8.料理人の価値
「……わからない」
俺は、か細い声で、そう呟いた。
やることは簡単。記憶喪失の、無力な少女をとことん演じるんだ。
「あ? 何を言ってやがる」
「気がついたら、ここにいたんだ。自分の名前も、ここがどこなのかも…何も、思い出せない」
俺は、不安げに首を横に振ってみせる。
ギブは、胡乱げな目で俺を睨みつけていたが、やがて諦めたように、大きく息を吐いた。
「チッ…面倒なことによ」
俺は、すかさず口を開いた。
「なあ、教えてくれないか? ここはいったい、どこなんだ?」
ギブは面倒くさそうに壁に寄りかかると、退屈しのぎでもするように、腕を組んだ。
「世界の果ての底――通称、芥溜だ。濃い瘴気の壁に閉ざされた、罪人どもの廃棄場よ」
「瘴気…の壁?」
「ハッ、マジかよ。そんな常識も頭からすっぽ抜けたってか。魔素の淀みだ。大昔の大戦で神々が穿った、大地の傷跡よ。そっから今も、腐った魔素が吹き出し続けてる。魔素耐性のねぇ生き物なら、長くいりゃ魂ごと侵されて化物になるか、内側から腐って死ぬかだ」
ギブは、瓦礫の隙間から見える、遥か上方の仄暗い空を指差した。
「かつてここは、お前ら人間が築いた大都市だったらしいぜ。神の怒りに触れて、一夜にしてこのザマよ。地上の光も満足に届かねぇこの場所に落とされたが最後、魔に飲まれるか、野垂れ死ぬしかねぇ」
(魔素…。魔法が存在する世界の、エネルギーか。そして、この場所はそのエネルギーが淀み、猛毒と化した牢獄…)
世界の輪郭が、少しだけ見えた気がした。
「『料理人』が、貴重って…どういうことだ?」
その言葉に、ギブの目が、再び鋭く光った。
「てめぇ、本当に何も知らねぇんだな」
ギブは、砕け散った器の欠片を、惜しむようにブーツの先で転がした。
「…まあいい。あのスープは、本物だった。俺なりの敬意として、このクソみたいな世界の理を教えてやる」
ギブは、まるで吟遊詩人のように、厳かに語り始めた。
「この世界は、神が至高の美食を求めて創生されたと言われている」
「分かるか? 太陽も、大地も、そこに生きる全ての命も、元を辿れば神の食卓を彩るための『食材』でしかねぇ。そして、『料理』は、神にその才能を見出された、ごく一部の人間だけがすることを許される、まさに奇跡の御業だ。つまり、料理人こそが、この世界の主役なのさ」
「主役…?」
「ああ。本来、この世界の全ては神のモンだ。だが、唯一の例外がある。才能を認められた高位の料理人は、神から自らの『領地』を与えられる。そいつは神の代理人として、その地を料理の力で豊ながら運営し、新たな美食を神に献上し続ける義務を負う。それが、この世界の構図だ」
つまり、領地は…国…?
馬鹿な。そんな荒唐無稽な話があるか。料理人が王侯貴族を兼ねるのか?
