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5.記憶の中のレシピ


俺は瓦礫の山を漁り、使えそうなものを探し出していた。


ひしゃげた鉄製の鍋は、石で叩いてなんとか形を整えた。

包丁代わりになるのは、鋭く割れた謎の鉱石の破片。

まな板は、表面が平らな石で代用する。

木の棒が菜箸になり、大きな葉っぱが皿やアク取りになる。


どれもこれも、ガラクタの寄せ集め。だが、機能としては十分だ。


フッと、乾いた笑みがこぼれた。


前世の俺なら、今の俺を見て鼻で笑っただろう。

最高の食材、最高の器具、最高の環境。

その全てがなければ、神は皿の上に降臨しないと信じて疑っていた。


だが、今は違う。

この何もない奈落の底で、俺は料理の、いや、人類の歴史そのものの原点に立っている。


だから、創るんだ。


俺の第二の人生の始まりを告げる、産声となる一皿を。

そして、罪深かった俺の過去への、鎮魂歌(レクイエム)となる一皿を。


作るものは、決まっていた。

「ブイヨン・ド・レギューム【Bouillon de légumes】」


日本語にすれば、なんてことはない。「野菜だし」だ。

だが、それはあらゆる料理の“(ベース)”となる、始まりの一滴。


前世の俺は、この(ベース)を誰よりも完璧に作りながら、自分自身の足元を見ていなかった。


脳裏に、あの日の厨房の光景が焼き付いている。


完璧に磨き上げられたかつての王城テラ・ディヴィーナの厨房。

その中で一人の見習い料理人ーー動画で俺を誹謗中傷した若者が、緊張した面持ちで寸胴鍋をかき混ぜていた。


「天海シェフ、ブイヨン、味見をお願いします!」


俺はレードルで黄金色の液体をすくい、光に透かす。

その中に、ほんの僅か、糸くずのような濁りが見えた。

それだけで、十分だった。


俺は無言で寸胴鍋の取っ手を掴むと、床の排水溝へと、熱いスープの全てを流し捨てた。

ジュワァァ、という悲鳴のような音と、湯気が立ち上る。


「なっ……! シェフ、どうして……!」


彼は涙混じりに困惑する。

俺は冷たく彼を見下ろし、静かに、だが厨房の誰にでも聞こえるように言った。


「ウチのディナーが、一人いくらか知っているか?」


「え……?」


「客はな、数ヶ月前からこの日を夢見て予約し、一張羅を着て、人生で一度きりの記念日に、俺の料理を食べに来る。彼らは料理を食いに来ているんじゃない。日常を忘れさせてくれる、完璧な『奇跡』を体験しに来ているんだ」


俺は、空になった寸胴鍋を指差す。


「この一滴の濁りが、客の百日の夢を汚す。俺たちが積み上げた全ての仕事を、無に帰す。これはもうスープじゃない。客の期待に対する、裏切りだ」


そして、俺は彼の目を見据えて、宣告した。


「俺の厨房に、客を裏切る料理人は必要ない。……消えろ。二度と俺の前に顔を見せるな」


あの時の、絶望に歪んだ彼の顔を、そして動画内で自分の正義を振りかざした彼の声を、俺は忘れることができない。

俺は客の夢を守るためなら、仲間の夢を壊すことさえ厭わなかった。

それが、俺が信じた唯一の正義だったからだ。


(だから、今こそ)


このスープを作ることは、料理人として、いや、一人の人間に立ち返るための儀式なんだ。


ブイヨン・ド・レギュームは誰か一人の天才の発明じゃない。


そのルーツは、中世の農民たちが生きるために鍋を囲んだ名もなき「ポタージュ」。

それがフランス料理の歴史の中で体系化され、皇帝エスコフィエが「理論」に高め、やがてマギー社によって「ブイヨンキューブ」として世界中の家庭に革命を起こした。


名もなき知恵と、天才の探求心、そして技術。

歴史そのものが凝縮された一滴。


(俺がこの奈落の底でやるべきことは、決まってる)


歴史の再現だ。

この異世界で、俺が知る地球の叡智を、この手でゼロから創り上げてみせる。


とはいえ、理想と現実は違う。


(……問題は、肝心の香味野菜が絶望的に足りないことか)


