4.不滅の王
龍の頭を模した石窯に宿った黄金色の炎が、まるで蘇った心臓のように、とくん、とくん、と生命力溢れる鼓動を始めた。
その光は、この見知らぬ美少女の翠色の瞳に、揺らめく希望の光を映し出していた。
人類発展の歴史、その起原と言っても過言ではない「料理」の歴史は、この火から始まったのだ。
偶然か、あるいは必然か、手に入れた「火」という奇跡。
それを使って、ただの「餌」を、初めて意味のある「料理」へと昇華させた、名もなき祖先たちの物語。
今、俺は、その偉大な先人たちと同じ始まりの場所に立っている。
(……さて、と)
料理の土台は整った。
次はもちろん、食材探しだ。
とはいえ、この厨房の惨状を見渡して、まともに使える食材が残っているとは思えない。
さっきは死ぬ寸前だったから、何も考えずに水たまりの水や雑草を口にしてしまったが、本来なら自殺行為だ。
ましてやーー。
「ここ、異世界だもんなぁ…」
知識のない食材を口にするなんて、毒見役のいない王様の食事よりよっぽど危険だ。
未知しかないと思った方がいい。
ただ、幸運なことに、あの蔓から滴る水と、水たまりの周りに生えていた草は、食べても問題ないどころか、身体に力がみなぎってくることが判明している。
(水と、草……それに、火か)
これだけでも、焼いた草とか、草を煮た汁とか、何かは作れる。
だが、シェフとしての俺の魂が、それを許さなかった。
それは餌だ。腹を満たすだけの、作業だ。俺が人生を捧げた「料理」という、文化への冒涜だ。
せっかく味覚が戻ったんだ。
最高のコンディションで、最高の味を、この舌で感じたい。
そのためには、味の骨格を組み立てる、絶対的な何かが必要だ。
(……考えろ。俺の知識を総動員しろ)
前世の厨房で、俺が扱っていた味の基本要素。
甘み、酸味、脂肪、そして塩味。
この中で、この時の牢獄のような場所で、腐敗を免れて生き残れる可能性があるものは?
まず、脂肪。
ありえない。動物性の脂も、植物性の油も、酸化して不快な臭いを放つ、ただの毒に変わっているはずだ。
次に、甘み。
粘度の高い蜂蜜なら可能性はあるかもしれないが、糖分は虫や微生物の大好物だ。食い尽くされてしまって無事なはずがない。
酸味。
酢や果汁などもってのほかだ。
そうなると、残るは…。
(——塩か)
俺は、前世の記憶を手繰り寄せる。
なぜ、塩だけは残っている可能性があるのか。
理由は単純明快。
塩は、不滅の王だからだ。
塩そのものは鉱物で、有機物じゃないから腐らない。
それどころか、塩は自らの領地で、他の全ての生命を支配する。
微生物が繁殖するには水分という名の命が必要だが、塩はその命を、浸透圧という名の圧倒的な力で細胞から根こそぎ奪い取り、干からびたミイラに変えてしまう。
この腐敗と崩壊が支配する世界で、唯一、時を超えて君臨できる独裁者。それが、塩だ。
(つまり、純粋な塩の塊なら、何百年、何千年経とうが、その性質は変わらないはずだ)
まあ、あくまで地球の常識に当てはめたらの話ではあるが。
俺は、一縷の望みを託して、厨房の奥にあるはずの貯蔵庫へと向かった。
その光景は、地獄だった。
崩れ落ちた棚から転がり落ちたであろう木樽は、中身ごと腐り果て、床に黒い染みとなってこびりついている。
鼻をつくのは、酸っぱい発酵臭と、カビの胞子が混じったような、むせるような悪臭。
壁際の麻袋は、中に入っていたはずの穀物が風化して、砂のように崩れ落ち、無残な残骸を晒している。
梁に巻きつくようにしてぶら下がっているのは、特徴的な鱗を持つ、巨大な蛇の形をした干物だった。
その蛇には、コウモリのような皮膜の翼が生えており、宝石のように輝いていたであろう鱗は、今は色褪せて埃をかぶり、鱗の隙間からは、白い骨が覗いている。
地球上の、どんな文献にも載っていない、空想上の食材。
その、成れの果て。
(……やはり、ここは異世界か)
諦めかけた、その時だった。
瓦礫の山の奥、ほとんど光も届かないような隅の方に、一つだけ、ポツンと佇む、重厚な壺が目に入った。
他の木樽や麻袋とは明らかに違う、石か陶器で作られたであろう、どっしりとした壺。
その口は、分厚い蝋で厳重に封印されていた。
(……頼む!)
祈るような気持ちで、俺は壺に駆け寄る。
固く封をされた蝋を、爪が剥がれるのも構わずに、必死に削り取っていく。
そして、ついに、分厚い石の蓋を、渾身の力で持ち上げた。
壺の中から現れたのは——。
純白の、結晶だった。
長い年月の中で、湿気を吸って少し固まってはいたが、それは紛れもなく、俺が探し求めていた、希望の塊。
——塩だ。
俺は、その一粒を指先にとって、試練に挑む賢者のごとく、そっと舐めた。
舌の上に広がる、懐かしい、しょっぱさ。
だが、それはただの塩味ではなかった。
生前舐めたどんな高級な塩味よりも、輪郭がはっきりとしている。
微かに甘みを帯びた、ミネラルの豊かな、最高の岩塩の味がした。
これで、役者は、そろった。