7.侵入者の正体
沈黙。
ゴブリンは、ゆっくりとこちらの領域へと足を踏み出した。
一歩、また一歩と、決して警戒を解かずに。
そして、俺の姿を明るみの下ではっきりと視認すると、燃えるような右目が侮蔑の色に細められる。
俺もまた、その姿をしっかり確認して、思わず息を呑む。
(こいつ…只者じゃないな)
全身に刻まれた古傷は、彼が生き抜いてきた死線の数を物語っている。
引き締まった肉体には、一切の無駄がない。
過酷な環境で鍛え上げられた、極上のジビエのような、凝縮された生命力。
「ふん。金髪が目立つもんだから、どこぞの耳長族の生き残りかと思ったが…よりによって人間か。こんな世界の果ての底で、しぶとく生き残れてたとはな」
小鬼は、俺の姿を頭の先からつま先まで嘗め回すように見ると、あからさまに舌打ちをした。
その仕草一つに、人間という種族への根深い侮蔑と嫌悪が滲み出ている。
「まあいい」
小鬼の視線が、俺の手にあるスープの器へと注がれる。
するり、と腰のショートソードが半分ほど鞘から抜かれ、黄金色の光を鈍く反射した。
言外の威嚇。逆らえば、その刃が俺の喉を掻くだろう。
「俺の名はギブ。ここら一帯は俺の縄張りだ」
先に名乗るのは自らの格への絶対的な自信の表れである。
知らなければ、それは知らぬ方が悪いのだと傲慢さは時として優位に働く。
「匂いにつられて来てみた甲斐はあったようだな」
ギブと名乗った小鬼は、俺が身動き一つできないのを見透かしたように、ゆっくりと厨房の中を歩き回り始めた。
石窯の余熱、転がった歪な調理器具、そして俺自身を、まるで自分の財産を検めるかのように。
「こんな瘴気の奥地に、まだ使える『厨房』が残っていたとはな」
(使える、厨房…? なんだこの妙に引っかかる言い回し…)
ギブは、俺の手にあるスープの器を、顎でしゃくってみせた。
「さあ、本題だ。腹が減った。そいつを寄越せ」
その態度は、あまりにも当然と言わんばかりの不遜なものだった。
俺が躊躇しているのを見て、ギブは鼻で笑う。
「ああ? まさか断るなんて言わねぇよな? ここは法の存在しねぇ芥溜だぜ? 弱いモンから奪うのが、ここの唯一のルールだ。てめぇみてぇな非力な小娘の腕の一本や二本、へし折るのは赤子の手をひねるより簡単なんだが…試してみるか?」
(腹の底が冷えるようだ…)
血と暴力が支配する世界で、自らの牙だけで君臨してきた本物の怪物。
まるで、檻から放たれた虎と対峙しているかのようだ。
下手に動けば、即座に喉笛を噛み千切られる。
むき出しになった命のやり取りに腹の底で恐怖が渦巻く。
だが、それ以上に、シェフとして数多の修羅場をくぐり抜けたときのように、不思議と思考は凪いでいた。
――ここで敵対するのは、最悪の愚策だ。
「……どうぞ」
俺は、スープの入った器を、そっと差し出した。
「ふん、利口な判断だ」
ギブは鼻を鳴らし、器を乱暴にひったくると、その中身を一気に呷った。
(馬鹿なのか… 味見もせずに…)
その無防備さ、いや豪胆さというべきなのか。
ギブの性格に一瞬驚くが、直後、俺はそれ以上に信じられない光景を目撃することになる。
ゴクリ、と喉を鳴らしたギブの動きが、ぴたりと止まった。
燃えるような右目が、ありえないものを見たかのように、カッと見開かれる。
そして、その反対側にある、古傷で無惨に潰れた左の眼窩が、痙攣するように引き攣った。
「なっ……」
次の瞬間、ガシャン! というけたたましい音と共に、ゴブリンの手から器が滑り落ち、砕け散った。
「う……おお……ッ!」
ギブは、自らの喉を押さえ、呻いている。
その巨体が、わなわなと震えていた。
(毒か!? いや、そんなはずは…記憶通りに作ったはずだし、俺は何度も味見をしてる…)
だが、ここは異世界だ。確証はない。
最悪の事態を想定して俺が身構えた、その時だった。
ギブが、ゆっくりと顔を上げた。
その右目から、先ほどまでの傲慢と侮蔑は、綺麗に消え失せていた。
代わりに宿っていたのは、純粋な興味と、そして――神の奇跡を目の当たりにしたかのような、歓喜の色だった。
「……何者だ、てめぇ」
絞り出すような声だった。
(……ひとまず、賭けは、成功したか)
俺は、内心で安堵の息を吐く。
この反応。ゴブリンが口にした使える『厨房』という言葉。
(間違いない…)
この世界で、「料理」は、そして「料理人」は、俺が考えている以上に、特別な価値を持っている。
(だから、こいつは俺を殺さない。少なくとも、簡単には…)
情報収集だ。
生き残るために、そしてこの世界のルールを知るために、使える手は全て使う。