表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

3/12

2.水たまりと草


どれくらいの時間、這いつくばったのだろうか。


朦朧とする意識はいつ消えてもおかしくなかった。

まるでゾンビのようだろう。

崩れた壁の隙間から差し込む弱々しい光を頼りに、餓えを満たす何かを求めて瓦礫の残骸の上を這っていた。

その光の筋の中で、無数の塵が、まるで銀河のように静かに漂っていた。


もう、何もかもどうでもよかった。


死んだはずなのに、なぜか生きている。見知らぬ身体で、見知らぬ瓦礫の墓場に閉じ込められて。

空腹は、亡霊であることを否定する。腹の底から突き上げる飢えだけが、俺がまだ「生きている」という残酷な事実を突きつけてくる。


もう一度、死ぬのだろうか。こんな、何も無い場所で、静かに朽ちていくのだろうか。


その、時だった。


ぴたん、ぴたん、と。

光の差し込む音さえも聞こえてきそうな静寂に、火が灯るように。

水の滴る音が聞こえてくる。


俺は力を振り絞って首をのばした。

視界の隅、瓦礫の隙間。

わずかな光が差し込むその先で、ありえないものを見つけた。


まるでオアシスのように幻想的だった。

水たまりを生態系にした、小さな緑の群生地。

絶望的なまでに闇と光で彩られたモノクロこの世界で、そこだけが、まるで生命そのものを凝縮したかのように、鮮やかな緑色に輝いていた。


這うようにして、そこに近づく。


名前もわからない雑草は、突然の来訪者に驚いてじっとその様子を見ていた。

乾ききった喉を潤そうと、俺は水たまりに手を伸ばす。

泥水かもしれない。病原菌の温床かもしれない。だが、そんなことは、もうどうでもよかった。

俺は、その草たちを傷つけないよう、そっと指で水をすくい、口に含んだ。


(——なんだ、これ……)


舌に触れた瞬間、思考が停止する。


ただの水ではない。

それは、まるで夜明けの森の空気だけを固めたような、どこまでも清らかで、澄きった液体。後から、この草の根が水を濾したのだろうか、ほんのりとした、か細い甘みが追いかけてくる。


前世の最後に喉を焼いた、安酒の灼熱感と、毒薬の苦々しさ。

そのすべてを、その一滴が、優しく洗い流していくようだった。


(……味が、する……?)


まさか。そんなはずはない。


ひと掬いの水が胃袋を刺激したのだろうか。

むき出しになった空腹が牙をむき出しにしたかのように、本能で身体を起こしていた。


そして、水たまりに反射した自分の姿を見て——俺は、息を呑んだ。


そこにいたのは、天海大地ではなかった。


編み込まれた金の糸のような、艶やかな金髪が、頬にかかっている。

血の気の失せた、磨かれた象牙のように、透き通るような白い肌。

そして、この世の全ての悲しみを閉じ込めたかのような、大きな翠色の瞳。


水面に映っていたのは、まるで神が気まぐれに作り上げた最高傑作のように、完璧な顔立ちを持つ、見知らぬ美少女だった。


「…………は?」


喉の奥から声が出た。

甲高く、可憐な、女の声だった。


(嘘だろ……? なんでだよ……)


混乱が、限界を突破する。

死んだはずが、生きている。

男だったはずが、女になっている。


訳が分からない。分からないが、飢えだけは、変わらず俺を苛んでいた。

そうだ、確かめなければ。さっきの水の味は、幻覚だったのかもしれない。


俺は、震える手で、水たまりの縁に群生する草を、祈るように、そっと摘み取った。


この絶望的な世界で、たった一つ、俺以外の「生きていた」もの。


その小さな命を、俺はこれから喰らう。生きるために。


(……すまない)


心の中で誰にともなく謝罪し、その青臭い葉を口に運んだ。

どうせ、味などしない。前世の最後、俺を絶望させた、あの虚無が広がるだけだ。


そう、覚悟した、瞬間——。


爆発、した。

モノクロだった世界が、色彩を取り戻した。


舌の上に、微かな、だが確かな感覚の洪水が押し寄せる。


最初に感じたのは、生命そのものを凝縮したような、鮮烈な青臭さ。

次に、噛みしめるたびに滲み出る、この大地で生き抜いてきた、力強い苦み。

そして、最後に喉を通り抜けていく、あの水と同じ、澄みきった甘みの余韻。


それは、【神の舌】と呼ばれた頃の俺なら、皿の上の飾りとしてすら使わなかったであろう、名もなき雑草の味。

だが、今の俺にとっては——。


「……あ……ぁ……っ」


嗚咽が漏れた。

涙が、勝手に頬を伝った。

翡翠の大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちていく。


(味が……わかる……っ!)


俺は味覚を取り戻したんだ。

前世で、俺の世界をモノクロに変えた、あの絶望的な病。

あの味のない無味で乾燥した世界は、もうここにはない。


皿の上の神は、死んでいなかった。


全てを失い、自ら捨てた命の代わりに、俺は…。

俺の神様を、もう一度この手に取り戻したのだ。


この、名も知らない小さな草の命に、救われたのだ。


喜びと、困惑。


その二つの感情に引き裂かれながら、俺は、ただ泣き続けて食べ続けて飲み続けた。


置かれた状況の異質さなんて今はどうでもよかった。

俺の第二の人生は、そんな涙と草と水の味と共に、静かに幕を開けたのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