第21話
side 黒澤サチ
気づけばわたしは、布団にくるまって、暗い部屋にいた。
ここは、前に暮らしていたわたしの部屋だ。
先月まで、この家にはほとんど、わたししかいなかった。
お母さんも住んでいたけれど、仕事が忙しくて家にいない。いても会話の記憶は少ない。
騒がしい場所が苦手な人で、家にテレビもなかった。
病院の保育所。
夕方になると児童施設になる幼稚園。
小学生になって、ようやくこの家。
学校から帰ると、お母さんは不在か、眠っているか。
ごはんは冷蔵庫に用意されていた。
不満はなかった。
お母さんが大変なのはわかっていたし、ごはんもおいしい。
静かな家が寂しい夜もあったけれど、慣れていた。
けれど、その生活は先月、変わった。
ガチャリ、とドアノブが回る。
わたしは起きていると悟られないよう、息を止めた。
人の気配が入ってくる。
静かにドアが閉まり、ペタペタと足音が近づく。ベッドのそばへ。
来るな。
そう言えたらよかった。
でも、言ったら殺される。そんな確信があった。
布団が、そっと剥がされる。
わたしは眠っているふりを崩さない。身体は冷え、男の手の熱だけが妙にはっきりわかった。
胸のあたりから、腹のほうへ。
そして、触れてほしくない場所まで。
気持ちが悪い。吐き気がする。声が出そうになるのを、必死で飲み込んだ。
耳元で、荒い息が聞こえる。
起きているのを気づいているんじゃないか、と何度も思う。
でも怖くて、ただ台風が過ぎるのを待つしかなかった。
やがて、その気配は去る。
時間にして三十分くらい。
触られているだけなのに、何時間にも感じた。
完全に気配が消えたと判断して、ようやく息を吐く。
声が漏れないようにするだけで、精一杯の深い溜息。
あの人は、父親。
先月、お母さんが再婚した相手だった。
父親は、わたしより二つ年上の男の子を連れて、この家に来た。
お母さんは三交代で家にいない。
だから、平凡なサラリーマンの父親と一緒にいる時間のほうが多かった。
ごはんも、ひとりじゃなくなった。
母を除く三人で食べる。
父も兄もあまり笑わないから、食卓は静かだったけれど――それでも、少しだけ「いいな」と思えた。
その小さな幸福は、すぐ崩れた。
母がいない夜。
父親がわたしの部屋に入ってくるようになったのは、同居を始めて一週間もしないうちだった。
最初は悪い夢だと思った。
昼の父は、自然だったから。
でも、夢じゃないとわかってから、わたしは父親を避けるようになった。
ベッドの上で膝を抱える。
明日もお母さんは夜勤。きっと、また――。
時計の針の音がうるさい。
心臓の鼓動がうるさい。
枕で耳を塞いで、声を殺して泣いた。
翌日。三人で夕ごはんを食べていた。
わたしは、父親から早く離れたくて、いつも急いで食べる。
今日も急いで平らげて、片づけようと立ち上がった。
「待て」
喉がひゅっと鳴った。
昨晩、起きているのがばれていた? 何かした?
震えながら振り返る。
「ごちそうさまくらい、言え」
それだけ。
わたしは早口で謝った。
「ごめんなさい」
すぐ離れようとして――腕を掴まれた。
背中が凍った。
次の瞬間、頬が弾けるように痛んだ。
大きな音。視界が揺れる。
手にしていた食器が落ちて、ガシャン、と割れた。
反応したのは、わたしじゃなかった。
今まで黙っていた兄が、机を叩きつけるようにして立ち上がった。
兄は何も言わない。
ただ、父をまっすぐ見た。
父親はわたしの腕を離し、兄のほうへ近づいた。
聞いたことのない汚い言葉が、次々に兄へ投げつけられる。
そして父は、兄の腕を引いて、寝室へ向かった。
扉が閉まり、鍵がかかったのか、音がした。
わたしは割れた食器を拾うので精一杯だった。
寝室から、ときどきドタドタと音がして、それがわたしの恐怖をさらに煽った。
その夜、父親はわたしの部屋に来なかった。
でも、眠れるはずがなかった。
***
翌日。
リビングで見た兄の顔は、紫色のあざだらけだった。見ていられない。
父親は、兄にだけ言った。
「しばらく学校を休め」
兄は無言で頷いた。
この一件で、お母さんは父親の暴力に気づきはじめた。
でも――わたしの身体に目立つ傷がないことに、どこか安心したのかもしれない。
お母さんは父親を刺激するようなことは、しなかった。
父のいないところで、一度だけ聞かれた。
「何もされていない?」
わたしは首を横に振った。
お母さんは父親を好きになって、結婚した。
本当のお父さんは病気で亡くなった、と聞いている。
今度こそ、お母さんには幸せでいてほしかった。
だから、わたしが我慢すればいい。
そう決めて、黙った。
父とわたしの関係は変わらない。
ただ、兄が父の部屋で殴られる頻度だけが増えた。
殴られるのは、服で隠れるところばかり。
着替えのたび、痛々しい傷を何度も見た。
それがあるほど、わたしは余計に言えなくなる。
――でも、少しだけ安堵もあった。
兄が殴られる夜、父はわたしの部屋に来ないから。
それでも、心は削れていく。