前世で二つ星を取り、料理会では幅を利かせていた俺でさえ、ただの一人の職人でしかなかった。
それが、この世界では一国の王でもあるという。
まるで出来の悪いお伽噺だ。
だが、目の前の小鬼は、それを疑いようのない事実として語っている。
「ガキの頃に料理の才能――『聖痕』でも発現させりゃ、そいつは王族だろうが奴隷だろうが、即座に国の養成機関に引き取られ、手厚い保護を受ける。それくらい、本物の料理人は希少で、世界の宝なんだよ」
「聖痕…?」
俺は思わず、自分の手や腕を見回す。
そんな紋様、どこにも見当たらない。
「くくっ、滑稽な反応だな。まあ、説明してやるよ」
赤子をからかうような反応。
あのスープを口にしてから、トゲが一本抜かれたように雰囲気が柔らかくなっている気がした。
「この世界の全ての人類は神々の味見ってやつで二つに分けられる。聖痕のねぇ、ただ飯を食らうだけの『味無き者』。そして、神に選ばれ、料理人になる資格を持つ『味持ち』だ」
ギブは、俺を顎でしゃくる。
「つまり、あのスープを作れたてめぇが味無き者のハズがねぇ。どこかに聖痕があるはずだ。見せてみろ」
「ちょっと待ってくれ! 話の展開が少し早くて理解が追いつかない!」
「チッ。まあいい。じゃあもっと詳しく教えてやるよ。味無き者にも、天と地みてぇな階級がある。下から順にいくぜ」
ギブは、無骨な指を一本ずつ折りながら、説明を始めた。
「まず、一番下の第五階位『見習い』だ。聖痕はナイフ一本みてぇな、クソみてぇに単純な紋様よ。レシピ通りに料理を作るだけの、ただの猿真似だ」
「その上が、第四階位『職人』。聖痕にちょいと麦の穂みてぇな飾りがつく。こいつらあたりから、てめぇで考えた料理で、食ったやつの傷を癒したり、元気づけたりできる。街のレストランのシェフなんかが、ほとんどがこの階級だな」
「そして、第三階位。『料理長』。こいつらは本物のエリートだ。聖痕も、自分の料理みてぇに、ギラギラと輝き始める。高ランクのヤベェ食材を扱えるようになり、その料理は天候に影響を与えたりもする。神から直々に『味の領地』を与えられる、そこの領主様になるのがこいつらだ」
「さらにその上、第二階位が『巨匠』。九頭領土って、まあ、めちゃくちゃ力を持つ領土を統治するその時代の権力者たちがいるんだが、そいつらのことだな。聖痕は後光みてぇに揺らめいてるらしい。そいつらの一皿は、戦争を終わらせたり、不治の病を治したり、国を動かす。食ったやつの運命すら書き換えるって話だ」
ギブは最後に、天を仰ぎ、どこか嘲るように、あるいは畏れるように言った。
「そして、その頂点」
意を決したようにその名を口にする。
「全ての料理人が目指す最高階位。第一階位『味皇』。存在するのは、その時代において、ただ一人だけ。神専属の料理人――神にもっとも近しい存在だ。世界の理そのものを書き換える、まあ、もはや、お伽噺みてぇな扱いだけどな」
ギブの説明をうけて、料理人という価値がこの世界においてとても高いことはよく理解できた。
しかし――。
(それほどまでの存在だというのに…)
俺は、ギブが俺を見る目を思い出す。
それは、宝を見る目ではなかった。
汚物でも見るかのような、侮蔑の眼差し。
(この矛盾は、なんだ…?)
「じゃあ、どうして俺を、そんな目で見るんだ?」
俺の問いに、ギブの纏う空気が、再び氷のように冷たくなった。
「…千年前の大戦で、人間どもが何をしやがったか、知らねぇとは言わせねぇぞ」
ギブは、忌々しげに吐き捨てた。
その声には、まるで昨日のことのように生々しい憎悪が宿っている。
「…あー、いや。記憶がねぇんだったな、てめぇは」
ギブは一度言葉を切り、自らを諌めるように息を吐いた。
だが、その右目に宿る怒りの炎は、少しも衰えていない。
「お前ら人間は、その異常な繁殖力と、生まれつきの高い魔法適性で、一時代を築いた。だが、調子に乗りすぎた。神の領域を乗っ取ろうと画策し、自分たちが新たな神になろうとしたのさ。禁術で命を冒涜し、食材を穢し、食った者の魂ごと腐らせるような、反吐が出る料理を作りやがった」
「結果は、言うまでもねぇ。神の逆鱗に触れ、大敗し、人間は魔法を使う権限も、尊厳も、全てを剥奪された。だが、繁殖力だけはゴキブリ並みだからな。単純な労働力としては役に立つ。奴隷階級に落とされることで、種の存続だけは許された」
「まあ、そんなんだから、今じゃそこらの魔物以下の、肥溜めに湧くゴキブリみてぇな扱いなのよ」