ブイヨン・ド・レギュームの味の骨格(ボディ)を組み立てるのは、最強の冒険者パーティを組むようなものだ。


まず、タマネギのような野菜がもたらす「甘み」。

これはパーティの最前線に立ち、全ての攻撃を受け止める屈強な「盾役(タンク)」だ。

この盾役がしっかりしていないと、パーティは一瞬で崩壊してしまう。


次に、ニンジンやキノコがもたらす「コクと深み」。

これは戦いの主役となる、パワフルな「剣士(アタッカー)」や「魔法使い(ソーサラー)」たちだ。

彼らが多彩な技を繰り出すことで、味に物語と満足感が生まれる。


そして、ハーブが奏でる「清涼感のある香り」。

これは敵の急所を的確に射抜く、敏腕の「弓使い(アーチャー)」の仕事だろう。

この適所を射抜く後方支援のおかげで、他の食材たちの戦闘バリエーションが増える。


(パーティメンバーが一人もいないんじゃ、戦いようがねぇ……)


「……いや、待てよ」


ふと、先ほどの塩やガラクタ集めで建物中を探索したときの光景が脳裏をよぎる。


まな板代わりの石を探して瓦礫をどかした時、湿った土の中に真珠のような白い球根が埋まっているのを見た。

包丁代わりの鉄片を、腐った梁から引き剥がした時、その木材の断面に、ぷっくりとしたキノコが群生しているのが見えた。

天井を見上げた時、亀裂から垂れ下がる蔦の葉先に、朝露とは違う、妙に澄んだ雫が宿っていることに気づいた。


(あれらは、一体なんなんだ……?)


俺の、シェフとしての嗅覚が、魂が、警鐘と福音を同時に鳴らしている。

あれは、ただのガラクタじゃない。食材が持つ、生命の「圧」がある。

食べれば、絶対に美味い。


しかし、異世界における未知の食材。リスクの塊。

だが、同時に、この状況を打開できる唯一の希望かもしれなかった。

「考えろ……っ!」


苛立ちのまま、近くの壁を殴りつける。

その瞬間、崩れかけた壁の表面を覆っていた、湿った苔に指が触れた。


――ズクリ、と。

脳の奥深く、これまで固く閉ざされていた扉が、軋むような音を立てて開いた。

苔のひやりとした感触と、土の匂いが引き金になったらしい。


目の前の景色が、ぐにゃりと歪む。

石窯の炎が、無数の光の粒子となって霧散していく。


これは、俺の記憶じゃない。

この身体の持ち主――彼女の記憶だ。




陽光が降り注ぐ、緑豊かな厨房。

彼女は鼻歌交じりに、まるでダンスでも踊るかのように軽やかなステップで、調理台に向かう。


『さあ、始めようか! 私の宝物庫で、最高のパーティの始まりよ!』


その声は、太陽のように明るく、天真爛漫な喜びに満ちていた。


『まずは、涙玉(なみだま)ちゃん。いつもありがとうね。あなたがいないと、始まらないんだから!」


湿った土から掘り起こされた、真珠色の球根。

彼女はそれに愛おしそうに語りかける。熱した鍋に入れると、じゅわっと音を立て、刺激的な香りが一瞬で甘く香ばしい匂いに変わっていく。

黄金色の飴色に変わっていくその姿に、彼女は「綺麗……」とうっとりとため息を漏らした。


『次は、朽木茸(くちきだけ)さん。あなたの深い香りを、どうか私めに少しだけ分けてくださいな」


古い倒木から、傘の開いていない、ぷっくりと丸いものだけを選んで摘み取ったキノコ。

鍋に入れると、雨上がりの森の土のような、深く落ち着いた香りが立ち上る。

彼女は目を閉じ、その香りを胸いっぱいに吸い込む。


『最後は雫蔦(しずくづた)の涙を少しだけ』

壁を伝う蔦の葉先に宿った、朝露のような透明な雫。

葉そのものではなく、この雫だけをそっと集める。

指先で軽く潰すと、まるで空気を丸ごと閉じ込めたような、どこまでも澄み切った瑞々しい香りが弾けた。

彼女はそれを嗅いで、子供のようにはしゃいだ。



ハッと我に返ると、俺は再び薄暗い厨房の廃墟に立っていた。

額には、びっしょりと汗が滲んでいる。


(……そういうことか)


なるほど。

この身体に残された記憶が、俺の「レシピ」になるわけだ。

さっき俺が見た、あの未知の食材たちの。


この身体の持ち主が、どこの誰で、どんな人生を送っていたのか。

そんなことはどうでもいい。


だが、確信できることが一つだけある。

彼女は、料理を心の底から愛していた。

食材を慈しみ、食べる人の笑顔を何よりも大切にしていた。


……俺と同じ、「料理人」という人種だ。

それも、俺が失ってしまった輝きを持つ、本物の。


俺は、自分の胸にそっと手を当てる。


(……誰だか知らんが、感謝する。あんたの(レシピ)、俺が最高の形で蘇らせてやる)


口の端が、自然と吊り上がるのが分かった。

記憶と、先ほど目にした光景を頼りに、俺は再び瓦礫の隙間へと向う。

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