9.詮索は野暮
(…ゴキブリ、か)
ギブの吐き捨てた言葉が、俺の脳裏で反響する。
前世の俺の厨房は、完璧だった。
一匹の虫、一粒の塵すら存在しない、清浄な城だった。
想像してみる。
もし、最高の食材を揃えた銀座の寿司屋で、熟練の板前が極上の中トロを握ったその瞬間に、黒光りするゴキブリが一匹、その腕を這い上がり、客の目の前にその寿司を差し出したら?
悍ましい不快感。
そうだ。今、目の前のゴブリンにとっての俺は、そういう存在なのだ。
ギブは、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。
「てめぇ、名前は?」
「え…」
名前…。
俺の名前は大地だ。だが、この声、この姿で、男の名前を名乗ればどうなる…?
咄嗟に、前世の俺の城の名が浮かんだ。
イタリア語で「大地」を意味する、あの言葉が。
「…テラ」
「テラ、な。そしたらテラ――脱げ」
「――は?」
思考が、一瞬停止する。
今の俺は女だ。それも、水面に映った顔を思い出す限り、かなり容姿の整った。
(こいつ、そういうことか…!?)
俺の警戒を察したのか、ギブは小馬鹿にするように鼻で笑った。
「ああ、 勘違いすんなよ、ゴキブリが。俺はおめぇみてぇな貧弱な人間にこれっぽっちも欲情しねぇ。俺が愛してやまないのはゴブリンだ」
ギブは、自らの腕を指差す。
「聖痕だよ、聖痕。料理人なら、身体のどこかに紋様が浮かぶはずだろうが。それを見せろってんだ」
(聖痕…)
それに関しては、俺も気になるところではあった。
だが、その確認方法に、俺の思考は一瞬固まる。
(落ち着け、俺。これは確認だ。ただの確認作業だ。そうだ、食材の検品と何も変わらない。魚の鮮度を確かめるのと同じ。肉のサシの入り具合を見るのと同じだ。そうだろ?そうだよな…?)
必死に自分に言い聞かせる。
変に意識する方がおかしい。俺の魂は男だ。
やましいことなど、何もない。……そう、何もないはずだ!
俺は覚悟を決めると、言われるがまま、震える手で、ぼろろになった衣服の肩口をゆっくりと下ろしていく。
奈落の冷たい空気が、剥き出しになった白い肌を撫でる。
自分のものではない、滑らかな肩のライン。
華柄な鎖骨。男だった頃の俺の意識と、この恐ろしく無防備な肉体との乖離に、眩暈がする。
だが、どれだけ露わにしても、そこに紋様らしきものはどこにもなかった。
「…チッ。やっぱりねぇか」
ギブは、心底つまらなそうに吐き捨てた。
「記憶も聖痕もねぇゴキブリ…。なぜか『料理』ができて、おまけに、てめぇが現れたのと同じタイミングで、この場所を阻んでいた濃い瘴気の壁まで薄れやがった」
ギブは一度言葉を切り、俺を値踏みするように見据える。
「てめぇは、何らかの理由でここにいる『特別』な人間だ。それは間違いねぇ」
(まずいな…このまま詮索され続けるといつかボロが出る…)
だが、そんな俺の心配をよそに、ギブは興味を失ったかのように、ふいと顔をそむけた。
「だが、そんな『特別』な事情なんざ、この芥溜めじゃ屁のつっぱりにもならねぇ。ここにいる連中は、みんな地上のルールから弾かれた、訳アリのアウトローだ。過去を詮索するのは、野暮ってもんよ」
そして、誰に言うでもなく、ぽつりと呟いた。
「…俺も、例外じゃねぇしな」
ギブは、俺に向き直る。
その瞳は俺を鏡にして、自分のことを見ている。そんな感じがした。
「いいか。てめぇが何者だろうが、俺には関係ねぇ。だが、あのスープは本物だった。今この瞬間、この芥溜で、てめぇは俺にとって唯一希少価値のある『宝』だ」
「…この芥溜に、料理のできるやつは、他にいないのか?」
俺の問いに、ギブは心底おかしいというように、喉の奥でくつくつと笑った。
「いるわけねぇだろ。もしいたら、俺がこんな野菜の汁一杯で、ここまでご機嫌になると思うか?」
(…野菜の汁、か)
ギブの何気ない一言に、俺の見る目が少し変わる。
こいつ、材料を見ていないはずだ。
それなのに、このスープが動物性の出汁ではなく、野菜から抽出された出汁だと一瞬で見抜いた。
(ただのゴロツキじゃない。こいつの舌は、本物の味を知っている…ということか)
そこから、一つの推論が浮かび上がる。
この世界では、「料理」ができる者は神に選ばれた希少な存在らしい。
ならば当然、その奇跡を日常的に味わえる者もまた、限られた特権階級だけのはずだ。
(だが、ここは芥溜…『罪人の廃棄場』)
その言葉の意味を反芻する。
(つまり、目の前のこいつは、何か罪を犯して地上から追放された特権階級のゴブリン、なのかもしれない。そうでなければ、こんな舌は手に入らない)
だとしたら、一体何をしたのか。どんな地位にいたのか。
…いや。
(詮索するのは、野暮ってもんだ、か)
ギブが先ほど自らに言い聞かせた言葉を、今度は俺が胸の中で繰り返す。
彼が何者であったにせよ、今の俺にとっては、この芥溜で唯一といえる情報源。
それ以上でも、それ以下でもない。