで勉強した。
切れそうな糸を、絶対に離したくなかったから。
なのに兄は、だんだん家に帰らなくなった。
顔も見ない日が増えた。
それでも、わたしは勉強した。
合格しても一緒にいられるのは一年だけ。それでも同じ場所に行きたかった。
しばらくして兄は携帯を買うと言い出した。
未成年だから、と祖父母に頭を下げて。
今どき珍しいガラケーだった。
「通信料がいちばん安いから」って言ってた。
半ば無理やり番号を聞き出して、わたしはほぼ毎日電話した。
空白にしたくなかった。
電話の向こうが騒がしい日もあった。
女の人の怒鳴り声。工事みたいな音。
それでも兄は、律儀に出てくれた。
電話越しなら、少しだけ会話ができた。
そして――兄と同じ高校に入って、最初の夏。
夜中に、兄から電話が来た。
兄からかけてくることなんて、ほとんどない。
それだけで、胸が嫌に鳴った。
こちらの言葉は聞かず、意味不明な言葉だけ残して切れた。
かけ直しても、もう電源が入っていなかった。
怖くて、どうしようもなくて。
親友の沢田マリに電話した。
「大丈夫よ」
マリはそう言った。
でも不安は消えないまま、夜が過ぎた。
朝が来て、そして――。
わたしの兄は、自殺を図った。
わたしのいない場所へ、行こうとした。
***
カチャカチャとキィボードの音が、わたしを引き戻した。
記憶の夢から、無理やり現実へ。
ソファーから起き上がって、大きく欠伸する。
可愛くもない声が漏れた。
机の上のノートPCが眩しい。
書きかけを保存して、ソフトを落として、シャットダウン。
ふと、ジッポライターが目に入った。
なんとなく蓋を開け閉めして、カチ、カチ、と鳴らす。
その時、ソファーから本が落ちた。
息抜きのつもりで、寝る直前まで読んでいたやつ。
ライターを無意識にポケットへしまって、本を拾う。
表紙を眺めて、ぼんやり息を吐いた。
うちの高校、文芸部の部誌。
夏休み明けに配られた号だ。
何度読んだか分からない。
手垢の濃いところまで、ページをめくる。
『オレンジ色の屋上』
作者――宮崎ハジメ。一学年上の先輩。
わたしは今、その人の家に下宿している。
そこに至る事情のほとんどは、いま目の前でPCに向かってる親友が作った。
「ねえ、マリ」
「何?」
寝癖の髪、ヨレたシャツ。
いつもPCを叩いてて、“いかにも”なのに、反応だけは異常に速い。
「本当に……良いのかな」
わたしが聞くと、マリは即答した。
「良いに決まってる。お兄さんが自殺を図った理由を知りたい。それが目的でしょ。先輩を利用してるみたいで、さっちんは落ち着かないんだろうけど。だから最善を作った。私の数少ないリアルの知り合いを使ってね」
分かってる。
マリは、現実の人間関係が壊滅的だ。
不遜で、やる気なくて、思ったことをそのまま言う。
だから人が離れる。
それでもマリは、わたしのために動いた。
感謝してもしきれない。……なのに、良心が痛む。
「……ま、好きになった人に迷惑かけたくないのは分かるけどさ」
「ちょ、待って。だ、誰がお兄ちゃんのこと好きだって――」
「分かるよ。親友だもん」
それだけで、口が止まった。
わたしも、マリのことは大抵分かる。
それと同じだ。
「さっちんは、お兄さんと宮崎先輩を重ねて見てる。私はどっちとも話したことないから、似てるとか知らないけど」
言い返しかけて、飲み込む。
わたしが先輩を「お兄ちゃん」って呼ぶこと。マリはそこを見ている。
客観的に見れば理由は二つ。
嫌がらせか、重ねてるか。
でも、どっちでもない。
……なのに説明できない。
結局、なんとなくで呼んでしまう。
それが一番、厄介だった。
「……さっちんが、お兄さんの死と自分の感情を天秤にかけて。後者が大事って言うなら、このまま過ごせばいい。波風立てないで、彼のそばにいればいい。私はそう思う」
理想だ。分かる。
でも、わたしには使命がある。
兄は、わたしにとって一番大事じゃなきゃいけない。
兄がなぜ死を選んだのか――それを知りたい。
もしそこに、黒澤サチが少しでも関与していたら。
償わなきゃいけない。
「今日はクリスマスイブ。終業式。ま、引きこもりの私たちには関係ないけど」
「ちょ、引きこもりって一緒にしないで」
「ふん。あんただって無断欠席ばっかでしょ」
痛い。反論できない。
祖父母も、もう強くは言わない。
兄の死が、それだけ重かったから。
マリの家にいるって嘘も、黙って受け入れてくれてる。
「今日は午前で終わる。それに貴方、月島に呼び出されてるんでしょ?」
「行くなら、今しかない」
マリの言う通りだ。
明日から冬休み。
家探しの機会は減る。
立ち上がる。
嫌われたくない。……でも、わたしにはもっと大事なものがある。
「行くよ」
机の上の手鏡で、ボサボサの髪を整える。
細くて絡まりやすい髪。触るのが癖になっている。
「……さっちんさ」
「ん?」
「髪、もう伸ばさないの?」
手が止まった。
「うん、まあ」
「それにしても短いよね。腰まであったのに、急に切って、ずっとそのまま」
鏡越しに自分の顔を見る。
確かに、まだ慣れない。
「……自分を奮い起こすため」
小さすぎて、マリには届かなかった。
それでいい。
他人に言うためじゃない。
「わたしたち、正義の味方なんでしょ?」
「私は、ね」
「わたしも、だよ」
幼い頃に憧れた姿を、思い浮かべる。
短いショートヘアの、あの人。
勇気を、少しだけ。
パンッ、と両頬を叩いた。
「行ってきます」
「うん。行っておいで」
わたしは暗い部屋を出た。
向かう先は、居候しているあの家。
合鍵が、手の中にある。
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