拠り所がなければ、きっと折れていた。
父は電車通勤で、定時でも家に着くのは早くて六時過ぎ。
放課後、それまでの時間。わたしは家に帰らず、公園へ行った。
そこには、二人の人がいた。
年齢は、わたしと大きく変わらないように見えた。
女の子は、毛先が肩に届かないショートヘア。
活発で、運動が得意で、よく笑った。
男の子は細いフレームの眼鏡が印象的で、穏やかで優しい。
いろいろなことを知っていた。
わたしは二人を「お姉ちゃん」「お兄ちゃん」と呼んだ。
二人そろっている日も、片方だけの日もあった。
でも放課後の公園に行けば、ほとんどどちらかはいた。
お姉ちゃんと遊ぶ日は、追いかけっこや遊具。
息が切れるまで走って、水飲み場で水を飲んで、一緒に笑う。
身体を動かすと、胸の奥のどす黒いものが薄くなる気がした。
お兄ちゃんが一人のときは、だいたい文庫本を読んでいる。
最初は隣に座って、ただぼうっとしていただけだった。
でも「小説」が気になって、お兄ちゃんが「面白かった」という本を借りた。
そこから、わたしは本を読むようになった。
お兄ちゃんは物腰が柔らかい。
それでいて、時々お姉ちゃんより頼りになった。
幼いわたしは、たぶん――恋をしていた。
家は息が詰まる地獄。
だから公園の時間は天国だった。
三人でわいわいしている時は、もっと楽しくて、宝物だった。
でも、宝物の時間が終われば、家が待っている。
父の虐待はエスカレートしていった。
慣れることなんて、最後までなかった。兄も同じだったと思う。
だからこそ、兄とわたしの間に特別な感情は生まれなかった。
父は一人。どちらかに矛先が向けば、もう片方はその日だけ安全。
少なくとも、わたしは兄を「気の毒だ」と思う余裕すら持てなかった。
――そもそも、なぜ兄が殴られ続けるのか。
理由なんて考えもしなかった。
黙っていれば殴られないはず、なんてことも。
ある日、父の残業で帰りが遅かった。
兄が急にお菓子を買ってきて、ぶっきらぼうに言った。
「やるよ」
受け取りはした。けれど、食べなかった。怖かったから。
わたしにとって「お兄ちゃん」は一人きり。
公園で待っている、あの人だけ。
一緒に住んでいる彼は、ただの兄。決して、お兄ちゃんじゃない。
いつか、お兄ちゃんを名前で呼べたらいい。
そんなことを考える日が増えた。
――そして、ある日。
お母さんが連休を取れた。家族旅行が決まった。
ただし、兄を除いた三人で。
父が、兄を連れて行くことを拒んだ。
行き先は海。あざだらけの身体を見られたくなかったのかもしれない、とその時のわたしは思った。
兄は承諾した。
玄関で、小さく手を振っていた。
わたしも、ほんの少しだけ振り返した。
車が発進する。
そして――その日に、全部が変わった。
***
午後最後の授業が終わり、掃除の時間。
「サチちゃん、今日元気ないよね」
「どこか悪いの? 先生に言って早く帰ろうよ」
「ううん、大丈夫」
教室担当の子たちが、箒を持ったまま集まってくる。
心配してくれているのは、わかる。だから笑って、ごまかした。
一人だけ、沢田さんは黙々と床を掃いていた。
わたしは気まずくなって、彼女の隣に並ぶ。
「ごめんね。みんな、悪気はないんだ」
小声で言うと、沢田さんは一瞥して言った。
「別に」
そして、わたしから少し距離を取る。
沢田さんは変わった人だ。
いつも一人。でも、いじめられているわけじゃない。自分からそうしている感じがする。
成績は抜群。容姿も整っている。
小柄だけど、それが余計に目を引いた。
掃除がひと段落したころ。
ゴミ袋を二つ抱えた沢田さんが言った。
「じゃあわたし、捨ててくる」
「あ、わたしも行くよ」
わたしは慌てて、彼女の腕から一つ受け取った。
沢田さんは小さく言う。
「……ありがとう」
彼女が先を歩き、わたしが追う。
ゴミ捨て場に袋を投げ入れて、背筋を伸ばす。
教室へ戻ろうとして――止まった。
「沢田さん?」
沢田さんが、ゴミ山の前で立ち尽くしていた。
背中が、どこか悲しそうだった。
「ねえ」
「うん?」
背中を向けたまま、沢田さんが言う。
「黒澤さんって、明るくて優しくて、本当に素敵ね」
「え……」
頬が熱くなる。照れ隠しで聞き返すこともできない。
沢田さんは続けた。
「なのに、どうしてそんなに苦しそうなの?」
その声に、身体が固まった。
沢田さんが振り返り、ゆっくり近づいてくる。
微笑みながら、言葉を重ねた。
「兄と一緒に転入してきたのが二年前。
貴方は容姿も良くて、誰とでも話せる。……ずっと気になってたの。
時々見せる、あの悲しい顔の意味が」
「……どうして、そんなこと聞くの?」
沢田さんは、わたしの頬にそっと手を当てた。
払いのけるのは簡単なのに、できなかった。
もう少しだけ、この人と話したいと思ってしまったから。
沢田さんは、静かに言った。
「私ね、正義の味方なの」
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