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6.スープ作りの心得


記憶と、先ほど目にした光景を頼りに、俺は再び瓦礫の隙間へと向かった。


(軽いな、この身体は…)


長年厨房で鍛え上げた、あの重く分厚い肉体とはまるで違う。

ガラス細工のように繊細でありながら、その動きはまるで、俺の意思を先読みしているかのように滑らかに吸い付いてくる。


それだけではない。

奈落の墓場のような静寂の中で、耳は天井から水が滴る微かな音の反響まで正確に捉え、鼻は瓦礫と土に混じる、鉱物の匂いを嗅ぎ分けている。


まるで、伝説の職人が鍛え上げた、一本の曇りもない名刀そのものになったかのようだ。


涙玉が埋まっていたのは、かつて貯蔵庫だった場所。

崩れた天井から絶えず水滴が落ちることで、瓦礫と塵の中に奇跡的に生まれた、小さな湿地帯のような場所だ。


(この絶え間ない水滴と、痩せた土壌。過酷な環境が、逆に雑味のない純粋な甘みだけを凝縮させているのか…)


朽木茸は、レストランのメインダイニングを支えていたであろう、巨大な梁だった木材に群生していた。

今は無残に折れ、横たわっているが、その朽ちかけた太い樹の芯から、最後の養分を吸い上げるように生えている。

(なんて名前の樹かはわからないけど、これだけ朽ちてもすごい存在感だ…まだ芯に豊かな芳香を保っている。その最後の生命力を吸った若い個体。…たくましいな)


そして雫蔦は、吹き抜けだったであろうホールの、高いアーチ状の天井から垂れ下がっていた。

奈落の底の僅かな光を求めるように、細く、しかし力強く伸びている。

(粘り気がない。まるで夜明け、花が開く瞬間の香りだけを捕まえて、一滴の水に封じ込めたかのような清涼感…)


俺は石窯で静かに揺らめく黄金色の炎に、乾いた木片を差し入れた。

燃え移った聖なる炎を、慎重に竈門(かまど)へと運び、新たな火を灯す。


「さあ、始めようか」


鋭く割れた鉱石を包丁代わりに、平らな石をまな板にして、食材を切り分けていく。

すると、どうだ。

まるで手が、この食材の扱い方を覚えているかのように、自然と最適な角度で刃を滑らせていく。

俺の技術とは違う、この身体に刻まれた柔らかな記憶が、俺の動きを導いているかのようだった。


あの水たまりから汲んできた澄んだ水と共に、涙玉と朽木茸を歪な鉄鍋に入れる。

竈門の黄金色の炎にかけ、ごく弱い火力で、ゆっくりと、ゆっくりと温度を上げていく。


決して沸騰させない。

表面が僅かに揺らぐだけの状態――フランス料理で言うところの「フレミール(frémir)」を保つ。


こと…こと…と、まるでスープが穏やかに呼吸しているような、か細い音だけが響く。

俺はその音、香り、湯気の立ち方、全てに五感を集中させる。

この眼前の料理だけに没頭する時間。かつての忙殺する城では久しく体験できなかった贅沢な時間。

ただ、鍋の中の食材たちの声に耳を澄ませる。


やがて、スープの表面に、黒く濁った灰汁が浮かんできた。

フランス料理の世界では「エキューム(écume)」と呼ぶ。

これは単なる雑味じゃない。

素材の生命力が熱で変化した、最初の叫びだ。


そこには、料理の純度を損なう「雑音(ノイズ)」と、旨味の源流となる「可能性」が混在している。


料理人の仕事は、この中から鋭い感性で「雑音(ノイズ)」だけを見極め、完璧に取り除くことだ。


大きな葉っぱをレードル代わりにし、そっと液面に差し入れる。

コト、コト、コト……。静かな時間が流れていく。


どれくらいの時間が経っただろうか。


禍々しかった黒い灰汁は消え失せ、鍋の中の液体は、ただの黄金色ではない、まるで溶かした琥珀のように、光そのものを内包して輝いていた。

表面には、宝石のような油滴がキラキラと浮かんでいる。


俺は指先に、塩を一つまみ取る。


(塩は味を加える調味料じゃない。眠っている味のポテンシャルを解き放つための、鍵だ)


