2.水たまりと草
どれくらいの時間、這いつくばったのだろうか。
朦朧とする意識はいつ消えてもおかしくなかった。
まるでゾンビのようだろう。
崩れた壁の隙間から差し込む弱々しい光を頼りに、餓えを満たす何かを求めて瓦礫の残骸の上を這っていた。
その光の筋の中で、無数の塵が、まるで銀河のように静かに漂っていた。
もう、何もかもどうでもよかった。
死んだはずなのに、なぜか生きている。見知らぬ身体で、見知らぬ瓦礫の墓場に閉じ込められて。
空腹は、亡霊であることを否定する。腹の底から突き上げる飢えだけが、俺がまだ「生きている」という残酷な事実を突きつけてくる。
もう一度、死ぬのだろうか。こんな、何も無い場所で、静かに朽ちていくのだろうか。
その、時だった。
ぴたん、ぴたん、と。
光の差し込む音さえも聞こえてきそうな静寂に、火が灯るように。
水の滴る音が聞こえてくる。
俺は力を振り絞って首をのばした。
視界の隅、瓦礫の隙間。
わずかな光が差し込むその先で、ありえないものを見つけた。
まるでオアシスのように幻想的だった。
水たまりを生態系にした、小さな緑の群生地。
絶望的なまでに闇と光で彩られたモノクロこの世界で、そこだけが、まるで生命そのものを凝縮したかのように、鮮やかな緑色に輝いていた。
這うようにして、そこに近づく。
名前もわからない雑草は、突然の来訪者に驚いてじっとその様子を見ていた。
乾ききった喉を潤そうと、俺は水たまりに手を伸ばす。
泥水かもしれない。病原菌の温床かもしれない。だが、そんなことは、もうどうでもよかった。
俺は、その草たちを傷つけないよう、そっと指で水をすくい、口に含んだ。
(——なんだ、これ……)
舌に触れた瞬間、思考が停止する。
ただの水ではない。
それは、まるで夜明けの森の空気だけを固めたような、どこまでも清らかで、澄きった液体。後から、この草の根が水を濾したのだろうか、ほんのりとした、か細い甘みが追いかけてくる。
前世の最後に喉を焼いた、安酒の灼熱感と、毒薬の苦々しさ。
そのすべてを、その一滴が、優しく洗い流していくようだった。
(……味が、する……?)
まさか。そんなはずはない。
ひと掬いの水が胃袋を刺激したのだろうか。
むき出しになった空腹が牙をむき出しにしたかのように、本能で身体を起こしていた。
そして、水たまりに反射した自分の姿を見て——俺は、息を呑んだ。
そこにいたのは、天海大地ではなかった。
編み込まれた金の糸のような、艶やかな金髪が、頬にかかっている。
血の気の失せた、磨かれた象牙のように、透き通るような白い肌。
そして、この世の全ての悲しみを閉じ込めたかのような、大きな翠色の瞳。
水面に映っていたのは、まるで神が気まぐれに作り上げた最高傑作のように、完璧な顔立ちを持つ、見知らぬ美少女だった。
「…………は?」
喉の奥から声が出た。
甲高く、可憐な、女の声だった。
(嘘だろ……? なんでだよ……)
混乱が、限界を突破する。
死んだはずが、生きている。
男だったはずが、女になっている。
訳が分からない。分からないが、飢えだけは、変わらず俺を苛んでいた。
そうだ、確かめなければ。さっきの水の味は、幻覚だったのかもしれない。
俺は、震える手で、水たまりの縁に群生する草を、祈るように、そっと摘み取った。
この絶望的な世界で、たった一つ、俺以外の「生きていた」もの。
その小さな命を、俺はこれから喰らう。生きるために。
(……すまない)
心の中で誰にともなく謝罪し、その青臭い葉を口に運んだ。
どうせ、味などしない。前世の最後、俺を絶望させた、あの虚無が広がるだけだ。
そう、覚悟した、瞬間——。
爆発、した。
モノクロだった世界が、色彩を取り戻した。
舌の上に、微かな、だが確かな感覚の洪水が押し寄せる。
最初に感じたのは、生命そのものを凝縮したような、鮮烈な青臭さ。
次に、噛みしめるたびに滲み出る、この大地で生き抜いてきた、力強い苦み。
そして、最後に喉を通り抜けていく、あの水と同じ、澄みきった甘みの余韻。
それは、【神の舌】と呼ばれた頃の俺なら、皿の上の飾りとしてすら使わなかったであろう、名もなき雑草の味。
だが、今の俺にとっては——。
「……あ……ぁ……っ」
嗚咽が漏れた。
涙が、勝手に頬を伝った。
翡翠の大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちていく。
(味が……わかる……っ!)
俺は味覚を取り戻したんだ。
前世で、俺の世界をモノクロに変えた、あの絶望的な病。
あの味のない無味で乾燥した世界は、もうここにはない。
皿の上の神は、死んでいなかった。
全てを失い、自ら捨てた命の代わりに、俺は…。
俺の神様を、もう一度この手に取り戻したのだ。
この、名も知らない小さな草の命に、救われたのだ。
喜びと、困惑。
その二つの感情に引き裂かれながら、俺は、ただ泣き続けて食べ続けて飲み続けた。
置かれた状況の異質さなんて今はどうでもよかった。
俺の第二の人生は、そんな涙と草と水の味と共に、静かに幕を開けたのだった。