第22話
side 黒澤サチ
目が覚めた。
わたしはベッドに寝ていて、そばの椅子で兄が眠っていた。
身体を起こして、周囲を見る。
家じゃない。保健室みたいな部屋だ。
すぐに思い出した。
高速道路のサービスエリアで、両親とはぐれた。
気づいた時には、父と母は車ごと消えていた。
わたしは泣き叫んで、警察に保護された。
――ここは、警察署。
寝起きの兄に、今どうなってるのか聞いた。
兄は一瞬だけ詰まって、それでも言った。
「……捨てられた、らしい」
父は最近、借金を抱えていたらしい。
結果、父は母を連れて姿を消した。
警官は何度も「大丈夫」と言った。
でも、わたしは泣き続けた。
悲しかった。
いちばん愛していた母に捨てられたことが、ただ痛かった。
わたしが否定された気がして。
息ができないくらい、泣いた。
兄はわたしを抱えて、頭を撫で続けた。
両親を失ったことで、初めて兄が近くなった。
そこから先は、あっという間だった。
父には、息子以外の家族がいないことが分かった。
兄の母はすでに亡くなっていて、兄は父以外、天涯孤独。
だから、わたしたちは祖父母の家で暮らすことになった。
同じ市内でも、今の家より遠い。
あまりに急で、わたしは公園の二人に「さよなら」を言えなかった。
祖父母は優しかった。
母が毛嫌いして、会わせてもらえなかったんだと言って、抱きしめてくれた。
「寂しい思いをさせてごめんね」
その言葉が、胸に残った。
両親が突然戻ってきても困らないように。
祖父母はわたしたち兄妹を養子に迎えた。
難しいことは分からない。
でも、嬉しかった。
裕福じゃなかったし、母に捨てられた傷は消えなかった。
それでも、父といた頃よりずっとマシだった。
なのに兄は、相変わらず必要以上に話さなかった。
理由なんて、考えようともしなかった。
影が差したのは、二年後。
わたしが四年生になった頃だ。
深夜、目が覚めた。
リビングの灯りに引かれて、ふらふら歩いた。
押し殺した声が聞こえた。祖母の声。
少し開いたふすまから覗くと、祖父母と向かい合う兄の背中が見えた。
「ごめんなさいね」
祖母が言った。
兄が答える。
「いいえ。……仕方ないです」
祖母の声が、震える。
「お金がないの。あるけど、それは……サチちゃんのために取っておきたいの。ユキ君には申し訳ないんだけど、高校までしか面倒を見られないわ」
兄は、また同じ言葉を言った。
「仕方ないです」
そこで祖父が声を荒げた。
「誰のせいだと思ってるんだ!」
祖母が慌てて止める。
「お父さんっ。サチちゃんが起きちゃうわ」
祖父は吐き捨てるように続けた。
「お前の父親の連帯保証人を引き受けたせいで、金がないんだ。お前の父親の借金を、誰が払ったと思ってる」
知らない言葉ばかりで、わたしはその場に座り込んだ。
兄は頭を垂れていた。
祖父母も、相手が子どもだと気づいたのか黙った。
兄が、ぽつりと聞いた。
「……俺がいなくなれば。家を出れば、解決しますか?」
祖父は答えなかった。
祖母だけが泣いて、「そんな悲しいこと言わないで」と言った。
兄は学校で有名だった。
見た目も、成績も、運動も。口数の少なさすら「クール」で済まされる。
その未来を、わたしが奪っている。
そう思った瞬間、胸が潰れそうになった。
それから、わたしは兄を避けるようになった。
兄は何も言わなかった。
憎いのか、別の何かなのか。
分からないまま、時間だけが流れた。
兄とわたしの間には、その後も長く、何もなかった。
***
「正義の、味方?」
わたしは聞き返した。
その言葉は知っている。
――公園の「お姉ちゃん」が、よく言っていた。
沢田さんは頷いた。
「ええ。私は不器用だから、多くの人を救えない。だから、たった一人に届けばいいと思ってた。貴方は、その時に現れたの」
違うはずなのに、重なる。
わたしは沢田さんに、お姉ちゃんの影を見ていた。
沢田さんは頬から手を離して、先に教室へ戻っていった。
背中が校舎に消えるまで、わたしは動けなかった。
教室に戻ると、もういつもの騒がしさだった。
席について友達と話しながらも、頭は沢田さんでいっぱいだった。
次の瞬間、教室が静まった。
原因が、わたしの席の前に立つ男子だと分かった。
楢原君。
体格がよくて、声が大きくて、クラスの中心にいるタイプ。
彼は大声で言った。
「お前、親に捨てられたんだってな」
そこからは早かった。
持ち物が貧乏くさい、くさい、ブス、兄がすごいだけで調子に乗るな。
言い返さなかった。
こういうのは、黙ってやり過ごすのが一番だと知っていたから。
「ちょ、楢原! 何言って――」
止めに入ったのは、クラス委員の優木さんだった。
楢原君が噛みつく。
「うるせぇ! お前だって、こいつが黒澤先輩の妹だから仲良くしてるだけだろ!」
「何言ってるのよ!」
優木さんの声が震えた。
思い出した。
楢原君には好きな人がいて、それが優木さんだという噂。
嫉妬。
兄に向けられない分が、わたしに来てるだけ。
放っておけばいい。
そう決めた――はずだった。
楢原君が言った。
「どうせ、黒澤先輩だって碌な奴じゃねぇよ!」
それだけは、駄目だった。
気づいたら立ち上がっていた。
「あの人のことを悪く言うな!」
叫んでいた。
わたしのことはいい。
でも、兄だけは、貶されるのが耐えられなかった。
楢原君が一歩引いた。
でも、次の瞬間、怒鳴って肩を突き飛ばした。
「うるせぇ!」
身体が転がって、机の角に頭をぶつけた。
視界が揺れて、立てない。
「どうした!」
担任の声が飛び込んできた。
ぼやけた視界の向こうで、楢原君が先生に連れられていく。
「誰か黒澤を保健室へ連れて行ってくれ!」
「はい」
返事をしたのは沢田さんだった。
沢田さんはしゃがんで、肩を貸してくれる。
「立てる?」
頷いて、わたしは立ち上がった。
沢田さんに支えられて、保健室へ向かう。
ベッドに横になると、沢田さんが言った。
「やっぱり、私は貴方の力になりたいわ」
理由は分からない。
でも、不思議と嫌じゃなかった。
しばらくして、先生と楢原君が入ってきた。
楢原君は不満そうにしながらも、頭を下げた。
「……ごめんなさい」
その声は小さかった。
――その時。
廊下から、どたどたと足音がした。
保健室に飛び込んできたのは、兄だった。
息を荒らして、一直線に楢原君へ向かう。
兄は無言で、楢原君の胸ぐらを掴み上げた。
楢原君が縮こまる。
「やめなさい!」
先生が止めに入って、ようやく手が離れた。
兄が怒っているのが分かった。
わたしのために、怒ってくれているのも。
だから「ありがとう」と言うべきだった。
嬉しいって、思うべきだった。
なのに。
口から出たのは、それじゃなかった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
その六文字だけが、繰り返された。
身体が、震えた。
怖かった。
怒りに歪んだ兄の顔が、あの父にそっくりだったから。
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