10.領土と地縛
「…ひとまず、その空っぽの頭に、この芥溜のルールを叩き込んでやる。ついて来い」
ギブはそう言うと、俺に背を向ける。
かつては多くの客が出入りしていたであろう店の朽ちた扉にむけて無造作に歩き出す。
俺は、その後を追おうとして、数歩進んだ。
あと一歩で、外。
芥溜の淀んだ、しかしこの廃墟よりはマシであろう空気が、すぐそこに。
そう思った、瞬間だった。
――バチィィンッ!!!
空間そのものが、悲鳴を上げたかのような甲高い音。
視界で、謎のエネルギーが閃光のように爆ぜる。
目の前の空間が、まるで水面のように揺らぐ。
「ぐっ…!?」
それは、壁にぶつかった、というような生易しいものではなかった。
俺の身体は宙を舞い、背中から瓦礫の山へと激しく叩きつけられた。
まるで、高速で走る鉄の塊に、真正面から撥ね飛ばされたかのような、内臓まで揺さぶる凄まじい衝撃。
「がっ…はっ……!」
肺から空気が根こそぎ絞り出される。
(……なんだ? ……今のは、一体……?)
朦朧とする意識の中、俺はただ呆然と、先ほどまで何もなかったはずの空間を確認した。
俺の身体が触れた一点から、蜘蛛の巣のような青白い光の亀裂が無数に浮かび上がり、静かにそれは修復されていく。
ギブは数歩進んでから、俺が倒れていることに気づき、苛立たしげに振り返った。
「あ? 何やってやがる。さっさと来い」
「行けないんだ…壁に…弾かれる」
「…は?」
ギブは、呆れたようにため息をつくと、俺がいた場所まで戻り、何もないはずの空間を、いともたやすく通り抜けてみせた。
空間が陽炎のように僅かに揺らめく。
そして、出口の向こう側から、俺を嘲るように見下ろす。
「壁なんざ、どこにもねぇぞ」
「そんなはずは…!」
俺は痛みの残る体に鞭をうって立ち上がる。
そして、もう一度、出口に向かって手を恐る恐る伸ばす。
だが、その手は、バチッという謎のエネルギーに弾かれる。
その、不可解な現象に愕然とした、瞬間だった。
――ズクリ、と。
壁に触れた左の手の甲に、内側から肉を抉られるような激痛が走った。
「ぐっ…あ…ぁあッ!」
まるで皮膚の下で、何かが蠢き、這い出てこようとしているかのような悍ましい感覚。
俺は思わず、その場に蹲る。
それと、共鳴するかのように。
今まで沈黙していた、あの『龍の頭部を模した石窯』の瞳が、禍々しい赤黒い光を放った。
――とくん、と心臓のように石窯が一度だけ脈打つ。
その瞬間、厨房を支配していた墓場のような静寂が破られた。
ゴォォォ…と、地鳴りのような低い振動が、足元の石床から這い上がってくる。
石窯の龍の瞳から放たれた赤黒い光は、次の瞬間、黄金色の奔流へと姿を変え、魔法陣のように厨房の床全体へと広がっていく!
まず、光の波が撫でた床から、変化が始まった。
分厚くこびりついていた苔や、千年の時を積もらせた塵が、シュウウゥゥ…という音を立てて蒸発していく。
まるで、神聖な炎に不浄なものが焼き尽くされるかのように。淀んだ腐敗臭は一瞬で消し飛び、代わりに、雨上がりの石や、磨き上げられた金属のような、清浄な香りが満ちていく。
次に、光は壁を、天井を駆け上った。
蜘蛛の巣のように走っていた無数の亀裂が、それ自体が意思を持つかのように、金色の光る糸となって互いを引き寄せ、塞がっていく。
ギイイィ、ミシリ…と、歪んでいた木材が軋みながら本来の形を取り戻し、あるべき場所へと収まっていく。
床に転がっていた瓦礫が、ふわり、と宙に浮いた。
まるで時間が逆再生されるかのように、瓦礫はゆっくりと天井の崩落した穴へと吸い寄せられ、パズルのピースが嵌まるように、カコン、カコン、と寸分の狂いもなく元の場所へと収まっていく。
ひしゃげていた鉄鍋は、自ら赤く発光し、その熱で歪みを正し、新品同様の黒々とした輝きを取り戻す。
棚から落ちて砕け散っていた食器の破片は、チリリリ…と鈴のような音を立てながら集まり、一瞬の光と共に、傷一つない元の姿へと再生した。
やがて、光の奔流はゆっくりと石窯へと収束していく。
地鳴りのような振動が止み、再び、静寂が訪れた。
だが、それはもう、死の静寂ではなかった。
埃っぽさは消え、空気はどこまでも澄み渡っている。
ひび割れていた壁は滑らかになり、煤けていた調理台は、鈍い輝きを放っている。
――死んでいたはずの廃墟が、息を、吹き返していた。
そして、腕を蝕んでいた激痛は嘘だったかのように治まる。
俺は、左手の甲に浮かび上がった紋様を見て、戦慄した。
皮膚を突き破るように現れたそれ。
獲物を求めて大きく開かれた、醜く涎を垂らした『大きな口』のような紋様。
その口が、まるで俺自身の魂を喰らおうとするかのように、禍々しくも鈍い輝きを放っている。
「おい、一体これは…って、なんだ聖痕は…!」
ギブが、驚愕に目を見開いた。
「こんな禍々しい聖痕、見たことがねぇ…!」
聖痕が浮かび上がった。
それは、俺がこの世界における「料理人」であることの、絶対的な証明だった。
「聖痕が生まれ… 死んだ厨房が息を吹き返し… 外に出られねぇ…か」
ギブは、目の前の三つの異常な現象――息を吹き返した厨房、俺の左手に刻まれた禍々しい聖痕、そして俺だけを阻む見えない壁――を順に、そして何度も見比べる。
「…待てよ。昔、地上の酒場で聞いたことがある。どっかの吟遊詩人の馬鹿が作り出した眉唾物の与太話だと思ってたが…」
やがて、ある一つの答えにたどり着いたようだった。
その燃えるような右目が、俺を、そしてこの厨房全体を、まるで伝承の一節と照らし合わせるかのように見渡した。
「おい、小娘。俺は地上にいた頃、酒場で酔いつぶれた奴にこんな話をされた。神から『領地』を与えられた高位の料理人は、その土地と魂で繋がる、と」
ギブは、再生して輝きを取り戻した厨房を指差す。
「『領土は主の肉体の延長であり、主は領土の心臓である』。主が目覚めれば、死んでいた領土もまた息を吹き返す。…目の前で起きた、この奇跡がその証拠だ」
次に、彼は俺の左手に浮かぶ、涎を垂らした『大きな口』の聖痕を睨みつけた。
「そして、その魂の繋がりを物理的に証明するのが、お前さんの手にあるその変な形の『聖痕』だ。形はどうであれ、そいつは、お前とこの領土が結んだ、神聖な契約の証に他ならねぇ」
最後にギブは「その酔っぱらいはこうも言った」と前置きをし、俺を阻んだ壁を指差した。
「主は領土から離れることはできない、と」
その声には、嘲りとも、あるいは憐れみともつかぬ響きがあった。
「主が土地に縛られることで、領土はその力を維持する。つまり、お前を阻むその壁こそが、お前をこの土地に縛り付ける、魂の鎖というわけだ」