3.炎の産声
ゆっくりと、何度も味を確かめるように、蔓から滴る水と、足元に生える草を口に運ぶ。
一つ一つの味を、失われた神聖な記憶を脳裏に刻み込むかのように、丁寧に、丁寧に。
どれくらい時間が経っただろうか。
涙はいつしか止まり、代わりに、身体の奥底から、じんわりとした温かいものが湧き上がってくるのを感じた。
(……なんだこれ……?力が……みなぎってくる……?)
さっきまで、指一本動かすのにもあれだけ苦労したのが嘘のように、身体が軽い。
関節の軋みも、筋肉の痛みも和らいでいる。
錆びついていたはずの肉体が、まるで長い冬眠から目覚めた獣のように、生命力を取り戻していくのが分かった。
(……この水と草に、何か秘密があるのか?)
理由は分からない。
分からないが、今はただ、この身体の自由が嬉しかった。
しかし、腹の虫は、まだ満足していなかった。
ぐぅぅ、と腹の底から、催促するように音が鳴る。
さっきの食事は、乾ききった大地に染み込んだ、ほんの数滴の雨水のようなものだ。
焼け石に水、とはまさにこのことだろう。
(ただの飢えじゃない…)
腹の底から突き上げてくる、この獣のような渇望。
しかし、その正体は、もはや単なる空腹ではなかった。
蘇ったこの舌が、俺の魂が、叫んでいる。
もっと、ちゃんとしたものを——いや、違う。
俺の手で、“料理”を創り出せ、と。
その渇令は、冷えきっていた魂に火を灯す、最初の熾火だった。
全身の細胞が、歓喜の声を上げているのが分かる。
最高の食材を前にした時と同じ、あの身を焦がすような創作意欲が、俺の内側で荒れ狂っていた。
もう、ふらふらと彷徨うだけの亡霊ではない。
俺は、よろめきながらも、しかし確かな足取りで立ち上がる。
向かう先は、決まっている。
あの瓦礫の山——俺のかつての神殿であり、戦場。
あの、厨房だった場所だ。
瓦礫を乗り越え、厨房の残骸へと足を踏み入れる。
そこは、時間が止まったままの世界だった。
崩落した天井の隙間から差し込む光が、壁にかけられたままで朽ち果てた巨大な銅鍋を鈍く照らす。
その表面には、無数の蔦が、まるで忘れられた王国の地図のように広がっていた。
長い石の調理台には、分厚い埃の下に、使い込まれた無数の切り傷が刻まれている。
壁には、銀色に輝く奇妙な形の薬草が束になって吊るされ、俺が指で触れると、ぱらぱらと音を立てて灰に変わった。
そして、部屋の奥に鎮座していたのは、龍の頭部を模した、巨大な石窯。
その口は大きく開いているが、自らの死を悼むかのように、沈黙を続けている。
石窯があっても、火がなければ、料理はできない。
俺は、語りかけるように優しく、その冷えきった石窯に手を触れた。
その、瞬間——。
ーーずくり、と。
冷たいはずの石に、まるで血が通うかのような、微かな温もりが宿った。
脳を直接焼かれたかのような衝撃と共に、視界が真っ白に染まる。
錆と腐敗の匂いが消え、代わりに、焼きたてのパンの甘い香りと、肉が焼ける香ばしい匂いが鼻腔を満たす。
遠のいていく俺自身の思考。
…これは、俺の記憶じゃない。
俺は、見ていた。
いや、彼女の翡翠色の瞳を通して、感じていた。
目の前には、さっきまで死んでいたはずの厨房が、陽気な音楽と温かな太陽のきらめき、活気と熱気に満ちている光景が広がっていた。
カンカン、と小気味よく包丁がまな板を叩くリズム。
ジュウ、とフライパンの上でソースが踊る音。
様々な種族の料理人たちが、怒鳴り合い、そして笑い合いながら、戦場のように、それでいてどこか楽しげに動き回っている。
そして、俺の、いや、“彼女”の華奢な手が、ゆっくりと石窯へと伸ばされる。
俺の知る、ゴツゴツとした料理人の手とは違う、白魚のような、繊細な指先。
彼女は、まるで愛しい我が子をあやすかのように、優しく石窯を撫でた。
そして、頭の中に、直接響く。あまりにも凛とした、美しい女の声が。
【――熾火よ、産声を上げよ】
彼女がそう呟くと、石窯の奥で、黄金色の光が、まるで生まれたての恒星のように、静かに、だが圧倒的な熱量を持って溢れ出した。
それは、俺が知っている炎とは、全く違った。
ガスや薪が燃える、荒々しい暴力的な炎ではない。
まるで意思を持っているかのように、ゆらゆらと楽しげに踊る、優しくて、温かい、生命そのもののような光。
それは、この厨房の、そして、ここにいる全ての者たちの命を祝福する、聖なる炎だった。
(……魔法、だと……?)
そうだ、俺はこの摩訶不思議なエネルギーの正体を知っている。
これは、魔法だ。
ゲームや映画でしか見たことのない、あの現象。
この世界は、俺の知っている地球じゃない…のか?
衝撃的な記憶の洪水から、俺の意識が現実へと引き戻される。
俺は、まだ厨房の廃墟に立っていた。
手は、冷たい龍の頭部を模した石窯に触れたまま。
厨房は廃墟のままだった。
(……なるほど)
どうやら、俺はとんでもない世界に、とんでもない身体で、転生してしまったらしい。
だが、今は、そんなことよりも——。
俺は、目の前の石窯に、もう一度向き直る。
記憶の中の彼女がやっていたように、強く、念じる。
見様見真似で、意味も分からないまま、唇が、あの言葉を紡いだ。
【――熾火よ、産声を上げよ】
甲高い、女の声だった。
自分の声なのに、自分のものとは思えない。
しん、と静まり返った厨房に、その声だけが虚しく響く。
…何も起こらない。
(……だよな。そんな、漫画みたいな……)
諦めかけた、その時だった。
ーーぽつり。
石窯の暗闇の、その中心に、針で刺したような、あまりにも小さな光の点が生まれた。
それは、瞬きをすれば消えてしまいそうなほど、か細い光。
だが、その光は、消えなかった。
ぽつり、ぽつりと、仲間を呼ぶように、光の点が増えていく。
それらは、まるで黄金色の蛍のように、暗闇の中をふわり、ふわりと舞い始めた。
やがて、無数の光の粒子は、互いに引き寄せられるように、ゆっくりと一つに集まっていく。
そして——。
ーーぼぉぉぉっ……!!!
優しく、だが力強い音と共に、石窯の奥で、黄金色の炎が、まるで巨大な花が咲き誇るかのように、その姿を現した。
それは、ただの炎ではなかった。
温かい。
この厨房を支配していた、墓場のような死の冷気を、優しく溶かしていく。
生きている。
まるで心臓のように、とくん、とくん、と規則的なリズムで、その光が明滅している。
燃え盛る黄金色の炎が、俺の、いや、この見知らぬ美少女の、翠色の瞳に、希望の光を映し出していた。
まだ腹が、減っていた。
そして、俺の手には、最高の火がある。
今の俺にとって。
ーーそれだけで、十分だった。