輪郭をなぞるように指でスープを撫でて少し味見をする……が、まだだ。味が、眠っている。


パラリ、と白い結晶が宙を舞った。

まるで化粧をするようにスープに溶けていく。


一混ぜして、もう一度。

……まだだ。扉をノックしているだけだ。


もう一つまみ。頼れるのは料理人としての研ぎ澄まされた感覚のみ。


すると、今までぼやけていた味の輪郭が、くっきりと姿を現した。

甘みが、コクが、手を取り合って踊り始める。……今だ。


火から下ろした鍋に、仕上げとして雫蔦の雫を数滴、落とす。


ふわり、と。

厨房を満たす、甘く、そしてどこまでも優しい香りが完成した。


――その瞬間だった。


今まで沈黙していた石窯の、龍の彫刻。

その空虚な瞳が、とくん、と。

わずか一瞬だけ、心臓の鼓動のように、温かな光を放ったのを、俺は見逃さなかった。


…気のせい、だろうか。

そんな思考は目の前の奇跡に上書きされるように奪われる。


俺は、震える手で、その黄金色のスープを、欠けた器にそっと注いだ。


湯気と共に立ち上る、かぐわしい香り。

それを吸い込んだ瞬間――。


まず、全身を貫いたのは、圧倒的な「温もり」だった。


(……ああ)


それは味や温度ではない。

魂の根幹を肯定するような、静かで絶対的な慈愛の感覚。

永い放浪の果てに、ようやく還るべき場所を見つけたかのような……。

その感情の奔流に、思わず膝が折れそうになるのを、必死に堪える。


柄にもなく、目頭が熱くなった。

だが、それだけではなかった。


スープを口に含んだ瞬間。

舌が、脳が、悲鳴を上げる。


(なんだ、この情報量は……!?)


味じゃない。

これは記憶の奔流だ。


舌の上に、貯蔵庫のひんやりと湿った土の感触が、樹の梁が過ごした、静かで誇り高い歳月が、夜明け前の、最も清浄な一瞬の空気が、流れ込んでくる。


食材の物語が、俺の魂に直接語りかけてくる。


前世の俺は、ワインに含まれる僅かなミネラルの差から、それがどの畑の、どの区画で採れた葡萄かまで当てることができた。


だが、これはどうだ? これは、もはやそういう次元の話ではない。

この味覚は、俺のものじゃない。この肉体の少女のものだ。


(……ありえない。こんな舌が存在するのか? これは、もはや生前の俺を超えている…?)


俺が鍛え上げた技術と、この身体が持つ規格外のポテンシャル。

その二つが合わさって、この奇跡は生まれたのだ。


(一体、何者だったんだ……? この身体の持ち主は――)


俺の神様は、いつだって皿の上にいた。

そして、今も――この鍋の中に、確かに存在していた。


この温かさを、いつか誰かと分かち合えたなら。

前世で叶わなかった、ただ誰かと食卓を囲むという、あのささやかな夢が、いつか…。


――その、時だった。


ゴ……ゴリ……ッ、という瓦礫の擦れる音。

ズル……ッ、と何かを引きずる不気味な足音。

飢えで威嚇するような、獣じみた荒い息遣い。


この神聖な空間には、あまりにも不釣り合いな、粗野で貪欲な気配。


闇の奥から、そいつはゆっくりと姿を現した。


ゴブリンだ。

しかし、それは、ファンタジーの創作物で描かれるような、小さくて卑しく、弱さの象徴として描かれる小鬼ではなかった。


暖炉の黄金色の光に照らし出されたそいつは、長身で、分厚い胸板を持つ、屈強な一体の戦士。

使い込まれて柔らかくなった革のロングコートが、その鍛え上げられた肉体を無造作に包んでいる。


歴戦の証である無数の傷跡が、古木の年輪のように、硬質な緑の肌に刻まれている。

特に、左の目蓋を縦に走る一筋の古い傷は、その下の眼球を白濁させ、彼が潜り抜けてきたであろう死線の苛烈さを物語っていた。


だが、俺が息を呑んだのは、その歴戦の風貌以上に、残された右目に宿る光だった。


獣じみた飢えではない。

戦場で生き抜き、勝ち続けてきた者だけが持つ、絶対的な強者の風格がそこにはあった。


腰に下げられたショートソードの柄は、長年握り込まれたことで、黒く滑らかに変色している。

それは、彼にとってその武器が、もはや体の一部であることを示していた。


ゴブリンは、獲物を判別する狩人のような視線で、俺の持つスープ、俺自身の顔、そして部屋の奥で微かな光を放つ石窯へと、探るような視線を滑らせる。


ふん、と一度、鼻を鳴らす。

それは、獲物を見つけた獣のそれではない。

予期せぬ場所で希少な宝を発見した、老練なハンターの仕草だった。


やがてゴブリンは、傷跡の残る唇の端を吊り上げ、にやりと笑う。

折れた牙の間から、下卑た、しかし確信に満ちた声が漏れた。


「……瘴気の壁が薄れたから様子を見に来たが… まさか、こんな掃き溜めで『料理人』の生き残りに会うとはな」

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