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1.死よりも空腹

鉄錆と、腐った土の匂い。

じっとりとした冷気が、薄い衣服を通して肌を粟立たせる。


割れるように痛む頭を押さえながら、俺はゆっくりと、暗闇の底から意識を浮上させた。


(……なんだ? ここは……)


最後に覚えているのは、安物のウォッカが喉を焼く、あの灼熱の感覚。

そして、全てを諦めた俺の頬を撫でた、秋の夜風のどうしようもない冷たさ。


俺は、天海大地。


味覚を失い、未来を失い、仲間を失い……自分の手で、あの三十年に満たない人生に幕を下ろしたはずだった。


なのに、なんだ?

腹の底から、まるで内臓そのものが一つの巨大な口と化して、何かを求めて叫んでいるかのような、強烈な飢えが突き上げてくる。


それは、ただ腹が減ったというレベルではない。

魂にぽっかりと穴が開き、そこから生命そのものが漏れ出していくような、根源的な渇望。

千年もの間、何も口にせず眠り続けた肉体が発する、悲鳴のような命令だった。


ヒュッ、と喉が鳴った。空気を求めて、肺が必死に収縮する。


その苦しさに、俺は思い出す。

そうだ、俺は死んだ。

安酒で流し込んだ毒薬が、内側から俺を焼き尽くし、呼吸すらできなくなった、あの息苦しさの中で——。


しかし、今、俺の肺は正常に動いている。


ひやりとした硬い感触が、背中から伝わってくる。

どうやら、石のようなものの上に寝かされていたらしい。

鼻をつくのは、鉄と土と……あらゆるものが長い時間をかけて腐りきった、甘ったるい腐敗臭。

耳を澄ませば、しんと静まり返った世界に、自分の呼吸音だけがやけに大きく響いていた。


(……ん?)


そこで、気づいた。

この呼吸、この心臓の鼓動、この手足の感覚。

何もかもが、俺の知っている「天海大地」のものではなかった。


身体が、ありえないくらい軽い。

長年厨房に立ち続け、熱と油と湯気の中で鍛え上げられた、あの重く、分厚い肉体の感覚がどこにもない。

まるで、借り物の服を着ているような、奇妙な心もとなさ。


混乱する思考を、しかし、腹の虫が許さなかった。

ぐぅぅぅぅぅ、と腹の底から、まるで地鳴りのような音が鳴る。


生きろ、と。

何かを食え、と。

抗えない本能が、俺の身体を勝手に突き動かしていた。


(う…ご、け…)


脳が、命令を送る。

まずは指先からだ。ぴくりと、ほんの少しでいい。


しかし、指は鉛のように重く、俺の意思を裏切り続ける。

まるで、神経という名の糸が、経年劣化でぷつぷつと断線してしまったかのようだ。


(う、ごけ……うご、けよ…っ!)


奥歯を食いしばり、魂ごと叫ぶように、もう一度命令する。


ミシリ、と。


錆びついた機械が軋むような、鈍い感覚。

指が、ほんの数ミリだけ震えた。


それだけのことで、全身に激痛が走り、目の前が真っ白になる。

だが、その痛みを、腹の底から突き上げてくる飢餓感が、いともたやすく塗りつぶしていく。


食わなければ、死ぬ。

おかしな話だ。

自ら死んだその直後に、空腹に抗えずに生を渇望している。


俺は、まるで生まれたての赤子のように、一つ一つの動きを身体に思い出させていく。


指を曲げ、手首を返し、肘を支点にして、ゆっくりと、ゆっくりと——石の台座に手のひらをつく。

冷たい石の感触が、まだ生きていることを教えてくれる。


「……ぐっ……ぅう……ッ!」


絞り出した声にならない野獣のようなうめき声。

腕が、自分の体重を支えきれずに、ぷるぷると震える。

関節という関節が、悲鳴を上げているのが分かった。


それでも、俺は諦めなかった。

腹が減っていた。ただ、それだけのために。


一度、床に崩れ落ち、もう一度、腕を立てる。

膝を折り、四つん這いになり、まるで操り人形の糸が一本、また一本と繋がっていくように、少しずつ、身体の主導権を取り戻していく。


そして、どれだけの時間が経ったのか。

壁に手をつき、震える脚で大地を踏みしめ、俺は、ついに立ち上がった。


目の前に広がる光景に、言葉を失った。


そこは、レストランだった。

いや、レストランだったものの、墓場だろうか。


天井は半分以上が崩落し、そこから差し込む弱々しい光が、宙を舞う無数の塵をきらきらと照らし出している。

巨大な獣に蹂躙されたかのように、テーブルや椅子は砕け散り、その残骸は分厚い苔に覆われていた。

壁には大きな亀裂が走り、そこから入り込んだ植物の蔓が、まるで巨大な蛇のように床を這っている。

床には、砕け散ったガラスの破片が、かつての喧騒を弔うかのように、鈍い光を放っていた。


俺は、シェフとしての長年の習性だけで、厨房だったであろう場所へ、足を引きずるようにゆっくりと向かう。


そこは、さらに悲惨な状態だった。


命よりも大切に手入れしていたはずの調理台は、見る影もなくひしゃげ、赤錆に覆われている。

誇りだったはずの巨大な石窯は、灯火を失い、その口をぽっかりと開けたまま冷え切ってまるで亡霊の寝床のようだ。

天井の崩落に巻き込まれたのか、棚から落ちたであろう鍋やフライパンが、無残な鉄塊となって床に転がっている。


それでも、俺は瓦礫の山の中から、何か「食材」になりそうなものを探し始めていた。


この地獄のような場所で、それがどれほど愚かで、無意味なことか分かっていても。

俺の魂は、まだシェフであることを、やめられずにいた。

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